第8話 人畜無害な男
十二月に入ると、事務所には続々とお歳暮が届くようになる。
大抵が普段は手を出せないプレミアムビールで、社長は従業員みんなに分けてくれるからそれはそれで嬉しいけれど、もうちっと気の利いたものはないのかしら? と思っていたら、超有名お菓子ブランドの焼き菓子詰め合わせが届いて、私と由希ちゃんは小躍りして喜んだ。
畠製作所からだから弥生さんが選んでくれたんだろうな。
お菓子を眺めてうっとりしていると、当の弥生さんが来てびっくりした。
「領収書持ってきましたあ。あ、それウチからの?」
「はい。ありがとうございます」
私も由希ちゃんも午後の休憩がこれからだったので、弥生さんを一緒に誘う。
外の喫煙スペースが空いているのを見て、弥生さんは一服してくると言って表へ出ていった。
三人分のコーヒーを淹れて来客用のテーブルで待っていると、煙草の匂いをさせて弥生さんが戻ってきた。
「弥生さんて煙草吸うんですね」
「たまーにね、吸いたくなっちゃうんだよね。ダメだよね、完全には止められない」
気持ちはわかる。私も学生の頃には吸ってたから。
「林さんは出張か」
ホワイトボードの行動予定表を眺めて弥生さんがつぶやく。
「お土産買ってきてって言っといた?」
「ああ、忘れてました」
「言われなきゃ気がつかないよ、あの人」
なんだかなあ、と思いながら適当に会話していたら、じとーっとこっちを見ていた由希ちゃんが爆弾を投下した。
「弥生さんて林さんと付き合ってたんですよね?」
聞かなかったことにしようって言ったのに。
内心でたらーっと冷や汗を垂らしている私の前で、弥生さんはあっさり頷いた。
「うん。三協部品の誰かに聞いた?」
「はい」
「いいよ。みんなにしゃべってるの知ってるから」
由希ちゃんは特に悪びれたふうもなかったけれど、弥生さんは鷹揚に笑って見せる。こんなふうに対応するのがクセになっているのだろう。
「いやじゃないですか? 元カレに仕事で会うの」
ずっともやもやしていたのだろう。由希ちゃんの詰問は止まらない。
「それはそれ。これはこれだし」
くすりと笑って弥生さんは腕を組む。
「もう何年も前の話だもの。もう平気になっちゃったよ」
「林さんのどこが良かったんですか?」
おいおい、由希ちゃん。なんて思いつつも、私もそれは知りたい。
「うーん……」
苦笑いしながら弥生さんは天井を見上げて考えている。
「別にね、林さんじゃなくても良かったのかも」
やがて低い声音で話し出した。
「結婚したかったんだよね、あのとき。仕事はきついし嫌なオバサンばっかでさ。寿退社に憧れたんだよね」
また苦笑いして弥生さんはコーヒーのカップに視線を注ぐ。
「身近なところを見渡してみてさ、林さんは年も近いしバリバリ仕事してて、頼もしく見えたんだよね」
それだけなんだよ、と弥生さんはコーヒーを飲んだ。
由希ちゃんは納得のいかない顏だったけど、私はわからなくもない。
焼き菓子の箱からマドレーヌを取り出しながら大きく頷いた。
「よくある話ですね」
「そう。よくある話」
弥生さんは笑顔に戻って「貰うね」と厚焼きクッキーの袋を取り上げた。
その日の帰り道、クルマの運転中にスマホが鳴った。自宅アパートの駐車場に停車してから確認すると、絵美からの着信だった。
折り返すと、すぐに絵美が出た。
『紗紀子? 仕事終わった?』
「今、ウチに着いたとこ」
『あたしらカラオケにいるからさ。来てよ』
少し間を置いてから、絵美がにやりとした気配。
『理沙と順子がおっもしろいことになってるから』
それは是非行かねば。
私は再びクルマを出した。
カラオケボックスの個室に着くと、なかなかいやーな感じに場が静まり返っていた。なんだい、なんだい。修羅場かい?
テーブルの奥の辺に絵美と静香が並んで座り、両サイドにそれぞれ理沙と順子が俯いて座っている。
「紗紀ー。もう聞いてやってよ。こいつらのハナシ」
両手に持っていた飲み物のカップをテーブルに置き、私は手前のソファに腰を下ろした。
さあ、聞こうじゃないか。
ところが理沙と順子はなかなか口を開かない。
埒が明かないから目線で絵美をせっつくと、隣の静香が口を開いた。
「コウジくんがやらかしたみたいでさ」
人畜無害そうな顔したコウジが?
イマイチぴんとこないでいると、理沙がもごもご口を開いた。
「別にあたしはそんなつもりなかったし……」
「そのつもりがあったからほいほい誘いに乗ったんでしょ?」
それにキツイ口調で順子が突っ込む。
おいおい、マジで修羅場か。
「わかったから順番に話してごらんよ。ん?」
そもそもが女とはしゃべりたい生き物だ。自分の主張をしたくて仕方ないのだ。
それによると。
ユウタくんと理沙のやり取りで進められた飲み会は、三対三で行われたらしい。
ユウタくんがプライベートの友だちを二人連れてくる予定だったのに、一人都合がつかなくなって三度コウジくんがやって来た。理沙とは三回目、順子とは続けて二回目の顔合わせだ。
ここで人畜無害のように思われたコウジが、羊の皮を脱いで本性を現した。
まずは理沙に目配せしてふたりで席を離れ、通路の暗がりで迫ってくちびるを奪った。
当然番号を交換して次に繋げる。
次に化粧室帰りの順子を捕まえてそこでまたキス。
番号を交換した。
もうね、サキコサンもびっくりの飢えた狼っぷりですよ。
「前の二回おとなしかったのは獲物を物色してたんだなあ」
「やるなあ。コウジ」
感心する私と絵美を他所に、静香は頭を抱えてしまっている。職場が同じ静香でも予想がつかなかったとは、大した人畜無害振りだ。
「で? あんたら反省会で報告し合ったんでしょうね?」
こういう飢えた男に食い荒らされないようにするための反省会なんである。
これには順子が気まずそうな顔をした。
うきうきと理沙がコウジくんとキスしたことを話したものだから、順子はとっさに何も言えなくなってしまったらしい。
「馬鹿だねえ。なんの為の反省会さ?」
「だいたい理沙はユウタくん狙いじゃなかったの?」
静香が責めるように問いかけたが理沙はけろっと言ってのけた。
「だって、ユウタ意外と奥手でさ、一対一じゃ全然がんがん来ないんだもん」
軽そうに見えたユウタが実は真面目で、人畜無害そうに見えたコウジが節操ナシだったわけだ。
その場では本当のことを言い出せなかった順子だったが後から思い返し、コウジの正体を理沙に暴露して注意を促さねばと考え直した。
そこで理沙に話があると連絡してご飯を食べに行く約束をしたそうな。
そんな順子にコウジからお誘いのメッセージが届いた。
女なら仕方のないことだが、コウジは理沙ではなく自分に気があるのではないかと順子は考えてしまう。
けれど順子はもう警戒していたし、誘われたのが理沙との約束の日と被っていたから、お断りの返事をした。
その直後、順子のところに今度は理沙からメッセージが届く。
用ができたから約束の日を変更してくれという。当然順子はピンときて理沙を問い詰める。
理沙はあっさり吐いた。
「コウジくんに誘われちゃってさ」
これで順子はブチ切れた。
自分は理沙の身を案じ、理沙を思って男の誘いをはねのけたのに、それにほいほい飛びつくお前は、トモダチとしてどうなんだ、と。
用意周到な順子はそれを直接理沙にはぶつけず、すぐに静香に電話をかけて理沙の仕打ちを訴えた。まずは味方を作ろうという魂胆だ。
そもそもここで吊るし上げの対象が理沙になってしまっているのが間違っている。まったく女同士というのは。
冷静沈着な静香はもちろん口車に乗ったりしない。
落ち着いて現状を確認し合うのが先決だと説いて、今に至るということらしい。
なるほどねえ。
「どう思う? 紗紀子」
にやにやと絵美が私に振ってくる。この女は完全に面白がっている。
まあ、この場の反応としては至極真っ当だよなあ。私だって笑いたい。男も女二人も年甲斐もなく何をやってるんだか。
「えーとね、まずはあんたたち。全員お互い様だから」
は? と理沙が真っ先に声をあげたから私は理沙と視線を合わせる。
「じゃあ、あんたは誰が悪いと思うのさ?」
「そりゃあ、二股かけようとしたコウジでしょ? 違うの?」
口を尖らせた理沙に私はにんまり笑って見せる。
「二股っていうけど、あんたら付き合ってるわけじゃないでしょ。酒の勢いでチュッチュしちゃっただけでしょ? それでもう彼女ヅラ? どこの生娘ですか」
ぐっと理沙が顔を赤くする。
「男にしてみれば両方にモーションかけて、どっちかモノにできればいいって、その程度の肚でしょうよ」
いくらなんでも二股かけるほど豪気でもないだろうよ、コウジは。
「あんたにしたってユウタくんでもコウジくんでもどっちでも良かったんでしょ? 押しが来ればどっちにでも靡くつもりだったんでしょ? 違う?」
これで理沙はぐうの音も出ず完全に押し黙った。
順子はそんな理沙を向かいから上目遣いにじとっと見つめている。
「次に順子。敢えて言わせてもらえば、あんたの対応がいちばん悪い」
「え、どうして」
「どうして、すぐに正直に自分もコナかけられたって言わなかったのさ?」
「それは……」
「自分に落ち度はないと思ってるなら、どうして静香に泣きついたのさ? 自分が正しいかどうなのか、自信がなかったからじゃないの?」
「……」
「良い人面して、だけどやっぱり後ろ暗い気持ちがあったんでしょ?」
順子は悔しそうにくちびるを噛み締めている。
「というわけで、あんたら三人ともお互い様だし、誰も悪くない」
こんな気分の悪い話は早く終わらせるに限る。
「誰も悪くない。それでいいでしょ?」
全員を見回すと、絵美と静香が大きく頷くのに合わせて理沙と順子もしぶしぶ頷いた。
「でも、じゃあさ」
おずおずと理沙が口を開く。
「コウジの奴にはオトガメなし?」
とんでもない。
「デートの約束っていつ?」
「明日」
「じゃあ、理沙も順子も行ってくればいいじゃん」
私はにやりと笑って足を組む。
「そんで言いたいこと言ってきな」
どんな対応をするかでコウジのほんとの度量がわかる。逃げ出すならそれまでだし、ここで態度を改めて、ふたりのどちらかとは付き合うもしれない。
どうなるかは誰にもわからない。男と女はそれぞれだからさ。
想像してみて面白くなったのか、理沙と順子はほくそ笑んで頷き合っている。
それで改まって正々堂々オトコを取り合うならそれもよし。まあガンバレ。
「お腹すいた。ごはん食べよう」
「そうだ、そうだ。壮行会でパーッとやろう」
なんだそれ。ノリノリの絵美にみんな苦笑いして、だけどその後は食べて歌って、なかなか楽しかった。
「確かに、男としてはそれは当然かな」
私の話を聞いた圭吾くんはさらりと笑う。
「こっちが駄目なら次はあっちにって。候補は常に複数……」
言いかけて、私の顔色を窺う。
「わかるよ。女も同じだもん」
ワインを注いであげると、ちょっとバツが悪そうに顔をしかめる。カワイイから許してあげよう。
「オレ二股はしないよ」
「信じてあげましょう」
疑うのも疲れるからね。
今日はお互い仕事が早く終わったので、この前のワイン食堂で待ち合わせた。
「このお店好きなの? 職場が見えるって微妙じゃない?」
「だからいいんだよ。他の奴らが仕事してるの眺めながら飲む酒は最高。……性格悪い?」
「私はキライじゃないよ」
ここのお店はお肉も美味しいしね。
「食べたらウチ来る?」
イケメン圭吾くんは誘い方もスマートだ。
私は笑顔で首を横に振る。
「部屋デートはしない主義なんだ」
「どうして?」
「部屋ってさ、ひとり暮らしならなおさら、自分のテリトリーなわけでしょ? そこを簡単に荒らしたくないし、荒らされたくもない」
釘を刺してるわけじゃないけど、私にとっては大事なことだ。気を悪くするならそれはそれでかまわない。
「紗紀子さんてオオカミみたいだね」
それはどういう意味かな? そりゃあガツガツしてるけど。
「オオカミって臆病なんだよね」
いたずらっぽく微笑う圭吾くんの瞳は意外なほど澄んでいて、この子はやっぱり侮れないと私は思う。
臆病なのは当然だよ。そうでなければ自分の身は守れない、生き抜けない。
人間だって動物だ。当然の本能だよね?
そしてときには群れたくだってなる。人恋しいというやつだ。
ひとりでいたいとも思うし、ひとりは寂しいとも思う。
なかなか難しい年頃なんだよ、私もさ……なんてことを言っても仕方ないから、私は黙ってグラスのワインを飲み干した。