2.今日限り
2.今日限り
カーテンコールが終わり、人が次々と席を立ち始める。だけど今その波に乗ると大変なので、少しその場でのんびりしながら人がはけるを待つ。
「はぁー楽しかった。やっぱり観れてよかった。ありがとうございました」
私は椅子に座ったままの状態で身体を隣の男性に向け、その場でお辞儀した。彼は相変わらずにっこり笑いながら顔の前で手を振る。
「気にしないで。楽しかったのなら俺もそれで満足」
言いながら男性は軽く鼻を啜った。
じっとよく見れば、目と鼻が少し赤くなっている。なるほど、この人も今日の演目を見て泣いていたわけか。
「はい、これどうぞ」
バッグからポケットティッシュを取り出し男性に差し出すと、彼は「悪いね」と困ったように笑いながらそれを受け取った。
「いやあ、だってあれは途中泣きますもん。仕方ない」
「え、あぁうん――そうだね」
彼は鼻をかみながら曖昧な返事を帰してきた。
それはどことなく空返事な様子で――。
「あ、そろそろ俺たちも出ようか」
男性は私にティッシュを返すと、荷物を持って席を立った。なんとなく妙に誤魔化された感じだが、深く考えるほどのことでもないだろう。
私もバッグとパンフレットを持って、男性と一緒に劇場を出た。
外に出れば日が少し傾きかけていた。
それもそのはず、13時から約3時間の舞台なので、今はちょうど16時過ぎ。6月独特のじめっとした空気も、この時間になると若干引いているようだ。
私たちはそのまま劇場近くのビルにあるイタリアンに入った。
「さぁて、まだ4時台だからあれですけれど、何でも遠慮なく頼んでくださいね! ここは私が出すので!」
お席に案内されると同時に私は向かいに座った男性に勢いよく言った。
彼は一瞬目を丸くすると、眉をひそめて手を振った。
「え、いいよ。俺が出すし、そんなの気にしなくて」
「いや! それこそよくないですって! ほら、チケット代のお礼だと思って、ささ!」
「別にあんなの本当に気にしなくていいんだけど……」
――私が気にするっつーの!
まったくこの人は一体何なのだろうか。何か言うたびに「気にしなくていい」なんて言ってくるけれど、見ず知らずの人に1万円近くも奢ってもらって素知らぬ顔でいられる者一体どこにいるというのだ。いや、実際いるのかもしれないけども。
きっと私は納得のいかない顔をしていたのだろう。彼は困ったように眉尻を下げる。
しかし、程なくして何かひらめいたような顔つきになった。
「だったらこれも何かの縁ということで、自己紹介しようよ。俺、福澤諒介。25歳のフツーのサラリーマン」
と、にっこり笑顔で自己紹介してきた。あまりに一方的すぎて、私は開いた口が塞がらない。
しかし、自己紹介されたなら私も返さなければならない。
私は改めて福澤諒介と名乗った男性をじっと観察した。
ふんわりと左側に流された少し色素の薄い前髪。その下でくるみ型の瞳が細められ、それと同じように薄い唇の両端が持ち上げられている。一見、無害そうではあるが、こうした有無を言わせないような顔つきはとても胡散臭い。
私はしばしの逡巡ののち、名前を言った。
「春野麻紀です」
すると、福澤さんは笑顔のまま頷いて「よろしく」と言った。
そんなやりとりをしたところで、ちょうど店員さんがオーダーを取りに来た。未だにどっちが払うおごるの話は決着ついていないが、とりあえずここはお互いに一品ずつ注文する。時間も時間なので二人ともスウィーツを頼んだ。
「春野さんて見た感じ学生さんでしょ? だから無理せずにここは社会人に任せなよ。大した額でもないんだし」
店員さんが去ると、メニューボックスにメニューを立てながら福澤さんが言った。更には「ついでに飲み物も頼んでいいよ」と、涼しげに続ける。
「い、いえ! 確かに私、福澤さんより年下ですけど、これでもOLなので払います。大した額でもないんだから」
思わず「OL」の部分を少し強調しながら言うと、福澤さんは観察するような目つきを私に向けてきた。
「そうなの? 何の仕事してるの?」
「ええっと、何の――と言われると……ひーとことじゃ難しいんですけれど、事務です。事務仕事しています」
少し、というかかなり不自然な物言いになってしまった。なんとなく察しの良さそうな福澤さんは、不思議そうに私を見るけれども、
「ふーん、そうなんだ」
と、納得したような納得してないような反応を返してきた。
ちょうどそこでスウィーツがやってきた。
私は自分の前に置かれたジェラートをスプーンですくって一口食べる。
すっきりとしたバニラとその上にかかっていたチョコレートソースが、絶妙なバランスで口の中で溶けて、ほどよい甘さが広がる。
頭に響く冷たさも相まって、ぎゅっと目を瞑って身体を震わし、ジェラートを堪能する。すると向かいでティラミスを食べている福澤さんがくすりと笑いをこぼした。
「春野さんは、いつも劇はひとりで観に来るの?」
「はい、いつもひとりですね。毎月の楽しみです」
「そんなに来てるんだ。すごい」
感心、とばかりに若干目を大きくして言う。
「誰か友達か――彼氏とか、誘わないの?」
福澤さんは少し頭を傾けて質問を重ねる。
それに答えるように私も少し首を傾ける。
「うーん、毎月毎月観に来ますからね、さすがにそれは誘いづらいのと、あといい席取るのに予定を合わせないといけないというのがちょっとめんどくさくって」
言いながら、なんだか寂しい女みたいな発言で、ひとりでに気まずくなる。
案の定、福澤さんは眉を変な形に歪めて何とも言えない顔をしてきた。
「……寂しくないの?」
なんて予想通り過ぎる質問だろうか。
「まぁ、休憩の時とか終わった後とかに盛り上がってる人を見ると寂しい気もしますけれど、なんかもう慣れちゃったので……」
尚も言いながら気恥ずかしくなり、笑いで誤魔化す。
というか一体どうしてこんなことを初対面の男性に話さなくてはいけないのだろうか。
余計なお世話というものだ。
「そういう福澤さんこそ、彼女とかいそうですよね」
「えっ」
反撃とばかりに踏み込んだ質問を繰り出すと、それが不意打ちだったのか、福澤さんは少し目を大きくした。
そこで私はもう一度福澤さんを観察した。
ふんわりと流された前髪に加え、後ろは会社員らしく短く切り揃えられている。どこかですれ違っても振り向かないようなしょうゆ顔だけれど、一つ一つのパーツは形良く、顔も全体的に整っている。体つきもほどよい細身という感じで、服装のセンスも良い。背丈もそれなりにあるし、劇場で座ったときは足が長いと思った。
要するに普通に彼女には困らなさそうな外見だ。その上、フェミニストのようなところもあるので、そこそこモテるだろう。
すると、意図的か無意識なのか、福澤さんは大きくした目を意味ありげに細めた。
どことなく憂いを含んだ瞳に、もしかして地雷を踏んだのかと、私は内心気まずくなった。
「まぁ、彼女がいたらこんなナンパまがいなことはしないけどね」
やっぱり地雷だったのだろうか。福澤さんは乾いた笑いとともにそう言った。
劇場の時から思っていたけれども、ちらほら見せる意味ありげな表情は、一体何を意味しているのだろう。まったくもって謎だけれど、とは言え私が踏み込むことでもない。
「ナンパまがい――ですか。私は普通にナンパだと思いますけどね」
「ははっそうだね」
おどけた調子で言ってやれば、福澤さんもつられて肩を竦めて笑った。
それから少しお喋りして、私たちはお店を出た。
お代は私が払おうと思っていたのに、またもや言いくるめられてしまって、結局福澤さんにご馳走になってしまった。
「本当に申し訳ないです。ありがとうございました」
浜松町の改札を通ってから、私は福澤さんに頭を下げた。
どうやら彼とは乗る方面が逆方向らしい。
「いや、本当に気になくていいんだけれど――あ、それじゃあ今度から一緒に劇観に行こうよ。それが俺へのお礼だと思って」
またもや福澤さんはいかにもナンパっぽいことを言いながら、パンツのポケットからスマホを取り出し、にっこり笑ってそれを顔の横で振った。
その笑顔につられるように、私は自分のバッグに手を入れる。
「あ、ごめんなさい。私、今日携帯忘れてきてしまったみたいです。ちょっと紙に書きますね」
言いながらバッグに入れていたメモ帳とボールペンを取り出し、携帯番号とアドレス、そして名前を書いてそのページをちぎった。福澤さんはそれを不思議そうに眺めていたが、メモを渡すと嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがとう、じゃあ後でこっちから連絡するね。今日は付き合ってくれてありがとう」
「いえいえ、こちらこそ何から何までありがとうございました」
お互い頭を下げ合うと、それぞれ別のホームへと向かった。
ホームに行くとすぐに電車がやって来たので、すかさずそれに乗り込んだ。
電車のドアが閉まりホームを出発すると、そこでようやく私は肩の力を抜いた。初対面の人と観劇してお茶して――って、そんなの無駄に気を遣うし緊張する。
――まぁでも、たまにはこういうのもアリか。
もう会うこともないだろうし。
だって渡したメモの連絡先も、職業も、春野麻紀という名前すら、全部でたらめなのだから。