第一章 聖女オーディション、落選
『――リー、マリー、目覚めなさい』
「……?」
相良麻里が目覚めると、そこは空の上だった。
正確には地面の代わりに虹色に輝く謎の空間が広がっており、周囲は霧がかったように淡い光を纏っている。体の感覚もなんだかはっきりとせず、ふとした瞬間に上下すら分からなくなる錯覚に陥った。例えるなら――天国、と呼ぶにふさわしい幻想的な場所だ。
「ここはいったい……」
『マリー。ようやく気がついたのですね』
頭上から響く艶やかな女性の声に気づき、恐る恐る頭上を仰ぐ。
そこには緩く波打つ金色の髪に澄んだ緑色の瞳。造作は著名な彫刻のように整っている――まさにこの世で見たことがないほど、完璧で美しい女神さまが微笑んでいた。
(すごい……今まで見た芸能人の誰よりも神々しい……!)
そこでようやく、マリーははっと身を強張らせた。慌てて愛用の手帳を探す――が、不思議なことにいつもジャケットの胸ポケットに入れていたそれが見あたらない。
すると再び女神の美しい声が聞こえてきた。
『マリー? どうしましたか』
「あの、私このあとスケジュールが詰まっていて、すぐに迎えに行かないとまた怒られて」
『その心配はありません。あなたは亡くなっているのですから』
「え?」
物騒な単語にマリーは目をしばたたかせる。
一方女神は慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、そっと自らとマリーの眼前に指を伸ばした。
何もなかった空間に、突如金色の文字列が浮かび上がる。
『――相良麻里。芸能事務所のマネージャー。慢性的な過重労働の末、深夜二時未明に自動車で単独事故を起こし死亡。享年二十六歳……あらまあ、随分と時間に追われていたようね』
(そうだ私……あの時運転操作を誤って……)
女神からの説明を受けた途端、マリーの脳裏にこれまでの過酷な日々がありありと甦った。
大学時代、経理の仕事を希望して就職活動したがことごとくお断りされ、事務職希望で申し込んだ芸能事務所になんとか拾って貰えた。
だが実際に入社すると「急に欠員が出た」という理由でマネージメント部門に回されてしまい――そこからあの地獄のような日々が始まったのだ。
(自由気ままなアイドルたちに朝から晩まで振り回され、怒鳴られ、頭を下げ、命令され……)
月残業百時間は当たり前。超過勤務手当などつくはずもなく、もらえるのは毎月決まった固定給のみ。まさに定額働かせ放題である。
それでも花の芸能界。
有名人やアイドルと仕事が出来るじゃないとキラキラした世界を思い浮かべる人もあるかもしれない。
だが実態は彼らの好き勝手な要望に応え、八つ当たりを受けとめ、なだめすかして仕事に行ってもらうという、心底気疲れする仕事ばかりなのだ。
マリーのいた事務所も例外ではなく、一人のマネージャーが複数組のアイドルを担当するのは当たり前。新人女性グループの愚痴を聞いている間に、中堅男性アイドルがSNSで過激なことを呟いては炎上し、それを鎮火しているうちに現場に迎えに行く時間が迫ってくる。
前世を終える原因となった交通事故も「呑みに行って終電を逃したから迎えに来て」というタレントからの急な呼び出しが発端だったはずだ。
(うう、迎えが来なくて怒ってるだろうな……)
思い出せば出すほど胃が痛くなり、マリーは思わず胸元を握りしめる。女神もまたマリーのこれまでの苦行を知ったのか、片手を頬にあてると憂いを含んだ面立ちではあと息を吐いた。
『大変だったのね……。そのせいで与えられた命数を使い切る前に旅立ってしまった』
「めいすう、ですか?」
『寿命、というのかしら。あなたにはまだ生きるべき時間が残っていたのに、他者からの強い干渉によって無理やり奪われてしまったのよ』
でも大丈夫、と女神は微笑む。
『あなたをここに呼んだのは、そんな魂を救済するため。マリー、あなたはこれから新しい世界に赴いて、そこで残された命数を全うしてもらいます』
「新しい世界……?」
『文字通り、今までとは常識も歴史もまったく違う別の世界よ。もちろん似た部分もたくさんあるけれど、少し驚くようなこともあるかもしれないわ。でもそれはそれ。恐れずに楽しむ気持ちが大切よ』
「は、はあ……」
要は「残りの人生を別の場所で生きろ」ということらしい。
とりあえずあの毎日から解放されるならなんでもいい……とマリーがぼんやり逡巡していると、女神が両手の平をマリーに向かって差し出した。
『それじゃあマリー。新しい世界に旅立つあなたに、私からギフトを授けましょう』
「ギフト?」
『前世で頑張ったご褒美というのかしら。何でもいいの。誰をも虜にする美貌、世界を牛耳れるほど優れた頭脳、人間離れした運動神経――もちろん無限ではないですけどね? さあ、何がいいかしら』
(美貌、頭脳、運動神経……)
列挙された錚々たる提案を脳内で繰り返したマリーは、睡眠不足の頭をなんとか稼働させたのち――ようやくおずおずと口を開いた。
「じゃあ、ちょっとでいいので……」
『うんうん』
「ここで寝てもいいですか……ここ三日、横になって休めて……なくて……」
『えっ?』
大きく目を見開く女神をよそに、マリーはどさりと横向きに倒れ込むとすぐさま眠りに落ちた。
女神はしばらくきょとんとしていたが、すやすやと寝息を立てるマリーの傍にしゃがみ込むと、その頬にぷにっと指を押し当てる。
『すごい……全然起きないわ』
本当に限界だったのだろう。
気持ちよさそうに眠るマリーを見つめ、女神は慈しむように目を細めた。頬にかかる髪をそっと耳にかけてあげながら、子守歌のように優しく囁く。
『今はゆっくりおやすみなさい。次に目覚めた時は、新しい世界で――』
・
・
・
「――んんっ……」
深い眠りから覚めたマリーは、かつてないほど晴れやかな気持ちで大きく伸びをした。
(よっ……く寝たあ……。こんなにゆっくり出来たのいつ以来かしら……)
幸せを噛みしめるように、ぐぐっと体を動かす。
そこでようやく自分がベッドではなく、不思議な文様が刻まれた硬い石座の上にいたことに気づいた。顔を上げると立派な石造りの天井があり、周囲には神殿のような柱がいくつも立っている。
おまけに寝ていたのはマリーだけではなく――
(誰かしら。すっごく可愛い子……)
隣にはなかなかお目にかかれないレベルの美少女が横たわっており、マリーはしげしげと見つめた。
ハーフなのだろうか、全体的に色素が薄く手足は折れそうなほど華奢だ。
おまけに都内にある有名女子高の制服を身につけている。対するマリーの衣服はよれよれのスーツだ。
(アイドル? でもどのテレビ局でも見たことないし……読者モデルとか?)
するとマリーの視線を感じ取ったのか、美少女がぱちと睫毛を持ち上げた。その瞳は綺麗なピンク色で、初めて目にする色合いにマリーは少しだけ驚く。
「あの」と話しかけようとしたところで、突然柱の奥から物々しい足音が近づいてきた。
(な、何⁉)
やがて神官然とした男性たちが並び立つと、マリーたちに向かって両手を差し伸べる。
「聖女さま! ようこそ我が国に――んんっ⁉」
突如出迎えに現れた神官たちは、何故か皆一様に困惑した表情を浮かべていた。
そのうち美少女が完全に目を覚まし、たおやかに体を起こす。その可憐な振る舞いを目にした神官の一人がおおっと感嘆を漏らした。
「なんと美しい……やはり間違いではなかったか」
「しかし二人いるとは聞いていないぞ」
「いやどう見ても一目瞭然だろう」
(……?)
神官たちは何やらひそひそと囁き合ったあと、マリーの隣にいた美少女の前に恭しく跪いた。
「聖女様……ようこそ我が『アルジェント』へ」
(アルジェント?)
マリーがはてと首を傾げていると、聖女と名指しされた美少女が神官たちの前にそっと立った。
そのままおずおずと小首をかしげると、恥ずかしそうに繰り返す。
「私が……聖女?」
「はい! どうか我々にそのお力をお貸しいただければと……!」
「まあ……」
頬を赤くした美少女が微笑むと、何とも言えない愛らしさが神殿中にぶわっと広がった。
先頭にいた神官はもちろん、後ろに並び立っている者も含めて皆完全に目を奪われている。そうして美少女が慎重に石座から足を下ろしていると――神官のうち一人が脇にいたマリーにも話しかけた。
「ほら、お前も早く下りろ。聖女様じゃない方」
(じゃない方……)
先ほどの美少女に対するものと百八十度違う横柄な態度に、マリーもさすがにむっとする。
しかし誰かが手を貸してくれるわけでもなく、仕方なく一人で石座から下りているうちに、神官たちは美少女を伴ってさっさと神殿から出て行こうとしていた。このままではまずい、とマリーはいちばん後ろにいた男性を捕まえる。
「あの、私はこれからどうしたら」
「とりあえず別棟にある客室に行け。あとで誰かが説明に向かうだろう」
「は、はあ……」
ぽつんと取り残されたマリーは、仕方なく廊下にいた門番たちに別棟の場所を尋ねた。
壮麗な神殿から離れるにつれ、華美な装飾のない実用的な建物に変わっていく。中庭が見える渡り廊下を歩いていると、どこからひゃんひゃんと甲高い叫びが聞こえてきた。