第三章 5
どうやらまだ幼いミシェルとともに、エミリーが失踪してしまったようだ。玄関に出たライアンはそのまま執事頭に指示を出し、繋いでいた馬にすばやく跨る。
「俺も捜索に加わる。範囲を広げて、出来るだけ早く保護してくれ」
「かしこまりました」
高らかな蹄の音を立てて去っていくライアンを見送りながら、マリーはたまらず胸元で手を握りしめた。
「エミリーさん、どうして……」
再びぴちゃんと雫の音がする。
瞬きの間に景色が変わり、今度は一気に素朴な部屋へと様変わりした。ガラスのはまっていない小さな窓。使い込まれた暖炉に古びたテーブルと椅子。そこに一組の男女――少しだけ年を取ったライアンとエミリーが座っていた。
「まさか、こんなところで暮らしていたとはな」
「ごめんなさい。でも、どうしても言えなくて……」
「俺の方こそ、何も気づいてやれなくてすまなかった。あろうことか、俺の親族が君に嫌がらせをしていたなんて……」
「無理もないわ。親から義絶された女なんて、本来なら普通の結婚だって望んではいけないくらいだもの。少しの間だけでもあなたと一緒に居られて、ミシェルが生まれてきてくれて――私、もう十分に幸せよ」
にっこりと微笑むエミリーを、ライアンはどこかつらそうな表情で見つめる。やがてこくりと息を吞むとテーブルの上でぐっと拳を作った。
「もし、良ければなんだが……もう一度、一緒に暮らさないか?」
「…………」
「あいつらには俺がしっかり灸を据えているから、以前のようなことは絶対にさせない。今まで近くにいてやれなかった分、父親としてミシェルに色々してやりたいんだ」
だがライアンの提案を聞き、エミリーは静かに首を振った。
「嬉しいけれど……今はまだ、このままでいたいの」
「エミリー、どうして」
「私があなたにふさわしくないと思っている人間は、きっとまだたくさんいるわ。私だけが何かされるのであればまだ耐えられるけど、私の周りの人や――ミシェルに危害が加えられたらと思うと……」
「その時はすぐ俺に言えばいい。どんな相手でも――」
「忙しいあなたに、そんな負担かけられないわ。それに私があの家に戻れば、意図せずともあなたの足を引っ張ってしまうかもしれない。噂で聞いたの。次期騎士団長候補に名前が挙がっているって」
「そんなもの――」
「夢だったんでしょう? ずっと前に、そう話してくれたものね。でも私じゃ――後ろ盾がない妻なんかじゃ、居ても何の役にも立たない」
「エミリー、それでも俺は」
「私もミシェルもね、ようやくザガトの村に馴染み始めたところなの。だから――」
「…………」
エミリーとの会話が途切れ、ライアンはしばし口を引き結ぶ。しかし握りしめていた拳をほどくと、「はあ」と小さく息を吐き出した。
「……本当にすまない。俺がもっとしっかりしていれば」
「あなたのせいじゃないわ。私の方こそ、助けになれなくてごめんなさい――」
半端に曲げられたライアンの指を、エミリーが両手で優しく包み込む。
「良かったら、時々ミシェルの顔を見に来てくれない? いつかその時が来たら……あなたのこと、ちゃんと教えてあげたいから」
「ああ。出来る限り会いに来るよ」
「ありがとう」
二人の手が重なり合い、穏やかな時間が流れる。そこで突然奥にあった扉が開き、男の子がひょこっと顔をのぞかせた。赤い髪と目。どうやら小さい頃のミシェルのようだ。
「おかーさん、お話終わったー?」
「ええ。ごめんなさいね」
「ライアンさん、早く剣を教えてよ!」
「おう任せろ。ここじゃ狭いから広場に行こうな」
早く早く、とミシェルがライアンの袖を引っ張って外に連れ出そうとする。そんな二人をエミリーはどこか嬉しそうに見つめていた。その眼差しは優しく、マリーはここまでの経緯をなんとなく理解する。
(エミリーさんはミシェルと……そしてライアンさんを守るために家を出た。でもミシェルはそのことを知らないままで――)
またも合図の雫音が鳴り、周囲の時間がせわしなく進んでいく。雪が降り、花が咲き、草が茂って――森にある木々が色づき始めた頃、それは起きた。
(……!)
いきなりのそれを前に、マリーは絶句する。
ザガトの村を覆い尽くす、どす黒い炎。そしてはびこる大量の魔獣。
その光景は、まるで地獄がこの世に再現されたかのような凄惨さで、マリーは想像していた以上の惨劇に我が目を疑った。
やがて視界の端を、幼いミシェルが一目散に走り抜ける。
「お母さんっ……‼」
(ミシェル……!)
彼のあとを追い、マリーは先ほどまでいた彼らの家に向かう。部屋ではエミリーが暖炉の傍で胸から血を流して倒れており、ミシェルはすぐさま傍にしゃがみ込んだ。
「お母さん! お母さん‼ どうして……」
何度も体を揺さぶり、なんとかして外に運び出そうとする。
だが当時六歳のミシェルでは肩に担ぐことすらおぼつかず、ただ片腕を引っ張ることしか出来ない。室内には火と煙が充満しており、かなり危険な状態だ。
(っ……!)
マリーもまた駆け寄って助けしようとしたが、まるで自身が幽霊になったかのようにするりとエミリーの体をすり抜けてしまう。
(どうしよう、助けられない――)
やがて頭上からバキッという音が響き、燃えた梁が落下してきた。ミシェルは目を見開いたまま硬直しており、マリーはとっさに両腕を伸ばす。
そこに間一髪ライアンが飛び込んできて、ミシェルの腕を摑んで外に引き出した。
「――っ⁉」
二人は抱き合うような形で、かろうじて家から脱出する。
ライアンはすぐさま起き上がり、ミシェルの小さな両肩を強く摑んだ。
「大丈夫か、ミシェル!」
「ライアン、さん……?」
しばらく混乱していたミシェルだったが、目の前にいるのがライアンだと理解すると、たちまち大粒の涙を零した。
「ライアンさん! お母さん、お母さんが……‼」
「……お母さんは、あとで俺が必ず助け出す。今は早くここから逃げるんだ」
「そんな……‼」
赤く大きな瞳が涙で溢れ、紅潮した頬に流れ落ちる。ライアンはその様子を歯噛みしながら見ていたものの、すぐにミシェルを抱きかかえた。そのまま全力で村の入り口まで走ると、柵に繋いでいた自身の馬に乗せる。
「いいか、このままランブロアまで走るんだ。そこで大人の人を呼んできてくれ」
「ライアンさんは? 一緒に行かないの⁉」
「俺は――」
すると彼の背後から、一匹の魔獣が飛び出してきた。執拗に足を狙っており、ライアンは剣を抜いて牽制する。だが背後から別の一匹に襲われ、「ぐっ!」とくぐもった声を上げた。
「しまっ――」
「ライアンさん‼」
魔獣たちが集まってきたのに気づき、ライアンは「行け‼」と力強く馬の横腹を押した。
ミシェルを乗せた馬は猛烈な勢いで走り出し、あっという間に見えなくなる。それを確認し、ライアンはあらためて魔獣の群れと対峙した。
「モーザ・ドゥーグか……火の扱いには万全を期していたはずだが、何故村に入ってきた? そもそもこの黒い火、まさか――」
魔獣たちは次々と襲いかかってきて、取り巻く数もどんどん増していく。最初はどうにか対処していたライアンだったが、足の傷が影響しているのか、次第に動きが精彩を欠いていった。
「っ……まずいな」
ついに利き腕を噛まれ、ライアンは剣を取り落とした。武器を失った彼は、最後の手段とばかりに詠唱を開始する。
『――火の叡智よ、己が眷属をあるべき場所に帰らせよ』
彼の足元から、ロドリグのものとは対照的な白い焔が竜巻のように巻き起こった。
それを見てひるんだ魔獣たちがいっせいに森の方へと逃げていく。しかし守りの白い壁も長くは続かず、次第にその勢いを弱め始めた。
「ここまでか……」
魔獣たちが虎視眈々とこちらの動向を見守るなか、ライアンはミシェルがいなくなった方を振り仰ぐ。目を細め、ゆっくりと口角を持ち上げた瞬間、彼の周りに白い輝きが舞った。
それは誰よりも強い、カリスマの――命の光。
「ミシェル――大きくなれよ」
どさ、と音を立てて、ライアンがその場にくずおれる。
それをきっかけに今いる世界が真っ白に変わり、マリーはたまらず地面にしゃがみ込んだ。そこで手のひらに硬い何かが触れる。
(ライアンさんのサージュ……)
以前よりも赤色が薄くなっている気がして、マリーはおそるおそる両手で持ち上げる――すると目の前でパキッと割れてしまった。みるみる白濁していくサージュとともに、そこにある世界もまた崩れ落ちていく。





