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第15話 帰ってきた男(前編)

 仕事を辞めたことを報告しても、意外にも家族の反応は薄かった。

「いいんじゃないか。少しのんびりしてさ、どうせだから婚活に励めや。そうだ、料理教室にでも行っておけ」

 弟のセリフに思い知る。独身女性が仕事を辞めることなど大事ではないのだ、世の中では。


「生活費は大丈夫か」

「貯金はあるしバイトもするからさ」

 本当はしばらくダラダラするつもりだったけど、父親に言った手前コンビニで無料のバイト情報誌を貰って帰る。


 部屋に帰ってコーヒーを淹れ、まずは最近のバイト事情を把握するべくぱらぱら目を通していると、スマホが鳴った。

 由希ちゃんからの着信だ。きっとまた仕事のことで質問があるのだろう。結構な頻度で電話がかかってくるから。


『紗紀子さーん。支払い条件の文書ファイルってどこでしたっけー?』

「それくらい自分で探しなよ」

 これも今だけでだんだんと距離が離れていくんだろうな。思うと少し寂しくなる。


 ――私はあなたが嫌いです。

 言わなくてもいい一言だったかもしれない。だけど私は引っかけるのは得意でも引っ張るのは苦手なんだ。

 神経を費やしつつ男心を操るなんて器用なことはとてもできない。


 ――もっと、ねとねと絡みついて離れないってくらいじゃないと。

 そりゃあ無理ですよ。タイプの違いってものがある。

 だから私にとっては、切って捨てることが最大の恩赦なのだ。


 ――それは知ってる。

 そう呟いただけで、林さんはあとは特に何も言わなくなった。

 あの夜のことはなかったこととして処理された。

 私はそう思ったし、そうでないと困る。心静かに落ち着いて、新しく始めようとしているところなのだから。


 由希ちゃんとの通話を終えて少しぼんやりした後、再びバイト情報誌を眺め始める。

 そこで馴染みのある会社名を見つけた。学生の頃バイトしてた和菓子屋さんの求人広告だ。

 地元では割とネームバリューのある老舗の店で、贈答用に大量に注文が入ったりするから忙しいときには本当に忙しくて、それがやりがいがあって楽しかった。


 担当者名は店長さんのものではないだろうか。結構な頻度でシフトに入って三年間働いてたから、覚えてくれてたりしないかな。

 バイトの応募はとにかく早い者勝ちだ。私はとにかく電話してみることにした。




「田島さんが来てくれてよかったよ」

 閉店後、一緒にレジの清算作業をしながら店長がほくほくしながら言ってくれる。

 あっさり採用されバイトに通い始めて二週間がすぎていた。


 さすが老舗の個人のお店で、やり方は昔と何も変わっていない。すんなり仕事に慣れることができた。

「ほんと紗紀子さんとシフト入ると安心です。わたし領収書とか伝票の書き方わからないから」

 現役女子学生のバイトの子も言ってくれる。頼られれば素直に嬉しい。私は単純だから。


 ブラインドを下げた店舗の入り口からノックの音がした。

 閉店だというのにこうやって駈け込んで来るお客さんは頻繁にいる。

「いいよ。入れてあげて」

「はい」

 店長がオーケーするから私はブラインドを上げ、自動扉のロックをはずして手で片側だけを引いて開ける。

「どうぞ」


「すみません」

 背広の首元にマフラーを巻いた男の人が寒そうに首を竦めながら入ってくる。

 私の横をすり抜けざま、じろじろ眺めてくる視線を感じ私も目を上げた。

「サキじゃん」

 げ。「いらっしゃいませ」のいの字に口元を凍らせたまま私は固まる。

「何やってんの? 副業?」

 佐藤のヤツが矢継ぎ早に訊いてくる。

 なんだ、こいつ。戻ってきたのか。


「いらっしゃいませ。お客様、御遣い物ですか?」

 カウンターの中から店長に促され、ヤツは私から離れてレジのそばに行く。

「二千円の詰め合わせを三箱お願いします。のし付けて」

「短冊でよろしいですか? 宛名はどういたしましょう」

「入れなくていいです。あと領収書ください」

 店長が先にお会計してる間に私とバイトの女の子とで品物を準備する。


「お待たせいたしました。こちらお品物です」

 カウンターの向こうに回ってヤツに手提げ袋を渡す女の子に合わせて、私もお辞儀をする。

「じゃあな」

 ヤツはあっさり手を振り出て行った。

「知り合いですか?」

「昔の友だち」

 私もあっさり言って閉店作業に戻った。





「あらら、佐藤氏戻ってきたのか」

「うーん」

「仕事も辞めたことだし、接点もうないんじゃない」

「そうだね」

「残念?」

 絵美がにたにたする横で、詩織が無言で心配そうな顔をしている。


「今さあ……」

 いつもの日帰り温泉の露天風呂。顎までお湯に浸かって私は話す。

「いい感じに心穏やかなんだよ、私」

「男断ちできてるもんなあ」

「でしょ? このまま自分のペースでのんびりしてたいんだ」

「紗紀ちゃんがそう言うならいいけど」

 詩織は少しひっかかるような顔をしてたけど、何も言わないでいてくれた。友だちは優しい。



 次の日には久々に晃代に会った。

「ごめんねえ。呼び出して」

「いいさあ。無職のヒマ人だもん」

 パンケーキの店でほうじ茶を飲みながら晃代は笑う。

 傍らの手提げの小さな鞄には、マタニティマークのキーホルダーが付いている。


「今日紗紀に会うって話したら、ダンナがよろしくって」

「それはそれは」

「あの後いろいろ気がついてさ。確かに紗紀の言う通り、妊娠しなきゃって気持ちばかり強くて、ダンナの気持ちを考えてなかったんだよね。感謝の気持ちを忘れてた」

 感謝か。いいこと言うなあ。


「もっとちゃんと営みそのものを大事にしようって気になったら、なんだかダンナも優しくなった気がしてさ。不思議だね」

「良かったじゃん」

「うん」

 心なしかふっくらした頬を綻ばせて微笑む晃代は聖母様みたいな神々しさで、私はほんの少し、いいなあと思ってしまう。



 暇になってからいろいろなことを考えた。そのどれもが答えの出るようなことなんかじゃなくて、私は何がしたいんだろうって考える。


 目的が欲しくて、弟に言われたようにカルチャースクールにでも通おうかと考えていたら、バイト帰りに佐藤のヤツが現れた。


 小さな店舗建物の脇の従業員用駐車場。

 おつかれさまの挨拶をしてクルマのドアに手をかけたところで、いきなり腕を掴まれた。

「ちょっと来い」

「は?」

「いいから」


 路肩に止めてあったヤツの物らしいクルマにぐいぐいされる。

「ちょっと待ってよ。私のクルマ……」

「少し置いといたって平気だろ。すぐ戻るから」

「あんたねえ」

「早くしろ。蹴るぞ」

 くっそう、この男。相変わらず自分勝手だ。


「どこ行くのさ」

「運転中は黙ってろ」

 くそ。仕事終わりで疲れてるって言うのに。お腹だって空いてるのに。

 連れていかれたのは近くのショッピングモールで、閉店間際のファッションエリアをヤツは足早に歩いていく。


「すんません。適当にでいいんで、こいつが清楚に見える感じの服を身繕ってください」

 国内メーカーの中では高級な部類のショップに入り、店員さんに向かって言ったから、私はぎょっとする。

「あんたは何がしたいのさっ」

「いいから。大人しくしてれば服買ってやる」


 あまりのことに口をぱくぱくしながらも、私は煌びやかなお洋服たちが気になったりもする。

 何せ失業中の身だ。倹約を心掛け、ショッピングだってお正月以来していない。

 今日だってなんてことない普段着姿で、飲み会からも遠ざかっているから最近とんとおしゃれをしていない。


 店員さんに促されてついついフィッティングルームに入ってしまう。鏡の中の自分と目が合い我に返るも遅かった。

 男断ちはできても物欲に勝てない自分が恨めしい。


 ひざ丈のフレアスカートにシフォンのブラウス、明るい色のジャケットを着せられた私は、靴もベージュ色のパンプスに替え、ヤツに手を引かれてそのままの格好で店を後にした。


 私の鞄を持ったヤツが忙しなく腕の時計を見ながら化粧室の方へと向かう。

「化粧道具くらい持ってるだろ。ちょっと化粧直してきてくれ。ここで待ってるから」

「あのねえっ」

 堪えきれなくなって、私はトーンを押えつつも声を荒げる。

「ちゃんと説明しろ」


「ガラが悪いな。これから行くとこでは楚々としてくれよ」

 ああん? 睨む私から目を逸らさないままヤツは上着のポケットから取り出したものを、私の目の前に翳した。

 大きな石が付いた指輪だ。見た感じダイヤモンドみたいだけど、まさかねって思う。


「これつけろ」

「は!?」

「これから取引先のおっさん家に行って、婚約者だっておまえを紹介するから」

「…………」

 何を言ってるんだこの男は。


「でないと、そのじいさんの孫と結婚しなくちゃならなくなる」

「…………」

「出世のために気に入らない女と結婚するなんぞ、耐えられないからな」

 出世のために気まずい別れ方をした元カノを利用した男が抜け抜けと。

「結婚したい相手がいるんですって断ったら、それなら連れて来いって言うからさ。頼むよ」


 こいつはまた私を利用するつもりなんだ。

 怒りと胸の痛みと情けなさがごっちゃになって、私は目が熱くなる。

「サキ、頼むよ。おまえしかいないんだ」

「…………」

 そんな弱々しい声でお芝居されたって騙されない。ぎりっとくちびるを噛んで思ったけれど。


「わかった。メイクしてくる」

 ヤツの手から鞄を取ってメイクルームに入る。

 鏡台の一番奥の椅子に座り顔を上げると、青ざめて据わった目をした私が私を見ていた。

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