2012ホワイトディ考察
文献・資料はあたっていなく、wikipediaで見た情報しか参考にしていないので、話半分に読んでください。
まぁ、こういう考え方もあるんだなということで。
日本人は、何かと贈り物をするのが好きな民族だ。
日本には昔から年賀、中元、歳暮、節句等の季節に折々に贈り物をしあう贈答の習慣がある。誕生日、進級祝い、成人祝い、結婚祝い、出産祝い、エトセトラエトセトラ。あるいは旅行や出先から帰ってきたときのスーベニア(おみやげ物)や、誰かのところに訪問したときの手土産、隣近所へのお裾分けなんかも贈り物の一種である。
それを思えば、生まれてからこの方一度も贈り物を受け取ったことがないという人はいないのではないだろうか。
一説にはローマ帝国時代に起源を持つと言われ、欧米では恋人達の愛の誓いの日、そして親しい人に菓子を贈る日ともされるバレンタイン――日本では製菓会社の陰謀とまことしやかに噂される――は、かつての日本では女性から好きな男性に贈る日と限定されていたが、義理チョコや友チョコなどという形で、現在では親しい人に菓子を贈る習慣として原点回帰している。
そのため、すでにクリスマスなどと同様、季節の贈答習慣の一環になりかかっていると思われる。すなわち、日ごろの感謝を込めた挨拶のひとつになっているわけだ。
むしろ若い人たちにとっては、安価なちょっとした品で済む分、伝統的な季節の挨拶に取って代わりつつあるような気配すら感じられる。
さて、本日はホワイトディである。
ご存知の通り、バレンタインディのお返しとして男性から女性に贈り物をする日とされている。
これはもともと欧米にはない習慣ということもあり、営利主義に基づいた、そして女尊男卑の恥ずかしい決まりだとして、いまだ文化の一環として認知され切っているわけではないバレンタインと比べても、男女ともども顔をしかめる人が多い習慣でもある。
だが、ここで私はあえて、バレンタインと対を成すホワイトディは有りだと意見させて貰いたい。
今日みたいな日にこんな事を言い出すと反発を買うのは分かっているが、それでも聞いてもらえたら幸いだ。
さて、ではまず初めに何故バレンタインと比べてホワイトディに拒否感を示す人が多いのか整理してみよう。
私はそこに、四つの理由があると考える。
まず一つ目が、歴史的根拠がないこと。
先に挙げたように、バレンタインは嘘か真か、一説にはローマ帝国時代にまで起源を遡ると言われ、欧米の習慣が日本に伝わったものである。
一方、ホワイトディは日本発祥であり、また製菓業界が提唱し始めたものであるため、営利主義に基づいた習慣であるとして反発があるものと思われる。
二つ目は、一つ目に関連して、文化としてまだできて新しいということが言える。
バレンタインもまだ文化としてしっかり根付いているとは言いがたい新しい習慣であり、そのため年配の人には好ましくないという考えを持っている人も多いようだが、ホワイトディもここ最近になってようやく認知され始めた習慣のため、より増して軽薄だと考える人が多いのだろう。
さらに三つ目は、『三倍返し』の定説である。
ホワイトディのお返しは、バレンタインディに貰ったものの三倍の値段のものを贈る、というのがよく言われていることである。
だが、これが良くない。
三倍のお返しというのは、男性側にあまりに負担が大きいし、女性が暴利なお返しを期待している日という意見が出てしまう。
そして四つ目は、そもそも厚意(で渡したもの)に対してお返しを期待するのは卑しいという考え方である。
私は特にこの四つ目に関して、否を唱えたいと思う。
少なくとも先の三つに関しては、時間が解決してくれる問題であると思われる。
歴史が浅い、根拠がないというのも、クリスマスなどと同様文化として定着すれば気にならなくなるものだろうし、三倍返しの法則も、かつて宝石会社が流行らせた「婚約指輪は給料三か月分」が今はさほど重要視されていないように、理由の感じられない、あまりに不平等な法則はやがて廃れていくだろう。
だから問題は、四つ目の厚意のお返しを期待するのは卑しいという考え方だ。
確かに、それはある意味では正しいことだろう。
利益を期待して何かを差し出すのは投資であり、それは商売であって厚意ではない。
返礼を期待して贈り物をするというのは、感謝や祝いの気持ちが先にあるべきところに欲を持ち出すことに他ならず、それが卑しい行為であるといわれるのならば否定できないことだろう。そもそもお返しがなければ許せない人間は、贈り物をするべきではない。
だが、それは飽くまで『贈り手』側の言うべきことである。
会釈をされたら会釈を返すように、例え義理でも欲が混じっていても、誰かから厚意を示されたら、それに感謝するのはそんなにおかしなことだろうか。
お歳暮もお中元も、お返しを期待して贈るものではない。
しかし、貰ったからにはなにか別の形でお返しをする。それが日本の伝統である『義理』というものではないだろうか。
くれと頼んだわけじゃない・どうせ義理で配られたものだ、というのは礼をしない理由にはならない。それならいっそ最初から、お返しできないから貰えないと言えばいいという考え方もある。実際にそうやってバレンタインの贈り物を断っている人も多いだろう。
もちろん、バレンタインに贈り物を貰ったら、絶対にホワイトディでお返しをしなければならないということではない。
ホワイトディもバレンタインも、まだ文化としてしっかり根付いている訳ではないから、お返しするもしないもその人次第である。返さなかったからと言ってその人の品性が下がるということは一切ないし、義理を欠いたと責められるいわれもないだろう。
でも、やっぱりお返しを貰ったら誰だって嬉しいし、ああこの人はマメで義理堅い人なんだなと、好感度が上がるかもしれない。それがのちのちの人間関係を円滑にしていく。
季節の挨拶に対する返礼とは、そういうものなのではないだろうか。
確かにホワイトディのお返しを期待してバレンタインにチョコを贈ると言うのは卑しいことかもしれないけど、バレンタインのお返しに何かして貰えるかなってワクワクするのは別に悪いことではないと思う。
それは相手の厚意を期待しているということであり、それが叶わなかったからといって、がっかりしたり相手を非難したりしなければいいだけの話だからだ。
また、お返しもホワイトディに行うに限らず、普段のちょっとした行為や言動で示すようにしたっていいだろう。ホワイトディというのは、そしてバレンタインもまた、感謝や好意の気持ちを形で示す、単なるきっかけに過ぎない。
しかしそれでもなお、日本古来の習わしが今風にアレンジされたものだと思えば、私はバレンタインもホワイトデイもありだと考えるのである。