追い詰められた陰陽師
「逃げてばかりでは影縫法師に追いつかれて仕舞だぞ!?」
夕暮れの往来に高らかと響く、弦一郎の興奮を隠しきれない嗜虐的な声に、帰路につく民も、店じまいに勤しむ店主も皆がギョッとした顔で固まった。
「さあさあ、どうする無明!?」
影縫法師が一斉に動いた。
刃が光を反射し、空気を切り裂く音が鳴る。
同時に大通りには悲鳴が鳴り響いた。
刃を振りかざす影の化け物を目撃した皆が、混乱に陥り一斉に逃げ出したのだ。
「ちい…………っ!!!」
腰の刀に手を掛けるが、下手にここで応戦すれば、関係のない民草をも巻き込んでしまうだろう。
「いや、そもそも応戦するだけの力がないか……!」
残念ながらこの身に残された霊力は少なく、今なら迷宮低層の妖魔にも遅れを取りかねない。逃げるしかオレの選択肢はない。
「なんだ、逃げるだけか!? 散々この私の前を蝿のように飛んでいた貴様が随分と無様なものだなああ!!?」
弦一郎の嘲笑を背後に浴びながら、ハルを抱えてひた走る。
せめて人通りのない裏路地にと駆け込むが……。
「回り込まれたか……!!」
入った先には3体の影縫法師が待ち構えていた。
「弦一郎め、以外に策士だな」
きっと、あらかじめ配置しておいたのだろう。
オレがハルを渡さないことを理解していた上で、これみよがし己の影から影縫法師を召喚したのは、待ち伏せを悟らせないためだったのか。
「むみょー、ハルは……」
何かを決意するように、ハルが力強くオレの裾を握る。
「──ハル、そなたが一切気に病むことではない。あの呪いも、この現状も、決してそなたのせいではないのだ」
「でも……」
オレを見上げるハルは泣きそうな顔、というよりはひどく辛そうな顔だった。
自分のせいで、オレが追い詰められたのだと責任を感じているようだ。
──本当に、優しい子だ。
「……無双め、無関係ではあるまいな」
弦一郎を遣わしたことから、この子が呪われ鬼と化したのもすべては陰陽寮の長老たち──筆頭である厭離院無双が何か知っているのかもしれない。
「最悪、全て仕組まれていた可能性もあるか」
妖を操ってよからぬ企てをする者がいると、陰陽寮にて耳にしたことがある。
それがまさか、長老連中まで関わっているとなれば大事だ。
仮にも天帝から信頼され統治を任されている者達が……。
「──許さん」
体が怒りに震え、目に見えぬ霊力が全身を覆うように膨れ上がる。
同時に警告としての痛みに苛まれるが、オレはそれを無視し、残された力を無理やり開放した。
「霊装降衣──」
影縫法師がこちらに向かって走り出す。
腰に履いた刀を抜き、影縫法師の無機質な紫炎の瞳がまっすぐにオレを見ている。
跳躍し飛びかかった影の群れ、刃の切っ先が目前に迫る。
──刹那、刀印を組んだ片手を向ける。
指先に光が宿り、次第に輝きを増して白い炎へと変わった。
「天津焔守」
白い炎が敵を包み込む。影の広がる路地裏が一瞬、白昼のように明るく輝き、影縫法師の体は炭が砕けるような音を立て、細かい粒子となって霧散していった。
炎が収束し、焦げた空気が漂う中、オレは息を切らしながら崩れ落ちた影の跡を睨みつけた。
「ぐっっっ!? こ、ここまで反動が大きいかっ……!」
まともに体を動かすのが億劫になるほど倦怠感がひどく、僅かな身じろぎ一つで全身の筋肉に鈍痛が走る。これでは風邪をひいて高熱にうなされたほうがまだマシだろう。
「ハル、急いでここを離れよう」
「……うん」
痛む体に鞭打って、ハルを抱えて裏路地を駆ける。
狭い路地に張り出した木箱や樽を蹴り飛ばしながら、背後の気配を振り切るように疾走した。
──背後から聞こえる足音に、活気のある喧騒が交じってきた。
潮の香りが次第に濃くなっていく。
このまままっすぐ走れば、港に出る。あそこなら身を隠す場所があるだろう。
勢いよく角を曲がると、視界が一気に開ける──
目の前には、どこまでも広がる海と、帆を張った巨大な船がずらりと並ぶ活気あふれる港があった。
波止場には荷を積み下ろす水夫たちが忙しなく行き交い、縄を引く力強い掛け声が響き渡る。
「はぁ……はぁ……」
一瞬足を止めて深呼吸する。
しかし、安堵する暇はない。
「行くぞ、ハル!」
荒れる心臓の鼓動を抑えつつ、今度は喧騒の中へと飛び込んだ。
「そうはいかないな、犯罪者」
「っ!!」
波止場へ続く大通りを独占するように、影縫法師の群れを従える弦一郎がそこにいた。
どうやらオレが路地裏に逃げた直後から、この港に来ることを読んでいたようだ。
「さあ、そこの座敷童子を渡してもらおうか」
こちらの詰みを確信した弦一郎が、誇らしげにオレを見下している。
よほど、オレを追い詰めることが嬉しいらしい。
「……断る」
「クク、構わん。ならば殺して奪い取るだけのことよッッ!」
弦一郎の背後に控えていた影縫法師達が一斉に駆け出した。
状況は最悪だ。
影縫法師の数は二十近くいる。仮にどうにかできたとしても、後には弦一郎が控えている。
全盛期のオレならともかく、たった一回の術式行使で満身創痍のオレでは到底勝てない相手だ。
先ほどの感覚からして、あと一回術を使えるか使えないかだろう。
それでもこいつらにハルを渡す訳にはいかん。
陰陽寮にどんな目的があるのかは知らないが、この子を大切にするとは到底思えない。
「──霊装降……ッ!?」
もう一度、術式を行使しようとした瞬間に喉奥からこみ上げるものを吐けば、血の塊だった。
鉄臭さが口内に充満し、心臓の鼓動が早まっていく。
どうやらこれ以上霊力を使えば死に至るようだ。
「ごふっ……ここで、終わりか……」
まさかこんなにも早く終わりを迎えるとは思わなかった。
この身で生きて三十と余年、なんともままならぬ最後なことだ。
倒れそうになる足に力を込めて、踏みとどまる。風を切りながら向かってくる影縫法師は勢いを落とさず刃を振りかざした。
「神装開放──」
オレは深く息を吸い込み、両手を組み合わせて印を結んだ。身体が震える中、両手の形は祈りにも似た形を取り、白炎の輝きがその中央から渦を巻くように現れる。
灼熱の光が一瞬で影縫法師たちの動きを止めるように空気を圧した。
「貴様、その力は!!? おのれ、忌々しい!!」
「弦一郎、まさか貴様と一緒に最後を迎えるとは思わなかったぞ」
最後に皮肉を言うと、焦ったように弦一郎も術式を組む。
「霊装降衣──不動玄武甲!!」
現れたのが六角形が幾重にも重なった亀甲を模した障壁だ。
ガラスのような透明さを持つ玄武の護りが、甲羅のように弦一郎を包みこみ展開される。
「阿呆が、その程度の術式で神炎を防げるものかよ」
「だ、黙れええええ!!」
命を燃やせ。全生命力を燃やし尽くして、術式を顕現させろ。
例え魂から漏れ出るこの力に、今の身体では耐えられないとしても。
全身が灼ける。現し世に顕現させた神炎は、この体ごと敵を焼き尽くすだろう。
こんなところで終わるのは悔しいが、今は命を惜しんでいる場合でもない。
──せめて、最後にハルだけでも。
「むみょー!」
全身を炎に包んだ瞬間ハルが駆け寄り、術式を組むオレの手に自分の小さな手を重ねた。神炎はすでに発動しており、今のオレでは制御が効かない。このままではハルまで巻き込んでしまう。
「ハル……! 離れろ、そなたまで……!!」
消滅を心配するオレをよそに、幼い声は震えながらも、はっきりと告げた。
「死んじゃ、だめ……!」
ハルの目は涙で濡れながらも、どこか力強さを感じる光を宿していた。
オレの両手に重ねたその小さな手のひらから、温かな霊力が流れ込み、術式の構成が別の光へと変わっていく。
神炎術式が穏やかな輝きに包まれ、放たれた白い炎が円を描くように広がっていった。
「こ、これは……」
対象を燃やし尽くす白炎が、穏やかに影縫法師と弦一郎を包み込む。
「ハル……」
それは優しいハルの心そのものが力となったかのようだった。
白炎は影縫法師を燃やさず、まるで無邪気に遊ぶように、ひとしきり舞い踊りながら宙を滑るように炎の渦を描いていた。
渦を作り龍のように舞い上がったかと思えば、最後は静かに音もなくオレの胸元へと吸い込まれていく。
同時に痛みが消え、体の隅々にまで軽さが広がると、頭を締め付けていた鉛のような重圧が嘘のように消え去った。
「これは、まさか……!」
影縫法師が操り糸の切れた人形のように、無力に崩れ落ちていく。
ぎこちない動きで必死にこちらへ手を伸ばすが、その指先は力なく宙を掴もうとし、震えるだけだった。動力源の妖力が尽きたのだろう。
「影縫法師の妖力をオレの霊力に変換しただと?」
ありえない事象が起きた。そもそも妖力と霊力は水と油のように性質が異なるものだ。そのまま取り込み己が力になるなど、万が一にも起きはしない。
陰陽師が祓った妖怪の残穢が動力源の影縫法師だが、たまたま運良く目の前の影縫法師の動力源が霊力だったとでもいうのだろうか。
「いや、そうか──これが噂に聞く座敷童子の権能」
──禍福転招。 福を招くとは即ち、悪しき運命をねじ曲げ、目の前に奇跡を訪れさせることだ。己の望む有り様に世の理を捻じ曲げ、世界を再構築する力である。それは神の権能にも近しい力だ。
「……むみょー……」
力が尽きたようにハルの身体がふらつき、倒れそうになるその体を受け止める。
どうやら幼体であるこの子に権能を制御する力はないらしい。
だが──。
「そなたのおかげで助かったぞ、少し眠って休むといい」
「うん……」
気絶するように瞳を閉じたハルを抱いて、オレは静かに呼吸を整えた。
「ぐ、貴様……! だがこのままでは終わらん!!」
禍福転生に巻き込まれ同様に力を奪われたのだろう。
地べたに這いつくばる弦一郎だが、最後の力を振り絞って影縫法師を召喚しているようだ。
新たな影縫法師が、ジリジリとオレの包囲網を狭めている。
その数は十、二十と増えていく。先ほどまでのオレならまさに絶体絶命だっただろう。
だが今は違う──ハルの力によって変質した白炎が、体内を奔流のように駆け巡り、全身を震わせ、奮い立たせている。
傷ついた体が霊力を貪るように息を吹き返すと、冷え切っていた血がまるで焔となったかのように体内で滾り、新たな力を解き放つために心臓が強く鼓動した。
手のひらをゆっくりと天に掲げる。
体内を駆け巡る熱が指先にまで満ちると、発する熱は陽炎のように空間を歪ませた。
「──悪くない」
眠っていた力が目を覚ましたような感覚に、思わず笑みがこぼれた。
白炎の輝きが全身から立ち昇る。
それはまるで歓喜の舞を踊るかのように、ゆらゆらと夜の闇を照らし出す。
ああ、今なら──多少の大技も問題ない。