いきなり迷宮主!?
花嫁が生み出した血溜まりが、まるで生き物のように脈打ちながら宙へと浮かび上がった。ドロリとした液体がうねり、ゆっくりと形を変えながら、大きな瞳の紋様を描き出していく。
「っ!? ハル、眼を閉じろ!!」
オレの声に驚いたハルが両目を手で覆い隠した瞬間、その瞳がオレを捉えた。
「ぐっ…………!!」
全身が硬直する。
まるで見えない鎖に絡め取られたかのように、指先一本すら動かせない。
身体の奥底から力が吸い取られるように、四肢が鉛のように重くなる。
広間の空気が夏の陽炎のように歪み、血の鉄臭さが鼻を突いた。
喉の奥にまで入り込むような、その濃密な匂いが息苦しさを倍増させる。
邪眼──視線を通じて侵食する呪いの一種だ。
「ま、ずい……な……」
体内に侵食する血の呪いがこちらの霊力に絡みつき、蝕んでいく。
まるで生きた蛇のように、まとわりつく赤い妖気が霊脈を這い、体内を支配しようとしている。
腕が痺れ、指の感覚が鈍くなる。呼吸すらも浅くなり、視界の端が黒く滲み始めた。
「こ……の………」
歯を食いしばり、全身に霊力を巡らせようと試みたが、霊脈の流れまで封じられたようだ。
(いや、これは……!!)
オレの体内から霊力がゆらゆらと立ち昇るように排出されていく。
大きな血眼が霊力を吸い取っているようだ。
さながら、捕食。
ハルのお陰で多少は回復した霊力が、無残に花嫁の糧となっていく。
「……………」
花嫁が歩み寄ってくる。
どうやらこの身の乏しい霊力を悟られたらしい。
花嫁の震える手が伸びた。
愛しむように、オレの頬を撫でるその手の温もりが、遠い記憶の誰かに似ていた気がした。
身じろぎ一つできず、やがて呼吸すら止まるであろうこの身に花嫁が顔を近づけた。
その、暗い眼窩がオレの顔を覗き込む。
「……愛しい人……」
鮮明な声で花嫁が語りかける。
ついに霊力は底をつき、瞬き一つ自分の意志でままならない。
心臓の鼓動が緩やかになり、もうまもなく止まる予感がある。
(くそ……)
まだ刀を持つ手の感覚は残っているが、すでに力は入らない。
崩れるように倒れかけたオレの身体を支えるように、花嫁が手を伸ばした。
彼女の抱擁は伴侶に愛を向けるかのごとく、穏やかで優しさがにじみ出ている。
「アア……やっと、一緒に……」
まるで大粒の涙をこぼすように、彼女の顔にある暗闇の眼窩から血が滴る。
身を震わせているのは果たして歓喜なのか、それとも──。
見るに耐えない醜悪な異形が、あまりにも小さく儚げに体を震わせている。
──死が、すぐそこまで忍び寄っている。
指一本すらまともに動かず、まるで死を受け入れるように体は冷たく沈んでいく。
どれだけ抗おうとしても、力は抜け落ち、意識すら霞んでいく。
この身はゆりかごの中の赤子のように、穏やかに終わりを迎えるのだろう――。
オレを覗き込む花嫁の顔。その唇がわずかに持ち上がる。
まるで泣くのを必死にこらえるように、かすかに唇を噛みしめている。
血の涙が頬を伝うその顔は、どこか壊れそうなほどに儚く、何かを訴えるようにも感じる。
──その姿が、かつて彼女が別れ際に見せた表情と重なった。
そういえば、この地に流れ着いた時に夢を見たような。
(オレは……彼女と──)
どのような夢だったかを思い出すことはできなかった。
思い出すのは、目を覚ました時にこの胸にこみ上げた温かな感触だ。まるで遠い懐かしさが残っているようで、意外と感傷的な自分に苦笑がこぼれる。
──冷え切っていた体がほんの少し、温もりを取り戻す。温もりは確かな熱となって、ぼやけていた意識を覚醒させる。
明瞭になった頭で自分の身体の状態を把握すれば、なんとも無様なものだった。
霊力は搾り取られ、指先ひとつ動かすのが億劫なほどの脆弱。
それでも、まだ心臓は動いている。
ならばここで終わるわけにはいかない。
後ろで怯えるハルも──彼女も、オレがここで終われば、またオレはあの娘達を傷つけてしまう。
空気を吸い込み、顔を近づけた花嫁に最後の言葉を耳打った。
「……悪い、な」
手に持っていた白蛍から確かな霊力が伝わってくる。
神遺物級の刀に宿る権能、名刀が怨嗟や人の感情によって妖刀となるならば、その逆もまた然り。
「──霊装開放」
長年に渡りオレの霊力に馴染んだ刀が言霊に従い熱を纏うと、鍛冶場の火のように激しく燃え上がった。刃全体が焼けた鉄のように白熱し、辺りの空気が歪むほどの熱を放つ。まるでこの世の光と業火を同時に封じ込めたかのように、純白の輝きを発していた。
「寂滅白蛍」
刀身は触れれば即座に焼き尽くされる熱を内包しながら、まるで雪のように白く、不気味な静寂を保っている。
「…………!?」
警戒する、というよりはうろたえるという表現のほうが正しいだろう。
花嫁が体を震わせ、オレから距離を取った。
彼女の抱擁から逃れ、倒れそうになったところで、ようやく体の制御を取り戻す。
寂滅白蛍の熱が、この身を苛む呪いを清めていく。
身体の自由を取り戻し、感覚を確かめるように刀を振るえば、さながら光の軌跡を残す蛍のように刀の熱が空間に残った。
それは炎にあって炎にあらず。
生命の源である火の力が、生命の存在を許さぬほどに高ぶった火の極地。
浄化を司る神炎の権能をこの現世に顕現させた寂滅白蛍は、触れるもの全てを灰燼に帰す熱をもって敵を滅ぼす。
無論、神に許されし権能の顕現など許されることではない。白蛍に内包された霊力を莫大に消費している今、残された時間は一分を切るだろう。
故に影縫法師のように対多数戦では不利だったが、この迷宮主のような強大な個には有効的な奥の手だ。
「仕舞だ……!」
刀を振るい、呪の発生元である血眼の紋様を切る。
パキッと何かが割れるような音と主に、紋様が大きく震え始めた。
「キイイイイイアアアアアアアアア!!!!!!????」
血陣の瞳が切り裂かれると同時に、花嫁が絶叫を上げ、異様に長い首を鞭打つようにのたうち回った。
両目を抑えるように暴れる花嫁に呼応するように大広間全体が震え始めた。
壁には亀裂が走り始め、天井に吊るされている巨大なシャンデリアが今にも落ちてきそうな勢いで揺れていた。
追撃をかけようとしたところで、踏みとどまる。
どうやらあの血陣の瞳は花嫁の本体とつながっていたらしい。
それが滅ぼされた今、彼女は全ての力を失ったように地面に倒れていた。
同時に寂滅白蛍が熱を失い、白熱していた刀身が元に戻る。
「さて、危機は脱したが……」
霊力はすでにすっからかんだ。奥の手も使ってしまった以上、何処かで早急に霊力を回復させなければ低級の妖魔にも遅れを取りそうだ。
「むみょー、大丈夫……?」
背後でハルの不安そうな声が聞こえた。そういえば目を閉じるように指示してそのままだったことを思い出す。
ひとしきり大暴れした花嫁は、今や地面に横たわり僅かに体を痙攣をさせているだけだ。
(ふむ、脅威は去ったと見て問題ないか)
今は彼女の状態と呼応するように壊れ始めたこの部屋のほうが怖い。
崩落するなら、巻き込まれる前にハルを連れて脱出しなければならない。
(……慎重に動くべき、か)
この迷宮内の財宝と神霊核を頂きたかったが、ここは通常の迷宮とは違う。
迷宮の主であろう花嫁を倒したからといって、この先が安全とは限らない。
(やれやれ、通常の迷宮であればこれで大団円なのだが)
命があっただけでもマシだと考え、探索を諦める決断を下しハルを迎えに行こうと振り向いた。
「もう目を開けていいぞ。大丈………」
──違和感。
ハルの顔が驚愕に染まり、大きく口をあけて悲鳴に近い声でオレの名を呼んだ。
目には大粒の涙を浮かべている。
どうしたのだろうか、と。ハルの表情を不思議に思ったと同時、口内に鉄臭い臭気を感じた。
喉の奥から鉄の臭いが広がると同時に、灼熱の杭が突き刺さるような痛みが腹を貫いた。
視界が歪み、呼吸が詰まる。声すら出せず、ただ己の中身が溢れ出す感覚だけが、確かだった。
「が、あ……な……?」
もう一度、振り返れば花嫁は倒れたままだ。
力無く伏している姿からして、彼女の仕業でないことは明白だった。
そう、問題は彼女ではない。
倒れた花嫁のヴェールを押しのけ、彼女の顔に存在する暗闇の眼窩からは見覚えのある巨大な剣が伸びていた。そして伸びた剣は、オレの胴体を貫いている。
(……馬鹿か、オレは……)
巨剣が鈍い音を立ててオレの体から引き抜かれると、血が溢れ出し、床を染め上げた。噴き出すような鮮血が視界を赤く染める。
油断大敵という言葉が脳裏に浮かんだときにはもう、オレは仰向けに倒れていた。
胴体の大部分を貫かれている。どう考えても致命傷だ。
倒れたオレの視界に、天井で大きく揺れるシャンデリアが写った。
『む……ょー……』
急速に失われていく生命力のせいなのか、オレを覗くハルの声がひどく遠い。
壁に走った亀裂が天井にも這っていく。
大きく揺れるシャンデリアがその重量を支えきれず、ついに落下してきた。
このまま放っておいても死ぬだろうに、その前に潰されるなど本当にオレは運がないらしい。
「……は、る……に……」
見えているのに、動けない。
逃げろ、避けろ、とオレに縋るハルを逃がしたいが、体は冷え切った石のように動かず声を発することすらままならない。
『……ょー……!』
懸命にオレの体を揺するハルだが、その声はもう聞こえない。
仮に影縫法師の時のように、この子の禍福転招《災い転じて福となす》が発動しても、すでに手遅れだろう。
例え神であろうと死から逃れることはできないのだ。
こうなってしまえば、幸運は何の意味も成さない。
──ああ、こんなものか。
──ここで終わるのか。
呆れるほどに、何もできない。
シャンデリアが視界いっぱいに広がる。
ガラスの塊はどこまで綺羅びやかで、無情だ。
爛々とガラスの光がオレの視界を覆い尽くす。
その眩しさの中で、オレの意識は深い闇へ沈んでいった。