7.居合わせた女
7.居合わせた女
それから30分ほどして21時。
退席時間となってしまった。
「俺らこのまま2軒目行くけど、まきまきどうする?」
居酒屋の入っていたビルを出ると、岡田くんが聞いてきた。
元カノに振られた話を始めたときからだいぶ飲むペースを上げていた堀尾さんたちだが、みんな顔は真っ赤だけど足取りはまだしっかりしている。というか、まだ飲み足りない様子だ。
私も別に明日朝早くから予定があるわけではないから、このまま2軒目に便乗しようかと思った。
しかし、別の人物に先手を打たれてしまった。
「牧野さん、明日早いんだよね? 俺も今日はもう帰るから、ホームまで一緒に行こうよ」
後ろから涼しげな福澤さんの声がかかる。
振り向けば、瞳を妖しく細め薄い唇の両端を綺麗に持ち上げた、とてもいい笑顔を浮かべていらっしゃる。有無を言わさないといった表情だ。
「なんだよー諒。つれねーなー」
「ははは、悪いね。お前らで堀尾をなだめてやってくれ。じゃ、牧野さん、行こうか」
「じゃあな、まきまき」
他の先輩が文句を言うのをさらりとかわして、福澤さんはまたもや自然な流れで私の背中に手を回し、駅の方へ促した。
そのままそこで他のメンツと別れる。
私は何も言えずに、ただ福澤さんに促されるままだったけれど――。
「さて……」
少ししてから、トーンの低い声が隣から聞こえてきた。
「俺たちも2軒目行こうか。ね? “春野”さん」
おそらくそれはそれはとても魅力的な笑顔を浮かべていたことだろう。
だけど私は怖くて顔を見れなかった。
他のメンツが歌舞伎町の方へ消えていったので、私たちは東口のルミネの向かい側にあるビルに入った。
そこの5階は、言ってしまえばダイニングバーなのだけれども、青色を基調とした店内に色んな種類の熱帯魚の入った水槽がいくつも設置されていて、水族館のような内観になっている。店内に水槽がある居酒屋なんて、最近では割と普通にあるみたいだけれど、私は行ったことがなかったので前々から気になっていたのだ。
まさかこんな形で来るとは思ってもみなかったが。
「まぁ、さっき色々食べたと思うけど、何か食べたいのあったら遠慮なく言ってね。もちろん飲み物も」
とりあえず最初の一杯目を頼むと、福澤さんはにっこり笑顔のまま向かいの席でメニューを広げて言った。その笑顔が怖すぎて辛い。
私はこの状況を呪うしかなかった。
金曜日の夜9時過ぎだというのに、店内もそれなりに人がいたというのに、大して待たされることなく私たちは個室に通された――そう、よりにもよって個室。
もはや逃げ場がないじゃないか。
これならもっとがやがやうるさいパブとかを指定するべきだった。
「まぁ自分の分は自分で出しますしねー。遠慮なく注文しますよー」
福澤さんの笑顔につられるように、私は笑顔で返した。口の端がぴくぴくと震えるのは仕方ない。
すると福澤さんは少し目を細めて観察するように見てきた。
「ふーん? “学生”さんなのに無理しなくていいんだよ? 働いている“OL”とは違うんだから」
「……うっ」
やたらと「学生」と「OL」を強調するのが、ちくちくと胸に刺さってとても痛い。
ちょうどそこで飲み物がやってきた。それと一緒に食べ物をいくつか頼むと、とりあえず乾杯する。
乾杯後も福澤さんは更に攻撃してくるかと思っていたが、福澤さんは一口ビールを飲んでからひとつため息を吐いた。
「ごめん、少しいじめすぎた。我ながら大人気なかったよ」
福澤さんは少し眉尻を下げて謝った。どうしてか分からないけれど、この表情には私も罪悪感を煽られる。
だけどすぐに福澤さんは不満げな表情を浮かべた。
「でもなかなか牧野さんもひどいよね。ナンパとは言え、俺のお陰でこの前の演目観れたっていうのに、何から何まででたらめ言ってさ」
「う……それはすみませんでした」
「どうにも不自然だなぁとは思ってたんだよね。職業聞いたときもなんか誤魔化されてる気がしてたし、携帯忘れたとかかなり嘘っぽかったし。あとでメモのアドレスに送ってみたら案の定エラー返ってきたし」
よくそんな細部まで覚えていらっしゃる。
「だって、でも、それでもいきなり知らない人から連絡先とか聞かれたら、普通に怖いじゃないですか」
お酒の力もあったせいか、ついつい私は言い返してしまった。そしてしまったと思った。
言われてみればあの日は金銭面においてかなり福澤さんにお世話になったというのに、確かに私の行いは薄情すぎた。今の言い訳もよくない。
私は視線を下げてから、ちらりと福澤さんを盗み見る。だけどさっきまでの不満げな顔はどこへやら、福澤さんは目を丸くして私を見ていた。
そしてすぐにふっと力なく笑った。
「いや、その通りだよ。あのときの牧野さんの判断は正しかった」
「う……でも、やっぱり私も悪かったです。チケットもケーキ代もお世話になってあれは確かにひどかったかなって」
「ううん、あれは本当に気にしなくていいんだ。あのときはただ、あのチケットをどうにしかしたかっただけだし」
そこで福澤さんは一旦ビールを挟んでから、「それに」と続けた。
「それにあの日、結構躍起になってたから、あのまま本当の連絡先をもらわなくてよかったんだと思う」
と、鼻で笑いながら言った。
それはどこか寂しげで自嘲気味な表情。
私は何も言えなくて日本酒で誤魔化した。
そうこうしているうちに、食べ物が運ばれてくる。さっきのお店でも色々頼んでいたが、私も福澤さんもあんまり多く食べられなかったため、ここではシーザーサラダや串などをいくつか注文した。
やってきたサラダを、私はそれぞれの皿によそう。別に女子力発揮というわけではなく、一応は年上の先輩の手を煩わせるわけにはいかない、という建前だ。
すると、それを黙って眺めていた福澤さんが、ぽつりと言った。
「……牧野さんは、何も聞かないんだね」
「え?」
私は思わず向かいの人を見た。
福澤さんは手で口元を隠し、悲しいような罪悪感のような、眉間にしわを寄せてとにかく何とも言えない表情を浮かべている。だけど、私と目が合うとすぐにそれを笑顔の裏に隠した。
それは先日も何回か見た福澤さんの誤魔化しだ。
「正直、牧野さんが謝ること以上に俺もっと失礼なことしてる。なのに何も言わないし何も聞かない」
おそらく福澤さんは、さっきのお店で他の先輩らが話していたことを言っているのだろう。
本人も言っていたけれど、どうやらこの人は彼女と別れたばかりらしい。
多分、この前の日曜日の時点では、既に別れていたのだろう。今考えればそんな素振りはいくつかあった。私がもらったチケットも、きっと元々は彼女の分だったに違いない。だから「どうにかしたかった」んだと思う。
要するに、私はそんな時にちょうどよく居合わせただけの女だったというわけだ。
「……まぁ、あれこれ私が聞くことでもないと思いますし、それに私もチケット代やらをお世話になりましたし、福澤さんがいちいち気にすることではないと思いますよ」
言いながらなんだか気まずくなったので、私はそれを誤魔化すようにしてお酒を飲んだ。猪口越しに目を上げれば、未だきょとんと目を丸くする彼の瞳と目が合った。
「それはあまりにも物わかりがいいようにも思うけど……でも、ありがとう」
福澤さんはふんわり柔らかく笑って、小さく頭を下げた。
「もう、本当に金銭面では福澤さんにお世話になりっぱなしですね。ご馳走様です」
駅まで向かう途中で私は福澤さんにお礼を言った。
相変わらず福澤さんは卒がなさ過ぎると、居酒屋を出るときに思った。というのも、私がお手洗いに行っている間にお代を済ませていたせいで、これまた彼に借りを作ることになってしまったのだ。
「そうか、金銭面ではね」
「……う」
これ見よがしに福澤さんは揚げ足を取ってくる。だけど福澤さんは1軒目のお店で見せたような攻撃的な様子ではなく、陽気にからからと笑っているだけだった。
「まぁいいよ。俺もおかげで気が晴れたし」
「私は何もしてませんけどね」
「うん、何もしてないね」
と、またご機嫌そうに笑った。
お互いに謝罪し合ったあと、それからまた少し色々な話をした。会社のことや学校のこととか、趣味のことや何でもない世間話。友達の先輩という安心感からか、いつの間にか私は饒舌になっていて、福澤さんも話しているうちに楽しげになっていった。
JRの改札を通り、それぞれのホームへ続く階段の前まで来ると、福澤さんはいつかのようにスマホを取り出した。
「ねぇ、今度こそ、ちゃんと正しい連絡先教えてよ」
にっこり笑って顔の横でスマホを振る姿は、かなりデジャビュだ。
すると福澤さんも前回のことを思い出してか、「ちょっと待った」と手のひらをかざしてきた。
「携帯忘れたとか今日はなしだからね」
私は盛大に吹き出した。
「そんなことしませんよ」
言いながらバッグからスマホを取り出し、福澤さんと連絡先を交換し合う。これででたらめじゃない本当の連絡先が行き渡った。
データーが届いたのを確認して、福澤さんは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。また飲みなり観劇なり誘うから付き合ってくれると嬉しいな」
そう手を振りながら、福澤さんは颯爽と自分のホームの方へ歩いていった。
福澤さんが階段を上りきるのを見届けてから、私も自分のホームへと向かった。
次回10月15日更新予定