第二章 3
翌朝。
マリーはひゃん、ひゃんというジローの鳴き声で目を覚ました。
「あっ! み、みんなは……」
慌てて起き上がり食堂へと向かう。
だがすでに団員達の姿はなく、作戦会議に使われたらしい地図や資料、そして一通の書き置きだけがテーブルに残されていた。
『マリーへ 討伐任務に発つ。夜には戻れるはずだから ミシェル』
(置き手紙……そのまま仕事に向かったのね)
広げられた紙には討伐対象となる魔獣のことが書かれており、マリーはなんとなくそれに目を落とした。
どうやら「植物が魔力にあてられて狂暴化したもの」らしく、種子に擬態して人の服などに付着し、別の土地で繁殖を始める厄介な種類らしい。
(魔力……って、ゲームとかでよくあるあの魔力かしら? そういえば『魔』獣討伐って言っていたものね……)
うじゃうじゃとしたツタに無数のとげが生えた恐ろしい外見図を目にしたあと、マリーはそれらの資料を手元にまとめた。
「夜には帰ってくるみたいだけど……どうしよう」
ユリウスを説き伏せるというミシェルの言葉は信じたいが、あの傲慢な彼がそう簡単に受け入れてくれるだろうか。
下手をすれば、仕事を終えてここに戻って来た途端「出て行け!」と荷物ごと放り出される可能性もある。
(やっぱり自分のことは、自分で何とかしないと……)
しかしいったいどうすれば、とマリーは腕を組んだままうーんと一計を案じる。
(とりあえず、私が世話係として役に立つことを証明しなきゃ。となると――)
そこでマリーは食堂の全景を見回した。
以前調理人がいた頃は毎日のように使われていたのだろうが、今は食事ではなくもっぱらカードゲームや酒盛りに興じる場所と化している。
(……そうだ!)
マリーは名案を思い付いたとばかりに微笑むと、すぐに自室へと駆け戻った。エプロンを身に着け髪を結い上げると、よしと腕まくりする。
(どうせ大掃除もしたかったし――)
いつもは団員たちが昼間っからのさばっている邸だが、幸い今日は任務で人っ子一人いない。
わふん? とつぶらな瞳で見上げてくるジローをよそに、マリーはあらゆる掃除道具を携えるとまさに鬼神のような勢いで一気に邸中を磨き上げ始めた。
食堂、ロビー、階段は手すりの装飾まで。
廊下に浴室、脱衣所、遊技場――とにかくひたすらに手を動かし続ける。長い間世話係が不在だったせいか、どこもかしこも汚れと埃が溢れており、マリーは無心になってそれらを拭き上げた。
(それにしても広いわ……。いったい何がどこまであるのかしら)
やがて太陽が真上に昇った頃、一階にある共有部分の清掃があらかた完了した。
マリーはぜいはあと肩で息をしながら、結んでいた髪をようやくほどく。
「あとは二階、だけど……」
マリーは少しだけ逡巡したあと、そろそろと二階に続く階段を上った。
このフロアはすべて団員たちの部屋になっているとのことで、マリーは今まで一度も足を踏み入れたことがなかった。
なるほど似たような扉がずらりと並んでおり、皆が外出している今はまったく人の気配がない。
(さすがに各自の部屋は入られたら嫌よね……)
うんうんと頷いたマリーは、さっそく廊下の掃除に手をつけた。
冷え固まった蝋でがちがちになった燭台を磨き上げ、微妙に斜めになっている額縁の位置をすべて正す。
閉じられっぱなしのカーテンを片っ端から開けていたところで、ふと「かたん」という物音が聞こえた気がした。
「……?」
息を潜め、耳を澄ます。
するとマリーのいる場所からちょうど反対側――長い廊下の突き当りにある扉の向こうから、再び「かたん」と物音が響いた。
驚いたマリーは手元にあったカーテンを思わずぎゅっと握りしめる。
(な、何⁉ 誰かいるの⁉)
普通に考えれば団員だろうが、今はユリウスの命令で全員出払っているはずだ。
ではいったい――とマリーは様々な原因を想像する。
(でっかい虫? ネズミ? それくらいならまだいいけど、もしかして……泥棒⁉ それか勝手に住み着いた不審者とか……)
ぶるるっと身震いしたマリーは、すぐに脇にあった箒を掴んで身構えた。まずは外に出て助けを呼ぼうとじりじりと階段に近づいていく。
すると再び廊下奥から小さな物音がし――何かがマリーめがけてとたたたっと走り寄って来た。
「――っ!」
とっさに箒で防御し、続けて合気道で習った型を繰り出そうとする。
だがその正体が目に入ったところでマリーは慌てて構えを解いた。直後、ぽふんと柔らかい毛玉がマリーの腕の中に飛び込んでくる。
「ジ、ジロー……付いて来てたのね」
ひゃん! と元気よく答えるジローを撫でながら、マリーはほっと胸を撫で下ろした。どうやら先ほどの物音はジローが遊んでいたものだったらしい。
原因が分かれば恐れるに足らず、マリーはすぐに廊下に戻ると、半端になっていた掃除を終わらせた。
そうして気づけば夕方になっており――厨房に戻ったマリーはふむと考える。
(掃除は終わった……あとは食事の準備かしら)
任務の場所はここから馬で二時間ほど。
周囲には小さな農村すらなく、弁当や携帯食を持っていない団員たちはおそらく昼食も取れていないだろう。夜遅くに戻って酒場に繰り出すよりは、ここで夕食を取って今日は一日ゆっくり疲れを落としてもらいたい。
(となると、まずは食材を調達しないとね)
マリーは騎士団用の財布を手に取ると、さっそく王都の市場へと向かった。
まもなく閉まるとあってだいぶ閑散としていたが、マリーはその中で扱いやすそうな野菜をいくつか買っていく。
レタスに似たようなものもあれば、まるで見たこともない果物などもあり、マリーは高級なスーパーに来たかのように胸を躍らせた。
(忙しくていつもコンビニかカップラーメンだったけど……久しぶりに料理できるのはちょっと楽しいかも)
学生時代は節約もかねて、日々自炊を研究していたものだ。
だが騎士団全員分ともなると結構な量になってしまい、マリーは両手いっぱいの荷物を抱えたままひいひいと路地を歩いていく。
最後に肉屋に辿り着くと「すみません」と店員に尋ねた。
「このお肉、ニキロちょっと欲しいんですが……」
不愛想な店員はマリーを一瞥するとぶっきらぼうに金額だけを返した。その態度と、思っていたよりも高かったことにマリーは少しだけ不満を募らせたが、渋々と財布を取り出す。
するとマリーの隣に一人の青年が立ち、こちらに向かってにっこりと微笑みかけた。
「お嬢さん、ダメだよ」
「え?」
「なあアンタ、田舎者だとみて上乗せするのはよくないな」
「……チッ」
青年からの指摘を受け、店員は嫌そうな顔で肉とお釣りをマリーに手渡した。言われていた金額よりも遥かにお釣りが多く、マリーはきょとんと青年を見上げる。
茶色の髪にたれ目がちな甘い容貌の彼は、マリーが抱えていた荷物を指さした。
「これ、君だけで運ぶつもり?」
「は、はい」
「女の子一人に持たせる量じゃないな。良かったら、途中まで手伝うけど?」
「そんな! 今知り合ったばかりの方に」
「いいからいいから」
そう言うと青年はひょいとそれらを持ち上げた。
一見細そうに見えたのだが、余裕の表情を浮かべているところを見ると、意外に力があるのねとマリーはひそかに感心する。
「でもやっぱり申し訳ないので、あの――ちょっと⁉」
丁重に断ろうとするが、青年は一足先にすたすたと歩いて行ってしまった。
人質を奪われたマリーは、仕方なく青年の後を追う。