第一章 2
(? 犬の鳴き声が……)
次の瞬間、マリーの顔にぼふんと茶色い毛玉がぶつかった。
反射的に両腕を差し出すと、即座にどしっとした生命の重みが加わる。
(本当に犬……しかもポメラニアンっぽい)
はっはと舌を出しながら、じっと見つめてくるつぶらな瞳と見つめ合っていると、庭の方から焦燥した声と足音が近づいてきた。
現れたのは赤い髪に赤い目をした少年。
軍服のような、きっちりした黒い衣装を纏っている。
「すみません! ちょっと目を離したすきに」
「あ、い、いえ」
「ほら、ご主人様が待ってるから早く帰ろう?」
歳は生前のマリーより少し若いくらいか。
無邪気な笑みで子犬を抱き上げるその姿に、マリーの胸は何故かざわめいた。
(この子、どこかで……)
だがマリーが記憶を手繰り寄せるよりも早く、赤い髪の少年はにこっと微笑む。
「ありがとう、助かったよ。じゃあ!」
そう言うと赤髪の少年は、来た時同様の溌剌さでその場を去っていった。
まるでドラマのワンシーンのような出会いにマリーがぼうっとしていると、後ろから歩いてきた若い神官に声をかけられる。
「なんだ、まだこんなところにいたのか。ちょうどいい、説明するから部屋に行くぞ」
「は、はい!」
そうしてマリーが連れて来られたのは、簡素なベッドと机があるだけの小さな部屋だった。
机の上には小さな鏡があり、マリーはこっそり自身の顔を確認する。
たっぷり眠ったためか色濃かったクマはすっかりなくなり、心なしか若返ったようにすら感じられた。
(というか本当に若くなった? 十代の頃みたい……)
やがて若い神官は、この『アルジェント』と『聖女様』のことを語り始めた。
いわく――『聖女様』とは、この世界に遣わされる女神の使者のことらしい。
女神様から授けられた『奇跡の力』とともにこの地に下り立ち、女神に代わって国王陛下を助け、この国を守る使命を負っているという。
「過去の聖女様は、これまでも我がアルジェントに降りかかった多くの災厄や争いを解決してくださった。そして今年、新たな聖女様が降臨されると国中の占い師が予言したんだ。そして見事、素晴らしい聖女様をお迎えすることが出来た!」
「なるほど……。それであの子が聖女様、というわけですね」
ふむふむと理解を示すマリーの様子に、若い神官は呆れたように頭を掻く。
「まったくここまで無知だとは……。まあいい。お前には特に用はないからな」
「え?」
「聖女様が二人同時に現れるなんてありえない。おそらくお前は聖女様ではなく、ただの偶然紛れ込んだだけだろう」
「偶然紛れ込んだ……」
「しばらくはこの部屋を貸してやる。が、処遇をどうするかは会議の結果次第だな」
若い神官は偉そうにそれだけを告げると、乱暴に扉を閉めて出て行ってしまった。マリーはしばしぽかんとしていたが、仕方なくベッドの端に腰かけうーむと腕を組む。
(会議……この世界に来てまで、その単語を聞くことになるとは……)
前世でも話し合いというのは建前で、やれもっと営業しろだアイドルたちの管理がと叱咤激励されるばかりだった。そんな暇があったら五分でいいから寝かせてくれ――と不毛だったひと時の思い出を振り払うと、マリーはそのままぽすんとベッドに倒れ込む。
(こういうの……たしか異世界転生っていうんだっけ……)
ここ数年は好きな本も漫画も読む時間がなかった。
友達と遊ぶ時間などもってのほかだ。
ただ仕事を終えた深夜、賑わいのためだけにつけたテレビで流れていたアニメを思い出す。イケメンに生まれ変わった主人公が最強の力を使って敵を倒し、出会う美少女たちを次々と虜にする、それから――とマリーの意識は次第に途切れ途切れになっていく。
(また、眠気が……)
あれだけたくさん寝たはずなのに、ブラック企業の疲労は消化しきれなかったのか、再び強い睡眠欲に襲われる。
何か行動のヒントにならないかと、異世界転生アニメの主人公のことを考えてみるが、どうにも自分の状況とは違い過ぎる気がした。
(そもそも私はただの一般人だし……。結局『ギフト』? も貰わなかったし……)
おまけに真正面から「聖女じゃない方」と言われてしまった。
心臓に小さな棘が刺さったようなわずかな悲しみを感じつつも、マリーはやがてくうくうと穏やかな寝息を立て始めたのだった。
翌日。
ぱちと目を開けたマリーは、その場で文字通り飛び上がった。
「お迎え! とあとお弁当の手配と次の取材の日程と――って、あれ……?」
急いで携帯を探そうとしたが見当たらない。
マリーはそこでようやく、自身が別の世界に来ていたことを思い出した。死してなお仕事をしようとするとは、我ながら社畜魂が恐ろしい。
(そっか……もう夜中に呼びだされることも、寒い中外で五時間待たされることもないんだ……)
すると扉の向こうからノックをする音が聞こえ、マリーは慌ててベッドから立ち上がった。扉を開けるとフルーツやパンが乗ったお盆を手にした可愛らしいメイドが立っている。
「おはようございます。朝食をお持ちいたしました」
「あ、ありがとうございます……」
前世ではまともな朝食を準備する時間などなく、マリーは深く両手を合わせると感謝しながらそれらを口に運んだ。その途中、食事を持ってきてくれたメイドに確認する。
「あの、私の処遇? って決まったんでしょうか」
「すみません。朝食をお持ちするようにと言われただけなので、そこまでは……」
「そうですか……」
「はい。ですので今しばらくはこのお部屋に待機していただければと。もちろん近くを散策するくらいは構いませんので」
空の食器をメイドが持ち帰ったあと、マリーは一人ぼんやりと天井を仰いでいた。
せっかく過酷な長時間労働から解放されたのだから、ここは心行くまで惰眠を貪るべきなのでは? と考えたものの――どういうわけか身体がそわそわと落ち着かない。
(まさか私、働きすぎて……じっと出来なくなってしまったのでは)
せっかく異世界に生まれ変わったというのに、オーバーワークの習性がまったく改善されていない。その後もシーツの上を二転三転していたマリーだったが、いよいよ無理だと諦めベッドから立ち上がった。
「天気も良さそうだし、せっかくだからちょっと見て回ろうかな」