02/吸血鬼の恋
丘を軽快に登る。
エレインの足取りはいつもよりずっと軽い。久しぶりに丸一日休暇をもらえたのも喜んでいる一因だった。
いつもの黒いメイド服は変わらないが、今日はエプロンをしていないし髪も下ろしてある。汗をかいて働く予定は無いからこれで良かった。
手にした小さい籐のバッグにはあの花びらが入っている。
目指したのは例の幽霊屋敷、吸血鬼の住む家だ。歩いて行くには少し遠かったが仕方ない。
近付くな、と周囲の大人に散々言われてきたから丘の傍まで来た事すら初めてだった。鬱蒼とした木々が広がる事も無く道も整備されていて、屋敷まで行く事は思いの外容易だった。
見た所屋敷に変わった所はない。エレインの働く屋敷と同じくらいか、少し小さいくらいに見える。
幽霊屋敷などと呼ばれる割に外観はとても美しかった。建ってから年数は経っている様子だがおどろおどろしい様子は全く無い。
近づけば庭が見れるかと思ったが、高い塀が邪魔をしていた。どうやら屋敷の中からしか見られないらしい。
(……どうしよう)
ここまで来て、エレインはどうしたら良いのかさっぱり分からなくなってしまった。
金色の花びらを拾って、もしこの屋敷のものだったら一輪譲ってくれないかと言い出すつもりだったが――良く考えれば変な話だ。
根拠は、と問われたら「ここが吸血鬼の屋敷と言われていて、こんな見た事も無い花が咲くのはこの屋敷だろうと言われたからだ」とでも答えるつもりだったのだろうか。失礼過ぎる。
それに、何の約束も無いただの下級使用人の話をまともに聞いてもらえるとも限らない。屋敷の主まで通してもらえるかも怪しい。ならば勤め先の主人の名前でも出すべきか。否、それこそ間違っても出来ない事だ。
(それに、ちゃんと話の通じる人が出てくるとは限らないわ)
言葉の通じない化け物が出て来るかも知れない。
(……そんな事あるわけない)
幽霊も妖怪も作り話の中のものだ。だから、とにかく金色の花に心当たりがあるかどうかだけでも聞くまでは帰れない。そう決意してエレインは扉をノックした。
扉はすぐに開いた。緊張して身構えたエレインだったが、その必要は無かったらしい。
「御機嫌よう、ようこそおいで下さいました。――主が中でお待ちです」
「え、あ……はぁ……」
余りにも予想外で、そして拍子抜けでエレインは間抜けな声しか出せなかった。
出迎えたのは見目麗しいメイドだった。エレインはつい自分と比較して見てしまうが、何もかもが向こうの方が上だ。
先ず外見が美しい。背が高く全体的に細く、髪も艶やかな黒髪が長く真っ直ぐで、出迎えに見せた笑顔も完璧だった。
着ている服も自分よりずっと高価なのだろう、良い生地を使っているのは自分と比べて一目瞭然だ。半袖に肘の隠れる白い手袋なんてお洒落にすら見える。羨ましいなと思う所こそあるが、変な所は何も無い
まるで約束のあった者を出迎える様だった事を考えれば、自分と言う存在は少なくとも屋敷の主に事前に見つかっていたのだろう。丘を登る所から見られていたに違いない。
屋敷の内装も考えていたものとはまるで違った。――普通だったのだ。
趣味の良いアンティークの調度が並び、掃除が隅々まで行き届いている。窓からは明るい日光が射していた。
普通、吸血鬼だとか幽霊だとかが住むのなら窓は全て遮られ薄暗く鏡には布が掛かっていたりする。そういうものだと思っていたから、やはりここにはそんなもの居ないに違いない。
そこまで考えて、結局の所「信じていない」と思い込みながら自分自身も何かがあるのではと疑っていた――あるいは期待していた事にエレインは溜息を吐いた。
「どうぞこちらへ」
「あ、ありがとう」
先導するメイドは実に美しい訓練された所作で、その姿や屋敷の内装にエレインは見惚れていた。だから「貴方の主は吸血鬼なのですか?」なんていう馬鹿げた質問を口に上らせる事が出来なかった。
開いた扉の向こうにも当然の様に陽の光が射していた。通されたのは恐らく応接間だろう。大きな暖炉と窓、そして椅子に腰掛けたままの男性――この屋敷の主であろう人が目に飛び込んでくる。
「こんな所までご足労だったね、小さなお客様」
「……――あ、お、お初にお目に掛かります。私はエレイン・カークと申します。ここまでお通し頂き感謝致します」
「宜しく、エレイン。その格好を見た所、どこかの使用人なのかな」
男にすっかり目を奪われていたエレインは、声を掛けられて我に返り慌てて名乗った。スカートの裾を摘まんでお辞儀をしたまでは良かったが、どこかのと問われた瞬間どう答えたものかと固まってしまう。
「それは、あの」
「……無理をして答えなくとも良い。私が君の事を知らない様に、君も私を知らないだろう?さあ、どうぞ座って」
口篭るエレインに対し屋敷の主は優しい視線を向けている。
勧められるまま、テーブルを挟んだ男の向かいにエレインは座った。座る際にメイドに椅子を引かれるような扱いは初めてで狼狽する。
(やっぱり、普通の人だわ)
屋敷も使用人も自分の居る所と大きな変化はない。主とてそれは同じだった。
見た目は50代前半といったところだろうか。少し癖のある銀色の髪を肩まで伸ばし、前分けの前髪が顔のサイドに掛かっている。細く切れ長の赤銅色の瞳は釣り上り気味だが、表情が穏やかだから厳しい印象はない。
顎髭があって、口元や目尻には当然の如く皺があって、それでいて見ず知らずの使用人風情を屋敷に通し正面に座らせるこの度量。おまけに高価な服の下に鍛えられた肉体が隠されているのが見て取れる。気品と優雅さも備えたその姿は、自身の勤める屋敷の主人より余程威厳があるとついエレインに思わせてしまう。
「私はこの屋敷の主人でアーネストという。さて、君は何を求めてここへ来たのかな」
口篭ったきりエレインは視線を向ける事すらできなくなった。急激に恥ずかしさが襲ってきて、唇が渇き喉が張り付き上手く言葉が捻り出せない。
周囲の言葉でしか知らないこの屋敷を、その中に住まう者を、何も知らないのに勝手に憶測を並べ立てここまで来た自分が恥ずかしい。そして何も知らないのに吸血鬼だ幽霊だと騒ぐ周囲の者達の事も恥ずかしい。
きっとここへ探検に来たはずのあの下男の少年も、この主の姿を見て自分を恥じて、帰って来てからも何も語らなかったのだ。余り姿を見せぬこの男への誤解を解く事が難しいと思い、恥を重ねる前に黙る事を選んだのだろう。
「どうかしたのかね」
アーネストの視線が苦しい。自分がとても恥ずかしい生き物に思えて、エレインはいっそ消えて無くなりたくなった。
謝って帰ろう。そう思った。ここへ迷い込んだ子供達もみんなそうして来たのだろう。
きっとあの花びらも良く出来た偽物だったに違いない。キザイアの言う通り、さっさと捨ててしまうべきだったのだ。
「いえ、何でもありません。何でも……あぁッ!!」
誤魔化して帰る事を決意した時だった。
ふらふらしていた視線はその時になってようやくテーブルの上に活けてある一輪の花に気が付いた。
思わずエレインが大きな声を上げて立ち上がったものだから、アーネストは眼を見開いて硬直し、ティーセットを二人の前に出そうとしていたメイドも動きを止めた。
**
エレインが語った事の経緯を、屋敷の主人――アーネストはテーブルに肘を付き、笑みを絶やす事無く聞いていた。
吸血鬼や幽霊屋敷、そういった単語にも不愉快そうにする様子は無い。むしろ、キザイアとの会話の件などは声を上げて笑った程だ。
「なるほど。正体不明の花の出所は正体不明の屋敷だろうと推察されたわけか」
「申し訳ありません……」
「君の考えではないのだから君が謝る事では無いだろう。それに、結果的には大正解だったじゃないか」
項垂れるエレインにも、アーネストは優しかった。その優しさがエレインは少し辛い。
二人に挟まれたテーブルの上にはエレインが拾った金色の花びらが置かれ、それと全く同じ花びらの百合が活けてある。
キザイアの予想は見事に当たっていたのだ。
「綺麗な金色に見えるだろう。友人が改良して作ったものでね、色は後から乗せたものだが枯れにくい生花である事は間違いない」
花瓶の中で輝く花を見つめれば、それもそうかとエレインは肩を落とす。金色の花なんて有り得ない。
けれど何日経っても瑞々しいままのもがれた花びらだけでも感嘆に値する。自分の様な労働階級の与り知らぬ所で技術は動いているのか。いつか近い内に青薔薇にもお目に掛かれるのかも知れない。
「こんな物で良ければ幾らでも譲ろう。正真正銘の金色の百合でなくて申し訳ないがね」
「宜しいのですかっ?」
満足したなら帰れと言われると思っていたエレインは、驚きで声が裏返った。アーネストはその姿を見て微かに口元を綻ばせる。
「金色とはいえ価値は無いに等しいから、個人的に愛でるだけにしてくれよ。ミラ、お客様にお渡し出来るよう準備しろ」
「かしこまりまして御座います」
主の後ろに控えていたメイドは入って来た扉とは別の扉の向こうへ消えて行った。
メイドの後ろ姿を見送ったアーネストは、そう言えばとエレインに向き直る。メイドではなくアーネストの横顔を呆然と見ていたエレインは少し慌てて姿勢を正した。
「大事な事を聞いていなかった。この花、どうするつもりなのかね?」
エレインは喉を詰まらせたように俯いた。言い難いわけではないが、何となく憚られる気がした。
「……やはり売るか見世物にでもするつもりだったかい」
「いいえ!……――あの、両親に見せようと思って」
向かいで明らかに表情を曇らせたアーネストに気付き、エレインは慌てた。口を割らないわけにも行かなくなった。
「なんだ。随分と親孝行な娘じゃないか」
「私がしてあげられるのはお墓を磨いてあげるとか、お花を見せてあげるとか、それくらいだから」
そこまで言わなくても良かったかも知れないが、半端にひた隠しにするのも気が引けた。言えばどういう反応が来るか予想が付くが、生存していると認識されたままでは会話が成り立たない場合が多々ある事も学習している。
「あぁ、うん。……失礼。私とした事が気が利かなかった」
「良いのです、どうぞお気になさらないで下さい」
真実、気になどして欲しくなかった。エレイン自身は慣れている。父と母は居ないものとして生きて来たから、気を使われる方が困る。
物心ついた時にはそういう状態だったし、それが当たり前だった。とはいえアーネストの方はそうも行かないのか不憫そうに目を細めている。それはそれでエレインの心を抉る。
二人の間に流れてしまったどこか気まずい空気をどうにかしたくて、エレインは思いつくままに口を開いた。
「そうだ、どうしてアーネスト様は吸血鬼などと噂されていらっしゃるのです?そのような不名誉を受ける御方には見えませんが」
確かに空気は流れを変えた。但し、エレインの想像に反して硬化したのだった。
やはりこの話題は不味かったのか、先程までは愛想を振り撒いてくれていただけか。エレインは後悔したが、そうではなかった。
アーネストの表情が固まる。けれど強張った訳では無く、初めて目が合った時と同様に微笑んでいた。
「決まっている。私は本物の吸血鬼だからね」
ご冗談を――そう言おうとして、アーネストの微笑みが口元だけだという事に気付いて言葉を失った。
不思議な色の瞳が真っ直ぐに自分を見ている。自然と肩が竦む。ここへ来て初めて怖いという感情をエレインは抱いた。
「あの花びらを捨てろと言ったガヴァネスは正しかったのさ。大人からの注意は素直に受けるべきだね」
アーネストの手にはナイフが握られていた。テーブルの上にはそんな物は無かった筈だが、懐から取り出したのだろうか。アーネストの顔に釘付けになっていたエレインには判らない。
「大人は皆知っている。ここには永い時を生きる吸血鬼が住んでいる、自分達とは違う化け物が住んでいる、とね。信じているとか噂しているとかでは無いのだ」
そんな馬鹿事がある訳ない、そう言ったつもりだったがエレインの唇は震える事しか出来ていなかった。
射抜くような視線が突き刺さる。エレインがアーネストから視線を外せないでいるように、アーネストもまたエレインを見ている。
視線が合ったままアーネストの手先だけが動く。彼が袖をまくったのだと、エレインは後から気づいた。
「教えてあげよう。吸血鬼は実在する事を」
袖をまくった腕にナイフを振り落す。痛みに眉を顰め指を戦慄かせながら、けれどアーネストに躊躇はまるで無かった。
「なっ……!ダメ、止めてください!」
思わず立ち上がり声を上げたエレインだったが、その目の前で更に信じ難い事は続く。ナイフが刺さった場所から血が溢れたのを見たのに、刃が肉を抉るのを確かに見たのに、けれどナイフが抜かれたアーネストの腕は――時間が逆さに回るように傷口が塞がって行った。
肉が肉を覆い、切り離された皮膚が繋がって行く。生々しくグロテスクな光景は、テーブルの上に血液だけ残して傷を「無かった事」にしていた。
「……なに……どういう、こと」
「私は吸血鬼だと言っただろう?闇に生き、日光を恐れるばかりが吸血鬼の姿とは限らない。君は些か無知過ぎたね」
血の気が引いて行くのをエレインは感じた。頭が白んで行く、寒気がする。――気持ち悪い。
勢いで立ち上がった姿勢を保てなくて椅子に座り込んでしまいながら、見たばかりの光景を信じられずにいた。
「おや、顔が真っ青だ。少し刺激が強すぎたかな」
アーネストの声も遠いような気がする。視界が歪む。胃の辺りが熱い。
「このままでは帰れまい。休んで行きたまえ」
低く優しい声が聞こえる。遠いのか近いのか、判らない。
エレインはテーブルの光沢と活けられた金色の百合の輝きで視界をいっぱいにしながら気絶した。
「……――随分と、初心な反応だ」
そこまで言って、まともなら耐えれないかと思い直した。
あらゆる意味でショッキングな光景を見て、精神が耐えられずに気絶してしまったエレインを見下ろすアーネストは彼女のすぐ後ろに立っている。エレインはその事に気付かないままに失神してしまったが。
背後から手を伸ばし、彼女の肩や腕に触れてみる。まだ小さく細く、更に成熟し大人になっていくのだろうなという余地を感じさせる。
(生きているのだな)
自分自身からは感じ取れない感想を抱き、アーネストは少しの間触れたまま動けなくなる。
だがいつまでもテーブルに突っ伏したままの姿ではかわいそうで、その小さくも生きている身体を抱き上げる事にした。エレインは見た目通りに軽く、アーネストが腕に抱くのは簡単な事だった。
応接間には芳しい百合の花と、テーブルの上に這う様な血、そして曇ったナイフだけが残された。
**
吸血鬼の住む屋敷に朱い明かりが射して行く。ここへも夜が訪れようとしていた。
自室に戻ったアーネストは窓辺に立ち、その明かりを一身に受けている。
ノックの音に振り返れば、エレインを出迎えた黒髪のメイド――ミラが扉を開けて静かに礼をしている。エレインに向けた様な笑みは無い。
「命ぜられたお仕事は全て済んで御座います。」
「ご苦労。自分の部屋へ戻って休んで良い」
「お客様のお傍に仕えずとも宜しいのですか?」
「……朝まで目覚めまい」
エレインを運んだ客間には深く寝入れる香を焚かせてある。自然と口端が吊り上がるのをアーネストは感じていた。
戻って良いと言われたミラは主の邪魔をしない様に、短く挨拶だけして扉を閉めて去る。
再び独りとなったアーネストは何の憚りも無く笑った。喉から声が上ってくるのを堪えきれない。視線を手元に落とせば、その手にはエレインの持ってきた花びらが握られていた。
どれだけの時間が経とうとも萎びない金色の花びら。時間が止まったままのようなその花びらは、鮮やかさも芳しい香りも――無理やり引き千切られて取られたような跡もそのままだった。
金色を咲かせた百合はアーネストの屋敷に咲く百合に違いない。色は後から乗せたなんていうのは嘘だ。それが枯れる事も散る事も有り得なかった。花びらが一枚飛んで行くような事も無い筈だ。
ならばこの花びらは意図的に散らされ、丘の上から放たれたのか。だとしたらそんな事をする心当たりはアーネストには一人しか居ない。
だが、今はそんな事はどうでも良かった。
丘を登ってくる少女の生き生きとした顔を覚えている。
その上彼女は自分を吸血鬼として疑ったからではなく、花の出所かどうか知りたくてここまで来たと言った。
吸血鬼かどうか確かめに来ただけならば、いつもの様に求められる形に沿って吸血鬼らしく脅かして帰す所だ。
単純に花が欲しいと言うだけなら希望通り分けてやり、何もせず帰しても良かった。
けれど彼女がそうでは無かったから。
――どうしてアーネスト様は吸血鬼などと噂されていらっしゃるのです?
事もあろうにエレインがそう言いだしてしまうから。
人前で自分から肉体を傷付けた事など初めてだった。何年振りか何十年振りか、あるいは長過ぎる時間を生きて来て初めて、それ程までにアーネストの心は揺さぶられた。心躍ったと言っても良い。
ナイフを突き刺した腕が元に戻って行く姿を見て青ざめて行く顔が忘れられない。彼女は本当に何も知らないのだろう。
「嗚呼――……」
甘く切ない溜息を吐きながら壁に寄り掛かる。体の中の高揚が行き場を失っている。
アーネストは想像していた。自分の真実を、吸血鬼の何たるかを一つ一つ教えて行ったら彼女はどんな反応をするのだろうかと。
恐れるか、嘲るか、同情でもしてくれるだろうか。
例えそれがどんな反応だったとしても、きっと今日のやり取りと同じくそこには喜びを見い出せるに違いない。
エレインの事がもっと知りたいと思った時、もう帰してやる選択肢は無くなった。
これは恋だと、確信している。