ごめんください、先日助けていただいた者ですが。愛しています。
『ごめんください、先日助けていただいたキツネですが』
朝靄かかる、まだ薄暗い早朝のこと。
小屋の外からコツコツと微かな物音が聞こえて、アルフレドは目が覚めた。外の様子を見ようと扉を開けると、室内に森のひんやりとした空気が流れ込む。
アルフレドが物音の聞こえた方向……足元へと視線を落とした。そこにはオレンジ色の毛並み豊かなキツネが立っている。
『アルフレドさま。私のことは、分かりますか』
「……ああ、君はこないだ怪我をしていたキツネだね。もう大丈夫なのかい」
『はい。あなたさまのおかげで、こうしてピンピンしております』
キツネは嬉しそうに大きく頷くと、アルフレドをじっと見上げた。こちらを見つめるキツネの隣には、木の実が山積みにされている。これはおそらくお礼の品なのだろう。
「怪我が治って良かった。木の実は少しで充分だよ。残りは君の子供達に配っておやり」
『ありがとうございます、アルフレドさま』
「ああ、またね」
オレンジ色のキツネは両手にいっぱいの木の実を抱え込むと、ペコペコとおじぎをしながら帰っていった。アルフレドは目を細めて、その後ろ姿を見送ったのだった。
アルフレドは、森に住む青年だ。ここソレアービルの森に小屋を構え、一人きりで暮らしている。
真面目で勤勉な彼は、孤児院を出た後の働き口として、森の管理を任されていた。木を刈り森を整え、時々町へおりて金銭を得て。そんな日々を二十五歳になるまで続けている。木こりの仕事では決して裕福な生活は出来ないが、身の丈に合った暮らしは保証されていた。
森を歩くと様々な動物と出会う。アルフレドにとって、それが毎日の楽しみでもある。シカにサル、リスにウサギ……森に住む生き物は皆、心優しいアルフレドを歓迎した。孤児院育ちのアルフレドには家族というものが居なかったが、動物達のおかげで孤独を感じることは少なかった。
今朝、木の実を抱えてやって来たキツネは、先日ケガをしていた母ギツネだ。森を進んでいると、血を流す母ギツネのそばで小さな子ギツネがぶるぶると震えていて。居合わせたアルフレドは、キツネの怪我を手当してからその場を去ったのだ。
そういえば、先日も。
『ごめんください。昔助けていただいたフクロウですが』
まだ深夜に近い早朝、窓をコンコンとつつく音がして。寝ぼけまなこのアルフレドがそちらを覗いてみれば、小さな窓枠にはフクロウが止まっていた。
『アルフレド様、私のことは分かりますか』
「ああ……君は昔、巣から落ちたフクロウか。ちゃんと飛べるようになったかい」
『ええ、お陰様でこのとおりに』
そのフクロウは、かつて巣から落ちたヒナだった。草むらへ落ちたまま飛べずに衰弱していたところ、たまたま通りかかったアルフレドが巣まで戻してやったのだ。
目の前のフクロウは軽く羽ばたいて、大きな羽を開いて見せた。なるほど、こんなにも立派な羽なら、もう木から落ちたりすることも無さそうだ。
よく見ると、そのクチバシには森に咲く珍しい花が咥えられている。やはりお礼として持ってきてくれたのだろう。
「君が立派に育ってくれて良かったよ。すてきな花をありがとう」
『こちらこそ、ありがとうございました、木こりさま』
フクロウはアルフレドの手に美しい花をポトリと落とすと、まだ薄暗い森へと飛び去った。
こうして時々、アルフレドの小屋には小さな客がやって来る。ソレアービルの森の動物達は、皆そろって律儀であった。とっておきのお礼を持って、度々アルフレドのもとまで訪れる。
来るのは動物ばかりであったが、アルフレドは嬉しかった。一人きりで暮らす自分の小屋を、訪れてくれる存在が──
「ごめんください。以前助けていただいた者ですが」
そしてまた、春の風が吹き荒れた早朝。
アルフレドは、ドアをノックする音で目が覚めた。
いつものように動物がやって来たのだろう。てっきりそう思い込んでドアを開けてみると、そこには──世にも美しい女性が立っていた。
歳は二十歳前後だろうか。月を思わせる銀髪に、透けるほど白い肌。新緑のように輝く緑の瞳が、けぶる睫毛に縁取られている。やわらかく微笑むその美貌は、寝ぼけていたアルフレドの頭が一気に冴えてしまうほど。
冷えた頭をフル回転させて記憶を辿ってみても、アルフレドにはこれほどまでに美しい女性を助けた覚えなど無い。もし出会っていたならば、きっと忘れているはずがないだろう。
「すまないが、きっと人違いだろう。僕は君のような美しい人に出会ったことが無い」
「いえっ、アルフレド様。そのお日様のような髪に、湖のように優しい瞳。私はたしかに、貴方に助けていただきました」
美しい人は、なぜかアルフレドの名を知っていた。彼女は涙ぐみながら一歩一歩近づくと、ガサガサに荒れた彼の手をそっと握る。
「な、なにをする」
「夢にまで見たアルフレド様の手……! 私はこの手に、ずっと触れたかったのです」
「馬鹿をいうな。君の手が荒れるからやめなさい」
「やめません」
「やめなさいって」
「やめません!」
彼女はアルフレドの制止も聞かずに、彼の手を愛おしそうに何度も撫でた。美しい指先でゆっくりと手の甲をなぞり、そして彼の手に真っ白な頬をピタリと寄せる。
「やっと、こうして触れ合うことが出来たんですもの。やめません」
「や、やめなさい……」
「アルフレド様、好きです」
いうことを聞かない彼女は、頬へあてたアルフレドの手を大事そうに握ったまま離さない。
「ずっと、好きでした」
アルフレドの身体はいつの間にか硬直していて、頭は混乱で何も考えられなくなっていて。それでも残された理性を再動員させ、彼女のことを振り払った。
「やめろと言っているだろう!」
「ア、アルフレド様」
「こんな冴えない男をからかうのは止めにしてくれ」
振り払われた彼女は傷ついた顔をしているものの、諦めることは無いようで。彼の服をぎゅっと掴み、なおもアルフレドへ食い下がる。
「なにを仰るのです! アルフレド様は、世界一の男です」
「初対面の君が、何を知っている」
彼女の強い瞳に、アルフレドは動揺を隠せなかった。こちらをまっすぐに見上げる美しい人に、彼の初心な心が敵うはずもない。
「私は知っています。アルフレド様のことなら、なんだって──」
彼女の名はエレナと言った。
その日から、二人は一緒に暮らし始めた。正確には、エレナがアルフレドの小屋から断固として帰らなかった……と言うのが正しいだろうか。彼女が住み着いた形で始まった共同生活は、一人きりで生きてきたアルフレドにとって、とても鮮烈なものだった。
「おはようございます、アルフレド様」
「ああ……おはよう。いつも言うが、君まで起きる必要は無いのに」
「先に起きて、アルフレド様を眺めていたいんです」
「やめなさい」
アルフレドの小屋には、当たり前だが寝床はひとつだけだった。ベッドにはエレナを寝かせ、自身はソファで寝ているのだが……朝になると、こうして目の前にエレナの美しい顔がある。心臓に悪い。
「朝食を作りました。一緒に食べましょう」
「君が、そんなことまでしなくてもいいのに」
「そろそろ妻にしたいって思って欲しくて」
「冗談はよしなさい」
テーブルには毎日、エレナが用意してくれた食事が並ぶ。パンに豆のスープ、潰した芋。二人は同じテーブルを挟み、一緒に食事をとる。
「アルフレド様は、どんなメニューがお好きですか」
「分からない」
「分からない? どういうことですか」
「君が作ってくれるようなまともな食事は、孤児院以来なんだ」
そんなことを言いながら、アルフレドはハッと気がついて。スプーンを持つ手を止めると、向かいに座るエレナの顔をじっと見つめた。エレナはというと首を傾げて、つかの間、彼の言葉を待つ。
「アルフレド様?」
「……ありがとう」
口からは、おのずとその言葉が漏れ出した。
「その……毎日、おいしい食事をありがとう」
「……アルフレド様!」
エレナは勢いよく椅子から立ち上がると、アルフレド目掛けて飛びついた。彼からの感謝の言葉を、相当嬉しく思ったらしい。
「や、やめなさい。離しなさい」
「離しません! 私、料理もお掃除も頑張ります。だから、いつかアルフレド様の妻にしてくださいね……」
「わかった。わかったから、離してくれ」
やめろ、離せと何度言っても、エレナはにこにこと微笑んだ。もちろん、アルフレドを離したりはしないまま──
その明るさに、アルフレドの心が救われているのは確かだった。
アルフレドが森から小屋へと帰ってくると、留守番をしていたエレナが熱烈に出迎える。留守のあいだに小屋はきれいに片付けられ、窓には森に咲く花が飾られて。アルフレドが怪我をしようものなら、泣きながら手当てをする彼女。
そして事あるごとにアルフレドが「ありがとう」と礼を言うと、エレナは輝くような笑顔で彼の身体に抱きつくのだ。
一人きりで味気なかったアルフレドの世界は、みるみるうちにエレナで明るく染まっていった。こちらを振り向く、美しいエレナの立ち姿。耳に届く、やわらかく優しいエレナの声。彼女の何もかもが、アルフレドの胸にじわりと染み込んでゆく。
不思議だった。彼女が来てからというもの、目に入る景色全てが違って見える。森はこんなにも鮮やかだっただろうか。木漏れ日は、こんなにも眩しかっただろうか──
「エレナ、僕はいつ……君を助けた?」
ソファに座るアルフレドは、エレナに問いかけた。隣を見下ろせば、問答無用で自分に寄り添う美しいエレナ。いつまで経ってもその美貌に慣れることは無いのだが、もう「離れろ」などと彼女を突き放す気にはなれなかった。
「そんなこと、もう別にいいじゃないですか」
「良くない。助けたということは、君が困っていたという証拠だろう」
「アルフレド様……」
「知りたい。エレナに何があったのか」
怪我をした動物を手当てしたり、巣から落ちた鳥を助けたり……ソレアービルの森でそのようなことばかりしていたアルフレドは、動物達から感謝されることはままあった。
けれど人と関わることの少ない彼が、人助けをするなど滅多にないことなのである。
エレナがアルフレドの元にやってきたのは、どこかで彼女を助けたおかげらしい。けれど、いつどこでそのような事があったのか、いくら考えても思い出せないでいる。
もしかしたら、やはり自分とは別の誰かが彼女を助けたのではないか。だとしたら……エレナはいつか間違いに気付いて居なくなってしまうのではないか。最近はそんな不安がアルフレドの胸に居座っている。
「なぜ、エレナのような人を忘れているのか分からない。本当に、君を助けたのは僕なのか? もし人違いだったなら……」
「まだ仰るのですか。私はちゃんと分かっています。アルフレド様に助けていただいたと」
「そうなのか、やはり僕が」
「アルフレド様は、私の命の恩人です。私には、アルフレド様だけなのです」
『命の恩人』。この明るいエレナが、命の危機に直面するほどつらい目にあったということだ。想像するだけで、息が詰まるほどに苦しい。
「エレナ、キミは……」
「だからもう、これ以上はなにも仰らないでください」
エレナはそう呟くと、アルフレドの胸に身を委ねたまま口を噤んだ。こうしてアルフレドが彼女の過去を尋ねる度に、エレナは貝のように口を閉ざす。自身の身元について、詮索されたくないようだった。
明るいエレナ。優しいエレナ。けれどその笑顔の裏には、なにかがあるのでは無いだろうか。自分は、それを話せるほど頼りにならないのだろうか。いつか、事情を話してくれるだろうか──
待つだけというのは中々つらいものだと、アルフレドは知った。けれど彼には待つことしか出来なかった。
「では、町へ行ってくる」
「行ってらっしゃいアルフレド様。どうかお気を付けて……」
森の木々は葉を落とし、二人の共同生活は冬を迎えようとしていた。
このところ時々陰りを見せるエレナではあったが、相変わらず毎日明るい笑顔でアルフレドを見送る。この日は、アルフレドが町へと下りる日でもあった。
アルフレドは、週に一度ほどソレアービルの町へと下りる。
彼は、町が苦手だった。人付き合いは煩わしく、一人でいたほうが楽だから。けれど、人である限りそうはいかない。給金を受け取り、生活に必要なものを買い揃え、食料を買い足したりと、それなりの生活をするためにはやはり町へと足を運ばなければならなかった。
エレナが来てからは尚更で。自分のものなどは何とでもなるが、エレナにはちゃんとしたものを用意してやりたい。服も、食べ物も、香油も。彼女に必要なものは、すべてそろえてやりたかった。
「エレナ、なにか欲しいものはあるか」
「なにもありませんよ、アルフレド様」
「欲が無いな」
「私はアルフレド様の妻になりたいだけですから」
「もう半年も一緒に暮らしているのだから、もう実質、妻のようなものだろう」
「いえ、私はまだアルフレド様の愛を受け取っておりません」
「……そういうものか」
「そういうものです!」
エレナはにっこりと微笑んで、アルフレドを送り出した。
(愛……愛とは)
白い息を吐き、ソレアービルの町を歩く。悶々と、愛しいエレナのことで頭は悩ませながら。
不器用なアルフレドは、自分の想いを言葉にすることも態度に表すことも出来ないでいたから。何を言っても何をしても、きっとエレナは喜んでくれるだろう。けれどなかなかその一歩が踏み出せないまま、季節は過ぎていってしまった。
アルフレドとしては、彼女がいてくれるだけで心から満足している。けれどエレナはそうでは無い。こんな自分と、それ以上の、きちんとした形を望んでくれているのだ。
(……妻とは……夫婦とは)
夫婦とは……『家族』。その単語に行きついて、アルフレドの心臓は大きく跳ねた。
天涯孤独のアルフレドにとって、家族とは手の届かない存在であった。もし、エレナが正式に妻となってくれたなら。エレナが、自分の家族になってくれたなら──
給金を受け取った帰りの道すがら、アルフレドはある店のショーウィンドウに目を奪われた。
普段なら、決して寄ることの無い店だった。エレナと出会う前までは、一生無縁であろうと思っていた──町の宝石店へと、アルフレドの足は吸い寄せられる。
「いらっしゃいませ。どのようなものをお探しでしょう?」
「いや、あの……少し見てもいいだろうか」
「勿論ですよ。ごゆっくりご覧下さい」
薄暗くこじんまりとした店内には、カウンターがひとつ。ショーケースのベルベットには、星のように輝く宝石がいくつも並べられている。
(なんて美しい……)
あれもこれも、エレナに似合いそうなものばかりだった。どんな宝石も彼女が身につけたなら、いっそう輝くことだろう。けれど、宝石など無縁の生活を送ってきたアルフレドには、なにも選ぶことが出来ないでいる。
「恐れ入ります旦那様。もしかして結婚指輪をお探しでしょうか」
「な、なぜ分かる……?!」
「分かりますよ。こんなにも真剣なのですから」
宝石店の店員は、必死な形相のアルフレドを見かねて声をかけたらしい。アルフレドは店員のアドバイスを受けつつ、エレナへの指輪を選んだのだった。
エレナの喜ぶ顔が目に浮かぶ。早く渡したい。笑顔が見たい。そして今日こそ彼女へ伝えよう。「愛している」と。「妻になって欲しい」と。ありのままの、自分の気持ちを。
早く彼女に会いたくて、アルフレドは帰路を急いだ。早く彼女の笑顔が見たくて、勢いよく小屋の扉に手をかけた────
しかし、そこにエレナはいなかった。
アルフレドは部屋の中を何度も探したが、そもそも小屋は探し回るほど広くない。彼女のいないキッチンには、まだ温かいシチューの鍋が残されていた。夕食のために仕込んでおいてくれたのだろう。
なら、エレナはすぐ戻るのではないか。少し外に出ただけかもしれない。ただ不思議と胸騒ぎがして、ぐるりと森のあちこちを探してみる。やはり彼女は見つからない。
日が暮れて、シチューの鍋も冷えきった。
けれどエレナは帰らない。テーブルの上に置いた指輪の箱が、虚しく取り残されている。
(……もしかして、愛想を尽かされたのだろうか)
しかし、今朝まで「妻になりたい」と言っていたエレナ。愛想を尽かされたとしても、こんなにも急に姿を消したりするだろうか。
(それとも、やはりエレナを助けたのは私では無く、他の誰かだったのだろうか……)
なにせアルフレドは、エレナとの出会いを覚えていない。彼女は気づいたのではないだろうか。命の恩人が、アルフレドでは無かったということに。
それなら恩もない男の粗末な小屋に、これ以上居座る理由もないだろう。
それでも、急にいなくなったエレナの不自然さに違和感は拭いきれない。彼女のことを諦められないアルフレドは、松明の灯りを頼りに冬の森を歩いた。町へ下りて、彼女の姿を探した。
毎日毎日、エレナを探し求めた。
『ごめんください、アルフレドさま』
早朝、外で小さな物音が聞こえる。
アルフレドはその音にハッとして飛び起きたが、すぐさま我に返った。これはいつかのキツネが扉をたたく音である。重い足取りで扉を開けると、キツネの足元には木の実が山積みにされていた。冬の木の実は貴重で、彼らだって食べたいはずなのに。
『木の実をお持ちしました。アルフレドさまに差し上げようと』
「何を言う。それは君達の食糧じゃないか。ちゃんとお食べ」
『アルフレドさまこそ、なにも召し上がっていないではないですか』
心配をするキツネへ、アルフレドは曖昧に微笑んだ。
エレナが姿を消してから、数ヶ月が経とうとしていた。季節は春を迎えようとしている。
アルフレドの暮らしは、再び一人きりの毎日に戻った。あんなにも目に鮮やかであった森は、一転してモノクロの景色に変わってしまった。同じことを、同じように繰り返す。そして誰もいない静かな小屋で、泥のように眠る日々。
時々、そんなアルフレドのことを心配した動物達が、様子を見にやってきた。その物音すらも、エレナを思い出して胸が苦しい──
ただ、元の生活に戻っただけなのに。
アルフレドはもう元には戻れなかった。エレナとの二人暮らしで、そのあたたかさを知ってしまった。一人きりの孤独を知ってしまった。束の間の夢だったのだと自分を納得させようとしてみても、到底無理な事だった。あれは夢などではなく、この手に訪れた幸せであったのだから。
アルフレドは今日も、あてもなく森を歩く。歩けば歩くほど、彼女との思い出がよみがえる。
小屋から右に曲がった場所にある木は、リス達の住処となっている。エレナがよく「かわいい」とリスの親子を眺めていた。
そこからまっすぐ進むと、木々の間に小さなせせらぎが流れている。水飲み場として、シカやイノシシが水を飲みに来るのだと、エレナは教えてくれた。
さらに奥へ進めば、岩壁に苔むした大岩が鎮座していて。その苔は夜になると星空のように光り、とてもロマンチックなのだと……いつか一緒に見に行こうと、これもエレナが誘ってくれたことだ。
彼女は、他にもまだまだ知っていた。果実のなる木、美しい花の咲く水場、洞窟への近道……エレナは、なぜかソレアービルの森のことを熟知していた。
そして、アルフレドの人となりも、暮らしぶりも、もちろん何もかもを知っていて。
(最初から、どこか妙だとは思っていたが)
エレナは詳し過ぎた。麓の町に住むくらいでは、森のこともアルフレドのことも、こんなに詳しいはずがない。他の町の人間なら尚更である。
ならば彼女はどこに住んでいた────
(けど……そんなことは、もう、どうでも良いんだ)
森を歩けば、時折エレナの気配とすれ違う。
気のせいでも、勘違いでも、それがアルフレドの拠り所となっていた。
木々も芽吹き始め、ソレアードの森にもまた春の風が吹きはじめた。心を決めたアルフレドは、誰もいない森に向かって呼びかける。
「エレナ、もしいるのなら出ておいで」
そこにエレナの姿が見えるわけでは無い。ただただ森に吹く強い風が、木々の枝を揺らしているだけだ。
「エレナ。大丈夫だから、出てきてくれ」
ちょうど一年前、エレナがアルフレドの元へ現れた日も、春になったばかりの──このように風の強い朝だった。
身ひとつで立っていたエレナ。アルフレドに助けられたと、手を握ったエレナ。自分を「ずっと好きだった」と言ったエレナ。
「僕は君が何者でもかまわない」
アルフレドはもう、確信していた。
彼女はずっと、この森でアルフレドを見ていたのだ。この森にいたのだ。一人きりで暮らしていた自分のそばに。
時折感じるエレナの気配も、そのことを裏付けるような気さえしていた。
胸を絞られるような痛みが、彼女への愛を叫ぶ。
「会いたい……」
どうか、一年前のように現れてほしい────
「……アルフレド様」
自分の名を呼ぶ声に、耳を疑った。
この声はキツネでは無い。フクロウでもない。
信じられない気持ちを抱えて、アルフレドは声のする方へと目を凝らした。
「アルフレド様」
「……エレナ」
「お会いしたかったです、アルフレド様」
小屋の近くに立つのは、若いブナの木。その影に、エレナはひっそりと立っていた。
その姿は、以前と変わらず美しい。しかし彼女の瞳からは、ぽろぽろと涙が溢れ出ているではないか。
「なぜ泣いている?」
「わ、私、こんなつもりではなかったのです……突然、姿を消したりするつもりは……」
「どういうことだ?」
理由も言えないまま、とうとうエレナは号泣してしまった。彼女の真っ白な頬をつたう涙は、ふかふかとした落ち葉の地面へとこぼれ落ちる。
エレナ、エレナ。ぐしゃぐしゃの泣き顔すら、なんと愛しいことだろう。アルフレドは無意識のうちに駆け出した。彼女のもとへ、まっすぐに。
「エレナ、好きだ」
「え?」
「愛している、離れたくない」
「え、えっ……」
想像を越えた勢いのアルフレドに、エレナの涙はピタリと止まる。
アルフレドは無我夢中で、立ち尽くしていた彼女をグイと引き寄せていた。再び会えた喜びはとどまるところを知らず、戸惑うエレナをきつく抱きしめる。
「ア、アルフレドさま……」
エレナにしてみれば、彼からのこんなにも熱い抱擁は初めてだった。ずっと欲しかった愛の言葉も、とけるような眼差しも。
「私が……怖くないのですか」
「エレナが? なぜ?」
「もうお気づきでしょう。私は人間ではないのですよ……」
アルフレドの腕の中で、彼女は悲しげに話し始めた。
「私は、ソレアービルの森の精霊なのです」
それはアルフレドがまだ森に住む以前の話。
もう数十年、荒れ放題になっていたソレアービルの森は、緩やかに体力を失っていた。森の崩壊は、エレナの死そのもの。彼女はただただ消える日を待つしかなかった。
そこに現れたのが、孤児院を出たばかりの歳若いアルフレドだった。ひとりで小屋に暮らし始めた彼は、荒れ果てた森の手入れを始めた。
ひとりきりで、少しずつ。それほど広くもない森ではあるが、アルフレド一人の手では途方もなく時間がかかる。それでも彼は、毎日毎日ひたむきに作業を続けた。一人で出来るところから、時には麓の町の手を借りて。そしてようやく、あるべき森の姿へと戻ることが出来たのである。
森の救世主であるアルフレドに、エレナはひと目で恋をした。けれど自分は実体のない精霊だ。アルフレドのことをいくら好きでも、ただ遠くから見つめることしか叶わない。
森の生き物達が羨ましい。彼らのように、アルフレドと話をしたい。アルフレドと触れ合いたい。あの優しい手で、撫でて欲しい────
そう強く願い続けていたある日。ソレアービルの森に力が満ち、春の風が強く吹いたあの日だ。
エレナは念願であった人の姿を手に入れた。
「奇跡が起きたと思いました。『人間』になれたのだと……これでアルフレド様に会えるのだと、嬉しくて」
人の姿となったエレナは、迷うことなくアルフレドの住む小屋へと走った。
一緒に暮らすうちに、優しく不器用なアルフレドのことをますます好きになってゆく。彼も時折、好意を含むような甘い表情を向けてくれるようになっていて。この幸せは、ずっと続くものだと思っていたのに。
「冬が近づくにつれ、身体が思うように保てなくなったのです」
木々の葉が枯れ、動物達の冬支度も始まった頃からだった。エレナが身体を保てなくなってきたのは。
人間の姿でいることが、とても疲れるようになっていった。眠くてだるくて……ふと気を抜けば、身体が霧のように消えてしまうのである。
「自分は人間ではなく森の精霊なのだと、つくづく思い知らされました。どう足掻いても、冬には敵わなくて……」
冬。ソレアービルの森は眠りにつく。冷たい空気の中で、木々も動物達も、そして精霊であるエレナも、冬は毎年静かに過ごした。それが季節と共にある森の姿であったから。
けれど、この時ばかりは眠りにつく訳にいかなかった。せっかくアルフレドと暮らしているのに。せっかく彼に触れることが出来たのに──
アルフレドには、正体を知られたくなかった。『人間』ではないと分かれば、きっとこの幸せは終わってしまう。だからエレナは、アルフレドの前では気を張って、彼が出かければ眠りにつき……そんな毎日を繰り返す。
しかしそんな無理が続くわけもなく。
アルフレドが町へ下りたあの日、とうとう完全に姿を消してしまったのだった。
「アルフレド様、急に姿を消したりして、本当にごめんなさい。でもお別れを言う間も無かったのです」
エレナは姿を消していた間にも、アルフレドをずっと見つめていた。エレナを求めてあてもなく森をさまよい、みるみる内にやつれてゆく彼の姿を。
もしかしたら、春になればまた人の姿に戻れるかもしれない。けれど、どんな顔でアルフレドに会えばよいのか分からない。人間では無い自分が現れたところで、彼は喜ぶだろうか……エレナはそんなことばかりを考えて、どんどん臆病になっていった。
「私にはアルフレド様に会う資格なんて無いと、そう思って」
「でも、エレナは会いに来てくれた」
「それは……アルフレド様に名前を呼ばれたら、どうしても我慢が出来なかったから……」
エレナはひとしきり事情を話し終えると、頬を赤く染めて恥ずかしげにうつむいた。
我慢が出来なかったと言う彼女の気持ちも表情も、アルフレドの胸をたちまち幸福感で満たしてゆく。
「話は分かった。エレナ、結婚しよう」
「えっ」
「僕の妻になってくれないか」
我慢できなかったのは、アルフレドの方も同じだった。やっと現れてくれたエレナを、会うやいなや承諾も無く抱きしめてしまっている。その上、突然の求婚をする始末。
「え、ア、アルフレド様、先ほどの話を聞いてましたか?」
「もちろん聞いていた」
「だったら、おかしいです。私が人間では無いと、もう分かったはずでしょう?」
腕の中で縮こまっていたエレナは、目を丸くしてアルフレドを見上げた。変人を見る目だ。でもそれも可愛らしいと思うのだから、アルフレドは重症である。
「人間で無くとも、僕は君がいい」
「そんな……冬には姿が消えてしまうという問題も発生するのですが」
「それでも、エレナがそばにいて欲しい」
重ねられる愛の言葉に、エレナは困惑しているようだった。その瞳には、再び涙がにじみ始めている。
「もう僕は、エレナ無しでは生きられない」
「アルフレド様……」
彼女に想いが届くまで、アルフレドは伝えるつもりだ。これまで伝えてこなかった言葉を、何度でも。
「ずっと会いたくてたまらなかった」
「それは……私も」
「君を愛している」
「私もです、アルフレド様」
互いの顔は自然と近付き、唇はゆっくりと重なった。
触れ合う吐息は甘く、どちらともなく口づけは繰り返される。
「エレナ、また二人で暮らしてくれないか」
「はい、アルフレド様──」
エレナは腕の中で泣き笑う。
愛しい彼女からは、爽やかな新緑の香りがした。
****
エレナとアルフレドが暮らし始めてもうどれ位経っただろうか。
「エレナ、もうそろそろ……息をするのも難しい」
「アルフレド様、アルフレド様」
「妻となってくれて、ありがとう──」
長い年月が過ぎたというのに、エレナは出会った頃と変わらず……美しい姿のままでいる。
エレナは涙を流しながら、アルフレドのしわくちゃになった手を一生懸命撫で続けた。そして彼の最期を見届けると、頬にそっと優しくキスをする。
「アルフレド様、助けて下さって……ありがとう」
人の形になってから、エレナは幸せな年月を過ごした。いつだってアルフレドの手に触れることができた。彼の瞳に映ることが出来た。彼が自分を求めてくれた。
「幸せでした、ありがとう……」
彼を見て、恋に落ちて。一方的に押しかけたはずなのに、気がつけばアルフレドからは沢山の気持ちを貰っていた。
森の精霊・エレナに抱きしめられたアルフレドは、彼女の腕の中で霧のように消えてゆく。
『エレナ、愛している──』
そこにあった幸せは、森の空気に溶けていった。