婚姻編
ガイストが正式にプロポーズをして婚約指輪をプレゼントした次の日に、ルンは自室を後宮へと移し、進んで街中へ出るようになった。
更には、友達以上恋人未満だった二人の関係が、ルンの中で一気にLOVELOVEファイヤーへと上り詰め、ガイストにベッタリとなってしまった。
それまでは下手くそながら元貴族令嬢とした口調や振る舞いが「そのまんまのお前が欲しいんだ」というプロポーズの言葉で、庶民同然、いや庶民すら引いてしまう程にあっけらかんとした物にもなった。それは転生前の仲間内での一般ピーポーと全く同じ。
時にはまだ発展途上中の街中で「何でRPGパートがメインになってんの。てか、RPGを通り越してリアル桃○やシ○シティみたいなSLGになってんじゃないの。私が思い描いてた乙女ゲームじゃない!」と皆が理解出来ない言葉を使って騒いだりもしたので、完全な素のルンに付いていける者は、やはり同じ転生者で一般ピーポーだったガイストぐらい。
エメルダの淑女教育もキチンと受けてはいたが、今の鎖国状態では成果を披露する場面が殆んど無かった。
これがガイストが社交界でのルンにヒヤヒヤさせられていた原因である。
それでも、元々上下関係や礼儀に疎いガイストの仲間達、魔物達は、ルンの砕けた態度に好感を覚えるようになっていった。
確かに彼等からしたらガイストやルンは頭を垂れるべき主ではあるが、どちらかというと苦楽を共にしている我等のリーダー、自分達を世界の中心地から解放してくれる恩人、仲間という意識の方が強かったのだ。
ただ国主だというだけなら彼等の忠誠は薄っぺらい物になっただろう。けれど人間よりも純粋な心を持つ魔物達は、恩人や仲間には協力したいという思考が働いたのだ。
これこそが、デンジャラス公国が強固な一枚岩となった理由の一つでもある。
それからも目まぐるしく日々は過ぎていき、遂に建国式典並びに叙爵式、そしてガイストとルンの婚姻式の日が訪れた。
先ずはガイストとルンの婚姻式を行い、そのままデンジャラス公国建国式典、叙爵式と続けられる。
デンジャラス公国国主夫妻の誕生の後、直ぐ様二人によってデンジャラス公国建国宣言が行われるのだ。
それ等の式典が開催される場所は、オリジナル予言の石碑が安置されている神の神殿。
純白のウェデングドレスを身に纏ったルンは、神殿にある一室で、レダを初めとするオーグレスやバンシーの侍女達に囲まれていた。
先程までエメルダもいたのだが、婚姻式の準備の為に一足先に会場入りをしていた。
そんな中、ルンの表情は曇っていた。
マリッジブルーや緊張からではない。ここに来て『また聖女の力に目覚めなかったらどうしよう』と思い悩んでいたからだ。
その不安を緊張からくる物だと勘違いしたレダは、花嫁ルンの心を解そうとする。
「ルン様、いや、もう大公妃様ですね。本当に御綺麗です。大公様には勿体無い」
「フフ、有り難う、レダ」
微笑んでみせるルンだったが、逆にレダの気遣いがより不安感を増してしまう。それは、レダがオーグレスという理由もあった。
レダは聖女の力など関係無いと言ってくれた。人間である自分に付き従う最初の魔物の侍女にもなってくれた。
だからこそ、オーガ達に与える約束をしている東の不毛地帯の事を考えてしまう。
オーガ達が、聖女の力に目覚めなかったルンを許してくれたとしても、ルン自身が自分を許せないのだ。
実際に、実務的に自分は今の今までデンジャラス公国に対して何の役にも立っていない。
ここに来て、そんな思いが沸き上がって来ていた。
暗く沈んだ雰囲気を出しているルンに、侍女達もどうしようかと目線だけでオロオロしていると、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「はい、何方ですか?」
「俺だ、ガイストだ」
尋ねたレダが扉を開けると、其処には本当にガイストが立っていた。
ガイストも既に新郎として国主として、純白の礼服を着こなしている。
「母上がずっとルンを心配していてな。代わりに俺が様子を見に来た」
レダより室内へと通されたガイストに顔を向けたルンは、見惚れてしまう。
「カッコ良い……」
「お前も見事に化けたな~。じゃなくても十分可愛いんだから、離縁したアーサーの気が知れないぜ」
「あ……ありがと……」
今日も何時も通りのガイストに、ルンは少しホッとする。
けれど、ガイストとしては「当たり前だろ、私を誰だと思ってんだ」ぐらいの返事が笑いながら来ると思っていたので、ルンが心細くなっている事に気付いた。
気丈に振る舞ってはいるが、その表情には影が過っている。
全てを察したガイストは、その場にいる侍女達全員に指示する。
「お前等、悪いけど暫くの間、俺とルンの二人だけにしてくれねぇか」
何時もは飄々とした態度のガイストが真面目な顔をしている。
侍女達はガイストの真剣さを理解した。
「畏まりました、大公様。ルン様をお願い致します」
「おう、任せろ」
レダの了承で、侍女達は順に腰を折り新婦の部屋から退出していく。
後に残されたのは、ルンとガイストだけになった。
ウェデングドレス姿のまま椅子に座るルンの対面に移動したガイストは、自分も椅子に腰を下ろし、前屈みになる。
「ルン、ヤッパリ不安なのか?」
「……うん」
返事と共に小さく俯く。
「ヤッパ聖女の力に目覚めなかったらどうしようと考えちゃう……そうなったら、ずっと私は役立たずのままだし……」
予想通りの応えに対して、ガイストは予想外な言葉を返した。
「ルン、俺も元々は役立たずなんだよ」
「えっ?」
「ゾルメディア帝国の馬鹿皇子って意味じゃないぜ。転生前の俺は、良い歳になってもずっとフリーターだったんだよ。それが悪いとは言わねぇけどな」
ルンはガイストに、転生前は田舎の女子高生をしていたと明かしたが、ガイストは転生前の生い立ちをあまり明かそうとはしなかった。
そこを問い質しても普段饒舌なガイストが、何時も言葉を濁すので、天然のルンでも『家庭環境に何か問題があったのかな?』と思い、尋ねなくなっていった。
隠されたガイスト転生前の事情が、今紡がれようとしている。
「俺の周りもそんな連中ばっかだったんだよ。まぁ、俺はフリーターだったけど、ちゃんと定職を持ってた奴もいたぜ。それでも、何時まで経っても結婚しないで気の良い仲間達とずっと連んでいる馬鹿な野郎連中ばかりだ」
「アハハ、今と全然変わんないじゃない」
ルンが笑った事でガイストも少し頬が緩んだ。
「そう、今と変わってねぇんだよ。けど、前の世界でもこの世界でも、そんなのは放蕩者にしか見えねぇだろ?」
「う~ん、私は早く死んじゃったし、お兄ちゃんも大学生だったら良く分からないけど」
「世間一般的にはそうなんだよ。しかも俺の両親は二人共、学校の先生だったしな」
「ええ! アンタの両親ってそんな真面目な人だったの!?」
何時もスッ惚けているガイストの中の人の親が教師だった事に、ルンは素で驚いた。
「ああ、しかもガチガチの昔気質で、親父に至っては校長だったからな。だから子供の頃から成績が悪く、何時までも定職に付かないでフラフラしている俺は余計に疎まれてたんだよ。ハッキリ言われたぜ「何故、私達からお前のような出来の悪い子が産まれたのか分からない」ってな」
「そんな……確かに親としては子供の将来が気に掛かるのは分かるけど、そこまで言うなんて……」
転生前も転生後もアーサーの魅了に掛けられるまで、優しい家族の中で育ったルンには、転生前も転生後も両親に恵まれなかったガイストの心情は計り知れない。
それでも、親が子に放った心無い言葉に疼いた。
「それに俺は、物事に潔癖な性格でもあったからよ。勤め先で契約内容と違う仕事をさせられそうになったら「そんなのは俺の仕事じゃない」って、よく突っぱねてたからな」
「それって正論じゃない?」
「その通り、正論だ。けれど、バイトや部下の正論は会社や上司の胸先三寸で反抗として受け取られしまう。結局は俺の方が仕事をしない悪者にされてしまうんだ」
「そんなの貴族が振るう横暴な権力と一緒じゃないの」
「そうだな。だから俺は仕事が長続きしなかったんで、ずっとフリーターだったんだ。親も「良い加減大人になって我慢しろ」と何度も言ってたぜ」
確かにガイストは、立場が上の者が有利になる暗黙の了解等を嫌っていた。
故に、デンジャラス公国では事前に指示された内容から逸脱したサービス残業、嘘の仕事は絶対に許されなかった。ただ、事前の契約通りの内容で、労働者も前もって了承したのなら長時間労働や低賃金でも構わなかったが。
仕方無く契約外の労働となってしまうのであれば、ちゃんと労働者の許可を取り、最初に契約した三倍の賃金を払うようにも法整備した程だ。しかも、労働雇用契約違反の通報が無くとも順次抜き打ちや潜入調査等の査察も行っていた。
その際に、違反が見付かったブラックな商会や商人には、後悔する程の罰則が与えられる。
デンジャラス公国では、領主に対する脱税や癒着よりも、労働者保護違反した方が何倍も厳しかった。
ガイストは、転生前の世界で思い通りにならなかった仕事の鬱憤を、デンジャラス公国に全てぶつけていたのだ。
「確かに親の言う事も分かるけどよ、俺は泣き寝入りが出来ない質だったんだ。我ながら損ばかりの人生だったぜ」
「……うん」
「そんでまた、俺の妹が完璧超人でよ。俺と違って子供の頃から成績優秀で顔も良かった。最終的には国立大学法学部卒のエリート敏腕美人弁護士になっちまったもんだからよ。人脈も半端じゃなかったぜ。ホント、よく親からも親戚達からも比べられたもんだ。馬鹿兄貴と出来た妹ってな」
「…………」
自分の事を役立たずと言ったガイストの真意を悟り、ルンは何も言い返せなくなってしまった。
状況的には皇子だった頃のガイストとアーサーとの関係に似ている。しかし、ルンの思いに反してここからが違っていた。
「でもよ、そんな妹だけが俺を認めてくてたんだぜ」
「……えっ?」
「確かに妹は完璧超人だったけど、オタクで腐女子って奴でもあったんだ。それも筋金入りのな」
「そんなに頭が良くて弁護士なのに、オタクだったの?」
「おうよ。同人誌即売会場や、オタクなイベント会場では猫耳付けたハイレグコスプレも当たり前。しまいには自分でBL同人サークルを作って大手にもしちまいやがるしよ。そんなところでも天才的頭脳を発揮したんだ」
「……無駄に凄いわね」
ルンとしても、エリート弁護士なのにオタクだという事に偏見は無かったが、妹の持つ凄まじいまでの行動力とバイタリティに賛美よりも、軽く呆れてしまった。
ガイストは更に、この世界と自分の妹についての説明をする。
「男の俺が[レジェンド・オブ・モニュメント]を知ってたのも妹の代わりに激ムズRPGパートをバトってたからだよ。俺もそれなりに漫画やゲームが好きだったけど、妹程じゃなかったしな」
「変わった妹さんね」
「変わってると言えば、俺が何度か理不尽な理由で仕事をクビになった時も、進んで相手方に法的制裁をくれてたな「リアルざまぁ」とか「お兄に入った慰謝料からマージン貰うんで、何の問題も無いでしょ」とか言ってたしな」
強烈キャラな妹の素性を聞かされたルンは、転生前の兄妹だからか、何故か妹にガイストと重なる物を感じた。
そんな内心を知ってか知らずか、ガイストはニンマリと笑う。
「ガチガチで古い考えをしている両親は、オタクにバリバリ偏見があったし、美人で通ってる娘が際どい格好でコスプレしてりゃ物申したくなるけど、弁護士の妹が「アンタ等の求める物は全て手に入れたし成人して自立もしたんで、誰からもガタガタ言われる筋合いは無い。それでも親だからという有りもしない免罪符を振りかざすなら法的に戦うか?」って言えば何も言えなくなる。親は子を養育、保護しなければならない法律はあるが、犯罪でもない子の趣味を規制して良いなんて法律は無いからな」
「アハハ、ヤッパリガイストの妹っぽい~」
ルンは笑って応えたが、この後に続く話はそれどころでは無かった。
「妹は子供の頃から漫画やゲームを嫌う親を分かっていたんで、自分の好きなオタク趣味を禁止されない為に勉強も運動も頑張ったし、六法全書もよく読んでたんだ。実際中学の時、勝手に自分の漫画とゲームを捨てた親を訴えたからな」
「なにそれ!」
「親は勝手に捨てた事を謝りもしないで「いい加減、幼稚な物から卒業しろ」つったんだよ。それに妹がガチギレしたんだ」
「いや、キレるにしたって…」
「裁判所から届いた書類を見た親父は、怒り狂って妹を殴っちまった。すると今度は、診断書を取って暴行罪でまた訴えちまった。流石にそこまでやられちゃ親も頭を下げるしかねぇだろ。結局、捨てた漫画とゲームを買い直し、結構な額の小遣いを渡して示談にしたけどよ」
苛烈な妹の腹黒さを知るガイストは、声に出して笑う。
「フッフッフ、ウチの親は先生なのに下手すりゃ自分の子供を虐待したって前科が付いちまうだろ。そうなると親としても教育者としても失格の烙印を押されてしまう。校長どころか教師という職すら追われてしまうのは目に見えている。妹もそれを分かってたから、全部自分一人で親を訴える手続きをしちまったんだよ」
「……中学生女子のやる事じゃない」
「でも、両親としては、娘に下手なちょっかい出さなけりゃ自分達の嫌うオタクでも、文武両道、品行方正で美人な完璧超人。それだと親としても教育者としても株は上がる。俺が馬鹿で役立たずだったから余計にな。だから訴えられた一件以来、妹にはあれこれ干渉するのを止めたんだよ」
「……そんな凄い妹さんが、何でガイストを認めてたの?」
ルンの問いに、ガイストは昔を懐かしむような憂いを帯びた。
「俺は両親と違ってオタクにも腐女子にも偏見が無かったから、よく妹のコスプレやサークルの手伝いをしてたんだよ。すると、こんな俺にちょっとしたデザインや絵の素質が備わっている事に気付いて重宝してくれた。ちゃんとサークルメンバーとして売上げを分けてくれてたんだぜ」
「両親じゃなく、妹さんが一番早くガイストの才能に気付いたの?」
「そうだ。俺は俺で妹の影響からか何時の間にやら頭の中にオタクな知識が詰まってたんで、男なのに腐女子達に混ざってサークルを盛り上げてた。俺は学校の成績は最悪だったけど、妹にしてみりゃそんなのは関係無い。妹にとって俺は、オタクな本当の自分を認めてくれる家族であり仲間だったんだよ」
「……家族で仲間」
思わず、自分で口にした言葉が、自分の心に響き渡る。
「それに妹は、俺の潔癖な性格からくる正論が好きだったみたいなんだ。と言っても法律は全部が全部正論じゃない。けど、それすら法の抜け道や矛盾を駆使して法的にも正論にしてしまってた。だからこそ敏腕だったし、相手方の弁護士も俺の弁護をしているのが妹だと知った瞬間、直ぐに元勤め先と相談して破格の示談金を持って来てたしな」
「ってか、妹さんて何者?」
「俺もそこまで詳しくは知らねぇけど、さっきも言ったみたいに、若い頃からオタク仲間や弁護士仲間を通しての人脈が国内外、政界、財界、裏社会問わず半端じゃなかったんだよ。だから下手に妹に逆らうと俺がクビになった会社どころか、親会社そのものが社会的に抹殺される程の影響力を持ってたみたいなんだ」
「……本当に何者かしら……妹さんの方が魔王じゃないの」
「だろ。そんで俺は、社会的に見れば塵芥でしかない。それでも妹は、自分の持つ能力と人脈を駆使して、態々屑みたいな俺の為にリアルざまぁをしてくれてたんだ」
ガイストの根底にあったのは、この妹への思いだった。
転生前の世界での世間一般的な認識では、社会的底辺をさ迷っている自分を、家族だから、仲間だからという理由で助けてくれていた妹の存在が大きかったのだ。
また、ガイストが狡猾なのも、権謀術数に長けた皇家の血と共に、自分のオタク趣味の邪魔をする者は親ですら許さないという苛烈で腹黒な妹が多分に影響していた。
それ等全てが、悪の力で仲間を守るガイストそのものでもあったのだ。
「最後は自分で弁護士事務所を構えるってんで、俺を正社員として雇ってくれたんだよ。事務所もサークルも女ばかりだったから、異性にチキンな俺は、男手の助手として何かと使い勝手が良かったからな。つってもイ○ポでもないし、童貞でも無かったぞ。ちゃんとノンケだからな」
「いや、聞いてないし……」
「何にせよ、これで長かったフリーター生活から漸くオサラバしたと思ってたら、いきなり災害で死んじまうしよ」
「えっ?ガイストは災害で死んじゃったの?」
「そうだよ。止せば良いのに、氾濫した河で溺れてた子供を助けようとして自分が溺れちゃ世話ねぇな」
これから自分の夫となる者の一度目の人生を聞いたルンは、道が開けるような感覚を覚えた。
元々は今の私と同じ役立たずだったガイスト。けれど、妹だけは兄の価値と才能を見出だした。
ガイストも自分に対して妹と同じ事をやってくれている。
親に恵まれていたとは言えないが、子供を助けようとして命を失ってしまった心優しさも合わせ持つ。
この人ならば絶対に信じられると確信した。
ガイストの全てを知ったルンは、屈託の無い笑顔で笑った。
「ウフフフフフ、ありがと、ガイ」
「よし、それでこそ俺の花嫁だ」
ガイストも笑顔に笑顔で応えた。
それから間もなく、遂にガイストとルンの婚姻式が始まった。
神殿内は満員御礼状態。式典最前列にいるグレンや、共に世界の中心地へ赴いた仲間達、叙爵予定の魔物達は勿論の事、後列には庶民の魔物達も神殿内に入れるだけ入っていたし、神殿の外にも魔物達が詰め掛けていた。
大勢の参列者達が見守る中、エメルダに手を引かれてバージンロードをゆっくりと歩いて行くルン。
レッドカーペットの先にある予言の石碑の前には、新郎のガイストが待っている。
そのまま、花嫁が花婿の元まで辿り着き、神官役を務めている宰相のラーズ公爵が婚姻式開会の宣言をする。
婚姻式は恙無く進み、夫婦となる宣誓も済ませ、その場に集っている者達が最も注目する結婚指輪の交換の時となった。
何故なら、ルンが聖女の力に目覚める時はこの時だと皆が思っていたからだ。
ルンもそうだと思っていたし、皆の期待も知っていたので、心臓の鼓動がはち切れんばかりに早鐘を打つ。
ラース公爵から差し出された結婚指輪は、派手な婚約指輪と違い、細いリング部分が黄金と白金になっている。
先ずはルンがガイストの薬指へと指輪を通す。
続いてガイストがルンの薬指へと指輪を通す。
その場にいる皆が固唾を飲んでルンの指を見守る。
無事ルンの指に指輪が収まった。にも関わらず、何も起こらない。
神殿内が静まり返り、化粧の下にあるルンの顔が真っ青になる。自分に何の変化も生まれない事を分かっていたからだ。
最悪の予想通り、ルンは今回も聖女の力には目覚めなかったのだ。
「……う……うう……」
幸せな筈の花嫁の顔が悲壮に歪み、瞳には涙が溢れてくる。
自分が聖女ではなくてもガイストは自分を大切にしてくれる事はルンにも分かっている。シュドウやオーガ達も笑って許してくれるだろう。
けれど、改めて皆に甘える事しか出来ない自分の不甲斐無さに涙せずにはいられなかった。
ルンは俯き、目から溢れ出る雫が床へと溢れ落ちる。
「う……う……ゴメンね……みんな……ゴメンね……ガイ……」
まだ左手を新郎に握られたままのルンはひたすら嗚咽する。神殿内にも重い空気が漂い、落胆の雰囲気が充満する。
しかし、その状況に反してガイストは不敵に笑った。
自身が持つルンの左手をそのまま引き、自分と密着させ、残った腕で悲しみの花嫁を抱き締める。
急な出来事に、ルンは目に涙を溜めたまま驚いて顔を上げた。
ルンの唇にガイストの唇が重なった。
瞬間、花嫁ルンと神殿内に異変が訪れた。
ルンの体が変化したのだ。その変化は、ルンと直接ルンを抱き締めているガイストにしか分からなかった。
けれど、神殿内は違う。壁や天井、果ては参列者の間を縫って、突然草が現れ急速に育ち、スイカズラ、薔薇、胡蝶蘭、オオキンケイギク、朝顔、ゼニアオイ、秋桜、アイビー、チューリップ、アザレア、山茶花、シネラリア、アネモネ、サルビア、桔梗、アゲラタム等といった色とりどりの花々が季節や気候に関係無く満開に咲き乱れた。
ルンも唇を奪われ続けながら、自分の中にある力の覚醒を全て悟った。
聖女の力、特殊魔法“豊穣”に目覚めたのだと。
神殿内が一転して驚きの喧騒に包まれる中、ガイストは長い長い口付けから、漸くルンを解放する。
「どうだ、間違い無かっただろ。聖女様」
まだ夢見心地のルンに、ガイストはニヒルに言い放つ。
しかし、格好付けたのも束の間、今度はキョドった顔をした。
「あれ? お前……何だか前より少し顔の雰囲気が変わってねぇか?」
「……へっ?」
「基本は同じなんだけどよ。それに、体のボリュームもアップしてるし」
「それは……」
ガイストが腰に回した腕を緩め、二人で改めてルンの全身を眺めると、コルセットの腰の部分には異常が無いのに、胸元ははち切れんばかりのダイナマイトバディになっている。
ウエディングドレスを来ているので外からは分からないが、それなりだったヒップもナイスボリュームな安産型となっていた。
元男爵令嬢ルンは、今まさに“聖女ルン”へと生まれ変わったのだ。
花嫁の変化に気付き始めた神官役のラーズ公爵、エメルダ、グレン、レダ、他参列者達も、再度驚愕の歓声を上げた。
それはルン自身も同様。しかし、彼女には自分に起きている異常事態の理由が何なのかを分かっていた。
「これが……私……?」
「何で聖女の力に目覚めたからって、姿形まで変わっちまうんだ?」
「どうやら聖女が勇者を産み易いように、特殊魔法豊穣が私自身に作用してるみたい」
「豊穣だと?」
完全に覚醒したルンは、自分の持つ力のなんたるかを全て理解していた。
「豊穣は任意であらゆる木々や草花を呼び育てるんだけど、私自身にも掛け続けられているの。つまり、私は女性として常に最高のコンディションにあるの」
「自分にもって事は、ディアナの魔法無効と同じなのか?」
「ええ、そうよ。しかも何時産んでも良いように、中々老けず、歳をとるのも遅いみたい」
「何だよ、エルフみてえじゃねぇか」
「アハハ、それ程じゃないけどね」
笑顔が戻ったルンを見て、ガイストも顔を綻ばせる。
「皆は指輪交換で聖女の力に目覚めると思ってたみたいだけど、俺は最後のキスだと思ってたぜ。なんたってメインエベントだからよ」
その言葉に対して、軽く顔を背けて囁く。
「……でも……キスぐらいなら……何時もしてたじゃない……」
ルンの言う通り、今日この日を迎える迄にも、二人は影に隠れてしょっちゅうキスをしていた。
ガイストがプロポーズしてからモストが産まれるまでの間が最もLOVELOVEファイヤーだった時期。普段、皆の前では天真爛漫で強気なルンもガイストと二人きりになった瞬間、ツンデレの片鱗を覗かせて直ぐにキスを強請っていた。
二人としては上手く隠れながらキスをしていたつもりだったが、所構わずしょっちゅうしていたので周りの者達からすればバレバレだったのだ。
故に、皆は婚姻式ラストプログラムとなるキスではなく、指輪交換の時こそ聖女の力に目覚めるだろうと思っていた。当然、キスの当事者であるルンもそうだと思っていた。
けれども、ガイストだけは違っていた。何の根拠も無かったが。
超美人花嫁に生まれ変わったルンは軽く口を尖らせ拗ねたよう恥ずかしがる。
文字通りの美形な乙女が可愛らしく照れている姿には、流石に奥手のガイストも我慢出来ないのか、再度腰に手を回して抱き寄せる。
「キャ!?」
軽い悲鳴を上げたルンの目の前には、イケメン新郎ガイストのメイン攻略対象者たる美顔がある
「それでもキスだと思ってたぜ。なんせ俺は聖女様の運命の伴侶、後に頂点を統べる者だからな」
あまりにもイケメン過ぎる台詞に、耳が顔が熱くなるのを感じてしまうルン。
それでも主導権を取られまいとして強気に演じる。
「な、なら早く頂点を統べて見せてよ」
「そう、急かすな。まだまだやらなきゃいけない事は山程ある。お前にも俺の勇者を産んでもらわないとな」
また更に、イケメン過ぎる台詞を吐いたガイストに、ルンのボルテージは上がりまくるが、それでも必死に冷静を取り繕う。
「そ、そうね。でも私はちゃんと聖女の力に目覚めたわよ。今度はアンタの番だからね。帝都から追放された負け組皇子様」
何時もの勝ち気で毒舌なルンが帰って来た事を心の中で喜ぶガイストは、やはり何時もの不敵な笑みを浮かべて甘く囁く。
「上等だ。なら聖女様には負け組皇子の大逆転を特等席で拝ませてやるぜ」
そのまま二人は、示し会わせたかのように同時に目を閉じて、再び唇を重ねた。
大輪の花々で埋め尽くされた神殿内からは、大歓声が鳴り止まない。
「「「「「「大公様!魔王様!ばんざーーーーい!! 大公妃様!聖女様!ばんざーーーーい!!」」」」」」
エメルダやレダといった侍女達は涙を流しながら喜び、グレンはニヤけながら二本指で甲高い口笛を鳴らし、その他の者達も晴れて国主夫妻となった二人に惜しみ無い笑顔と拍手を贈る。
神殿の外に屯している者達も、神殿内から沸き起こる喜びの絶叫を耳にして聖女復活に気付き、また新たな喜びの絶叫を木霊させる。
聖女復活を告げる歓喜の声は神が住んでいた神殿を皮切りに、どんどんと世界の中心地内で連鎖していった。
国主夫妻の情熱的で長いキスを最も間近で眺めている為、多少呆れながらも微笑んで手を叩くラーズ公爵の直ぐ後ろ。そこに鎮座する予言の石碑には、菊、アンチューサ、忘れな草が花開いていた。
この日、後のデンジャラス王国の前身となるデンジャラス公国と、魔王ガイストの妻である聖女ルンは、大勢の公国民に祝福されながら誕生した。
~~~~~~~~~~
そして更に四年半の歳月の後、聖女ルンは夫である魔王ガイストと共に、遂に世界の中心地から全世界へと飛び出したのである。
それ等の情報は東南北の大陸に遅れて西の大陸ゾルメディア帝国も席巻した。
魔王の伴侶が持つ聖女の力は本物。それは数多くの目撃証言からも周知の事実。聖女の美貌から繰り出される屈託の無い笑顔は女神の如く。
現に西の大陸以外の世界の中心地50キロ圏内は、文献に記されていた大戦以前の緑豊かな大地が広がり、魔物達も襲って来なくなった。
ピンクブロンドの髪に瞳の色から背丈に声、更には夫である魔王と仲睦まじく夫婦漫才を繰り広げ、尻に敷いている様や性格に名前まで、何もかもが五年前に冤罪を被せ投獄、処刑しようとした男爵令嬢と酷似している。
デンジャラス公国へと派遣された使者達の証言で聖女とは、やはりアーサーの一日だけの妻、元男爵令嬢ルンだったと判明。
そのルックスは昔の面影を残しながらも、絶世の美女へと変貌していたと報告された。
これでアーサーのみならず、隆盛を極めていたゾルメディアバブルは一気に弾けた。
皇家がニセ聖女だ、二人の皇子を誑かした稀代の毒婦だと罵った相手が、帝国建国の祖であり全世界の恩人でもある本物の聖女だったのだから。
慌てた皇家やアーサーを祭り上げている本国上位貴族達は、帝国内で情報統制をしようとしたが所詮は焼け石に水。この時点で別大陸から渡って来た者達の証言により、殆んどの帝国民に聖女の正体は、五年前ガイスト元皇太子と共に帝都を追放された元男爵令嬢ルンだと気付かれていたのだから。
こうなったらゾルメディア帝国上層部も形振り構っていられなくなった。
聖女は魔王に無理矢理妻とさせられていると公表。けれども聖女が魔王の腕に自分の腕を絡ませ、平気で街中をデートしている姿がデンジャラス公国内でしょっちゅう目撃されている。
国交樹立の条約と魔王の騎士達に守られた二人を襲える者など何処にもいない。襲って来るのはスレインとアーサーから放たれた暗殺者ぐらい。
それすらも、公国民となった魔物達の鋭敏な五感と人間以上の第六感によって意味を成さなくなってしまう。
暗殺者等は公国に一歩足を踏み入れた瞬間、狩る側から狩られる側になってしまい、結局は魔王一家に攻撃どころか近寄る事すら出来ないまま返り討ちにあってしまう。
デンジャラス公国では、魔物の庶民すらもが隠れた外敵を阻む盾であり剣。
つまり、魔王一家は公国内なら裏路地だろうが何処だろうが簡単に赴けるのだ。無限の資源を有しているので、公国内にスラムなんて物は当然無い。
実際に国主一家にも関わらず、庶民の友達や知り合いが山程いたのだから。しかも殆んどはタメ語で会話している。逆に貴族ばかりが敬語を使っていたぐらいだ。
それに、ルンの天真爛漫な素の笑顔、魔王であるガイストから鬼嫁、ツンデレと呼ばれている実状を知る者達からすれば、聖女が脅されているや洗脳さるているといった類いは全く感じられない。
市井でのフランクな姿を皆が見ていたからこそ、容姿や性格、魔王や公太后となったエメルダとの仲睦まじい聖女ルンの情報が刻名に伝わっていたのだから。
中には、態々遠回りして別大陸から公国へと商品買い付けに訪れた帝国の商人達もいた。彼等も無限の資源の凄さと共に、リアルに街中や無限の資源を彷徨く魔王一家の信実の姿と、庶民にも優しい人当たりの良さ、と言うか馴れ馴れしさを直に見て知って帝国内で触れ回っていた程だ。
それ以前に、ガイストとルン果ては当時の皇后エメルダまでもを追放したのはゾルメディア皇家と本国貴族達。
にも関わらず、聖女は無理矢理妻とさせられているというのは逆に無理矢理過ぎる。一応公式発表とされてはいるが、今更そんな戯れ言を信じる者など何処にもいない。
ならばと、今度は五年以上が経った今頃になって再捜査した結果、あの時の不義密通はガイストが広めた虚偽だったと公表しようとした。
だが、それに待ったを掛けたのがアーサーだ。
五年前の事件がガイストの虚偽だったなどと公表してしまったらニルス家からの通報も嘘だったという事になる。ニルス夫妻はルンとガイストとの逢瀬を目撃したと証言したのだから。
更には、そこから連座して当時のアーサーの企みも表に出てしまうかもしれない。
すると今度はダイアが掌を返す可能性が出てくる。
全ての裏側が暴露され、アーサーは皇帝になれなかったとする。
何らかの暗い理由で皇家を追い落とされ臣下に降爵、婿入りする者の息子に、ポーロ家の令嬢を差し出しても意味が無い。寧ろ、害にしかならない。
又は、本国貴族達に身限られたアーサーがポーロ家へ婿入りしてしまう可能性もある。そうなるとダイア直系の嫡男ではなく、皇家を追われた敗者が家督を継ぐ事態に陥ってしまう。
誓約書は、お互いがお互いの利益の為に相手側も持っているので、今更「貴方が皇帝になるならウチの娘や孫娘を嫁がせるが、婿入りは御免被る」などと言えない事はダイアも分かっている。
故に、ルンの冤罪が公表されれば、ダイアは一番最初にアーサーを裏切らないといけないのだった。
裏切りとは、当然ルンとガイストを嵌めたという情報の暴露。アーサーの疑惑を綴った書簡が属国貴族達の元へと届き、数多の属国監視の元、本当に再捜査が行われ、全てが白日の元に曝される。だからこそ、アーサーは必死で冤罪の公表を止めていたのだった。
スレイン皇帝も五年前の冤罪事件はアーサーの企みだと薄々感付いている。けれども疑惑の書簡や裏取引の事は何も知らない。
例え冤罪だったと公表しても、実際に再捜査した訳でもないし今後もするつもりは無い。全ての罪をガイストに被せれば良いだけなのだから。それでもアーサーは必死で止めに掛かるが、事はゾルメディア皇家の信用問題に関わる。
以上の事から、アーサーがどんなに権力を奮ったとしても残された手は一つしか無く、それを決断する時間も殆んど残されて無かった。
一方ダイアの方も、牢屋の中でのルンを思い出し、身動きが取れなくなっていた。
今更、聖女様万歳と叫ぼうがもう遅すぎる。本物の聖女に向かって本物の聖女を馬鹿にしたのだから。ルンに放った暴言は、魔王と呼ばれるガイストにも当然伝わっている筈。
更に、現状全てを鑑みると、ゾルメディア皇家の信用は下り坂、デンジャラス公家は何もかもが青天井の登り調子。
そんな中、遂にプロム王国が独立宣言を果たしてデンジャラス公国と手を組んだ。
弱小属国の貴族達と多くの親交があるポーロ家当主だからこそダイアは気付いた。プロム王国を皮切りに独立の連鎖は続く、ゾルメディア帝国は弱体化、魔王に目の敵にされている帝国は下手をすれば滅びると。
しかし今更、真の聖女となったルンと魔王ガイストに頭を下げても許される訳が無い。もしかすると魔王が弱体化したゾルメディア帝国に圧力を掛け、自分達を馬鹿にしたポーロ家を取り潰すかもしれない。もっと最悪な結末は、反逆等の冤罪を掛けられた末、分家寄子含む一族郎党処刑されるかもしれない。
それだけは絶対に阻まなければならないが、ダイアには切れる札が一枚しか無い。
そう、アーサーがルンを洗脳してガイスト追い落としに利用したという疑惑。疑惑は真実だと証明する口封じの為の誓約書も持っている。
これを持ってプロム王国へ亡命した後、魔王と聖女に頭を下げれば何とかなるかも知れない。
もう、悩める時間は少ない。アーサーを裏切るか、信じて付いていくか。
そんな人生を掛けた選択肢に苦悩するダイアよりも、相手の決断の方が早かった。
アーサーが暗殺者を使い、疑惑の書簡有無の一か八かを賭けてダイアを暗殺。家族も皆殺しにして、ポーロ邸を焼き払い全てを灰にしたのだ。
これにより、帝国本国下位貴族達や数多の弱小属国に多大な影響力を持つポーロ伯爵家は途絶えてしまった。
ダイア暗殺後、暫くは生きた心地がしなかったアーサーだったが、いつまで経っても何処からもガイストとルンを嵌めたという話は聞こえて来ない。
ダイアに何かあれば、疑惑の書簡を属国貴族達へ届けるとしたのは嘘だったと、胸を撫で下ろしたアーサーだったが、最早事態はその程度で済む範疇を越えていたのである。
アーサーが暗殺を決断したのは、プロム王国独立宣言並びにデンジャラス公国との国交樹立、軍事同盟締結を知った時。
属国が初めて帝国から独立したと知ったダイアが直ぐ様裏切る可能性が強かったからだ。
けれど、暗殺後も何も起こらない。当然、書簡の話は嘘だったとアーサーは思った。
実は、書簡は本当に実在していた。そして、本当に属国貴族達の手に渡っていたのだ。
だが、その時既にプロム王国の独立とデンジャラス公国の国力を見せ付けられていた数多の属国は、今更ゾルメディア帝国次期皇帝がどうなろうが知った事では無かったのだ。
それともう一つ。プロム王国の次の早い段階で帝国を裏切った先帝正室直系の子等が嫁いだ国々と、彼等と付き合いが有り、これから裏切ろうとする数多の属国が、アーサーの首を手土産にしようとして、疑惑の書簡をガイストの元へ続々と届けていた。
けれども、その書簡の文面を読んだガイストとルンは、使者達を前にして――
「これが届けられたって事は、その時点でルンを虚仮にしてくれたダイアってジジィはくたばってんだろ? なら、ざまぁの仕様がねぇな」
「そうね、あのクソジ……ダイアは無事この世界から旅立てたんでしょ? 変にアーサーみたいなゲス野……若い世代をキレさせると痛い目見るって学習出来たから良かったじゃない。旅先にいる地獄の亡者共にも教えておいてほしいわね。あっ、旅立ちというより転居かな?」
「だな。それに全てを闇に葬るつっても、もうすぐ無くなる国の次期国主の座を守って何になるんだ? 寧ろ、自分の浅知恵に気付かれてないと思ってる馬鹿殿様が、パンクロックをガンガン鳴らして素っ裸で踊り狂ってる様を、マジックミラー越しに腹抱えながら眺めてる方が百万倍面白いぜ」
「だからゾルメディア製作所が自信を持って造り上げた泥船が、ゆっくりと沈んでいく絶景を生暖かい目で見守っててあげましょ♥」
「全くだ。ルンを利用して俺を嵌めたなんてのは何時の話だよって感じだし」
「ホントよ。今更書簡を公表して何になるの?御臨終目前の国が私への名誉回復なんて憐れすぎて笑い話にもならないわ。寧ろ、毒婦と呼ばれた方が妖艶な美女って感じで有り難いわよ」
「何だ? お前妖艶に見られたいのか?」
「何言ってんの? 十分妖艶のつもりなんだけど。それともアン……旦那様には私が妖艶に見えないの?」
「う~ん、お前は聖女の力に目覚めてから確かに我儘バディにはなったけど、顔は前と変わらず肉欲よりも庇護欲をそそる童顔の癒し系美人だしな」
「それって褒めてんの?貶してんの?」
「十分褒めてんだろ」
という夫婦漫才を繰り広げたので、帝国を裏切る予定だった国々も予定前の国々も小国間の横の連携を取って見て見ぬフリをしていたのである。
そんな大事になっているとは当然気付かないアーサーは、ダイア暗殺の余波をかって次の暗殺を目論んだ。
ルンは冤罪だった。それなのにニルス夫妻はガイストとの逢瀬を目撃したと証言した。これはどう考えても辻褄が合わない。
単に、ニルス夫妻がルンを虐待しており、皇太子妃となる娘からの復讐を恐れて嵌めただけとしても、皆が納得する証拠など一切出て来ないのは明白。実際に、ルンが正気だった頃のニルス親子は、誰の目から見ても本当に仲が良かった。
ニルス家の使用人達も、アーサーとルンの婚約が成った頃から、魅了の口封じの為に金を握らされ、市井で「ニルス御一家は全員仲が良い。御嬢様は毎日笑顔で御幸せそうだ」とも風潮していたからだ。
更には、アーサーがニルス家を懇意にしていたので、また下手に庇えばアーサー皇太子とニルス家との間には何か有ると皆に証明しているような物。
それ以前に辻褄の合わない証言を鵜呑みにしたアーサーは次期皇帝に相応しく無いも言われ兼ねない。
スレイン皇帝は最初から再捜査をするつもりは無かったし、ニルス家を吊るせばそれで済むと思っていたが、最早そんな単純な話では無くなっていたのだ。
この頃、帝都民達の間では、無能と呼ばれたガイストと出来損ないと呼ばれた先帝ジンを同一視する傾向が現れ始めた。
属国が次々と独立していき帝国との国交を断絶、物価高等といった先の見えない不安が、勇者バーン、大公ギムレット以来の名君と呼ばれている賢帝ジンに似た魔王ガイストと、帝国建国の祖である聖女シェラと同じ力を持つ聖女ルンを望んでいたのだ。
社交界や皇宮内では、同様の声はまだ然程上がっていなかったが、それでもガイストが本気で牙を剥いた時の恐ろしさを思い出した本国貴族達は、やはり皇家正室直系皇子であるガイストの方が皇太子に相応しかったと密かに噂し始めてもいた。
例え虚偽で固めてニルス家を吊るしたとしても、ガイストに全ての罪を被せている時点で帝国民の誰もが納得しないし、当然魔王一家も納得しない。つまりは、現状と何も変わらないどころか更に酷くなるかも知れない。
しかも、ルンが聖女として「実家を助けたい。皆の前であの時の真実を語って反省して欲しい」と一言呟けば、スレイン皇帝ですら生き証人であるニルス家を吊るす事など出来なくなってしまう。まぁ、ルンはそんな事を言うつもりは全く無かったが。
しかしアーサー中では、一般に耳にする庶民的なルンの噂ではなく、聖女であり勇者の母という乙女ゲームそのままの神聖なイメージが一人歩きしていた。
それ以前にルンはヒロイン、聖女になった後のヒロインは戦闘でのGAME OVER以外のバッドエンドは存在しない。けれども、もう世界の中心地RPGパートは存在しない。それどころか本来敵キャラの筈の魔物達が聖女を守っている。
最悪のシナリオは、ガイストの虚偽だったと公表した後、納得のいかない庶民感情と属国に後押しされ、本当に再捜査が行われてしまうかもしれない可能性。 今の全帝国の現状を鑑みると間違いないと言っても良い程の可能性だった。
結果として、帝国民全てが納得する真実が暴かれ、次期皇帝の資格無しと見なされたアーサーに変わり、再びガイストが皇太子の座に返り咲いてしまう。
それはまさに、ガイスト皇帝エンドの復活。
皇室典範では一度継承権を放棄したら二度と皇帝にはなれないが、ガイストの妻は絶対的な聖女。
聖女を妻に持つという事は、アーサーが当初目論んだ皇室典範をブッ飛ばす理由には十分。
一応、聖女は魔王に無理矢理妻にさせられていると公表してはいるが、そんな嘘を真に受けている者など何処にもいない。
それよりも何よりもガイストとルンが最も求める物とはアーサーの破滅。最終的には帝国に住まう者皆がガイスト新皇太子とルン新皇太子妃に追随するだろう。
このままでは本当にニルス家の口から真実が明かされた後、アーサーは廃嫡、皇家からも絶縁。最悪の結末はガイストとルンに冤罪を被せたとしての処刑。
よって、再度全ての真実を闇に葬る為、アーサーはニルス一家皆殺しを決断したのだった。
ルンが聖女の力に目覚めた時に咲いた花々の花言葉は全て“愛”に関係します(作者調べ)
菊、アンチューサ、忘れな草の花言葉は“真実の愛”です(作者調べ)