第5話 認めない男(後編)
私たちが黙っていると、沈黙に耐え切れなくなったのかダンナさんは深く息を吐き出した。
「だいたいあいつは我儘なんだよ。友だちのあんたらに話すことじゃないけど」
躊躇するように言葉を切る。
「子作りのことですか?」
小さな声で詩織が尋ねると、水を向けられたダンナさんは小刻みに頷いた。
「俺だって子供は欲しいと思ってるし協力はしてる。だけどさ、すべてがあいつの思い通りになるわけなんかない。わかんないだろうけどさ」
また間を置いてから、ダンナさんは思い切ったように言う。
「排卵日だってわかった途端に、今夜ねって言われたって、簡単にその気になれるわけじゃないんだ。男はナイーブなんだ」
いや。そう言われても。
「あいつは妊娠することしか考えてないんだ。俺のことなんか子種としか思ってないんだ。外で出してきたことを怒るのはそういうことだろ?」
これは相当、拗らせていらっしゃる。私が天井を仰いでいると、まずは優しい詩織がそっと取りなす。
「彼氏やダンナさんが風俗に行ったら、女の子は嫌な気持ちになります。それは普通のことです。好きだから怒るんですよー。普通のことです」
「それにショックだよね。自分に興味なくなったのかって」
ぱちくりとダンナさんは顔を上げる。
「晃代はダンナさんのために頑張ってるんだと思いますよ。あなたに喜んでもらいたくて子作りだって頑張ってるし、あの子が頑張ってることは全部ダンナさんのためだと思うなあ。それなのに外でイタシてこられたらショックだよなあ」
「そうは言うけど」
「男の言い分もいろいろあるでしょうけど、まずは晃代に帰って来てもらうのが先決では?」
「ごめんねって迎えに行ってあげてください」
「そうそう、ここはダンナさんがオトナになってさ。こういうことは長引いたっていいことないでしょ? お互いの実家に知られたりしたら面倒ですよね?」
ぐっとダンナさんは考え込む表情になる。
「認めたくなくても嘘も方便で謝って見せればいいんですよー。それで晃代も気がすむんだから。それからまたふたりで話し合えばいいじゃないですか」
のらりくらりと詩織が説いたがダンナさんは不機嫌な顔つきだ。
まあ、しょうがない。今日の所はこれくらいにして私と詩織は帰ることにした。
「迎えに来る気になったら、住所ココなんで」
私が置いたメモにダンナさんは目もくれようとしなかった。
アパートの部屋に帰ると、室内がやたら小キレイになっていた。晃代が掃除してくれたみたいだ。
「お皿も碌にないんだね」
「だって、ひとりだし」
「彼氏用に二組そろえておかないの?」
「部屋デートは絶対しないもん」
「紗紀はクールだよねえ」
晃代が作ってくれた煮物を鍋から直接食べた。これはこれで面白い。
「今夜も泊っていい?」
「掃除にご飯まで作ってもらっちゃあ、ダメとは言えないなあ。むしろ明日も作って」
「お弁当も作る?」
ちきしょう、あの野郎。これだけ至れり尽くせりの嫁になんの不満があるっていうんだ。
「あたしさ、わかってるんだよ」
寝るのに電気を消した後、私のベッドの脇に敷いた布団の中で、晃代が静かに口を開いた。
「自分が子どもっぽいってさ。社会経験もあまりないまま結婚して主婦になってさ、子どももいないからママ友ができるわけじゃなし。家に閉じこもってダンナの為だけに家事をして、毎日毎日ダンナの帰りを待つだけの生活でさ」
くぐもった聴き取りにくい声色。私は一生懸命耳を澄ます。
「ダンナに仕事の愚痴言われても、元気づけられるようなこと何も言えなくてさ。おまえは呑気でいいよなあって、馬鹿にされても何も言い返せない。友だちだってさ、あんたたちみんなちゃんと働いてて会社でうまくやってて、あたしのことなんか。苦労もしてない専業主婦だって下に見てるでしょう?」
何も言えない。そういう部分がないとは言い切れないから。
「あたしだって、それは同じなんだよね。結婚もできないでせかせか働いて、ひとりぼっちで可哀想にねって。あたしはダンナに愛されてるから幸せだって……そういうふうに思わなきゃ、やってられない」
晃代の震える声を聞きながら、私は考える。
そうやって、自分と人とを比べることで自分の幸せを確かめようとするのは、女の最も浅はかなところだ。
人と比べることで得られるものなんて何もない。そんなことに意味はない。わかっていても。
「誰よりも早く幸せになりたかったの。いちばん幸せになりたかったの。素敵な人と結婚してかわいい赤ちゃんを産んで。みんなからいいなあ、羨ましいなあって祝福されたかったの。だから頑張ってるのに、頑張れば頑張るほど悪くなっていくみたいで、どうしたらいいのかわからない。ダンナとだって上手く話がかみ合わなくて、かと思ったら風俗行ったとか言うし」
はっきりと涙まじりに晃代は話す。
「あたしが悪いのかなあ? あたしが全部悪くて、こんなふうになっちゃったのかなあ?」
晃代に悪いところがあるとするなら、わざわざ自分から自分の世界に閉じこもってしまったということ。自分からひとりきりになってしまったということ。いちばん肝心なダンナと向き合うこともしないで。
だけど今の晃代にそれは言うべきじゃあない。少なくともこうやって、私に助けを求めて来てくれたのだから。
私は黙ってベッドを下りて晃代の布団に入った。
のんべんだらりと一人でお気楽に生きている私には、家庭に入って苦しんでいる晃代の気持ちの全部はわからない。結婚は複雑怪奇で、想像で何を言ったところで上滑りの言葉にしかならない。
ダンナさんが子作りでの不満を抱えていたように、晃代もたくさんの不安や悲しみを抱えていて、風俗で浮気がどうのなんてのは、その表層に出てきた一点の事件でしかない。夫婦の問題は私には想像もできない。
でもさ、晃代がこんなふうにぼろぼろになってしまった原因の根っこはさ、わかる気がするんだよ。同じ女だもん。
女なら誰でも同じ。まだ幼い女の子でも、思春期の少女でも、私たちみたいな独身貴族でも、お母さんでもおばあちゃんでも。
女がこんなふうにぼろぼろになってしまうなら、その原因は、報われないから。
女の人は真面目なんだよ。一途なんだよ。一生懸命なんだよ。頑張りすぎちゃうんだよ。
その頑張りを認めてもらえないことが何よりツライ。誰かに見ていてもらえないなら、自分には存在価値なんかないんじゃないか、そこまで思い詰めてしまう。
君は頑張ってるね、偉いね。ありがとう。ただ一言そう言ってもらえたら、それだけで全ては報われる。また、もっともっと頑張っちゃう。
いちばん褒めてほしい人から労ってもらえれば、舞い上がっていくらでも力が出ちゃう。そんなカワイイ生き物なんだよ。オンナなんてさ。
男はナイーブなんてどや顔で言ってる暇があったら、気づけっての、バカヤロウ。
私なんかじゃ代わりにならないだろうけどさ。精一杯優しく頭を撫でてあげると、晃代はびっくりしたみたいで泣き止んだ。
かと思ったらまたしくしく泣き始める。
「ありがとう……。やっぱりさ、友だちは優しいね」
「当たり前じゃん」
「ごめんね、紗紀」
なんのことやら。
翌日の夜には絵美も合流して、四人でアウトレットモールに出掛けた。
「晃代にセクシーなランジェリーを買ってあげよう」
ノリノリで絵美が言う。
「なんで!?」
「ダンナが二度と風俗行かないようにだよう」
「それはいいかもねー」
詩織ものんびり同意するから、晃代は私に助けを求めてくる。もちろん私も絵美の提案に賛成だ。
「子作りはいいけど雰囲気作りも大事にしてる?」
晃代はちょっと言葉に詰まる。
「さあ、出しなさーいってわけにはいかないでしょ? ちゃんと楽しんでやってる? お互い気持ちいい方が妊娠しやすいんだよね? そうでしょ?」
「それは知ってるけど」
「色っぽく誘って濃いヤツもらえば妊娠なんてすぐさ。あ、二回目のが濃いんだっけ?」
「絵美ちゃん意外と詳しいよね」
「うるさい」
最近のランジェリーは、市販でも可愛くてえっちくさいのがいくらでもある。高級海外ブランドの店に入ってわいわいやっていたら、晃代もだんだん乗り気になってきた。
「アキちゃんはピンクだよピンク」
「赤も可愛いけどなあ」
「黒でしょ」
「あんたがつければ?」
「誰に見せるのさ」
好き勝手言い合って、他のお店も覗いて回って美味しいものを食べて。クリスマスシーズンでイルミネーションが綺麗な遊歩道を歩いて、満足して帰ってくると、うちのアパートの駐車場の片隅で、がたがた震えている人影があっ
た。
「迎えに来いとか言っておいて留守ってのはどういうことだっ」
晃代のダンナ様だ。どうやら、感心なことに寒空の下で辛抱強く待っていたらしい。
「ご……」
反射的に謝ろうとする晃代の口を詩織が抑える。そうそう、謝るのはあんたじゃないでしょ。
私と絵美がじとっと見ていると、ダンナさんは覚悟を決めたように少し頭を下げた。
「俺が悪かった。謝るから家に帰ってこい」
どうにも偉そうだけど、晃代的にはそれで充分だったようだ。
「うん」
私の部屋から荷物を取ってきて、ダンナのクルマに乗り込む。
「紗紀、ありがとう」
「いいえー。またおいで」
「ふたりも、またね」
手を振って路地を曲がっていくクルマを見送り、取り残された私たちはなんとなく苦笑いし合った。
「いいのかね? あれで」
「いいんじゃない?」
細々とした問題は、また時間をかけて二人で解決していけばいい。
友だちがしてあげられるのは、気晴らしに付き合うくらいだ。
「せっかく来たんだし寄ってく?」
私が誘ってあげると、絵美が目を輝かせた。
「久々にパジャマパーティしたい」
「明日仕事だよー」
「いいじゃん」
「はいはい。詩織もおいで」
「わーい」
彼氏やダンナがいれば友だちは二の次になってしまう。寂しいけどそれは仕方ない。だけどそれでも友だちだからね、私たちは。