03/生活の始まりには
朝の清浄な空気が好きだ。もっと言うなら夜から朝へと移り行く景色が好きだ。ただ黙って座したまま夜明けを見るだけの日も多い。睡眠を必要としない身体だからこそ、朝も夜も自分の手の中にあるも同然だった。
陽射しを受けて輝く景色を眺めながら、何も考えずただその光景に酔う。この瞬間だけはあらゆる全てから解き放たれる。
喧しい足音が廊下から響いて来て、そこでアーネストは我に返った。時計に視線を向けると朝――早朝と呼ぶべき時間を示している。
煩さすら愛おしく、頬杖を付いたままで思わず微笑んでいた。椅子から立ち上がり振り返れば扉が乱暴に開く音がした。
「やあ、おはようエレイン」
「え、あ、おはようございます……――じゃなくて!」
扉を勢い良く開けたものの、先にアーネストから声を掛けられてエレインはつい返事をしてしまった。
エレインの後ろではミラが会釈をしている。彼女がエレインにここを教えたのだろう。
「これはどういう事なのか説明して下さいッ」
寝起きだろうに顔を赤くして詰め寄ろうとするエレインの目には、ひたすら笑いを堪えているアーネストが映る。それが余計に彼女を興奮させた。
「何、笑って……!もう朝なんですよ、一晩経ってるなんてどういう事なんですか!」
涙目になる程笑いを堪えていたアーネストだったが、これ以上黙っていては彼女に本気で嫌われ兼ねないのでどうにか溢れてくる可笑しさを飲み込んだ。
窓側へ向けていた椅子を本来の方向へ戻しつつ、明らかに怒っているエレインへと向き合う。
目を吊り上げて怒る姿も良いなと思う。動態とは何にも勝る感動であり、それを容易に見せてくれる彼女はやはり素晴らしい。
「失礼。確かに君の言う通りだ、私には説明の義務があるだろう。だが、全ては着替えてからでも遅くはないのではないかな」
アーネストを睨んでいたエレインの視線が、アーネストからの視線を受けて自分の体へと落ちて行く。
自分がワンピース型のパジャマ、要するにネグリジェ姿だと気付くと今度は小さく叫び声を上げた。
**
着替えのため寝泊りした客間へと戻ったエレインはミラの手によって弄ばれた。
弄ばれた、というのはエレインの感想であってミラは仕事をしただけだ。人の手により風呂に入れられ着替えさせられるなど未知の事で、エレインとしては丁重に断りたかったのだが
「アーネスト様より言いつけられておりますので」
――と言われるだけだった。
目覚めた時既に枕元に立っていたこの家の使用人は仕事に真面目であり、エレインをどこまでも客人として丁寧に扱う。
服を脱がせるのも着せるのも、風呂に入れる手順から化粧のさせ方まで手馴れたものであり無駄な動きが無い。主だった仕事は雑務ばかりのエレインにとって、これだけの事を速やかに他人に施せる腕に逆らう余地など無かった。
着替えさせられた服は当然の様に昨日までの物ではなく、黒いだけのメイド服はどこかへ消え去りクリーム色の落ち着いたデザインのドレスが用意されていた。
けれど異を唱えるだけの元気はもうない。何より、まるでお嬢様のように扱われる事が少し楽しかったのも黙る要因として大きかった。自分が勤める屋敷のお嬢様や奥方様がいつもこんな日常を送っているかと思えば心底羨ましくなった。
目が回る勢いで用意させられた後、戻ったリビングには先程見た時と何も変わらないアーネストが微笑んでいた。普段食べる物よりずっと豪華な朝食が当たり前の様に用意されており、席を勧められながらエレインは目覚めた当初の覇気がすっかり消え失せていた。
「私、もう帰らないと」
「心配には及ばないよ。説明するから、さあ座って」
聞いてはみたもののエレインの願いは叶わない。アーネストに従う他に無かった。いや、この屋敷に迷い込んだ時点でエレインに選ぶ権利など与えられてはいなかったのかも知れない。
出された物を残すのも気が引けるので口にして、昨日までの食事とは段違いの美味しさにエレインは驚いた。これが人並みの食事なら、昨日まで食べていたのは動物の餌に近い。
美味しさに溜息が出て、思い出した。森に迷い込んだ子供が魔女から沢山お菓子を貰った童話がある。それ以前に、彼が本当に吸血鬼なら――
「どうかしたかね。口に合わないかな」
「……これは、太らせてから私を食べるとか、美味しい物を食べさせて血を美味しくするとか、そういう」
手の止まったエレインに首を傾げたアーネストだったが、エレインの答えに堪えられなかった。声を上げて笑い、膝を叩いて俯く。――相当に面白かったらしい。
エレインから見れば、まるで馬鹿にされたような気がして面白くない。
「なっ、何で笑うんですか」
「ああうん、その、すまないね。そういう誤解のされ方を表だってされたのは久しぶりだったものだから」
目に涙を浮かべながら、笑いを堪えきれないままのアーネストは落ち着こうと紅茶に手を伸ばし掛け、吹き出してしまいそうだから途中でその手を止める。
噛み付いて来ようとする子犬のように見つめてくるエレインの姿が可愛らしいが、それを言うと更に話が進まなくなりそうだ。
「別に取って食べたり血を吸ったりもしないさ。吸血鬼とは言うが、分別無く他者の血液を欲しがるほど浅ましくは無い」
「血は吸わないんですか」
「今はね。必要が有れば吸うが、普段は必要が無いから吸わない。食事もそうだ、傷付けても元に戻る様な時間の停まった身体には食事も睡眠も必要じゃない」
趣味や習慣としての飲食はあるけれどね、とアーネストは付け加える。必要があれば吸う。やはり彼は吸血鬼に違いない。
「じゃあ……昨日のあれは」
夢や幻では無かったのか。
「もう一度やって見せようか?」
「結構ですっ!」
見ただけで卒倒するような経験は一度だけで十分だ。
それ程までに衝撃的で信じがたい光景だった。そして、どうやらそれは現実であるらしい。
再び脳裏を掠める記憶を振り払うようにエレインは食事に集中した。
「昨日君が倒れてから、君が勤めている屋敷へ使いを走らせたよ」
トーストで口の中をいっぱいにしながら、エレインは独り言のように呟くアーネストへ顔を上げる。
返答したかったが話せる状態では無い。それとも一人で喋るためにエレインが食事に集中するまで待っていたのか。
「君を、エレインを客人として招きもてなしたいとね。しばらくの間はそちらへ戻れないが了承してくれと伝えてある」
「――……!?」
「着ている服だとかもその時に買わせに行かせた」
「あのっ……むぐ」
「だから君が心配している様な事は何も無いのだよ」
口を開こうとしても、飲み込み切れていないパンの欠片が突っ掛る。アーネストは上機嫌そうにしているだけだ。
「どうして、どうしてそんな事まで」
エレインには理解できない。冷たいミルクでパンを流し込んで、アーネストを見上げても理解には至れない。
「君は――こんな所まで来てくれただろう。それも、私が吸血鬼かどうかなど構わず、たった一枚の花びらを頼りに来てくれた」
「それだけで?」
たった、それだけの事で。聞いてもエレインには理解できない。
それは自分が幼くて、対して相手が大人の感性や考え方で言うから理解できないのかと思ったが、確かに目の前の相手が吸血鬼であるなら――途方もない時間を生きたからか。その中で多くの人間とは違うものとして扱われてきたからか。そういう観点から評価されたのだとしたら、どうやってもエレインには理解できるわけも無い。吸血鬼が生きて行く中で感じる孤独や、その中で他者に抱く感情とはどういうものなのか、例え大人であっても理解なんて出来ないに違いない。
「君が吸血鬼に逢いに来ただけの子供なら、ここまではしないよ。エレイン」
優しく微笑む彼の、これまでにどんな人生があったのだろう。髭や目尻の皺を見つめても、彼が吸血鬼として歩いてきた今日までの事は何一つ見えては来ない。忙しなく働く事しか知らない少女には想像も出来ない。
見つめるのも見つめられるのも恥ずかしく、その上で返答に窮してエレインは視線をそらす。ふと、食事の済んだ皿を音も無く片付けて行くミラの姿が目の端に映った。エレインの視線を感じるとミラは小さく会釈だけを返す。だが、背後の気配に振り返るとそこにもミラが居た。
訳が判らずもう一度見るとやはり卓上を片付けるミラが居て、エレインの背後には相変わらずの直立でミラが居る。
「この屋敷の使用人は二人、後ろに控えている方がミラで片付けをしている方がティナだ」
「双子……だったんだ……」
エレインの態度から察したアーネストに紹介されて、鏡で映したようにそっくりな二人が並んで立ちエレインに深く御辞儀をした。その姿までそっくりに似ていて、まるで良く出来た作り物のようだった。
聞けば、ミラがアーネストの――エレインが来てからはエレインの世話をしている間、ティナは部屋の片付けや掃除から食事の準備までこなしているとの事だった。ミラが手伝う事もあるが、基本的に二人には明確な分担があるらしい。
「常に傍に居て給仕的な仕事を主にするのがミラ、姿が見えずとも屋敷中の仕事をしているのがティナと覚えれば良い。ああ、でも偶にこっそり入れ替わるから気を付けなさい」
悪戯に不敵な表情で言われると、冗談なのか真実かどうか判らない。エレインが答えを求めるように双子を見ても、双子の使用人も答えを言わないままに微笑んで首を傾げた。
**
食事の後は屋敷の中を案内された。アーネストの後ろを歩きながらその間エレインはずっと無口で、初めて働きに出た時を思い出していた。今日からここで働くのよ、と言われた日もこんな風に緊張していた。
「判らない事があれば何でも聞いてくれたら良い。世話ならミラがするし、ティナも何でもしてくれる」
開けられた扉の向こうは書斎だった。壁一面が本棚になっていて、分厚い本が並んでいる。
知らない世界に忍び込んだように気持ちが高揚する。掃除するために入る事こそあれ、招待される事があるなんて信じられない。それ程、本だらけの光景はエレインの胸を満たした。
「エレイン、君の知りたい吸血鬼についての事柄はこれに書かれているだろう。かつて存在した高名な吸血鬼にして探究者の、自分自身――すなわち吸血鬼の生態調査の報告書だ。写本であるが故に削除されている記述もあるが、知る事が許されている限りが書かれている」
アーネストは本棚からでは無く窓際に置かれた机の、鍵のついた引き出しから本を取り出した。豪華な装丁で本自体にも鍵がかけられている。横からはミラがエレインへ鍵を二本渡して来る。机と本を開ける鍵だと思われた。
「でも、あの、困ります」
けれど差し出されたそれらを受け取らず、エレインは首を横に振って眉を下げるばかりであった。
困惑している、というよりは悲しそうだった。アーネストにはその理由が解らない。
「……エレイン?」
「簡単な単語なら、読めるのですが」
文章までは、と項垂れる。
――珍しい話では無かった。労働階級や貧困層に文字の読めない者は多い。エレインの同僚、即ち勤めている屋敷のメイドの中には言葉も通じない外国人が居たくらいだ。
何だか申し訳ないような、アーネストと自分との差を感じるような、悲しい気持ちになる。エレインがスカートを握りながら俯くと、頬を掌で挟まれて無理矢理に顔を上げさせられた。
「それならそうと早く――いや、言う機会も無かったか。まあ良い。それなら読み書きも覚えて行けばいいだけだ。ミラは物を教えるのも上手いぞ」
アーネストの微笑みは、エレインを安心させる為のものだろうか。それならば成功しているとしか言えない。
**
その日を境にエレインの生活はそれまでのものから一変した。
労働階級の少女だったのが、まるで貴族階級のお嬢様にでもなったかのようだった。世の中は判らない。そう思いながら吸血鬼の屋敷での生活が続く。
午前中はミラから字を習い、午後になればアーネストから吸血鬼について――大人なら誰もが知っている程度の事を聞き、陽が沈めば何もしない。アーネストに倣い夜は静かに過ごした。
何もしない、という意味では朝から晩までエレインが"自分自身でする"事は極端に少なくなっていた。食事の準備も着替えも、ドアを開ける事から椅子を引く事まで自分の手では行わせてもらえない。アーネストは進んでエレインの傍に居るが、ミラはそれ以上に――目覚めてから眠るまで――エレインの隣にいる。
最初の日こそ畏れ多い気がして遠慮があった。けれど勉学に疎かった少女は、知る楽しみを覚えてからは勉強に夢中になり、二日も経てば使用人に何かをさせる側になる事にも慣れて行った。ミラが徹頭徹尾エレインを客人、あるいは嬢として扱うのも大きい。
午前は書斎にある詩集を朗読出来る事を目標に文字を習い、昼食が終わればアーネストの隣や膝の上に座り吸血鬼とは何かを学ぶ。
「君の目の前にも居るように、吸血鬼は実在する。不思議でも怪異でも何でもない」
アーネストはいつも優雅で落ち着いた雰囲気だった。傍に行くのは気恥ずかしいが、そうしないと口を開いてくれないので仕方が無い。甘える様な素振りを見せればえらく喜ばれるが、年上の異性への甘え方など知っている年齢では無いし無邪気になれる程子供でもなかった。
父が居ればこんな感じであろうかと思ったが、それは言わずに真面目に話を聞く。
「実在するって、それは誰にでも教えられるんですか?」
「教えられる、というのとは違うかな。例えば政治家や領主全員が下々の事を思って働いているかと言えばそうでは無く、むしろ私利私欲の為に動く者の方が多いだとか。例えば夜の窓辺にミルクを置いても妖精は訪れないし、幾ら信じても背中に羽が生えて屋上から飛び立てる日も来ないだとか。そういう類の知識さ」
吸血鬼の私が妖精を否定するのも可笑しな話だがね、とアーネストは笑っていた。エレインは何が可笑しいのかも良く解らなかったが、要するに学ぶ事では無く身をもって知る事だと言いたいのだとは理解出来た。
「居るのは良く解ります。でも、どうして大人は吸血鬼に近づくな、なんて」
怒っている様な、怯えている様な、キザイアの姿が思い出された。
「それはそうだろう。関わり合いなんて持つべきじゃないという判断は正しいさ。例えば何かの拍子に怒らせたり喧嘩になったり恨まれたりした時に、間違いなく負けるのは人の方なのだから」
その時一度勝利しても、相手が吸血鬼であれば何度でも甦る。生き返った吸血鬼は自分を負かした――殺した相手に復讐する。何があっても勝てない相手、自分達とは違う不死の生き物。人が吸血鬼を遠ざける理由としては大きかった。
人々が選んだのは吸血鬼達を幻想種のままにしておく事だった。見えないけれども居る、居るけれども見えない。
「この土地、君が住んでいる町は元より私の所有だ。実権と取り仕切りは長を勤めている一族に譲っているがね」
土地の所有者として生活に必要な最低限の収入だけが送られてくる、代わりに"何もしない"のがアーネストの仕事、なのだそうだ。
多くの者はそんな事実さえ知らない。ただ、丘の上に吸血鬼が住んでいるとしか知らない。だからこそアーネストに対して怯え、遠ざける。否、本来の領主だと知ってもそれは変わらないのかも知れない。
「皆で仲良く出来ればいいのに。アーネスト様だってこんなにきちんとなさってる方なんですから」
エレインの毒気のない発言に、しかし当の吸血鬼は良い顔をしなかった。
「それは……どうかな」
視線が窓の向こうへと漂っている。ここには居ない誰かを思い出している様な表情だった。
「吸血鬼が皆、私の様にまともだとは限らない。人の中にも悪人は沢山居よう。同じくらい、永遠を生きるのを良い事に悪事に染まる吸血鬼は、少なくないさ」
**
エレインにとって夜とは恐ろしいものではなかった。労働によって疲れた体を横たえる時間であり、それは癒しの一時に違いなくそして明日への入口だった。
夜の住人に怯えるよりも、明日が今日よりも素晴らしい一日である事を祈る方が大事だった。
故に、夜の訪れを警戒した事など一度も無かった。
アーネストとの話は実に有意義で楽しい物だ。知らない事を知るという事がこんなにも楽しいとは知らなかった。勤め先のお屋敷で、お嬢様はいつも勉学を嫌って居られたからつまらない物だと思っていたが、そうではないらしい。
とはいえ頭を使う事は体を動かす事と同じだけ、あるいはそれ以上に疲労する。横になれば深い眠りに落ちれる、その筈だった。
その夜は息苦しさに目が覚めた。
目を開けても、何が起こっているのかを理解できない。体が動かせない点は事実として理解出来たが、では具体的に自分の身に何が起こっているのかを説明する事には繋がらなかった。
「不用心ね」
女性の声が聞こえ、爛々とした輝きを持つ瞳が自分の顔を覗き込んで来て――そこでようやく解った。目が暗闇に慣れてきて、自分の今の状態をやっと把握できた。
誰かが、仰向けで寝ていた自分の身体の上に乗り掛かっている。
解った途端に恐ろしさが込み上げてきた。叫び出したかったが、声が出ない。喉か腹を圧迫されているのかも知れない。
「眠る時は窓を閉めなさいって教わらなかった?そうしないと吸血鬼が忍び込んで来て、食べられちゃうんだから」
長い赤毛の綺麗な女がいた。アーネストと同じ色の瞳が見下ろして来る。
驚きと恐怖で冷や汗が飛び出す。女は自分の身体の上から降りて行くが、動く事がまだ出来ない。
「もうちょっとお話ししたい所だけど――また今度機会があればね。生きてるただの人間みたいだから迂闊に触れもしないし」
扉を開けて去って行く姿を見送るしか、エレインには出来なかった。
女は一度振り返る。
「今夜は何があっても大人しくしていなさい。そうしたら、黙って見逃してあげるわよ」
艶やかな笑みを残して、女は扉の向こうに消えた。
扉の向こうから足音さえ消えて再び暗闇と静寂が訪れ、そこでやっとエレインは動き出せた。ただ、腰が抜けていたので立ち上がる事が出来ず、這う様な動きでベッドから落ちて扉の方向へ向かう。
女の後を追いたかったのか、扉の前に座り誰も入れないようにしたかったのか、自分でも判らない。エレイン自身が扉に辿り着く前に扉が再び開いた瞬間は今度こそ泣き出してしまいそうだった。
「ご無事ですか、エレイン様」
入って来たのがミラだと判っても震えが止まらない。扉を後ろ手に閉めエレインの傍にしゃがみ込み、震える体を抱いてくれるまで信じる事も出来なかった。
「い、まの、なに……」
「ここに居れば安全です。大丈夫、私がお守りします」
優しい声が耳元をくすぐる。それでも冷や汗と震えが止まらない。
あの女に何かをされた訳では無い。ただ怖かった。本能のようなものが叫ぶのだ、あれは危険だと。
それに考えてみれば彼女はどうして自分の上に居たのか。窓を閉めていないからという様な意味の言葉を聞いた、つまり彼女は窓から侵入してきたのか。部屋が一階だったから、窓を開けていたから、だから窓際に設えてあるベッドで眠っていたエレインの上に居たのか。
彼女もこの屋敷の住人なのだろうか。けれど同居人や家族の話なんてアーネストからは聞いていない。考えても何の結論も出ない。ただ酷い頭痛がしてくるだけだ。
ミラの後ろ、扉を隔てた遠くで激しい物音がしている。低い叫び声が聞こえたような気もしたが、エレインにはそれがアーネストのものかどうか判別が出来ない。唇が震え喉が張り付いて、ミラに尋ねる事も出来なかった。
物音が近づいてきているような気がしてエレインはとうとう泣き出してしまう。押し殺した泣き声を聞いてか、ミラはその頭を黙って撫で続けている。それで涙が引っ込む程の恐怖では無かったが、孤独でないと知れるのは嬉しかった。
**
死に慣れるという事が出来れば少しは楽になれるのだろうかと考えるが、それが出来ないからこそ我々は闇に生きる事を選ぶのだろう。痛いものはどうやっても痛いし、苦しみはどう足掻いても苦しみだった。
心臓に刃を突き立てられながらアーネストは溜息を吐いた。同時に喀血してしまったが、そういう事態に狼狽える時点は過ぎている。
本懐を遂げられない祖の八つ当たりに付き合うのも生の一環であり吸血鬼になるまでに犯した罪の償いであると思えば納得は出来るが、しかし何十回何百回と繰り返されても痛いものは痛いのだから仕方が無い。
「何を笑っているのよ。そんな、満足そうに……!」
どうやら溜息と同時に血を吐いたのを笑っていたと誤解されたらしい。あるいは、自覚の無いままに笑っていたのだろうか。確かにアーネストにとってここ数日は笑みの絶えない日々であった事は間違いない。
「あの娘は何なの。生きてる子供なんて飼って、私への盾にでもしようとしてるの?」
「まさか。彼女は……そう、私の、生きる理由に成り得るかも知れない人ですよ」
うつ伏せになった床に口元から血が滴って行く。笑っているのだと、その時確かに自覚出来た。彼女の事を考えるのはそれだけで楽しい。
そう言えばエレインはどうしているだろう。ミラに部屋から出さぬよう言ってあるから問題は無いだろう。例え我が祖と行き会っていたとしても、彼女は生きた人間に手出しは出来ない。
「貴女が、遂に辿り着けなかった場所まで私は行き着いてみせる――今度こそ」
「お前が?笑わせないでよ……ッ!」
背中への衝撃はそのまま痛みとなり体を奔る。上に乗られたか、踏まれでもしたのか。
「お前は何処へも行けやしないし、何にもなれやしないのよ!私を……私を殺してくれないお前に、何かが与えられる事も訪れる事も無いんだから!」
祖が叫ぶ相変わらずなワンパターンの呪詛を聞きながら、痛みで視界を赤と黒に点滅させ意識を遠退かせて行く。
心臓を裂かれた場合は何時間掛かって蘇生出来るかを考えつつ、その夜アーネストは一度絶命した。
**
何分経ったのか、あるいは何時間も経っているのか、時計を振り返る余裕がなくて時間の経過が判らない中、気付くとミラは頭を触るのを止めていて、同時に物音が全て止んでいる事にエレインは気づく。
顔を上げるとミラが微笑んでくれていた。それでも腰が抜けたままでエレインは動けない。
「――……お客様がお帰りになられたのかも知れませんので、少し見て参ります」
待って、と引き留めたかったがミラより早く動けない上に未だまともに声も出せない。一人残されて、エレインは再び暗闇の恐怖に怯える。
先程のあの女の言葉が思い出された。大人しくして居たら良いのだと言っていた。けれど、扉の向こうで何があったのか知らないで居る事も不安に駆られる。
震える足で立ち上がり、扉を開けた。けれどエレインはすぐに扉を閉めて――気を失って朝まで目覚める事は無かった。
明るい廊下の壁に血がぶちまけられているのが見えた。何があったのかを想像するだけで思考が停止して、意識を保っていられなかった。