第11話 淡白な男
「多分、別れる」
そう話すと、絵美がまたかという顔で私を見た。
「気に入ってたんじゃなかったの? ケイゴくん」
そうなんだけどさ。
「やりすぎた」
いつもの日帰り温泉の露天風呂。顎までお湯に浸かって私はもごもご言う。
「怯えたウサギみたいな顔してた」
「ばーか。この狼が」
うんざりしたように言われても、やっちまったもんは仕方ない。
「もうさあ、男断ちしようかなあと思うわけですよ」
「やれるもんならやってみろ。そうだなあ、一か月は大人しくしてられるかな?」
「ひと月半は頑張れるんじゃない?」
私の決心は禁煙やパチンコ断ちとは違うんだぞ、失礼な。にやにやしている絵美と詩織を睨んだものの、私も自分で笑いがこみあげてきてしまう。
あーあ、しょうもない。
見上げた先の外灯に蛾が纏わりついているのが見えた。
外は寒いから湯船から湯気が立ち昇っているのが白くくっきり見える。
「あのさあ、紗紀」
おずおずと呼ばれて振り向くと、絵美は表情を一変させ深刻そうに眉根を寄せて私を見ていた。
「あんたさあ、取り敢えず年下はもうやめなよ」
……年下が駄目とかそういう問題なのかな。
返事ができずにいると、詩織が目を伏せてのんびりと宣った。
「紗紀ちゃんはあ、結局、佐藤くんが好きなんだよね」
「…………」
わかんないなあ。自分では。
ほんと情けない。
忘年会シーズンで平日の夜でも社長はてんてこ舞いだ。
「今日は六時にグランドホテルだからさ。忙しい、忙しい。あ、軍資金ちょうだい」
そのたびにキャバクラの領収書が増えていく。ほんとにしょーもない。
「ここの会社の忘年会は?」
「二十八日です。仕事納めの後」
廻し手形を貰って私が領収書を書いている間、弥生さんと由希ちゃんがおしゃべりしている。
「ボーナス貰えた?」
「ぶっちゃけ結構貰えました」
「いいなあ。私はもう還付金だけが頼りだよ」
「あれって損しなかっただけであって、得したわけじゃないんですから」
「そうだけどあれば嬉しいでしょ? お金」
「お待たせしました」
「ありがと」
領収書の入った封筒を受け取りながら弥生さんが笑う。
「金曜の夜って忙しい? クリスマス近いからデートかな」
「いえいえ」
「わたしも暇ですよ」
「じゃあ、飲みに行こうよ。そこの焼き鳥屋、予約しておくから」
「いいですね」
「行きます行きます」
ってな感じに仕事仲間で飲みに来てしまった。なかなか新鮮だ。
由希ちゃんがいちばんノリ良くて、てっきりお酒が好きなのだと思ったのに、彼女はビール一杯で管を巻き始めてしまった。
「弥生さんはぁ、林さんが好きなんですかあ?」
またそのハナシか。
「こだわりすぎ、由希ちゃんが林さんを好きみたい」
「馬鹿言ってんじゃねーですよ。わたしはですね、はっきりしないのがイヤなんですよ。もやもやしっぱなしはイヤなんですう」
絡み酒か。
「林さんも弥生さんもしらーっとしちゃって。やですねえ、大人は。言いたいこと言ってやりゃあいいじゃないですか」
「そうは言うけどさ、もうどうでもいいんだよ。今更蒸し返す方がもやもやしちゃうよ。そういうのはね、疲れちゃうんだよ、大人は」
優しく弥生さんが諭すのを、むーっと口を尖らせて聞いていたと思ったら、由希ちゃんはこてっとテーブルに突っ伏してしまった。
おーい。寝るんかい。
「いいよねえ、若い子は」
自分の上着を由希ちゃんの肩にかけてあげながら弥生さんは微笑む。
「そうですねえ」
何事も白黒つけなきゃ気がすまない、私にもそういうときはあった。
だけど世の中はグレーゾーンが多すぎて、それに納得した振りをしないと生きていくことさえ難しい。気がついたら自分の心もグレーに染まっていた。
曖昧に、あやふやに。それが心地いいときも確かにあって、毎日が楽しければいいのだと思い込んできたけれど。
ふと目が醒めれば虚しくなる。体の快楽と同じだ。地に足がついていない。
「紗紀子ちゃん、彼氏いるんだよね?」
「あ、多分別れると思います」
気まずくなってから圭吾くんからは連絡ひとつない。
「冷却期間じゃなくて?」
「私そういうのないんです。ダメってなったらダメなんです」
「それはよくわかる」
弥生さんはグラスをあおってビールを飲み干すと、マスターに焼酎を頼んだ。私もそれに倣うことにする。
「だからね、私も林さんとどうこうっていうのは、もうないなあ。向こうもそう思ってるだろうけど」
「見るからに女っけゼロですけどねえ、あのヒト」
「愛想がないからね」
苦笑いして弥生さんはシシトウをつまむ。
「でも男らしいとこあるよ」
「そうですかあ?」
「紗紀子ちゃんは優し気な年下が好きなんだよね」
「ええ、はい、まあ。それで失敗してばっかだから友だちに年下はもうやめろって言われちゃいましたけど」
「ははは。良い友だちだねえ」
ほんとに。
「紗紀子ちゃん、モテそうだもん」
「ぶっちゃけ引っかけるのは得意です。でも引っ張れないんですよね」
「ああ、うん。薄ーく長ーくね」
茶目っ気たっぷりに弥生さんが含み笑いしたので私は確信する。この人にはそういう相手が複数いるんだな。
横顔をじろじろ見てたら私の目を見て弥生さんはにたりと笑った。ああ、汚れた大人の顔だ。
「紗紀子ちゃんはあ、さらさらしすぎなんじゃないかな」
「さらさら? そうですか?」
「竹を割ったみたいな性格でしょ? ねっとりじわじわ囲い込むってことしないでしょ?」
確かに。それはできない。
「もっと、ねとねと絡みついて離れないってくらいじゃないと」
そう言われても。
思った私の顔を見て、弥生さんはけたけた笑い出す。
お酒まわってるのかな、この人も。
「カラダでどうこうじゃなくてね、情念で絡みつくんだよ」
情念とはなんぞや。
「ほらあれ、『天城越え』の世界だよ」
「そういうのはちょっと。楽しくないのはイヤだなあ」
「コドモだねえ」
そんなこと言われたの何年ぶりだろ。
「淡白とも言える」
俯いて弥生さんは上目遣いに私を見た。
「そういうとこ林と重なる」
「私がですか?」
ぎょっとして訊き返す。
いやいや、ちょっとそれは……。
「似たもの同士なにおいがするもん」
ぷくっと弥生さんは頬を膨らませる。酔ってるなあ、これは。
「うっすいんだよね、あの男は。感情が。何考えてるかわからないでしょう?」
蒸し返すの疲れるって言ったくせに。
「エッチは上手いけど、やっぱりどこか淡白だし」
やーめーてーくーだーさーいい。
思わず耳をふさぎたくなっているとトドメを刺された。
「紗紀子ちゃんもそうなんじゃないの? 年下彼氏くんたち、実はみんな寂しかったんじゃないの?」
驚いた。そんなふうに考えたことなかった。
「男だってバカじゃあないからね」
くつりと笑って弥生さんは頬杖をつく。
「そうは言ってもバカな男が好きなんだけど、私もさ」
弥生さんはオトナな女の人だ。そりゃあ私はまだまだコドモに見えるんだろうな。
それはなかなか嬉しい発見だった。
土日も圭吾くんから音沙汰はなかった。
絵美も詩織もそれぞれお付き合いに勤しんでいるから、私は久々にひとり静かな週末をすごした。
クリスマスも至って呑気に普段通りに時間がすぎた。
出勤すれば年末年始の調整に忙しい。これが一段落すれば、ぱったり落ち着いて正月気分になだれ込むのだけどな。
元旦には実家に顔出さないとなあ、嫌だなあ、なんて考えながらファックスを送っていたら、工場の方から地響きのような音が聞こえてきた。
ちょっと普通の音とは違う。はっと顔を見合わせて由希ちゃんと私は工場を覗きに行った。
カートから少し浮いた位置で、クレーンで吊り上げた鉄骨が崩れて傾いている。まずい。
ヘルメットを被った社員さんたちがわらわらしている中で、林さんが樋口さんという従業員さんの体を横たえていた。
下敷きになったわけではない。見たところ意識もある。だけど立ち上がれないようだ。
「救急車は!?」
「呼んだよ!」
工場長の鈴木さんの返事を聞き私は通りの方へ向かった。救急車を誘導するためだ。
救急車が到着して運び込まれた樋口さんに同行しようとしたけど、林さんに止められた。
「俺が行く。いろいろ書類がいるだろ。揃えて後から持ってきて」
頷いて私は林さんと交代し、樋口さんの保険証のコピーや諸々の書類を準備してから、由希ちゃんに留守を任せて近くの総合病院に向かった。
大きな病院だから手続きをするにも大分待たされる。
待合室でイライラしていると、外出していた社長も駆けつけて来てくれた。
「紗紀子ちゃん。大丈夫?」
「いや、大丈夫じゃないのは樋口さんで。診察室の方、行ってもらえますか? 私ここで待ってなきゃならないんで。林さんが一緒にいると思います」
「はいはい。了解」
その後、ようやく会社名を呼ばれて窓口で説明してもらう。
その間に杖を突いた樋口さんと社長たちが連れ立って来るのが見えた。
社長が小さく私に向かって手を振り、樋口さんを連れて外に出ていく。おそらくこのまま自宅に送っていくのだろう。
残った林さんが待合ロビーの椅子に座るのが見えた。
よく見たら作業着の胸元に血のような汚れが付いている。着替えを持ってきてあげればよかったかな。
すべてが終わって、そばに行くと林さんは目を瞑っていた。
「終わりましたよ」
「うん」
「林さんの営業車で来たんです」
「そう。カギかして」
自分が運転するということらしい。
先に立って自動扉から出た林さんは、外の空気を吸うなり大きく肩で息をついた。
「やっちまったな」
「そうですね」
紛うことなき労災だ。落ち込むのは当たり前だ。
だけどこうやって林さんが感情を露わにするなんて驚きで。
私もつい顔に出してしまったらしく、それに気づいた林さんが唇の端を上げた。
「前から思ってたんだけど、君たちって俺をなんだと思ってるの?」
いやあ、それは。
弥生さんから聞いた「淡白」って言葉を思い出したけれど、
「えーと。クールな人、ですかね」
少し言い回しを替えて答える。
ふんと鼻を鳴らして林さんはごきごき首を回した。
「俺だって、これでも色々感じてるんだけど」
そりゃ、そうでしょうけども。
「表に出さないことをそう言われたって、人は気づきませんよ」
言葉や態度に出してくれなきゃ気持ちなんてわからない。
「それが面倒なんだよな」
そう言うあんたがメンドクサイよ。
「苦手なんだ。感情を表に出すって」
駐車場に向かいながら林さんがぼそっと言葉を落とす。
「なのに時々、叫びたくなる」
「はあ。それなら、叫んじゃえばいいじゃないですか。力いっぱい」
「どこで? 例えば今ここで叫んだら通報されるよね」
うーむ。現代人は叫ぶ場所にも事欠くわけか。
「山とか、海とか。学生のとき海で、バカヤローってやりませんでしたか? うちらはやりましたよ」
「阿保でしょ。君たち」
ムッとして私は嗤って言い返す。
「そうですか。じゃあ、いい大人の林さんは、世界の中心で愛でも叫べばいいんじゃないですか?」
林さんはむっつりと黙り込んだ。
それからは一言も口をきかないまま会社に戻った。
やっぱり嫌いだ、この人。
 




