うどん粉と殺人
「はい、今日はケーキを作りますよ〜!」
小さな教室に先生の声が響く。結構若い先生だが、今時の二〇代とは明らかに違っている。髪の毛も染めていないし。化粧していないのではないかと思うほど薄い。
透明なビニールの手袋をし、腕を捲くって楽しそうに説明を始める。
教卓から見て、縦二列に並べられた調理台一つ一つが、一人に割り当てられている。
エプロンを来た美緒は、体験教室という形で一番前での参加だった。参加者のほとんどはおばさん(学生は美緒だけ)で、男性は僕一人。気まずい。僕は体験の申し込みをしていないので、後ろで美緒がやる気満々でメモを取り、話を聞いているのをみていた。台は余っていても、僕の分の材料は用意されていないのである。
先生は彼女一人だけだ。きっとこの人が高松先生なのだろう。説明も慣れたものだった。しかし、美緒のような人間に出会ったことがあるのだろうか。先生の苦労する未来が見えてくるようだ。
「まずはスポンジを作ります」
「せんせぇ」
間延びした声が教室に響く。
「そのスポンジは、食べられるのですか?」
嫌がらせに聞こえるかもしれないが、彼女は真面目だ。クラスでの付き合いがある僕にはわかる。
「ケーキの台を、スポンジって言うのよ」
先生は笑顔で美緒に教えてくれた。美緒は納得したように頷き、「ありがとうございますぅ」とお辞儀する。動作の一つ一つがゆっくりで、おばさんの中には明らかに苛立っている者がいた。僕も付き合いがなく、わざとじゃないことがわかっていなければ、同じ態度を示しただろう。
「そんなことも知らないで来たのかい」
おばさんの呟きが聞こえる。ついつい僕はおばさんに対して、
「知らないで来たらいけませんか? 教室なんですから」
僕だってスポンジって言う事くらい知っているが、彼女は本当に知らないのだ。それが悪いというのであれば、日本の教育を改善するしかない。一般常識を教えるレベルにまで。
彼女はお家の事情で、外の世界をあまり知らないのだ。最近までMDを見たことがなかったし、円盤の中身を取り出そうとするほどに無知だったのだ。
僕とおばさんが睨みあっている間に、説明は進んでいた。
「……それから三〇分ほどオーブンで焼きます。それに平行して生クリームを作っておきましょうね」
僕は美緒の側まで行くと、先生の説明をもう一度繰り返した。美緒は「わかっていますぅ」と応じる。そして僕は続けて、
「いい? 辛くしたり、常識以上に甘くしたら駄目だよ」
「ケーキは〜、甘い物ですぅ」
「前にクッキー作ったとき、一つで一気にのどが渇いたあの甘さはもう駄目!」
あのときのクッキーの味を、僕は忘れられない。
彼女お手製のクッキーを食べた。見た目はよかった。店で売っているようなレベルに思える。口に放り込んだ途端、砂糖とフルーツの異常な甘さが広がった。手元にお茶があってよかった。そうでなければ、顔をゆがめて苦しんでいたに違いない。甘すぎるものを食べて吐き気が込み上げてきたのは、あれが初めてだった。
あの味をケーキで味わいたくはない。
「あ、砂糖を」
「こらぁー! スポンジに何でそんなに砂糖入れるの!? 二〇〇グラムくらい入ってるじゃん!」
「あぁ〜っ、ついうっかり。では、中和するために」
「塩は駄目だっつーの! 中和できないで変な味になるからやめなさい! うわっ! ちょ、ちょっとそれ『みぞれ』じゃん! 先生、先生! この人の調理見てあげてください! 致命的欠陥があります! むしろ専属スタッフを派遣してください!」
救いの手を求めて先生の姿を探す。先生は僕のすぐ後ろ、つまり隣の台で指導をしていた。相手はこの中では結構若いが、アクセサリーをじゃらじゃら付けた化粧の厚いおばさんだ。
僕の声は先生に聞こえていなかった。先生の表情を見てみると、明らかに教卓にいた表情とは違う。このおばさんと何か因縁でもあるのだろうか。
僕がそんなことを考えて、ふと視線を美緒の手元に移す。
「自前のうどん粉を入れるなぁぁぁぁ!」
小麦粉の変わりにうどん粉を入れようとしていた美緒から袋を奪いとる。狙ってやっているのではなく、天然で良くなると勘違いして入れているから困る。躊躇しないのだ。
「せっかく持ってきたのにぃ〜……」
口を尖らせて抗議する。
「普通の作り方を覚えてからオリジナルに挑戦しようね」
やんわりと注意した僕は、なんだか疲れたので台の側にある椅子に座った。
もし通知表に『ツッコミ』という項目があったなら、最高成績を叩きだせる自信がある。
「あら、ごめんなさいね。早坂さん、いかがかしら?」
やっと先生が着てくれた。手際よく指導しながら、美緒のペースに合わせてゆっくりと調理していく。先生も大変だなあ。嫌な顔一つしないよ、さすがプロ。
「これでオーブンに。さあ、先生も作らないとね」
そう言って、先生も自分の分を作り始めた。あっという間に美緒に追いつき、クリームを作り始める。一方の美緒は、生クリームの中に小麦粉を入れようとしていた。間一髪、腕を掴んでそれを止める。
「何やってんの?」
「ええっとぉ……。ああ〜っ、小麦粉はこっちに入れないんですね。危うく桐岡君の食べるケーキが、粉っぽくなるところでしたぁ〜」
てへっ、と可愛らしく微笑む美緒だが、僕はさーっと血の気が引いた。
ああ、そっか。これ……僕が食べるんだっけ?
「最悪でも、飲み物一杯で食べ……」
突然、今日室内の電気が消えた。いや、廊下まで真っ暗だ。暗闇で目がなれていないので、すぐ近くにいるはずの美緒ですら薄っすらと見える。見ただけでは美緒と判別できないが、近くにいるのは彼女のはずだからそれでわかる。
オーブンを動かしすぎて、ブレーカーが落ちたかな?
「危ないからみんなじっとしてください!」
先生の声が響く。美緒はオーブンに入れてあるスポンジが心配なようで、手探りでオーブンをぺたぺたと触っているらしい音がした。何がしたいのだろうか。無駄だぞ、オーブンは動いていない。
「真っ暗ですぅ」
「動くな美緒。このパターン、なんだか僕が酷い目に遭いそうだ」
「私はぁ、何もしませんよぉ?」
「故意じゃないから対応しきれないんだよ。うわっ、ちょっと! ……ねえ、脚に生クリームかかった気がするんだけど」
ボールが落下する音が聞こえ、すぐに靴の隙間からドロドロしたものが入り込んでくる感触があった。美緒は「え〜? 何もしてないですよぉ」と容疑を否認しているが、お前以外に誰がこんなことをするんだと内心抗議する。
だが、酷い目に遭ったのは僕だけではなかった。近くで呻き声が聞こえたかと思うと、何かが倒れる物音。
「ブレーカー見てきますから!」
先生が教室内を走る音が聞こえる。廊下の扉を開け、学校でやれば注意されるほどのスピードでダッシュ。
そして教室内に光が戻った。一瞬蘇った光に目が痛くなる。
一番前の台で、倒れている人がいる。それを見て、おばさん特有の色気のない女性の悲鳴が教室内に響く。
光の中で、あのじゃらじゃらしたおばさんが死んでいた。