始まりの青の下
蝉が鳴いている。
命の輝きそのものにも聞こえる合唱が、雲ひとつ無い青空の下に響いている。
海のすぐ横に建つ県立長浜高校の、三階。二年生の教室が並ぶ廊下は静まり返っていた。
開け放たれたままの窓からは穏やかな波の音が響き、敷地内にある木々から遠く蝉の声が聞こえてくる。
そのゆっくりとした時間の流れはしかし、スピーカーから漏れたノイズに破られた。テスト終了を知らせる鐘の音が校舎中に鳴り響き、そう時をおかずして廊下は生徒たちの会話で埋め尽くされる。
午後をどうするか笑みを浮かべながら悩む者。すでに何をするか決めてあるのだろう、人にぶつかるのも構わずに駆けていく者。他のクラスの友人と合流し、目前までやって来た夏休みの話題に花を咲かせる者。嬉しそうな笑顔と楽しそうな声が、自由な世界へと続く階段を降りていく。
そんな夏祭り会場か初詣の神社のように人と声に溢れた廊下に、今また男子生徒が一人教室から出てきた。
ノリのきいた白いシャツから伸びた腕は、海辺の町の子どもらしく日に焼けている。周りの学生たちよりも焼け具合が薄いのは、彼が外で遊ぶのを好まない性格からだろうか。平均よりもやや低めの背と、どちらかと言えば「かわいい」という形容が似合いそうな幼さの残る顔立ちは、実年齢よりも一つか二つは年下に見える。
一冊の本を胸に抱えた彼は、人の流れに逆らって校舎の奥へと歩き始めた。
髪型など気にしていないことがよく判る、切っただけという感じの短髪。その下に覗く顔には、同級生たちと同様に満面に笑みが浮かんでいる。
何人かのクラスメイトが教室を出て階段へ向かい、その後に一人の女子生徒が慌てた様子で廊下に飛び出した。光の加減でこげ茶色にも見えるショートカットの髪を揺らし、彼女は少年の後を追いかける。
制服のミニスカートから伸びた足はうっすらと日に焼けていて、活発そうな表情からは何かスポーツをやっているのだろうとうかがえる。彼女は頬をわずかに上気させ、追いついた背中へと声をかけた。
「ゆ、優也!」
「……なに?」
優也と呼ばれた少年が足を止めて振り返る。至近距離で向けられた笑顔に、少女は一瞬目を見開いた。
「……あ、えーと」
すぐに我に返り、しかし少女は困ったように言葉を詰まらせる。視線を泳がせる少女に、優也は不思議そうに首を傾けた。
「晴香?」
その声に、少女――晴香はわずかに硬い表情のまま顔を上げた。そして一瞬優也と見つめ合い、ごまかすような微笑みを浮かべる。
「……ごめん、何を言おうとしたのか忘れちゃった」
「そう? なんだろ」
優也は何の疑いもなく天井を見上げ、自分でも答えを探すように瞬きをする。
晴香は優也が大事そうに抱えている古びた本に視線をやり、外からは判らないほどに薄く唇を噛んだ。
「……あ、晴香は今日部活だよね。帰り、校門のところで待ってるから」
優也は、これが答えでしょうと言いたそうな顔で笑いかける。その通りだったのか、晴香の顔にも明るい笑みが戻った。
「わかった。じゃ、また後でね」
「うん、また後で」
優也は軽く手をあげると晴香に背を向け、人の少なくなってきた廊下を歩き出す。スキップでもしそうな早足の裕也を見ながら、晴香は小さくため息をついた。
「……晴香、部活行くよー!」
名を呼ぶ高い声が、階段へ向かう一団の中からあがる。
「……あ、ちょっと待ってて!」
振り返った晴香は叫び、慌てて教室へと飛び込んで行った。
廊下を歩く学生はまばらになり、話し声も少なくなる。とって代わるように波の音がよく聞こえ始め、時折そこに蝉の声が交じる。
「はーい、鍵閉めるよー」
階段を上ってきた教師らしきスーツ姿の若い女性が、教室を覗き込んで声をかける。
何人か生徒が会話をしながら出てきて、廊下が少しの間賑やかになった。教師は一つだけ開いていた窓に近寄り、零れるような青空を見上げる。
「先生さようならー」
通学用鞄を抱えた晴香が教室を飛び出し、階段へと駆けて行った。
「あっ。三浦さん、誕生日おめでとう」
振り向いた教師が、思い出したように叫ぶ。
「ありがとうございまーす」
晴香の声が階段に反響して届き、教師はほっと安堵するような笑みを浮かべた。もう一度教室の中を覗いて誰もいなくなったのを確認し、ドアの鍵をかける。
階段に向かおうとした彼女はふと青空に視線をやり、そして今ごろ気付いたように窓を閉めた。
※
鍵を開ける音がして、急くように戸が引かれる。
「なんだ、やっぱり誰もいないのか……」
額に浮き出た汗を袖で拭いながら、胸に古びた本を抱えた少年――優也が図書室へと入ってきた。
開いたドアから熱気が入り込み、代わりに密室の冷房に冷やされきった空気が一斉に外へと抜け出す。廊下との温度差にか、優也は半袖から伸びた腕を寒そうにさすった。
彼はドアを少し開けたままで止め、慣れた動作で蛍光灯のスイッチを入れる。本の匂いが充満する室内を横切り、彼は迷うことなく窓際に並ぶ席へと向かった。
大切に抱えていた本をまるでガラス細工を扱うように丁寧な仕草で机の上に置き、背負っていたバッグを足元に置く。優也は窓を大きく開け放つと、椅子に腰掛けて空を見上げた。
強い日差しの降り注ぐ外からは、下校途中の生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる。しかし今の彼には、蝉の鳴き声すら届いてはいないのだろう。
片手を本の表紙にかけたまま、優也は黒い窓枠に切り取られた青空を見つめている。夢見るような瞳で息をつき、切なそうに顔を歪める。
その横顔に滲むのは憧れだ。それも、絶対に届かないことを知っていて、それでもなお渇望する彼の心が表れていた。
生徒たちの声が徐々に遠のいていった頃、ふいに一匹の蝉が窓から飛び込んできた。優也は一瞬遅れて我に返り、腰を浮かせて蝉を追う。
床のタイルの上にひっくり返った蝉は、優也が見つけた時にはもう動いてはいなかった。
木々がそよぎ、吹き込んできた風が優也の短い髪を揺らす。蝉の声が途切れ、遠く潮騒の音が室内に届く。
優也はティッシュを一枚取り出すと、優しく蝉の死骸を包み、両手で机の上に載せた。
わずかに開けたままのドアは微動だにしておらず、図書室に他の誰かが来る様子もない。優也はゆっくりとした動作で窓を閉め、蝉の隣に置いてある本と向き合った。
装飾などの一切無い茶色い表紙の中央には、金色の文字で『青い風』とタイトルが書かれている。中の紙の黄ばみ具合と乾燥してごわごわになった様子が、この本がもう何十年も前に書かれたものであることを示していた。
再び聞こえ始めた蝉の声は、窓ガラス越しにくもる。優也は表紙を開きかけて手を止め、小さく欠伸をした。
頬を軽く叩き、表紙をめくる。
『風の名を持つ友人に捧げる』
一ページ目の中央にぽつんと書かれたその文が、彼を本の世界へといざなった。
どこまでも続く青の下、再び風は吹き始める。