騎士の彼女は悪役令嬢に尽くしたい
「お前、まさかお嬢様の専属騎士選抜に出るわけ?」
歴史あるローゼンバーグ公爵家の騎士たちが嘲笑う。
公爵邸の敷地内にあるローゼンバーグ騎士団訓練場。その選抜試験の控室。
男たちは、自身の鎧を抱えて入ってきた小柄な少年に向かって指をさし、揃って笑い声をあげた。
半地下にあるそこは、声がくぐもってよく響いている。
「エイドリアン。やめとけって。
専属騎士は騎士の中でも特別な奴しかなれねぇんだよ。小柄なお前がなれるわけないだろうに」
「それに、お前、話せねーじゃん。お嬢様のお付きの騎士は荷が重いって」
エイドリアンとよばれた少年は無言で椅子に腰掛けると、頭部の鎧を抱えたまま、静かに壁を見つめた。
「だんまりかよ!」
また、笑い声が響く。
「おい! 私語は慎め!
お前らは誉れあるローゼンバーグ騎士団だろうが!」
騎士団長セドリックが怒声を上げながら控室に入ってくると、だらけていた騎士たちの背筋が伸びた。
少年も静かに椅子を立ち、団長に体を向ける。
「それにこの選抜試験には誰でも参加できるわけじゃない。エイドリアンだって選ばれてここにいるんだ。お前らこそわきまえろ!」
笑っていた騎士たちの鋭い視線が一斉にエイドリアンに向く。
エイドリアンは瞳をわずかに伏せたまま、小さく頭を下げた。
顔を隠す程に長い前髪と、妙に癖のある毛量のある髪のその奥。
髪の隙間から覗くのは、長いまつげと大きな瞳。
それから、細い顎。
そして、騎士にしては華奢な肩幅。
共に訓練を受けてきた彼らだって、少年の実力を知らないわけではない。だが、その女のような見目と、仲間と一言も口を利こうとしない態度は、彼らの目にはどうにも鼻持ちならないものに映った。
「とにかく、これより試験を始める。出ろ!」
「はい!」
セドリックが扉脇に立つと、騎士たちが順番に部屋を出ていく。
エイドリアンは最後にセドリックの脇を抜けた。すれ違いざま、団長が彼の背を叩く。
「アレクサンドラ様も見にいらしてる。頑張れよ」
少年は団長と目を合わせると、頷いた。
「はい」と吐息だけの返事をする。
石床を踏んで、歩き出す。
数段の階段の先、観覧席がぐるりと囲う特別訓練場。
その石畳の上を砂埃が舞うのが見えた。
エイドリアンは胸に手を当て、大きく息を吸った。
少年が、訓練場に立つ。
向かい合うは背の高い騎士。
鎧の隙間から、対戦相手の口元が歪むのが見えた。
エイドリアンは表情を変えずに、ゆっくりと視線だけを巡らせた。
観覧席にいるローゼンバーグ公爵家の人間。その中のひとり、金髪碧眼の美女に目を止める。
背筋を伸ばして凛と座っている彼女こそが、アレクサンドラ・ローゼンバーグ。この選抜試験は、彼女の専属騎士を決めるためのもの。
彼女がゆっくりとこちらを見た。
わずかに、心臓が跳ねる。
――絶対に、負けられない。
――あの方の近くに立つのは、他でもない。
自分だ。
肌が粟立ち、下ろしたままの剣の柄に触れている自分の指先が震えている。
これは、恐怖などではない。武者震いだ。
向かい合う騎士二人の間に、別の騎士が立つ。
片手を高く上げた。
エイドリアンは剣を構える。
身を、低く沈める。
「はじめ!」
石の床を強く蹴る。
――力を見せつけてやる。
――一瞬で決めるんだ。
相手の騎士の訓練用の木剣から、空気を切る音が鳴る。
力強く振られた剣。
身を低くして躱す。
そのまま相手の懐へ。
剣を下から振り上げる。
鎧に弾かれるが、相手はびくともしない。
――知っている。
他の騎士たちより力が無いことを。
――だから……
振り上げた剣の勢いのまま、
体を振り、思い切り蹴る。
――正攻法ではない。だが、違反でもない。
少しだけ。
相手の身が後ろへよろめく。
その隙。
男の背後へ回り込み、跳んだ。
砂埃。
汗が舞う。
短い呼吸。
頭部の鎧の隙間へ。
首の後ろ。
木剣の切っ先をトンと当てた。
「やめ!」
着地。
剣を下ろした。
相手は言葉をなくして静かに振り返る。
エイドリアンは淡々と元の位置まで戻った。
そして対戦相手に向かって、頭を下げる。
体を起こし、視線を向けた。
美しいアレクサンドラ。
――どうか、自分を選んで欲しい。
彼女に向かって、もう一度、深く頭を下げた。
観覧席。
「ねぇ、団長。あの子……」
アレクサンドラは巨躯の騎士団長に少しだけ身を寄せるが、セドリックは口端をわずかに上げて、唇に人差し指を当てた。
「そう」
彼女は反対の席にいた父に顔を向ける。
「お父様。私、あの“少年”がいいと思います」
父も、大きく頷いた。
「いいだろう。実力も申し分ない」
「えぇ、“彼”がいいわ」
アレクサンドラはゆったりと腕を組むと、エイドリアンに視線を向けた。頭を下げていた彼が体を起こし、踵を返した。
その背を、彼女は目を細めて見つめた。
エイドリアンは、アレクサンドラの私室に呼ばれ、彼女の前に立っていた。
「エイドリアン。
あなたが今日からわたくしの専属騎士です。よく務めるように」
少年は、彼女の前に跪いた。
窓から差し込む光は、アレクサンドラをまっすぐに照らしている。
深色のウォールナット材、葡萄色のカーテンやリネンで整えられた部屋は、若い令嬢の部屋というにはあまりに重厚だった。
だが、それでもアレクサンドラは、この部屋こそが彼女に相応しいと思わせるほどの風格で、少年騎士の前に静かに立っている。
エイドリアンは彼女を見上げた。
深い青の瞳。
そこに、今自分だけが映っているのだと言う事実。心が、思わず震えてしまう。
彼は無言で頭を垂れた。
――この時を、どれほど待ち焦がれたことか。
アレクサンドラは、彼の肩にそっと手を置く。
そして、それはすぐに離れていった。
彼は瞳を伏せた。
音を立てずに立ち上がり、窓辺に向かったアレクサンドラの背を見つめる。
深く頭を下げ、彼も彼女に背を向けた。
扉の外で控えるために、歩き出す。
エイドリアンの口角はわずかに上がっていた。
勤務を終えたエイドリアンは、与えられた個室に下がった。いつでもアレクサンドラのもとに駆けつけられるようにと、与えられたのはすぐ近くの部屋だ。
エイドリアンは騎士団にいた時も寮には入らずに通いだったため、大きく生活は変わる。
広い部屋ではない。
最低限の家具しかない。
私物はほとんど置かれていない。
エイドリアンは絨毯を踏み、クローゼットそばにおいていた剣立てに真っ直ぐに向かうと、剣を掛け、革の胸当てを順に外していく。
そして、彼はもっさりとした黒い髪を引っ張った。
カツラを、外す。
首を振り、まとめていた長髪を自由にさせた。
シャツのボタンを外し、きつく巻いていた晒しを外して抜き取る。
エイドリアンはほっと息を吐いた。
彼――いや、彼女は女性らしい体つきと、艶のある美しい黒い長髪を持った女性だった。
男性しか騎士になれないこの国で、どうしても騎士になりたかった彼女は、ある日、“少年騎士”となることを選んだのだ。
彼女はシャツのボタンを留め直し、書き物机の椅子に座った。口角がみるみる上がっていく。たまらず顔を両手で覆った。
「……嬉しい」
柔らかい、女性らしい高い声。
一人きりの部屋。
彼女は手を顔から外すと、窓から月を見上げた。まるい月。金にも見えるその月は、アレクサンドラの髪色によく似ていた。
エイドリアンは瞳を伏せる。
出会いは、彼女がまだ幼い頃――
エイドリアンが住んでいた近所には、ローゼンバーグ騎士団を引退した老爺ガレスがいた。剣術に興味のある子供たちは彼のもとに通い、剣術を教わっていたものだ。
エイドリアンも、そんな子どもの一人だった。
初めは、興味はあったが男の子しかいないその場所に踏み込むのは怖かった。だが、こっそり剣の稽古をのぞいていたエイドリアンに気づいたガレスは、彼女に声をかけた。
“帽子の中に髪を隠して、男の子の振りをしておいで。
興味があるなら、やってみたらいい”と。
エイドリアンは言われた通りにして、稽古に通うようになった。
彼女は剣術の才能があった。
だが、それは少年たちの妬みを買った。
エイドリアンは、周りの男の子たちがまだ声変わりする前でも、彼らと話そうとはしなかった。嘘をつくのは苦手だから、女であることを隠すために、そもそも会話をしないことを選んだからだ。
無口で、どこかツンとした彼女はよくいじめられた。
ガレスの見ていないところで石を投げられたり、足をかけられたり……。そんなことがたびたびあった。
その日も、彼女は足をかけられた。
うまく避けられる日もあるが、その日は思い切り転んでしまった。
少年たちが声を上げて、彼女を指を差して嘲笑う。
「生意気なんだよ!」
誰かがそう叫んだ。それを皮切りに少年たちは罵詈雑言を浴びせ始めた。
「薄気味悪いんだよ!」
「喋れよ!」
一人が石を投げる。
それが、彼女の額にはっきりと当たり、血が垂れた。
謝るどころか、彼らはやっぱり笑った。
だが、その時――。
「ねぇ、あなたたち、ガレス元隊士に剣術を教わっている子供たちよね?
――ローゼンバーグ騎士団を目指してるの?」
突然現れた、綺麗な衣服を着た、綺麗な女の子。
少年たちは皆ハッとしてそちらを見た。
「わ! ローゼンバーグ公爵令嬢だ!」
誰かが叫び、場は騒然とする。
彼女は腕を組み、固まっていた少年たちに向かってゆったりと歩く。彼女の歩みに合わせ、少年たちは避け、道を作った。
その道はまっすぐにエイドリアンに向かっている。
まだ幼いアレクサンドラはエイドリアンの前まで来ると、くるりと踵を返し、少年たちに体を向けた。
「騎士の卵のくせにいじめ?
……みっともないこと」
令嬢の声は落ち着いている。
ゆっくりと放たれたその言葉に、少年たちは揃って肩を震わせた。
アレクサンドラは少年たちを見回す。
誰も、身動きしない。
凍ってしまったかのように、ただ彼女を見つめている。
「あら? ここまで言われても、この子に謝らないの? 情けないわね。
――あなた達のような子が騎士になんてなれるわけないじゃない」
エイドリアンは自分の前に立つ少女の背を、静かに見つめた。
「ローゼンバーグ騎士団を舐めないでちょうだい!」
一喝。
少年たちは、身を震わせた。
その場にしゃがみこんだ子どもさえいる。涙目になり、謝りもせず、彼らはただ、公爵令嬢を見つめ続けた。
エイドリアンもその背を見つめた。
すぐにガレスとアレクサンドラの侍女が駆けつけ、少年たちの謝罪はうやむやのまま、その場は解散になってしまった。
エイドリアンは侍女を伴って去っていく彼女を、いつまでも見ていた。
ガレスに「すぐに気づいてやれなくてすまなかった」と謝られたが、そんなことはどうでも良かった。
ただ、首を振るだけで返した。
彼女はこの時、誓ったのだ。
――あの人のすぐ近くに立ち、あの人を守れる人になろう。
助けてくれたからではない。
凛と立つ彼女の姿に。
その品格に。
心が惹かれてしまった。
誰かに仕えるのなら、彼女以外あり得ない。
そう、子供心に感じた。
エイドリアンは伏せていた瞳を開けた。
掛けられた剣。
そこにはアレクサンドラの専属騎士にだけ許された紫の飾り房。
彼女は立ち上がってそれに近づくと、そっと指先で触れた。
「お守りします。アレクサンドラ様」
本人に向かって、この声で誓うことは許されない。房をキュッと握りしめ、額を当てた。
――今夜は胸があまりにも熱くて、眠れないかもしれない。
アレクサンドラは一見すると高飛車な女だが、理不尽なことを決して言うことはない。エイドリアンが焦がれた彼女は、思っていた通りに、美しく、素晴らしい主だった。
――だが、エイドリアンには一つだけ耐え難いことがある。
「お前、もう少し愛想よくできないのか?」
思わず、彼女は腰の剣に手を添え、抜きかけた。隣にいたアレクサンドラの侍女にぎょっとした目で見られたが、仕方がない。
王城庭園。
ガーデンテーブルにアレクサンドラと向き合って座っている男。
アレクサンドラの婚約者――王太子ヴァレリオ。
この男の存在だけは、エイドリアンは許せなかった。
「申し訳ありませんわ」
「ほら、どうしてそう偉そうなんだ?
もっと可愛く言ってみろ。お前、世間で流行っている物語の“悪役令嬢”そのものではないか。
笑え。私に媚びろ。私をいい気分にさせろ。
それがお前の仕事だろうが」
「まぁ……それは存じ上げませんでした」
アレクサンドラが微笑みを浮かべる。見ているこちらが蕩けそうなほどに美しい笑みだが、当の王太子は眉を寄せた。
「本当にお前は可愛くない」
離れて控えているエイドリアンは、音が鳴りそうなほどに歯を軋ませる。
婚約者同士の定例茶会では、毎度、こうだ。
ヴァレリオが延々とアレクサンドラを罵る。
この時間が、あの男が、エイドリアンにはどうしても苦痛だった。
公爵邸に戻り、やがて勤務時間を終えたエイドリアンがアレクサンドラに挨拶に向かうと、彼女は侍女を下がらせて、出窓の前で一人佇み、グラスを傾けていた。
「エイドリアン。もうあなたが下がる時間なのね。ちょっとこちらへいらっしゃい」
手招きされ、近くに寄る。
アレクサンドラは残りのワインを一気に飲み干すと、近くのテーブルに置いていたボトルからワインをまた少しだけ注いだ。
そのグラスを持ち上げ、エイドリアンに差し出す。
「ほら」
エイドリアンは驚いて思わず一歩引く。
「グラスは今、一つしかないの。
まぁ……あなたなら、いいでしょう?」
彼女の背後にある並んだ縦長の窓。
細い月が向こうに浮かんでいる。
テーブルの上に置かれた燭台の明かりが、ゆらゆらと揺れていた。
一応、エイドリアンは“男”で、ここは密室だ。絶対にグラスを受け取るわけにはいかない。
エイドリアンははっきりと首を振った。
それを見たアレクサンドラの柳眉が下がる。
「そ。残念ね」
アレクサンドラはグラスに自ら口をつけた。
その青い瞳に、月が映り込んでいる。
「エイドリアン……あなた、いつも冷静なのにあの男だけは嫌いよね」
エイドリアンは頷きもせず、視線だけをわずかに下げた。
アレクサンドラは腕を組み、月を見上げる。
「同感よ。でも、“王命”なのよね。無能王太子のお目付け役ですって。
陛下も彼が“無能”だって、理解しているのよ……。それでも、我が子はやっぱり可愛いものなのかしら……。なぜ、“王太子”は彼なのかしらね」
エイドリアンが微動だにせずにいると、アレクサンドラはゆっくりとエイドリアンの方へ顔を向けた。
「怒ってくれて、ありがとう。
でも斬っちゃだめよ? あの男、あれでも“王太子”だから」
エイドリアンは頷いた。
アレクサンドラが微笑む。
凛とした、彼女。
エイドリアンはアレクサンドラのその瞳をじっと見つめた。
やがて一礼し、彼女は部屋を辞した。
その日も、エイドリアンはアレクサンドラに伴われて王城へ来ていた。
執事がヴァレリオの待つ部屋の扉にノックをしようと腕を上げたが、その動きが止まる。老執事は腕を下ろすと、さっとアレクサンドラに向き直った。
「そう言えば、アレクサンドラ様。庭園の白薔薇が見事に咲き誇っております。
よろしければ先にそちらをご案内させていただきたいのですが――」
さすがは王城の使用人。表情は完ぺきに取り繕っている。
アレクサンドラはにっこりと笑んで返した。
「まぁ、そうですの。それでは――」
エイドリアンは眉を寄せる。
逡巡し、不躾だと知りつつも、アレクサンドラの肘にそっと触れた。
彼女が振り返る。
「エイドリアン……。いつものことでしょう?」
エイドリアンは首を振った。
――やはりあの男はアレクサンドラ様には、相応しくない。
アレクサンドラの青い瞳が、エイドリアンの長い前髪に隠されている大きな瞳を見つめる。
「……分かったわ。あなたの好きにしていい。
――さすがにもう、潮時よね」
アレクサンドラがおどけたように微笑んだ。
執事が一瞬にして、顔を青ざめさせる。
エイドリアンはそんな彼を押しのけた。
扉を勢い良く開ける。
窓がいくつも並んだ明るい部屋。
その中央に置かれた大型のソファ。
そこにいるのは――
ほとんど裸で抱き合う男女。
女の方が悲鳴をあげ、急いで乱れたドレスで体を隠そうとする。
エイドリアンは女には構わず、まっすぐに大股で男の方に近づいた。
「お……お前! 入ってくるな! いつも通り大人しく待てばいいだろうが! そんなことも公爵家の騎士は分からんのか!」
王太子ヴァレリオは怒声を上げた。
エイドリアンは彼に寄り、ボタンが一つも留まっていないシャツの左右を合わせるようにして掴んだ。そして、持ち上げる。
王太子の首に、エイドリアンのシャツを掴んだ拳が当たった。
エイドリアンは男に顔を寄せた。
できる限り、彼女は声を低くする。
「あなたに決闘を申し込む」
その気迫。
それに飲み込まれ、声が高いなどという違和感に気づける者など、いなかった。
途端に冷え込んだ空気。
王太子の相手をしていた女は全身を震わせ、ヴァレリオは目を見開いている。
「……僕が勝てば、殿下有責のもと、婚約破棄。
僕が負ければ、僕は騎士をやめる。
僕の騎士生命を賭けよう。
――よろしいですね」
ヴァレリオの瞳が震え、騎士に真っ直ぐに射抜かれる。
「よ……よろしい……です」
エイドリアンが手を離した。
ヴァレリオはエイドリアンの黒い瞳から視線が外せずにいる。
「では」
騎士が踵を返す。
扉口に立っていたアレクサンドラは楽しげに口元を緩めると、エイドリアンを迎えた。
「さぁ、帰るわよ。
お父様にご報告しなければ」
エイドリアンが頷く。
「ま……待て! アレクサンドラ!」
アレクサンドラの視線が、ソファの方へ向けられた。
そして、艶やかに微笑む。
「王太子殿下。とても楽しみですわね。
勿論殿下は、あなたの身代わりとなってくれる騎士を選んでいただくだけで結構ですよ」
ヴァレリオの口が大きく開く。
「私のエイドリアンは、とっても強いので。
――それでは、ごきげんよう」
アレクサンドラが部屋を出ると、彼女の騎士も部屋を出ていった。
残された王太子は、ただ呆然と、閉まる扉を見つめた。
高窓から差し込む光は鈍かった。
決闘当日。
王城の近衛隊訓練場。権勢を見せることを前提とした石造りの建物には、至るところに装飾がなされていた。
控室となるこの部屋でさえ、臙脂と金糸で織られたタペストリーが吊り下げられている。
王国の紋章。
その金糸が、鋭く光を返していた。
エイドリアンは金属鎧を纏い、その頭部を膝の上に置いたまま、静かに椅子に座っていた。傷だらけの石床を見つめる。
どんなに派手に飾り付けられようと、硬いブーツで踏まれ続けた床には、いくつもの傷があった。
ゆっくり、細く、息を吐く。
外からは、喧騒がわずかに聞こえてきている。
貴族間の名誉を賭けた決闘は、王家の立会いのもとで正式な裁定として認められる。公爵家の騎士と、王太子の名を背負った騎士との決闘の噂を聞きつけた貴族たちが、観覧席に押しかけてきているのだ。
エイドリアンは、ふと視線を上げた。
開け放しのままだった、部屋の扉。
そこに、アレクサンドラが立っている。
エイドリアンは立ち上がり、彼女に向かって一礼した。長い前髪が、顔にかかる。
「エイドリアン」
彼女が歩み寄る。ドレスの裾が揺れ、衣擦れの音が、控室に落ちた。
アレクサンドラは腕を組んでエイドリアンの目の前に立つ。
豊かなうねりのある金の髪と深い青の瞳は、変わらず美しかった。見るものを圧倒するだけの誇りと品格が、そこにある。
「あなた。そのままの姿で戦いなさい」
エイドリアンは頷く。
だが、アレクサンドラは首を振った。
「エイドリアン。いつまで男の振りを続けるつもり?」
エイドリアンの肩が震える。
その目が見開かれるのを、アレクサンドラは愉快げに見つめた。
「“そのまま”のあなたで戦うの。
実力で私の“専属騎士”を勝ち取ったあなたは、誰?」
アレクサンドラが腕を伸ばす。エイドリアンの肩に手を置いた。
「男の皮をかぶらなくったって、あなたはこの国随一の私の騎士。
下手な鎧はあなたの繊細な剣技を鈍らせる。そんなもの、脱いでしまいなさい」
エイドリアンの唇が震える。
「……アレクサンドラ様。いつから……」
アレクサンドラは口角を上げ、にこりと笑んだ。
「ほら。透き通ったいい声じゃない。
あなた、この先も私のそばで、その声で“アレクサンドラ様”と呼び続けるのよ。騎士をやめるだなんて、許さないんだから」
エイドリアンの黒い瞳と、アレクサンドラの青い瞳が真っ直ぐに交わる。
「存分に戦いなさい」
エイドリアンは大きく頷いてから、彼女の前に跪いた。手を差し出せば、アレクサンドラがその指先をエイドリアンの手のひらに添える。
「はい。アレクサンドラ様に勝利を捧げ、あの野蛮な男を退けて差し上げます」
「あなたなら、やれる。期待しているわ」
彼女の指先を引き寄せ、爪先に口づけを落とした。
胃の腑から、全身が震える。
彼女のために、剣を振るう。
外の喧騒。
派手な装飾。
そんなもの、どうでも良かった。
あの青い瞳が、ただ一人、自分を映している。
それが、全てだった。
エイドリアンは立ち上がる。
そして、扉の外へと、歩き出した。
砂塵が舞う。
エイドリアンは剣を地面に立て、その柄に両手を重ねるようにして置いた。
向かいにいる騎士は、巨躯の王族近衛騎士。
相手が小柄なエイドリアンであると知っている王太子は、あえてその男を選んだのだろう。
金属鎧の兜の隙間から、エイドリアンは静かにその男を見据えた。
観覧席からはずっと声が上がっている。
王族とローゼンバーグ公爵家、それから王国のあらゆる貴族たち。その声が波のように訓練場を震わせていた。
一人の男が、二人の間に立つ。
この国の宰相だ。
彼が手を挙げると、会場が静まった。
「これより決闘を始める。
王の名のもとに執り行われるこの決闘は、王家とローゼンバーグ公爵家の名誉をかけて行われる。
ローゼンバーグ公爵家の騎士が勝利した場合、王家とローゼンバーグ公爵家の間で取り交わされていた婚約を、ヴァレリオ王太子有責による破棄を認める。
また、王家の近衛騎士が勝利した場合、ローゼンバーグ騎士団隊員エイドリアンの騎士の称号を永久に剥奪する。
双方、死に至るまでの戦いを禁ず。
先に剣を落とすか、立ち上がれぬ者を敗者とする」
静寂。
宰相が手を挙げたまま、一歩下がった。
エイドリアンたちは剣を構える。
宰相の手が、鋭く振り下ろされる。
「はじめ!」
石床を蹴る。
砂が飛ぶ。
兜の頭頂についた紫の飾りが、鮮やかに振られる。
エイドリアンは相手の小手先めがけ、突く。
近衛騎士はそれを避ける。
男が大きく剣を振るう。
エイドリアンは身を引いて躱した。
近衛騎士の剣は、風を斬った。
その風圧が、鎧の隙間から頬を切り裂くようだった。
思わず口角が上がる。
圧倒的な膂力。
相手として申し分ない。
近衛騎士の足元を突く。
何度も。
男の隙が生まれるまで。
しつこく。
軽やかにステップを踏むように、
大柄の男を弄ぶように、跳ねては、突き、
近衛騎士の剣を避けては、突く。
男の兜の隙間から、苛立った視線を感じる。
彼が踏み込む。
力のままに、剣が垂直に振り下ろされた。
身を引く。
男の剣は、間をおかずに真横へ振られる。
さらに身を引く。
エイドリアンに向かって、剣が突き上げられる。
避ける。
わずかに鎧に剣先が触れ、鋭い音を立てた。
――押され始めているな。
近衛騎士はまた、剣を横薙ぎに振る。
エイドリアンはそれを剣で受け流した。
「いっ……!」
手首に鋭い痛み。
――馬鹿力め。あんなもの、まともに受けたら腕が折れてしまう。
歯を食いしばる。
身を低くする。
踏み込んだ。
――何のために、ここまで来た。
剣を真っ直ぐに突く。
躱される。
また振る。
近衛騎士は剣で受け、それは押し返される。
さらに踏み込んで、懐へ。
――あの方の近くに立つため。
全体重をかけ、体をぶつける。
近衛騎士が距離を取ろうと、足を引いた。
――あの方をお守りするため。
地に触れそうなほど、身を沈める。
――あの気高い矜持にも、美しいその御身にも、あんな穢れた男なんかに触れさせてなるものか。
そして、鎧の隙間。
下から男の手首めがけ、
刺せ!
剣が、男の手から飛んだ。
一拍。
カラン……と、剣が地に落ちた。
エイドリアンの浅い呼吸。
エイドリアンは静かに、低くしていた身を起こすと、元の位置に戻った。
剣を地面に立て、その柄に両手を重ねる。
宰相と、その隣にいた審判をしていた騎士に目をやった。
「し……勝者、エイドリアン!!」
音が止む。
そして、歓声。
近衛騎士と向き合い、一礼した。
男はエイドリアンに歩み寄ると、握手を求めてきた。
「……戦えて光栄だった。騎士エイドリアン」
「こちらこそ。ありがとうございました」
騎士の目が一瞬見開かれる。
「君……」
エイドリアンは男の手を取り、強く握る。彼の手より一回りも華奢な手。近衛騎士がその手を握り返すよりも早く離れると、彼女は振り返った。
観覧席から悠々と降りてくる、王族とローゼンバーグ公爵家の者たち。
エイドリアンはアレクサンドラを見つめる。
彼女は優雅にエイドリアンの前まで歩いてくると、思い切り腕を伸ばして、エイドリアンに抱きついた。
「あなた、最高よ!」
エイドリアンはその背に腕を回す。
巨躯の近衛騎士と向き合っても震えなかったその指先は、今、ひどく震えていた。
「お守り……できました」
アレクサンドラが離れ、鎧の隙間の瞳を覗き込む。
「外しなさい。鎧」
「え」
「今度は私が、あなたを守る。
私が誰だか、あなたならよく知ってるわよね?
――アレクサンドラ・ローゼンバーグよ。
私なら、あなたを守れる。あなたの立場も地位も名誉も全て。
私に預けなさい」
喉が締め付けられる。
視界が、わずかに滲んだ。
「……はい。アレクサンドラ様。
あなたの……御心のままに」
エイドリアンは、頭部の鎧を両手で持ち上げた。
風が吹く。
まとめていた黒の長髪が、さらりと彼女の背に落ちた。
光を返す、艶やかな髪。
それが風に揺らされる。
いつも下ろしていた長い前髪もきっちりと留められており、大きな瞳の可憐な顔が覗いた。
エイドリアンは続けて、金属鎧の胸当て部分も外した。
そっと、地面に置く。
観覧席が、騒然とした。
女性らしい胸元。あまりにも華奢な腰。
誰がどう見ても、公爵家の騎士として戦った“少年騎士”は女性だったのだから。
「お前! 女のくせに、男だと偽って騎士団にいたのか!」
王太子ヴァレリオがエイドリアンを指さして、そう声を上げた。
アレクサンドラがそちらを一瞬見るが、視線は王太子を素通りし、顔を国王に向ける。
「陛下。私、アレクサンドラ・ローゼンバーグは、この婚約を破棄します」
国王は諦めたように、頷いた。
「また、提案がございます」
ローゼンバーグ公爵が、アレクサンドラの肩を抱く。父娘は一度目を合わせると、二人して不敵に笑んだ。
「お忘れかもしれませんが、私にも王位継承権があるのです。
父はとうの昔に放棄してしまったようですが、私はまだ……。
つまり――お分かりになって?」
国王と宰相の顔から血の気が引く。
ヴァレリオは理解できていないようで、アレクサンドラと父王の顔を、口を開けて交互に見ていた。
「私が玉座に就きます。女が座ってはならぬという決まりはなかったはず。男がずっと玉座にいたのはただの“慣例”でしたわね。
そして、この国初の女王となる私に相応しい騎士は、いついかなる時もそばに侍ることが許される女性であるべきです」
アレクサンドラが腕を組む。
「陛下は、どう、考えられて?」
国王の目が息子であるヴァレリオに向くが、まともな反論さえできない彼に、ため息をついた。
宰相と目を合わせ、頷き合う。
「……よかろう。そなたの王位継承権については、改めて評議会を開く。
だが少なくとも――ヴァレリオを王太子の座に置き続けることは、もはやできまい」
アレクサンドラの口角が上がる。
彼女は後ろ手をエイドリアンに向って伸ばした。
エイドリアンは少し悩み、その指先をそっと握る。
アレクサンドラは騎士の指を、強く握り返した。
「ありがとう存じます!」
アレクサンドラが観覧席に向って片手を上げる。
拍手と、やがて歓声が沸き上がった。
ヴァレリオは一人、その場に膝をついたが、アレクサンドラはもう彼を振り返ることはなかった。
彼女は後ろにいたエイドリアンに向き直ると、にっこりと笑んだ。
「ついてきなさい。私のエイドリアン」
「はい。アレクサンドラ様」
アレクサンドラが歩き出す。
エイドリアンは騎士として、その半歩後ろを歩いた。
――後日、アレクサンドラは評決を受け、正式に王太子に指名されることとなる。
そして彼女が最初に着手したのは、女性にも騎士への門戸を開く制度改革だったことは、言うまでもあるまい。
――なぜ、ここまで来た。
彼女のそばに立ち、彼女を守るため。
彼女の矜持も、御身も……。
その全てをこの剣で守るため。
今日も、エイドリアンはアレクサンドラの半歩後ろを歩いていた。
アレクサンドラが振り返り、エイドリアンを見て、微笑んだ。
エイドリアンも、アレクサンドラを見て、微笑んだ。
そう。
ただ、この時のために、ここまで来た。
そして、これからも――。




