第14話 無粋な男
福袋を買いに出かけた帰り道、お茶を飲みに寄ったコーヒーショップで私の話を聞いた絵美は、なんとも言えない顏で黙り込み、それからおもむろに笑い始めた。
「あんたそれ笑うしかないよ」
そうだよねえ。
「オオカミ紗紀子が襲われるとはねー」
ほんとほんと。
「これがもっと若いころのハナシなら怒ってもあげれるけどさ、このトシになったら笑うしかないわー」
まったくおっしゃる通り。
「で、どうすんのさ。なかったことにするって言っても、その人と毎日顔合わすわけでしょ? あたしだったら耐えらんない」
「私だって」
社会人たるもの職場の人間関係には波風を立てず、のらりくらりと曖昧に泳ぎ切るものである。そうはいかなくなるのが男女関係だ。なにせしゃーない恋愛だから。
恋愛なんかじゃない。けれど事故とはいえ生臭い関係になってしまった。
それならやっぱり同じ職場にいるのはきつい。私は弥生さんみたいな大人になれない。
それならば、できるのは尻尾を巻いて逃げ出すことだけだ。
由希ちゃんには話しておいた方がいいと思ったから、休暇明け初日のランチに近くのファミレスへと誘った。
「それで林さんと全然目合わせなかったんですね」
正直者の由希ちゃんは馬鹿じゃなかろうかという顔で私を見る。
うう、なんも言えねえ。
「だからって紗紀子さんが辞めちゃうのはイヤですよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけどさ」
「辞めないでくださいよう」
「タイミングとしては悪くないんだよ。年度明け、奥さんが復帰する予定でしょ? もともと由希ちゃんは育休中の奥さんの代わりに来たんだし、ここで私が抜けるのはちょうどいいと思うんだ」
「そんな都合付けはどうでもいいんですよ。紗紀子さんがいなくなるのはイヤです」
良い子だよなあ、この子。
「パフェ奢ってあげようか」
「んもう。少しはわたしのことも考えてくださいよ」
そうしてあげたいけどさ。私もいっぱいいっぱいなんだよ、これでもさ。
頃合いを見計らって社長に退職を申し出ると「ちょっと話そうか」と外に誘われた。
「なになに、急に」
「すみません」
「すぐ辞めたいの?」
「できれば早急に」
「まあ、じゃあ、一か月前ってことで、二月いっぱいいてもらうってことで」
「三月までいなくていいんですか?」
「奥さんが早く戻りたいって言ってんのよ。家にいるの飽きちゃったみたいでさ。子どもは姑さんが見てくれるし」
「あ、じゃあ……」
なんだ、ホントに都合のいい人だな、私。
「紗紀子ちゃんにも由希ちゃんにも辞めてもらうつもりなんかなかったけどね。事務所の花って思えばいてくれて全然かまわないし。支社を出すことも考えてるからさ」
「は!? マジですか?」
「これナイショよ。誰にも言ってないんだから」
ボクだって一応考えてるんだよー。
ガソリンスタンドに隣接した狭いコーヒーショップ。アメリカンをすすりながら社長はぼやく。
「大丈夫なんですか? 野望と無謀は違いますよ」
「苦く……ッ。言うねえ」
歯ぎしりしてから、社長はほんわか笑った。
「そういう紗紀子ちゃんがいなくなるのは寂しいなあ。キミも由希ちゃんも聡明な人だからさ、あやかりたいと思ってたわけだよ」
らしくないっすよ、社長。
「林となんかあった?」
せっかくしんみりしてたのに、いきなり斬り込まれて私はコーヒーを吹きそうになる。
「無粋なコト聞いてごめんねー。ボクさー、これでも鼻が利くから」
「やめて下さいよ」
「うん。ごめんごめん。ボクが口出して解決することならそうしてあげたいけどさ」
「お呼びじゃないですよ。林さんと私とじゃ会社にとっての価値が全然違うでしょう。わかってます」
「だよねー」
広いおでこを撫でながら社長はまたぼやく。
「この後はどうするの? 仕事だったら紹介するよ」
「いえ。自分でなんとかします。今度は別の職種にしようと思ってますし」
「ああ、そうだよねえ。紗紀子ちゃんならなんでもできるもんね」
はい。そこは自信がある。
「じゃあ、そういうことで。あとしばらくヨロシク」
引継ぎのために由希ちゃんをバシバシしごいたりマニュアルを作ってあげたりしてるうちに忙しく時間はすぎた。
少しずつ私物の片づけも始める。
「まさか紗紀のが先に仕事辞めることになるとはねぇ」
上司との交渉の結果、年度末まで仕事を続けなければならなくなった静香は、複雑そうに言う。
「めでたく退職したらのんびり旅行に行こうよ」
私が誘うと静香は頬を綻ばせる。
「そうだね。でも、失業保険貰えるまではバイトしようと思ってるから。夏になっちゃうけど」
さすが現実的だなあ。
「理沙と順子のハナシ聞いた?」
「付き合い始めたって?」
私は結論しか聞いてないけど、静香は逐一報告という名の相談をされていたのだろう。うんざりした表情になる。男性サイドからもきっと話を聞かされてたんだろうなあ。うわあ、ゾッとするわあ。
例の件の際、理沙と順子に詰め寄られたコウジは狡猾にもユウタくんに助けを求め、以来四人はタブルデートを重ねたそうだ。学生かよ、まったく。
それで最終的には理沙とコウジ、順子とユウタくんとカップル成立したそうだ。
「収まるふうに収まったってことだよね」
似た者同士でくっついたならそれがいちばんだ。静香はいっそ感心したようでもある。
「なるようになるんだねえ。とはいえ傍から見てても疲れるわ。当分合コンは懲り懲り」
私もそれには頷く。
心静かに。今年の目標を忘れてはいない。
だから私の近寄るなオーラを読んであのことには一切触れてこなかった林さんに追及されたときには、ただごとじゃなく身構えてしまった。
「辞めるのって俺のせい?」
決めたことなんだからそういうのはもういいんだよ。
「悪いことしたとは思ってないよ。好きだから抱いたんだ」
そうやって。表情を作る余裕もなく私はくちびるを噛む。
そうやって、コトの後でとってつけたように言う。男ってやつは。
卑怯者。無粋にもほどがある。もう辞めるのだし言ってもいいよね。
「私はあなたが嫌いです」
心静かにさよならしたかったんだけどな。
波風立てずにおくのは難しい。男と女のことならば。




