また妹が彼氏と別れた
――もう二度と、わたしの部屋に立ち入らないで
――最初っから、必要としてなんかいないから
――ちょっと妹に頼られたくらいで、いい気にならないで
夏休みのあいだじゅう、あれだけベタベタ甘えてきたくせに。
新しい彼氏ができたとたん、これだ。
信じられるか?
一週間前の、夏休み明け初日。
学校から帰った俺は妹の部屋へ直行した。
なぜ妹の部屋に? 理由なんてない。
そのころにはすでに、妹の部屋で二人で過ごすことが“日常”になっていたというだけだ。
それなのに、あいつは。
新しい彼氏ができて舞いあがっていた芳乃は、部屋に俺がいる可能性をうっかり失念し、その新しい彼氏を部屋に連れこもうとした。
挙句、
――はぁぁぁぁぁぁ〜っ……
――最っ悪
自分のうっかりを棚にあげ、逆ギレときたもんだ。
……あぁ。
思い出したらまたムカついてきた。
だいたい、二学期が始まったその日に彼氏をゲット、お持ち帰りまでするなんて、誰が想像できる? ……ビッチが。
そんな妹の頭をなでなでしながら「こんな時間も悪くないなぁ」なんて思っていた、過去の自分にも嫌気がさす。
だって、そうだろう。
そもそも芳乃は“兄”どころか“彼氏の代わり”さえも、必要としていなかった。
芳乃が求めていたのは“本物の彼氏”だけだった。
これが真実なら俺は、とんだ道化だ。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
……だが、いいことだ。
俺は芳乃の甘え攻撃から解放され、晴れて自由の身となった。
すっかり手のひらを返して増長しまくりな態度こそムカつくが、それだけだ。
呼び方が「お兄ちゃん♡」から「ねぇ」「ちょっと」「あんた」に戻ったが、それだけだ。
修羅場になりかけたシュンくんとは、どうやらうまく関係を修復できたらしい。
芳乃には彼氏が、甘える相手がいる。
つまりすべては元通り。
夏休みのあの日より前の日常に、戻っただけ。
だから、これはいいことだ。
……ところで俺は今、街をぶらついて時間をつぶしている。
シュンくんが遊びに来ているので、家から叩き出されたのだ。
そんなことが毎日続いている。
だが、だが……それだけだ。
俺は解放されたのだから、この現状は喜ぶべきで――
ポケットの中のスマホが震えた。
たぶん芳乃からのメールだろう。
シュンくんが帰ったら連絡してくれる手筈になっている。帰宅のお許しというわけだ。
俺はスマホを取り出す。
たいてい空メールなのだが、ついでに買い物を頼まれる場合もあるので、念のためメールを開いて本文を確認する。
“はやくかえってきて”
書かれていたのは、その一文だけ。
……なんだ?
シュンくんとなにかトラブルでもあったのか?
嫌な予感に駆られた俺は、急いで帰宅した。
予感は半分外れ、半分当たった。
トラブルが起きたといえば起きたのだろうが、俺が想像していたような、物騒なものではなかった。
「おい、なんだよあのメール。なんかあったのか?」
芳乃は捜すまでもなく、リビングのソファーの上で丸くなっていた。膝に顎を載せたまま、視線だけを俺に向ける。
その瞳はどこか虚ろだった。
「……別に」
「別にってことないだろ。言われたとおり早く帰ってきたってのに」
シュンくん絡みかと思ったが、そのシュンくんはここにはいない。
玄関にも靴はなかったし、普通に帰ったのだろう。
「……ただ、」
芳乃は顔をあげ、まっすぐに俺を見つめながら言った。
「ただ、早くお兄ちゃんに会いたくなっただけ」
その眼差しには、いつかと同じような“熱”がこもっていて。
さらに呼び方まで変われば……だいたいの事情は察しがつくというものだ。
「シュンくんと喧嘩でもしたか?」
俺はオブラートに包んで訊いた。
「喧嘩、っていうか……………………振られた」
やっぱりな。
「……束縛強すぎて無理、もう付きあいきれない、って言われた」
訊いてもいないのに、振られた原因を教えてくれる。
付きあいきれない……か。
なるほど、確かに。
「そうか。ご愁傷様」
俺はそれだけ言って、まだなにか言いたげな顔をしている芳乃に背を向ける。
束縛うんぬんはともかく、芳乃にはもう付きあいきれないという点においては、シュンくんに完全同意だ。
――俺は都合のいい男じゃない。
「ま、まって、お兄ちゃん……」
制止の声を振りきって、俺は自室へと向かった。
数分後――
コン…コン…、と。
かな〜り控えめな力加減で部屋の扉がノックされた。
『あの、お兄ちゃん……?』
遠慮がちな声。
「…………」
正直、来るとは思わなかった。
どうせ近いうちにまた新しい男を見つけて、すぐに復活するんだろうなと思っていたが……どうやら、それまで持たないようだ。
芳乃の依存心を、依存に対する執着心を、俺は甘く見ていた。
『その……ちょっとお話が』
さすがに無視するわけにもいかない。
「……開いてるぞ」
ガチャリと扉が開いて、芳乃が入ってくる。
芳乃は後ろ手に扉を閉めると、俺と目を合わせないまま――ちょこんと、その場に正座した。
そして……
「ごめんなさい」
あの芳乃が、頭を下げながら、謝罪の言葉を口にした。
「……なにが?」
心当たりが多すぎて、なにに対しての謝罪なのかわからない。
「えっと、ほらその、いろいろ……」
「いろいろじゃわからない」
芳乃が顔をあげ、ようやく俺と視線がかちあう。
かと思えば気まずそうに逸らし、
「……シュンくん呼ぶたびに家から追い出したこととか、たまにパシらせたこととか、それから――」
少し言いよどんでから、続ける。
「――わたしがシュンくんを、はじめて連れてきたときのこと、とか」
俺が芳乃の部屋で気持ちよく寝ていたところ、芳乃がシュンくんを連れて帰ってきた。
俺を見たシュンくん、おこ。
それを見た芳乃、激おこ。
俺を無理やり部屋から連れ出して、二度と部屋に入るなだの邪魔だから出てけだのいい気になるなだのと、まさに言いたい放題だった。
「たくさんひどいこと言っちゃったなって、今では反省してます」
「俺はただ、おまえのベッドで寝てただけなのにな」
「うん、わかってる。わたしがいけないんです。そもそもわたしが『もっとずっと一緒にいてほしい』って頼んで、お兄ちゃんはただわたしのお願いを聞いてくれてただけなのに、それなのにわたしは、彼氏ができたことに浮かれて……お兄ちゃんが部屋にいることを忘れてた」
まったくひどい話だ。
「忘れてただけなら、まだよかった。けどわたしは、誤解したシュンくんに問い詰められて、追い詰められて、それで…………お兄ちゃんに八つ当たりしました」
そこまで言って芳乃は、すがるような目を俺に向けた。
「で、でもね、聞いて! わたし怖かったの! シュンくんに問い詰められたとき、振られるかもって……また、みーくんのときみたいに振られちゃうかもって、頭の中がパニックになって……それで……だから……」
弁明する声はどんどん小さくなって、ついには途切れた。
「で?」と思っていたのが顔に出てしまったのかもしれない。
「……本当に、ごめんなさい」
再度、頭を下げる。
十秒、二十秒経っても……顔をあげない。
俺が許したと言うまで動かない腹積もりなのだろうか。
「…………」
芳乃は、ただ俺に許してほしいわけじゃない。
その先に生まれる――あるいは元に戻る、関係性こそが芳乃の狙いだ。
ずっと俺と対立しながら生きてきた芳乃には、ただ許してほしいなんて発想がそもそもないだろう。
……決断を迫られている気がする。
俺は芳乃を許容できるのか?
受け止めることができるのか?
そう考えたとき、ふと、芳乃の元カレ――湊の顔が思い浮かぶ。
あいつは一年ものあいだ、芳乃を支え続けた。
シュンくんは一週間で音をあげたが、俺はそれを笑わない。一年間も付きあった湊の器が規格外なだけだ。
……では、俺は?
芳乃の実の兄である俺は、どうなんだ?
……………………。
俺は芳乃のそばに近づいた。
対面に腰を下ろし、垂れ下がる長い黒髪に触れる。
「おまえの髪って、ほんとツヤツヤしてるよな。同じシャンプー使ってるとは思えないんだが」
指で髪を梳きながら、俺は言う。
「……あ、あの」
おそるおそるといった感じで、上目遣いに俺を見あげる芳乃。
俺は頭のてっぺんをポンポンと軽く叩いた。
「……許して、くれるの?」
――また、甘えてもいいの?
真剣な目が、言外にそう問いかけてくる。
「その前に、いくつか訊きたい」
「……なに?」
「次に彼氏ができたとき、おまえはまたツンツンした態度に戻るのか?」
「……戻らないです」
「絶対に?」
「はい、ツンツンしません」
「じゃあ、また修羅場みたいな状況に陥ったら?」
「……少なくとも、お兄ちゃんには八つ当たりしません」
「そう思ってたのに、つい八つ当たりしてしまったら?」
「間違いを認めて反省して、素直に謝ります」
「……八つ当たりくらいしてもいいけど、増長はするなよ。ムカつくから」
「……わかった、約束する」
「なら許す。これでな」
俺は芳乃のおでこに強力な一撃をお見舞いした。
その日の晩。
ちょうど日付が変わるころ。
コン…コン…、と。
かな〜り控えめな力加減で、部屋の扉がノックされた――。




