第1話 年下の男
「紗紀子ちゃあん。この見積もり頼むよ。急ぎだってからさ」
ああん? 終業間際になって分厚く折りたたまれた図面を持ってきた社長を、私は思いきり睨みつけてやる。
もちろんそんなことで怯むようなオヤジじゃない。
「新規貰えるかどうかの瀬戸際なんだよ」
「これ他所でやったことありますよね。履歴も材料費も商品台帳に入ってますから」
自分で調べろ。エクセル開くくらいのことできるだろ。
「頼むよ。ものの五分でできるでしょ」
ちきしょう。
「特急料金は?」
「どうせ買い叩かれるからなあ。最初は三割増しで」
「了解です」
わさっと図面を広げ図面番号と名称をチェック。
台帳で検索をかけながら画像ファイルを立ち上げて履歴と差異がないかをチェック。
一応鋼材手帳を開いて時価に変化がないかチェック。
見積書のテンプレートを開き、社長が置いていった名刺を見ながら相手先の情報を入力。
材料費、機械加工費、溶接費。それらの定価を少しずつ水増しして合計単価を出す。
オンラインでプリンターに相手のファックス番号を入力して送信。
背後のプリンターで作動音を確認。よし。
と同時に終業のチャイムが鳴った。図面を畳んで見積もり済みのスタンプを押している間にプリンターから送信済みの通知音。よし!
私はパソコンを立ち下げる。
「じゃあね。由希ちゃん」
向かいのデスクの後輩に声をかけると甘ったれた嬌声があがった。
「ええー。これ手伝ってくれないんですか?」
「やなこった」
いつもだったら手伝ってあげなくもないが今日ばかりはそうもいかない。
「デートですか? いいなあ」
「三週間ぶりなんだよ。帰らせて」
「しょうがないですね」
なんであんたが上から目線なんだよ。思ったけど時間が惜しいからスルー。
事務服の上からパーカーを羽織って鞄を持つ。
社長の姿は既に消えているし営業さんはまだ帰って来ない。私はもう一度由希ちゃんに手を振っていそいそ事務所を出た。
事務所脇の喫煙スペースで一服している現場のおじさんたちにも挨拶。
駐車場まで走って自分のクルマに乗り込む。
急いで自宅に戻って着替えて今度はバスで駅前まで出なければならない。忙しい。忙しい。こういう忙しさはもちろん楽しい。
にまにま笑いをもらしながらウィンカーを出して駐車場の出入り口から左右を確認していると、ちょうどうちの営業車が戻ってきて運転席の林さんと目が合ってしまった。気まずい。
私は緩んだ口元を引き結んで会釈したけど、林さんはそしらぬ顔でこっちのクルマが出るのを待ってくれている。まったくもって小憎たらしい男だ。
私はもう一度会釈してから駐車場を出た。
頑張ったけど待ち合わせの時間より少し遅れてしまった。
駅の改札前に小走りに辿り着くと、私の姿を見つけた祐介が見えない尻尾を振りながら駆け寄ってきた。
「ごめんね。待たせた」
「ぜんぜん。仕事は大丈夫だった?」
「楽勝」
にこにこと手を繋ぎいつもの居酒屋に移動する。
「生中ふたつ!」
何はともあれビールだビール。それと軟骨。
すぐさま運ばれてきた冷えたジョッキを打ち合わせて乾杯してから一気にあおる。
「んーっ。生きてて良かった」
「お疲れ様」
なんとも気の抜けるほわほわした笑顔で祐介が私の顔を見る。カワイイぜ、ちきしょう。
年下の可愛い彼氏に骨抜きってどうよ、と自分に突っ込みつつ、でも癒されるんだからしょうがない。
もともとは祐介の友だちが私の友だちをナンパしてセッティングされた合コンで、私たちは知り合った。
友人同士と同時に私たちも付き合い始めて、結局は友人たちの方はすぐに別れてしまった。
「しょうがないよ。あいつ軽いからさ」
「まあねー。あの子も我儘だし」
友人をこき下ろしながら私たちはまあまあ上手くやってる。
「サキコさんは大人だからなあ」
そりゃそうだよ。大人だもん。
「我儘とか言ってくれたことないし」
軟骨の唐揚げをつまみ上げて祐介の口に入れてやりながら私は苦く笑う。
それはね、祐介君。私は男に多くを求めないからだよ。
こうやってたまに会ってそこそこ楽しい時間がすごせればそれで充分。あなたみたいなぺーぺーにブランド品をねだろうなんて思ってないから安心しなよ。
口に出して教えてあげることでもないから、もちろん私は黙ってる。
「祐介は仕事どう? ぼちぼち慣れた?」
彼はこの春に地元のIT企業に入社し、研修でさんざんあちこちの部署をたらいまわしにされた後、ようやく配属先が決まって落ち着いたところらしい。
「うん。同期のやつらみんな一緒だから気が楽。なんか来月からバラバラに出向させられるみたいだけど」
「ああ、そうそう。プログラムの仕事ってあちこちの企業に行かされるんだってね」
「しんどいなー」
「社会人なら慣れないとね」
ずっと同じ場所でのんべんだらりと働いてる私が言うことでもないけどさ。
取るに足らないおしゃべりをしてビールを二杯飲んだ後はお楽しみの本番。いつものホテルのいつもの部屋に入る。
自分で言っちゃうけど私はセックスが好きだ。味気ない毎日の中でこれがいちばんの気分転換といってもいい。かといってそればかりになるのも怖いから、祐介との今の頻度は丁度よくてとてもいい。
更に年下彼氏のいいところは主導権をこっちが握れるということ。
「サキコさん、もうやばい……」
「まだ駄目」
まだまだ私は満足してない。何せ三週間ぶり。今日ばかりは手加減しないよ。
とはいえ、明日も朝から仕事でお泊りできるわけでもない。体がしんどくなるのはいやだなあ……なんて男の上で考えたりするオンナってどうよ?
でもさ、どうしたって現実的なこと考えちゃうんだよ。
若さの最盛期をすぎて社会的な責任ってものまで身に染みてわかり始めた今、無茶はできないんだよね、やっぱり。
今日は体調も良いし楽しみにしてたけど仕方ない。
二回戦三回戦はできそうにないから最高の一回にするべく準備を整える。
良い感じに高まってきたところで、体の位置を入れ替えて私は祐介に許しを出した。
「いいよ、動いて」
なんだかんだで色つやよく翌日出勤すると由希ちゃんににやにや笑われた。
「楽しかったみたいですね、昨日」
「まあね」
始業時間まではコーヒーを飲んだり、スケジュールの確認に来る社員さんたちとおしゃべりをする。
やがて定刻になって簡単な朝礼の後、業務が始まる。
届いたファックスを確認していると、昨日終業間際に送信した見積書にオーケーが出て注文書が届いているのがわかった。
「うひょー。言い値でオーケーなんですか? これ」
思わず声をあげてしまったら、奥のデスクのモニターの影から、社長が顔を覗かせのほほんと眉を上げた。
「そ。いい会社でしょ」
「さらっと割り増ししておいたんですよね。アコギですよねえ」
したり顔で言う由希ちゃんに社長は鼻を鳴らす。
「馬鹿言うんじゃないよ。適正価格!」
「じゃあ、材料手配しますよ」
「うん。多分継続して注文くれるだろうから向こうの経理と条件確認してね」
「あー、てことは、二回目三回目で買い叩かれるパターンですかね」
「苦……っ」
由希ちゃんの突っ込みにぐうの音も出ず、社長は顔を引っ込めた。
午前中は通常業務をこなして平和に時間がすぎた。
お昼は由希ちゃんも私もお弁当だから机の上でそのまま食事を広げる。
スマホでニュースをチェックしながらコーヒーを飲んでいたら、メッセージが届いた。祐介からだ。
内容を見た私はうーんと眉根を寄せて頬杖をつく。
「どうしたんですか?」
ファッション雑誌から顔を上げて尋ねてくる由希ちゃんの可愛らしい顔を見つめて、私は少し考える。
「彼がね、今夜会いたいって」
「へえ、嬉しいじゃないですか。いいですよ、定時で帰っても」
だからなんで、あんたが上から目線なんだよ。思ったけど私は無言で眉間を揉む。
「あれ? 紗紀子さん? 浮かない顏ですね」
「予感がする」
「は?」
「昨日会ったばかりなのに。こんなこと初めてだよ。悪い予感しかしない」
「またまたー。何言ってんですか! ラブラブな彼氏が急に会いたいとかって、ラブラブな証拠じゃないですか。のろけですか」
違うんだよ、お嬢さん。
こういう呼び出しは往々にして別れ話の前触れなんだよ。そうでなければ金貸して、とかね。昨日の様子からしてそれはない。
ということは、
「女かあ」
「へ?」
今夜は修羅場かもしれない。
デートなわけではなさそうだから、会社帰りにそのまま待ち合わせのファミレスに向かった。
思った通り、祐介の隣には彼よりもっと若く見える女の子が座っていた。
「えーと、はじめまして?」
話のとっかかりに一応挨拶した私に、その子は凄い目を向けてくる。あらら、可愛い顔が台無し。
姿を見たときから見当はついていた。
祐介の同期入社のメンバーの中に一人だけ短大卒の女の子がいて、男子から姫って呼ばれてチヤホヤされてるって聞いたことがある。
どうやら祐介もチヤホヤしていたひとりのようだ。まあ仕方ない。男なんてそんなもんだよ。
「祐介さんと別れてください」
あらら、単刀直入だな。嫌いじゃないけど。
「彼は私と付き合いたいんです」
ほう。それは初耳だ。
「あなたは邪魔なんです。ここで彼と別れてください」
精一杯凄みを利かせて睨んでくる彼女から視線を流して、私は隣の祐介を見る。首が曲がってしまうんじゃないかと思うほど顔を俯けている。心なしか目元が光っているような。
人生初の修羅場かね? まあ、別れるくらいやぶさかではないけれど。
「あなたみたいなオバサン好きなわけないじゃないですか」
なんつった今。これは怒っていいよね、ワタシ。
穏便に事をすませようと思ってたところなのに、なんでこう一言多いかな、若い子は。
黙ってられないんだろうな。威嚇するのに精一杯なんだろうな。
あのね、私みたいなオバサンがあんたみたいなコドモ相手に本気になるわけないでしょうが。
思ったけど教えてあげる義理はない。
私は黙ってスマホを取り出してリストというリストから祐介の名前を消した。
「これでいい?」
彼女は、じとっと目を細めて私を睨み続けたままこくんと頷く。
祐介は相変わらず俯いたままだ。
「そんじゃ、サヨナラ」
食事もしないで水だけ飲んでファミレスを出た。
はあ、何やってんだか。
「はあ? それであんたが引き下がったの? 何やってるのさっ」
日帰り温泉施設の露天風呂に浸かりながら私の話を聞いた絵美が、頓狂な声を出す。
「絵美ちゃん、しーっ」
外には私たちしかいないとはいえ、響き渡る声に詩織が顔をしかめて指を口に当てる。
絵美は素直に口に手を当てこくこく頷いた。
「だってさあ」
顎まで湯船に浸かって私はもごもご言い訳をする。
「そんな戦って勝ち取るほどの相手でもなかったしねー」
「言っちゃったよ」
「好きじゃなかったってことだねぇ」
のんびりずばっと言う詩織に、私は口を尖らせる。
「そんことない。好きだったよー」
「はいはい言うこと聞いてくれて、ラクだったんだよね」
「ぐ……っ」
なにさ、年下男の利点はそこに尽きるでしょうが。
「にしてもちょっとは言い返せばいいのに。そのナマイキ女に」
もどかしげに頭の上のタオルを締め上げる絵美に、私はもう一度苦笑する。
「カン違いをお説教してあげるほど、私は優しくないよ」
あのままカン違いで突き進んで思いきりけつまずけばいいのだ。世の中も男女関係も、あの子たちが思ってるほど甘くはない。
「紗紀ちゃんはー、めんどくさがりだからね」
その通り。私はめんどくさいのはキライだ。男のことで戦うなんて、いちばんメンドクサイ。だったらどうぞどうぞと譲って歩く。
「戦う価値のあるオトコなんか、そうそういないよ」
「その通り」
「至言ですなー」
女三人でまったり湯船に浸かるこのときも、私にとっては極楽だ。
「あんたがフリーになったんならさ。合コンしようぜ、合コン」
「そうだねえ」
「よっしゃ、舞に連絡! ハイスペック男子を紹介してもらおう」
舞というのはうちらの同級生。某テレビ局勤務であらゆるコネを持つハイパー女子だ。
「舞ちゃんは駄目だよ。婚約したから合コン女王は返上だって」
「あの女は自分が幸せならそれでいいのかっ」
「それより静香ちゃんが仕事辞めるんだって」
「N大の実験助手だっけ? 給料良いって羽振り良かったじゃん」
「その分たいへんだったんじゃないかな。なんかね、退職の前に同僚男子をばら撒いてくれるって」
「そのハナシ乗った!」
「絵美ちゃん。しーっ」
ふたりの会話を聞きながら私はうとうとと眠たくなってくる。
うん。幸せだよね、こういうのがさ。