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1.チケット代

1.チケット代



――この状況は一体何なのでしょうか。


 何でもない6月の第2日曜日。

 チケットを落としたのは予定外だったけれど、本来なら開演5分前にギリギリセーフで入り口を通ることが出来て、2階の後半部分の最前列のど真ん中に腰を落ち着けていたはず。

 それがまだ開演15分前なのに、1階席のど真ん中の一番いい席に座っている――今日初めて会った知らない男と一緒に。

 私はちらりと隣に座った男性を見遣った。

 すると彼は、したり顔をこちらに向けてきた。


「ね? ここ、結構いい席でしょ?」

「い、いやいやいやいや、何ですかこの状況?」

「何って、だって観たかったんだよね? 今日の演目」

「そうですけども、そうじゃなくて……!」


 私は額に手を当て項垂れた。たった5分の間に色々と突っ込み満載なことが起こりすぎて、逆に何から突っ込めばいいのか分からない。

 そもそも一体どうして見ず知らずの人と一緒に観劇することになったのか。しかも言っていた通り本当に良い席すぎて、申し分けなさすぎる。


「……とりあえずチケット代払います。9800円ですよね? あ、会員さんだと8800円?」


 私はバッグから財布を取り出し中を開けた。なかなか痛い出費だが、チケットを落とした罰だと思うしかない。

 しかし男性はぎょっと目を丸くして、私の手を押しやった。


「いや、いいよ。いらない」

「え? いやいや、さすがにそれはダメですってば」

「本当にいいんだよ。気にしないで」


 私が財布から諭吉を取り出そうとすれば、男性は無理矢理それを私の財布に戻させようとする。その攻防を何回か繰り返すが、男性は一向に受け取ろうとしない。


「待って、だっておかしくないですか? だって見ず知らずの女にこんないい席を奢る理由なんてないわけですよ?」


 私の言葉に男性は困ったような顔をした。

 だけどそれも一瞬で、すぐにハッといいことを思いついたかのように眉をぴくりと動かすと、再びしたり顔を私の方へ向けてきた。


「そうそう、だって今日のチケットはもらい物だから、君が気にする必要はないんだ」

「え……い、いやいやいやいや、今いい言い訳思いついた! って顔してましたもん! 違いますよね?」

「だから気にしなくていいんだって。存分劇を楽しもうよ」

「いや、だから……っ」


 ダメだ、頑に受け取ろうとしてくれない。あんなに分かりやすそうな嘘を吐いておきながら、この人なかなか頑固だ。

 しかし、私だって知らない人に奢ってもらうのは気が引ける。

 それにこの人、見た感じ無害そうではあるが、実は裏の世界の何とかがあったりしたら、この身が危うい。だからこういうことは早々に解消しておくべきなのだ。

 それなのに――。

 男性は何としてもお金を払おうとしている私を見て、鼻で一つ息を吐き力なく笑った。


「いいんだよ、本当に。気にしなくって」


 ぽつりとそう言った男性の様子は、それまでのにっこり有無を言わさない感じから一転して、どことなく寂しげだった。

 だけどそれもすぐに笑顔の裏に消える。


「それにほら、たまには会ったばかりの女の子にお金を使いたくなる男もいるんだよ。そういう変態だと思ってさ」


 男性はにっこり笑って言った。


「はぁ、確かに変態……ん?」


 ということは下心ありの変態野郎ってことなのだろうか。

 え、つまりそれ、観劇中にいかがわしいことをしてくるってこと!?

 頭をよぎった考えに思わず不審者を見る目つきをすれば、男性は慌てた様子で顔の前で手を振った。


「待った、誤解しないように言っておくけど、そういう変なことは絶対しないからね? ただ俺も劇を見たいだけであって……」

「いや、あの! そういうことがなくても十分に変なことなんですけれど!!」


 つい彼の発言に突っ込むと、男性は一瞬きょとんと目を丸くし、そして屈託なく笑った。


「ははっ確かにね」


 その笑顔がなんだか明るく人なつこい感じがして、どこかくすぐられるものがあった。というか、こんな風に笑顔を向けられると、なんとなく断れない。ここはもう折れるしかないだろう。


「……じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。この演目、見たかったですし」


 渋々といった感じで言うと、男性はにっこり笑った。


「うん、それじゃあ楽しもう」



 それから程なくして客席が暗くなり、幕が上がる。

 劇の始まりだ。

 今日の演目は、エーゲ海の島を舞台にしたミュージカル。

 そこに住む母子家庭の娘が結婚することになったが、娘は母に内緒で自分の父親かもしれない3人の男性に結婚式の招待してしまう。そんなことから始まるドタバタ系のヒューマンドラマだ。

 娘の恋人、結婚相手、昔の恋。それぞれに葛藤を抱くものの、後半のクライマックスでは母子の愛情が深く演じられている。

 あらかじめ映画版も見ていたのだけれど、そのクライマックスのシーンではやっぱり涙腺が緩んで、ついつい涙を流してしまう。周りからも鼻を啜る音が聞こえてきたので、みんな同じようにそこで感動しているのだろう。

 しかし、あまりに劇に夢中になりすぎていて気がつかなかったけれど、隣に座った人は少し違ったみたい。

 隣の男性は、最初のポップなシーンのときから、ずっと静かに泣いていたようだった。




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