夏の夕立の中で
言葉が見つからなかった。夏の夕立に打たれながら、彼は天を仰いでいた。悲嘆に暮れたように、己の無力さを呪うように。どのくらいそのままそうしているのだろう。傘ひとつ持たぬ体は雨に打たれるままに濡れそぼち、透明な雫を落としていた。
さあああ、と驟雨が空から降り注ぐ。上空には青空が見えている。彼の頬に光が当たる。水のひと粒ひと粒に光が反射してきらきらと光り、彼の周りに小さな虹を作った。
劉備どの、と呼びかけるのは憚られた。持っていた傘を差しかけようかと足が動きかけたが、結局私は動くことができなかった。見守るしかできなかった。
彼の無言の慟哭。深く悼むようなまなざしに打たれて。
興平元年(194年)、徐州。この地は曹操軍の猛攻撃に晒されていた。しかし私は十三歳の生意気盛りの、無力な豎子にすぎなかった。
私が初めて劉備玄徳に会ったのは、夏の初めのある日のことだった。
私は川べりに座り、腫れた頬を冷やしながら、きらきら光る水面を眺めていた。些細な失言で学友を怒らせ、殴られたのである。
――姉に何と言い訳すればよいものか。
顔を腫らして帰ったら怪しまれてしまう。
人とうまく付き合えない。何かにつけて学友を怒らせて殴られる。頭脳と弁舌なら誰にも負けないが、私は喧嘩はからっきしであった。山東大人の言葉通り私も背だけは高かったが、体格と腕っぷしは全く別次元の問題なのであった。
「どいつもこいつも馬鹿ばっかり」
私は水面にひとつ小石を投げた。正論を言っただけで殴られるのは理不尽である。元来私は他人の心の機微というものに疎かった。というより、あえて知ろうと思わなかった。私は人というものにそれほど興味がない子供だった。他人の心より、書物に書かれていることの方がずっと有意義で興味深いものに見えた。書にあることはみな事実であり、推量の域を出ない人の心よりよほど確実である。屈原の詩に言う「衆人皆酔い、われ一人醒めり」という心境であったのだが、そのせいで余計反感を買うという悪循環であった。
「豎子、ともに諮るに足らずとはこのことか」
もうひとつ小石を投げようとしたが手元に石がなかった。代わりにぽつり、と顔に水がかかった。雨だ。
冷やした頬は雨の前から涙で濡れていたが、私は雨のせいだと思うことにした。
雨粒がだんだん大きくなる。やわらかな音が周囲に満ちた。私は空を見上げた。空は晴れていた。天気雨だ。陽光降り注ぐ中落ちてくる雨粒はどこか現実とは思われなかった。
「傘もささずにどうした。殴られたのか?」
不意に雨の中から声がした。聞き覚えのない大人の男の声だった。落ち着いた優しい声は耳に心地よく、ささくれた心ごとふわりと包み込むようだった。
顔を向けると、白い馬に乗った男がやわらかく笑いかけていた。
男は武人にしては色が白く、この辺りではあまり見かけぬ顔であった。一度見たら忘れられないような、印象深い瞳をしている。まだ若く見えるがどこか世慣れた風もあり、実際の年齢は測りかねた。三十になるかならぬか、だろうか。
普段なら知らぬ者に声を掛けられても無視するところだが、今日は言葉が先に出た。
「殴られたのではありません。殴らせたのです」
「ほう?」
「すぐに腕力に訴えるのは小人の為すこと。私はそのような輩とは違う」
「そなたも子供ではないか」
「子供ではありません」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「それは失礼した。年はいかなくても、立派な士大夫であったな」
男は丁寧に頭を下げた。からかっているのではなかった。子供でも一人前の男として扱おうという意思が感じられた。
「興世皆濁、我独清か。屈原を気取って汨羅に身を投げてはいかんぞ」
どきりとした。
この人には分かったのだろうか。屈原を気取る私の鬱屈が、孤独が、寂寥感が。
その時、川向こうから「おーい、兄者」と呼ぶ声がして、同じく馬に乗った男が二人駆け寄ってきた。いかにも武人といった体格の、精悍な雰囲気のある男たちである。
「今夜は陶謙様に招かれてると言ったじゃないか。どこ行ってたんだよ」
「そうですよ。また平民の格好でふらふらして。戦時なのですよ」
「危なっかしいったらないぜ。こないだも変なのに絡まれたばかりだろ。兄者は目立つんだからさ」
二人は口々に言いながら彼を取り囲んだ。あっという間の出来事だった。
あっけにとられる私の前で、三人は親しげに会話を交わしながら馬の首を廻らせた。
男は一度だけ振り返り、軽く手を振った。夕陽を受けて、しなやかな指が眩しいほど白く目に焼き付いた。
彼の名が劉備玄徳、徐州太守陶謙の客将ということを知ったのは、少し後のことであった。
あの日と同じやわらかな雨が、周囲を淡い色彩に落とし込む。
再び目の前に現れた彼に、私は声をかけることができなかった。
天を仰いだ姿は荘厳で、どこか殉教者のような印象を受けた。何故そう思ったのかは分からない。私は他人の心の機微に疎い。知りたいと思ったこともない。この日までは。
その私が、彼の心を知りたいと思った。
心が震える。どうしようもなく。
何故声をかけなかったのだろう。
何故もっと話をしなかったのだろう。声を聞かなかったのだろう。
何故もっと。何故。私がこの地を去る前に。あの人が戦火のさなかに飛び込んでいく前に。
私は……
「亮、もう行くわよ」
二番目の姉が私の袖を引いた。
小高い丘の上から、無残に破壊された街が見える。
あれからいろいろなことがあった。劉備どのにも、私にも、筆舌に尽くしがたいことが。
曹操軍の残虐ぶりは凄まじく、彼らの通るところ生き物は全て死に絶え、泗水は夥しい死体でせき止められるほどだった。ついに曹軍は我家の近郊まで進軍し、あとは文字通りの地獄が待っていた。虐殺の限りを尽くす曹操軍に追われるように、住民はよその土地へ避難せざるを得なかった。諸葛家も例外ではなかった。
太守陶謙は病に臥せているという。あの人は今も戦っている。
「あら、雨」
二姉が空を見上げた。青空から、雨粒が落ちてきていた。雨は瞬く間に驟雨となり、付近の草木をやわらかく叩きながら濡らしていった。
不意に何かが心の堰を切った。同時に視界がぼやけ、涙があふれ出た。
初めて心を知りたいと思った人のもとから、私は離れなければならない。離れがたい、忘れがたい想いに身が引き裂かれる思いがする。
また会える日が来るだろうか。
書物しか知らなかった頃は、自分にこんな思いがあることなど知らなかった。
――まるで恋のような。
「亮?泣いてるの?」
これが書物で見た、恋というものなのだろうか。
つまり私は恋をしているのだと、その時悟った。
(了)