世界樹の記憶、名もない獣人の章
名もなき狼獣人の章
0章一節
ノクティヴェイル――この世界において、人が自分とは異なる種族と出会う機会は、決して珍しいものではない。
その顔ぶれは大陸ごとに異なり、たとえ同じ種の者であっても、住まう土地が違えば、文化も言葉も、纏う空気さえ変わる。
それは人間同士でも同じことだ。肌の色が違い、信じるものが違い、育った土地の風が違えば、別の民のように見えることもある。
エルフ、ドワーフ、フェアリー、リザードフォルク、ドラゴノイド、フェザーフォルク。
世界樹の加護に守られた大都市に暮らす者もいれば、荒野や山脈、湿地や森に根を張り、それぞれの土地でそれぞれの生を営む者もいる。
ノクティヴェイルとは、そうした異なる種族と文化が、複雑に混じり合いながら息づく世界だった。
だが、そのすべてが等しく尊ばれているわけではない。
同じ言葉を話し、同じように笑い、同じように血を流す者であっても、種が違うというだけで、人として数えられぬことがある。
法の上では守られていても、慣習の上では守られていない。
あるいは最初から、守るべき対象として見なされていない。
その最たるもののひとつが、獣人だった。
犬や猫をはじめとした、哺乳類の特徴を色濃く宿す亜人たち。
耳や尾を持ち、人に近い姿で生きる彼らは、地方では一つの民として慎ましく暮らしていても、大都市の外ではしばしば別の名で呼ばれる。
労働力。
商品。
あるいは、使い潰しても惜しくない“肉”。
獣人とは、この世界において、そうした価値と隣り合わせに生きる種族でもあった。
世界樹の加護が届く場所では、秩序がそれらを覆い隠す。
けれど、加護の外へ出れば、人は時に驚くほど簡単に本音を晒す。
守られない者は奪われる。
奪っても咎められにくい者は、狙われる。
そして狙われ続けた果てに、自分が人ではなく品物だと教え込まれる者もいる。
これは、そんな世界で名を失っていくことになる、一人の狼獣人の話だ。
0章二節
世界樹の加護がない荒野。
そこに狼獣人の故郷はあった。
まだ幼かった。
森の匂いが濃い朝。
村の中央広場では、いつものように狩りの成果を分け合う声が響いていた。
父の大きな背中が、朝陽に照らされて黒く浮かび上がる。
母は新鮮な鹿の血を洗い流しながら、彼女に向かって笑った。
「今日はお前の好きな肝を焼いてやるぞ。ちゃんと食べろよ、耳がピンと立たなくなるぞ」
彼女は尻尾を軽く振って、母の言葉に耳を立てた。
猫のように柔らかな狼の耳が、喜びで微かに震える。
この村では、誰もが「狩りの民」だった。
獣人の血が濃く、森と共存する術を知っていた。
大きな都市のような石壁も、高い塔もない。けれど、朝の風の匂いと、夕暮れの火の色と、家族の声に囲まれた確かな暮らしがあった。
人間の冒険者たちとは、時折交易をする程度。
決して親しくはなかったが、敵でもなかった。
――その日までは。
最初に聞こえたのは、馬の蹄の音だった。
次に、金属の擦れる音。
そして、笑い声。
「魔物討伐の依頼だ! この辺りに獣人の巣があるってよ!」
広場に飛び込んできたのは、十人を超える人間の男たち。
見たこともない徽章を胸に付け、酒の匂いを漂わせ、目がぎらぎらと濁っていた。
彼らの後ろには、奴隷商の馬車が数台。
鉄の檻が、朝陽を冷たく反射している。
その光を見た瞬間、父の顔つきが変わった。
狩りの弓を手に取り、矢を番える。
「ここは人間の村じゃない! 出て行け!」
しかし、返ってきたのは嘲笑と、火矢だった。
一瞬で藁葺きの屋根が燃え上がった。
悲鳴が上がる。子供の泣き声。女の叫び。
村は、朝のうちに村でなくなり始めていた。
彼女は母に抱き寄せられ、家の裏手に引きずり込まれた。
「逃げろ……森の奥へ……!」
だが、逃げられなかった。
人間の男たちは、すでに村を囲んでいた。
獣人の敏捷性を嘲うように、魔法使いが地面に氷の棘を咲かせ、足を封じた。
走ろうとした者から倒れ、逃げ道と思った先には別の刃が待っている。
父は三人を倒した。
喉を掻き切られ、血を吐きながらも、最後まで弓を放ち続けた。
けれど、四人目の剣が父の胸を貫いた瞬間、娘の視界が赤く染まった。
「父さん……!」
男たちが笑った。
一人が彼女の腕を掴み、地面に押し倒す。
「おお、可愛い狼耳だぜ。裏の連中、獣人の雌は高く売れるって言ってたよな」
母が飛びかかった。
爪を立て、牙を剥き、必死に彼女を守ろうとした。
しかし、別の男が母の背中に棍棒を振り下ろした。
鈍い音。
血しぶき。
意識を失った母の体が、まるで獲物のように地面に崩れ落ちる。
彼女は叫んだ。
声にならない叫びを、喉が裂けるほどに。
父の死体がすぐ横に転がっている。
母の血が、彼女の頰を濡らす。
煙が目に染みる。
火の粉が降る。
男たちは彼女の服を乱暴に裂き、品定めするような目で見下ろした。
まだ幼い体に荒い手が触れる。
痛みと吐き気と、信じられないという感情が、一度に押し寄せた。
男の一人が、彼女の耳を掴んで無理やり顔を上げさせた。
「見てろよ、親父。娘がどうなるか、ちゃんと見てろ」
その瞬間、狼獣人の娘の中で何かが音を立てて折れた。
痛みは激しかった。
屈辱は、もっと激しかった。
しかし男たちは、最後の一線だけは越えなかった。
まだ高く売れる商品を、無闇に傷つけるつもりはないらしい。
そのことが、なおさら彼女を震えさせた。
自分は守られたのではない。
ただ、品物として扱われたのだと、子どもでもわかってしまったからだ。
周囲では、村の男たちが次々と殺され、女たちが引きずり出され、同じように縛られていく。
魔物討伐。
ただの口実だった。
獣人の村を襲い、若い女を奴隷として売り、耳や尾を「戦利品」として持ち帰る。
それが、彼らの仕事だった。
少女は泣きながら、ただ一つだけ思った。
殺してやりたい。
この男たち全員を。
この世界の、こんなことを平気でする人間たちを。
自分の弱さを、許せないほどに。
その夜、村は焼き払われた。
生き残った女たちは、全員が奴隷商の檻に詰め込まれた。
彼女の首には、すでに粗末な鉄の輪がはめられていた。
馬車が動き出すとき、彼女は最後に燃え残る父の家を見た。
屋根の一部がまだ崩れずに残っていて、その向こうに、朝だったはずの空が煤で濁っている。
耳が、静かに震えていた。
それが、故郷を見た最後だった。
第一章 名前を失うまで
一
その夜、地下牢の空気は、ひどく湿っていた。
石壁には水気がにじみ、床は冷たく、鉄格子には人の手垢と古い錆がこびりついていた。
どこか遠くで、鎖の引きずられる音がする。
誰かのすすり泣きがして、その少し後に、男たちの笑い声が重なった。
その音を聞くたびに、彼女の耳はぴくりと動いた。
本来なら、黒い狼耳は風を読むためのものだった。
草原のざわめきを拾い、遠くの足音を見分け、仲間の声を聞き分けるためのもの。
けれど今は、その耳は頭に伏せられ、外の気配ではなく、自分へ近づいてくる足音だけを数えていた。
長い尻尾も、怯えた獣のように足元へ巻きついている。
彼女は、まだ本当の意味では理解していなかった。
捕まった。
首輪をつけられた。
地下へ落とされた。
鎖に繋がれた。
それは理解できる。
だが、その先に何が待っているのか。
この場所が何のための場所なのか。
なぜ男たちが、あんなふうに平然と笑えるのか。
その意味までは、まだ心が拒んでいた。
だから、最初に牢へ入ってきた男たちを、彼女は睨み返した。
黄金色の瞳には、まだ光があった。
恐怖はあっても、それは屈服ではなかった。
牙を剥くほどの余力はなくとも、「嫌だ」と言えるだけの火は残っていた。
「近づかないで」
喉は乾いていた。
声は震えていた。
それでも、それは確かに彼女自身の言葉だった。
男たちは顔を見合わせ、少しだけ楽しそうに笑った。
「お、気が強い」
「最初はみんなそうだ」
それは慰めでも、警告でもなかった。
ただ見飽きたものを眺める、気軽な調子だった。
彼女の怒りも怯えも、この場所では特別ではない。
何度も見てきた“いつもの反応”でしかない。
そのことを、彼女はその夜のうちに思い知った。
叫んでも、何も変わらない。
暴れても、手は止まらない。
嫌だと何度繰り返しても、その言葉は誰の胸にも届かない。
ここでは、自分の意思は数に入っていない。
それが、その夜の終わりに、ようやく彼女の中へ落ちてきた現実だった。
床に崩れ落ちた時、彼女はまだ泣いていた。
自分の身に起きたことを受け止めきれず、ただ肩を震わせていた。
背を丸め、尻尾を抱き込むようにして、小さく、小さくなる。
誰かが助けてくれるのではないかと、まだどこかで思っていた。
この夜が悪い夢で、次に目を開けたら森の匂いが戻っているのではないかと。
涙は、まだ心が生きている証だった。
その時の彼女は、そんなことも知らなかったけれど。
二
地下牢には、朝がなかった。
時間は、光ではなく音で進んでいく。
食事の盆が投げ込まれる音。
看守の靴音。
遠くの扉が開き、閉じる音。
誰かが呼ばれ、誰かが戻される音。
それらを聞きながら、彼女は最初のうち、必死に日を数えようとした。
昨日と今日を区別するために。
自分がまだ生きていると確かめるために。
それでも、数はすぐに曖昧になった。
痛みがあった。
疲労があった。
眠っても休まらない夜があった。
空腹と寒さが、時間の輪郭を削っていった。
何日経ったのか、もうわからない。
けれど、繰り返される夜だけは確かだった。
最初の数日は、彼女も抵抗した。
触れられれば身を引き、命じられれば睨み返した。
腕を振り払い、噛みつこうとし、喉が裂けるまで叫んだ。
そのたびに、罰があった。
食事を抜かれた。
傷の手当を後回しにされた。
冷たい石床に長く放置された。
次の夜には、前の夜よりもさらに容赦なく使われた。
地下牢は、そういう仕組みでできていた。
逆らう者は、逆らわなくなるまで削られる。
泣く者は、泣くことに意味を見出せなくなるまで疲れさせられる。
怒る者は、怒りの置き場所を失うまで消耗する。
そこでは勇気も気高さも、役に立たない。
必要とされるのは、壊れにくく、扱いやすいことだけだった。
ある日、投げ込まれた薄い食事を前にして、彼女はふと気づいた。
腹は空いている。
胃は痛いほど鳴っている。
それなのに、それ以上に「今夜は誰が来るのだろう」と先に考えている自分がいる。
その瞬間、何かが静かに折れた。
生きるために食べるのではない。
今夜を少しでも軽く終えるために、体を持たせるのだ。
その考え方は、地下牢のものだった。
まだ完全に染まり切ってはいなくても、もう彼女の中に入り込んでいた。
狼耳は、男たちの足音ばかりを拾うようになっていた。
尻尾は、怒りではなく怯えでしか動かなくなっていた。
彼女は、少しずつ自分を遠くへ追いやった。
これは私じゃない。
ここにいるのは、私の体に似た何かだ。
終わるまで置かれているだけの、名もない獣だ。
そう思わなければ、息ができなかった。
思い出そうとすると、森の匂いが刺さる。
父の声を思い出そうとすると、その直後に胸を貫く剣の光がよぎる。
母の手の温かさを思い出そうとすると、血に濡れた背中が浮かぶ。
だから彼女は、思い出さないことを覚え始めた。
三
最初に「礼を言え」と命じられた時、彼女はその意味がわからなかった。
薄く開いた目の向こうで、看守が退屈そうに彼女を見下ろしていた。
頬は腫れ、唇は切れ、呼吸は乱れている。
そんな彼女の顎をつまみ上げて、看守はもう一度言った。
「終わったら礼を言え。わかったな」
礼。
何に対して。
誰へ向けて。
どうして。
わからなかった。
理解したくもなかった。
彼女が黙っていると、頬が打たれた。
乾いた音が地下に響く。
首輪が強く引かれ、喉が締まる。
「わかったな」
彼女は、かすれた声で答えるしかなかった。
「……わかりました」
その夜が終わったあと、看守の視線に促されるまま、彼女は唇を動かした。
「……ありがとうございました」
その言葉を口にした瞬間、胸の内側がひどく冷えた。
感謝などしていない。
したくもない。
それでも、言わなければまた痛い目を見る。
だから言う。
そう自分に言い聞かせた。
だが、人は繰り返すものを覚えてしまう。
終わる。
息を整える。
礼を言う。
終わる。
目を伏せる。
礼を言う。
終わる。
何も考えない。
礼を言う。
それを何度も何度も重ねるうちに、その言葉は命令ではなく、動作の一部になっていった。
「……ありがとうございました」
気づけば、それはほとんど反射だった。
口にしているのは確かに自分なのに、そこに心はついていない。
男たちはそんな彼女を見て満足した。
看守は「やっと覚えたか」と機嫌よく笑った。
彼女はただ、目を伏せていた。
かつて、風の匂いを追って森を駆けた狼の娘が、今は終わるたびに感謝の言葉を言う。
その事実は、傷よりも深く彼女を削った。
狼耳は、もうあまり立たなくなっていた。
長い尻尾も、床に力なく落ちるばかりだった。
痛みよりも、羞恥よりも、もっと深いところで、彼女の何かが擦り減っていた。
そして何より恐ろしかったのは、言葉に慣れていく自分だった。
最初は喉が拒んだ。
次は胸が冷えた。
その次には、ただ口が動くだけになった。
人は、こんなふうにも壊れていくのだと、彼女は誰に教わるでもなく知ってしまった。
四
地下牢には様々な男が来た。
酔っている者。
機嫌の悪い者。
やたら喋る者。
黙ったまま欲望だけを置いていく者。
やがて彼女は、その違いを大して重要だと思わなくなった。
長いか短いか。
乱暴かそうでないか。
その程度の差でしかなかったからだ。
けれど、一人だけ、明らかに質の違う男がいた。
痩せた老人だった。
背はそれほど高くない。
肩も狭く、声も細い。
それなのに、目だけが妙にぎらついていた。
初めて見た時から、彼女はその目が嫌だった。
壊れやすいものを前にした好奇心。
欲しいものを前にした執着。
そして、相手が嫌がることを確かめて楽しむような、ねじれた熱。
老人は彼女を見て、嬉しそうに笑った。
「いいなあ……」
その声には、優しさの形だけがあった。
けれど中身は、まるで違う。
看守たちが噂していた。
あの老人は、かなりの金を積んで、彼女のある部分を自分だけのものにしようとしているのだと。
買うのではない。
救うのでもない。
ただ、自分だけが壊し方を決めたいのだ。
そのことが、彼女にはどうしようもなくおぞましかった。
老人は派手ではなかった。
乱暴さを誇るような男たちとは違って、むしろ丁寧ですらあった。
だが、その丁寧さがかえって恐ろしかった。
どこを嫌がるのか。
どんな時に強張るのか。
どの順番で怯えるのか。
そういうことをひとつずつ確かめるように、時間をかけて彼女を追い詰めていったからだ。
最初のうちは、老人が来る気配を感じるだけで耳が震えた。
胸の奥が冷え、呼吸が浅くなった。
次はあの男だ、と思うだけで、喉が詰まった。
老人はそれを見て満足していた。
彼女が黙っていても、何も言わなくても、震えだけで十分らしかった。
やがて彼女は、老人が来る夜だけ、余計に息を殺すようになった。
聞こえないふりをしても、あの咳払いと湿った笑い方だけは嫌でもわかる。
耳は閉じられない。
だから、心の方を閉じるしかなかった。
だが、それにもやがて慣れが来た。
慣れることは、救いではない。
恐怖の角が削れて、鈍い重さに変わるだけだ。
彼女は次第に、老人が来る前から何も感じないようにしようとした。
そうした方が、終わった後に少しだけ楽だったからだ。
老人は何十夜も来た。
看守たちは面白がっていた。
あの男は、ここに来るためだけに他で無茶な金の使い方をしているらしい、と。
そして、ある夜、ぱたりと来なくなった。
看守が牢の前で、酒臭い息を吐きながら笑う。
「あのジジイ、賭けで全部すっちまったらしいぞ。これでお前も、もう独占じゃねえ」
彼女は目を閉じた。
泣きもしなかった。
叫びもしなかった。
驚くほど静かに、その意味を理解しただけだった。
一人に限られていた地獄が、これからは誰にでも開かれる。
その夜、彼女の胸の中には、ひどく冷たい予感だけが残った。
――また、新しい地獄が始まる。
そして、その予感は外れなかった。
五
老人が消えたあと、地下牢の空気はどこか浮ついていた。
制限がなくなったことを知った男たちは、面白がるように出入りした。
看守たちもそれを咎めない。
彼女がどうなるかなど、もう誰にも興味はなかった。
彼女は、もう抵抗しなかった。
手首を差し出す。
目を伏せる。
何も考えない。
そうしていた方が、少しだけ早く終わる。
少しだけ浅く済む。
少しだけ、明日が近い。
ただ、それだけの理由で従っていた。
看守が満足そうに言う。
「すっかりいい子だな」
彼女は答えない。
終わったあとにだけ、いつものように口を動かす。
「……ありがとうございました」
その言葉を口にするたび、胸の奥のどこかが、凍るのではなく空になっていく気がした。
かつて自分が何を好きだったのか。
誰に名前を呼ばれていたのか。
どんなふうに笑っていたのか。
思い出そうとすると、記憶は白く霞んだ。
思い出せないことが苦しい。
けれど、思い出すことはもっと苦しい。
だから彼女は考えないようにした。
地下牢では、考える者から先に壊れる。
そのことを、彼女はもう知っていた。
痛みなく、今日を終えたい。
せめて明日まで持ちこたえたい。
その程度の願いだけが、彼女を繋いでいた。
そして、夜は続いた。
名前を呼ばれることなく。
過去を問われることもなく。
ただ、“使われる獣”として。
狼だった娘は、少しずつ、名もない商品へ変わっていった。
時折、別の牢から若い獣人の泣き声が聞こえることがあった。
そのたびに耳がかすかに動く。
けれど、彼女はすぐにその耳を伏せた。
聞いてはいけない。
考えてはいけない。
何も感じない方が長く持つ。
そうやって、自分で自分を教え込んでいった。
第二章 空っぽの中で
一
私は、もう自分の名前を思い出せない。
昔は確かにあったはずだ。
母に呼ばれた名前。
仲間たちが笑いながら口にした名前。
草の上を走りながら、自分の中にしっくりと収まっていた音。
でも今は、どれだけ思い出そうとしても、その輪郭が掴めない。
狼。
雌。
お前。
ポチ。
そう呼ばれれば、私はそちらを見る。
それで十分だった。
いや、それ以上は求められていなかった。
名前が消えると、不思議と心も遠くなる。
痛い。
寒い。
苦しい。
嫌だ。
そういう感情はまだ残っている。
ただ、それを感じているのが「私」だと思う力だけが、少しずつ弱くなる。
ある夜、私は気づいた。
看守が牢へ近づく前に、自分から手首を差し出している。
命じられる前に。
叱られる前に。
もう体が覚えてしまっていた。
大人しくしていれば、少しだけ早く終わる。
少しだけ乱暴さが減る。
少しだけ、次の夜まで生きやすい。
それだけだ。
誇りではない。
諦めでもない。
ただの計算だった。
地下牢で長く持つには、それしかなかった。
狼耳は自然に伏せられ、尻尾は床に落ちたまま。
私は、自分がもう「選ぶ側」の生き物ではなく、「差し出される側」のものになったのだと、ぼんやり思った。
そして、そのことにもう、昔ほどは傷つかなかった。
傷つく力まで、すり減っていたからだ。
時々、自分の顔を水桶の濁った表面に映してみることがあった。
そこにいるのは、自分のはずなのに、自分ではないように見える。
耳は伏せられ、目の光は薄く、口元には何もない。
森を走っていた少女の面影は、もうそこにはほとんど残っていなかった。
二
新しい獣人たちが連れてこられたのは、そんな頃だった。
猫耳の少女。
狐耳の娘。
兎耳の少女。
三人とも若かった。
目にまだ光があり、耳は忙しなく動き、尻尾にも力があった。
鎖を引かれれば本気で逆らい、男たちの手が伸びれば本気で身を引いた。
私は牢の隅から、その様子を見ていた。
懐かしい、と思った。
昔の私も、あんな目をしていた。
まだ怒れた。
まだ睨めた。
まだ「嫌だ」と口にできた。
今の私は、もう違う。
その差を見せつけられるようで、胸の奥が静かに痛んだ。
男たちは、そんな三人の前で、わざと私を中央へ引きずり出した。
「見ておけ」
「逆らっても無駄だ」
そんな意味の言葉を吐きながら。
私は何も考えないようにした。
考えれば、余計に苦しくなる。
けれど、三人の視線だけは避けられなかった。
猫耳の少女は息を呑んでいた。
狐耳の娘は耳をぴたりと伏せた。
兎耳の少女は、怯えながらも目を逸らせなかった。
その視線が、ひどく熱かった。
私はそれまで、自分がどう見えるかをほとんど忘れていた。
痛いか。
終わるか。
明日まで持つか。
それだけしか考えていなかったからだ。
なのに、新入りたちの目は、私に思い出させた。
私は見られている。
壊れた姿を。
使われる姿を。
もう元には戻れない姿を。
その時、喉の奥から、ほとんど無意識に言葉が漏れた。
「……見ないで」
自分でも驚くほど小さな声だった。
それでも、三人には聞こえた。
男たちは笑った。
私は一瞬だけ、胸を強く掴まれた気がした。
久しぶりに、自分の意思で出た言葉だったからだ。
すぐに後悔した。
言っても何も変わらない。
ただ、余計に笑われるだけだ。
そんなことは、もう何度も学んできたはずだった。
それでも、その一言は消えなかった。
胸の奥に、細い棘みたいに残った。
その夜が終わったあと、私は牢の隅に戻された。
石壁にもたれ、膝を抱え、何も見ないふりをして息を整える。
けれど、新入りの三人の視線だけは、暗がりの中でもはっきりわかった。
猫耳の少女が、最初に目を逸らした。
あまりにも怯えた顔で、唇を噛んでいる。
見てはいけないものを見てしまった子どもの顔だった。
狐耳の娘は、逆にじっとこちらを見ていた。
敵を見る目でも、哀れむ目でもない。
ただ、理解しきれないものを前にした時の、硬い眼差し。
その大きな尻尾だけが、落ち着かないように細かく揺れていた。
兎耳の少女は、何度か口を開きかけて、結局なにも言わなかった。
長い耳の先が震えている。
聞きたいことがあるのだろう。
でも、それを聞いてしまったら、もう戻れないと本能でわかっているようだった。
私は目を閉じた。
何も言わないでほしいと思った。
何も聞かないでほしいとも思った。
ここで言葉を交わせば、私はきっと、ほんの少しだけ昔の自分を思い出してしまう。
それは、たぶん痛い。
やがて、兎耳の少女が、ほとんど聞こえないくらい小さな声で言った。
「……あの」
私は返事をしなかった。
返事をしてはいけない気がした。
ここで優しい声を出したら、何かが崩れる。
そう思った。
しばらくして、その子は言い直した。
「……ごめんなさい」
何に対する謝罪なのか、わからなかった。
見てしまったことへの謝罪かもしれない。
何もできないことへの謝罪かもしれない。
それとも、これから同じ目に遭う自分自身への、誰にも向けられない言葉だったのかもしれない。
私はやはり何も言えなかった。
ただ、自分でも気づかないうちに、長い尻尾の先がわずかに震えていた。
三
兎耳の少女は、比較的早く選ばれた。
身なりのいい中年男だった。
指輪をいくつもはめ、酒と香油の匂いをまとっていた。
彼は牢の中をゆっくり見て回り、最後に兎耳の少女の前で立ち止まった。
「可愛いな」
その一言だけで、空気が変わった。
兎耳の少女は青ざめ、必死に首を振った。
長い耳が震え、体が壁際へ縮こまる。
男はそれを面白がるように笑った。
「飼ってやろう」
その言い方が、私は嫌いだった。
優しいことを言う顔をしているくせに、そこに優しさが欠片もない。
拾ってやる。
守ってやる。
可愛がってやる。
そんな響きを使いながら、相手を物にすることしか考えていない。
翌朝、兎耳の少女はいなかった。
壁に鎖の跡だけが残っていた。
彼女が座っていた場所には、まだ少しだけ体温が残っているように見えた。
私はぼんやりと呟いた。
「……いなくなった」
その時、理由もなく理解した。
まだ壊れきっていない方が、高く売れる。
まだ嫌がれるうちに。
まだ怯えられるうちに。
私みたいに、何も言えなくなる前に。
それが、この場所の理屈だった。
私は、もう売り時を過ぎたのだ。
だからまだここに残っている。
その現実は、痛みというより冷たかった。
兎耳の少女がどこへ行ったのか、私は知らない。
けれど、きっと幸せではないだろうと思った。
地下牢の外へ出ることと、救われることは、同じではない。
それは、地下で長く過ごすうちに、自然とわかるようになっていた。
その夜、空いた場所を見ながら、私はほんの少しだけ羨ましいと思ってしまった。
どこへ行ったかもわからない相手を。
そのことに、あとで自分で吐き気がした。
四
その次に、猫耳の少女が泣いた。
彼女は短い耳を震わせながら、最後まで抵抗していた。
怒鳴り、身をよじり、鎖を引き、何度も「嫌だ」と叫んだ。
その声を、私は黙って聞いていた。
遠い昔の私の声みたいだった。
嫌だ。
やめて。
来ないで。
助けて。
言葉の意味よりも、その声にまだ力があることが苦しかった。
私はもう、あんなふうには叫べない。
喉はまだ音を出せるのに、心がそこまで届かない。
その距離の長さが、たまらなかった。
狐耳の娘も、少し遅れて同じように泣いた。
彼女は尻尾を守ろうとしていた。
ふさふさの大きな尻尾を体に巻きつけ、触れられるたびにびくりと震える。
それが彼女の誇りなのだと、一目でわかった。
地下牢の男たちは、そういうものを見逃さない。
大切にしているもの。
嫌がるところ。
守りたいと思っているもの。
そういうものほど、楽しそうに踏みにじる。
私は、猫と狐の泣く声を聞きながら、何度も目を閉じた。
助けたい、とは思わなかった。
そんなことを願うのは残酷だ。
私に何もできないと、最初からわかっているから。
でも、見てしまう。
聞いてしまう。
胸の奥が、小さくざわつく。
「嫌だ」
二人の言葉は、地下牢の中でしばらく消えなかった。
鎖の音よりも長く。
看守の笑い声よりも深く。
そして、その残響が私の中で何度も繰り返された。
――私はもう言えない。
――でも、あの子たちは、まだ言える。
その事実が、なぜこんなにも苦しいのか、私はうまく説明できなかった。
ある晩、猫耳の少女と目が合った。
彼女は泣いたあとで、目元が赤く腫れていた。
それでも、唇だけはきゅっと結んでいた。
まだ折れていない。
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
折れないものが、ここではどんな目に遭うか知っているからだ。
五
やがて猫も狐も、連れていかれた。
若い男だった。
派手な服と、軽い笑い声。
自分が選ぶ側だと、疑っていない歩き方。
彼は猫と狐を並べて見て、玩具を選ぶように満足げにうなずいた。
「二人とも、いいね」
その言葉を聞いた瞬間、二人の顔から色が消えた。
けれど、もう逃げる力は残っていなかった。
泣くことさえ少し遅れてやってくるほど、疲れ切っていた。
男は「可愛がってやる」と笑っていた。
その声に、私は兎耳の少女の時と同じものを感じた。
嘘だ。
そう胸の中で思った。
けれど、口には出さなかった。
扉が閉まったあと、地下牢には私一人だけが残った。
あれほど狭く、息苦しく感じていた牢が、その時だけ妙に広かった。
沈黙が大きすぎて、自分の呼吸の音すら遠く聞こえる。
私は壁にもたれて座り、しばらく動かなかった。
静かだ。
誰も泣かない。
誰も震えない。
私しかいない。
それなのに、耳の奥には、まだ猫と狐の最後の声が残っていた。
「……嫌」
その短い言葉が、何度も胸の内側で擦れた。
私は目を閉じた。
痛みなく、今日を生きられればいい。
そのために何も感じないようにしてきた。
そのはずなのに、その夜だけは、うまく空っぽになれなかった。
誰かの絶望に触れたことで、自分の中にまだ何かが残っていると知ってしまったからだ。
それは救いではなかった。
ただ、消えきらなかった痛みだった。
そして同時に、私は初めて、自分が一人残されたことを怖いと思った。
比べる相手すらいない。
次に消えるのが誰かを見届ける相手もいない。
残ったのは、私だけだ。
その事実は、静けさよりも重かった。
第三章 最後に見たいもの
一
薬を飲まされる夜が増えた。
苦い液体だった。
喉を通ると胃の奥が熱くなり、その熱は時間差で全身へ広がっていく。
傷は塞がり、肌は整い、目立つ痣は薄くなる。
休ませるためではない。
壊れたものを継ぎ合わせ、もう少しだけ使えるようにするためだ。
そのことは、もう誰も隠そうとしなかった。
「今日は多めだ」
「見栄えだけは保てよ」
看守たちはそんなふうに言った。
薬を飲んだ夜の体は、自分のものではなくなる。
熱を持ち、過敏になり、ほんの少しの刺激までいやに鮮明に感じてしまう。
彼女はそれを嫌悪した。
けれど、嫌悪すら深くは続かない。
考えることに疲れ切っていたからだ。
ただ、終わるまで待つ。
その時が過ぎるのを待つ。
それだけが、彼女の夜だった。
そんなある夜、先日兎耳の少女を連れていった中年男が、彼女の前に立った。
男は最初、満足そうに笑っていた。
けれど途中から、その顔が少しずつ不機嫌に変わっていった。
最後に彼は、吐き捨てるように言った。
「前ほどじゃないな」
彼女はその意味を、すぐには理解できなかった。
体は熱く、意識はぼやけ、言葉はただ上滑りする。
けれど、その夜を境に、似たような言葉を耳にすることが増えた。
「持ちが悪い」
「前より緩い」
「そろそろ賞味期限か」
そのたびに、胸の奥が冷たくなった。
自分が痛いからではない。
自分が壊れているからでもない。
自分が“使い減りしている”と、はっきり言葉にされることが、たまらなく寒かった。
以前は、男たちの視線の中に欲望があった。
今はそこに、値踏みと不満だけがある。
その差を、彼女は嫌でも感じ取った。
二
ある夜、痩せた男が看守たちに言った。
「もう客がつきにくい。薬代の方が高い。そろそろお暇してやれ」
お暇。
その言葉を聞いた瞬間、彼女の胸に、あまりにも小さな希望が灯った。
――もしかして。
それは光と呼ぶには弱すぎるものだった。
それでも、地下牢に長くいた者にとっては十分すぎる揺れだった。
ここから出られるのだろうか。
もう夜ごと呼ばれなくて済むのだろうか。
鎖の先に、終わりではなく外があるのだろうか。
彼女は、その夜、久しぶりに眠る前に明日のことを考えた。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけなら、夢を見ても許される気がした。
けれど、その希望はすぐに踏み潰された。
看守が彼女を見下ろして、苛立ったように言う。
「解放だと? 違う。処分だよ」
処分。
その言葉は、お暇よりも鋭かった。
自由ではない。
許されるわけでもない。
ただ、もう要らないということ。
彼女は一瞬、耳をぴくりと震わせた。
それだけだった。
大きく絶望する力も、もう残っていなかった。
希望が潰れたことを理解しても、叫ぶだけの熱がなかった。
ただ、胸の中にひとつだけ、冷たい事実が落ちた。
――私は終わるのだ。
そのあとに待っていたのは、慰めではなく制裁だった。
看守は怒っていた。
商品管理が悪いと叱られた腹いせを、彼女の体にぶつけた。
熱した鉄が背に押し当てられた瞬間、彼女は久しぶりに本気で叫んだ。
焼ける臭い。
目の前が白くなるほどの痛み。
体が勝手に強張り、呼吸が乱れる。
看守はその反応を見て笑った。
「まだできるじゃねえか」
彼女は答えなかった。
答える言葉を失って久しかった。
ただ、その夜の終わりに、ぼんやりと思った。
希望は最初からなかったのだ。
自分が一瞬、見間違えただけだったのだと。
それでも、その一瞬だけは確かに心が動いた。
まだ完全には空になっていない証拠みたいで、それが少しだけ悲しかった。
三
それからの彼女は、ずっと「処分」という言葉を考えていた。
どういう意味なのだろう。
殺されるのか。
どこかへ捨てられるのか。
もっと安い地獄へ流されるのか。
答えはわからない。
けれど、地下牢で長く生き延びた者には、雰囲気でわかることがある。
もう見切られている。
もう回収される側に移った。
もう値札が剥がれかけている。
それは、男たちの目の変化でわかった。
かつては欲しそうに見ていた者たちが、今では面倒そうに扱う。
乱暴さは残っているのに、熱だけが減っている。
飽きた玩具を持ち上げるような手つき。
それが、彼女には何より堪えた。
痛いのは、慣れた。
苦しいのも、知っている。
でも、「もう面白くもない」と判断されることは、痛みとは違う深さで心に沈んだ。
私は、もう要らない。
その結論は、あまりにも静かに胸へ落ちてきた。
兎耳の少女も。
猫耳の少女も。
狐耳の娘も。
みんなこの牢からいなくなった。
その先が楽園ではないと知っていても、少なくとも彼女たちは「誰かに選ばれた」。
今の彼女は、その選ばれることからも外れつつある。
それが、たまらなく空しかった。
そして、そんな空しさの中で、胸の奥にたったひとつだけ、小さな願いが生まれた。
助かりたい、ではない。
救われたい、でもない。
そんな大きな願いは、もう持てない。
ただ――
最後に一度だけ、光が見たい。
太陽でも。
月でも。
星でも。
この地下の外にある、本物の空の光を、もう一度だけでいいから見たい。
その願いは、自分でも驚くほどささやかだった。
けれど、それは確かに彼女の中にあった。
消え切らなかった最後の、人間らしい欲求だった。
夜、冷たい壁に背を預けた時、彼女は何度もその願いを確かめた。
まだある。
まだ消えていない。
それだけで、胸の奥がかすかに痛んだ。
四
その日が来たのは、あまりにも唐突だった。
いつものように鎖に繋がれたまま、ぼんやりと床を見ていた彼女の耳に、重い扉の開く音が届いた。
男が三人入ってきた。
いつもの客とは違う。
二人は武器を持ち、もう一人は冷たい目をしている。
ただ使いに来たのではない空気があった。
彼らは首輪の鎖を外し、代わりに手枷をはめた。
さらに粗末な布の下着を彼女に着せた。
その感触が妙に生々しかった。
布。
久しぶりのそれは、彼女に「どこかへ出される」のだと告げる印のように思えた。
看守が後ろで笑う。
「じゃあなお嬢ちゃん。もう会うこともねえだろ」
彼女は振り返らなかった。
もう会いたくもなかったし、最後の顔として刻みたくもなかった。
男たちに囲まれたまま、彼女は歩き出した。
足取りは弱い。
手枷は冷たい。
尻尾は床を擦り、狼耳は頭に伏せたままだった。
地下通路は湿っていて、石壁には水滴が伝っていた。
足音が響く。
遠くで、どこかの扉が閉まる音がした。
彼女は何も考えないようにした。
どうせ行き先は選べない。
どうせ拒んでも無駄だ。
ならば、ただ歩くしかない。
けれど、通路の先に薄い光が見えた時、彼女の耳はかすかに動いた。
その時だった。
光より先に、空気が変わった。
地下の湿った匂いに混じって、ほんのわずかに、乾いた風の気配が流れ込んでくる。
土と苔と錆の匂いしかなかった世界に、知らない匂いが混ざる。
外の風だった。
それは本当に微かなものだった。
通路の先のどこか、小さく開いた扉か、地上へ続く階段の隙間から入り込んでくるだけの、細い細い風。
けれど、その一筋だけで、彼女の耳ははっきりと反応した。
狼耳が、ぴくりと立ちかける。
胸の奥で、何かが痛むように動いた。
忘れたと思っていた感覚が、一瞬だけ戻る。
朝露を含んだ草の匂い。
木々の間を抜ける冷たい風。
狩りの前、父の背に隠れて吸い込んだ森の空気。
火のそばで、母の服に残っていた煙の匂い。
失ったはずの記憶が、風に触れた瞬間だけ、胸の底から浮かび上がる。
彼女は思わず足を止めそうになった。
だが、背後の男が短く命じる。
「歩け」
その一言で、現実に引き戻される。
手枷は冷たい。
肩は重い。
足首には力が入らない。
それでも、さっきの風だけは確かに本物だった。
通路の先にある光が、本当に外へ繋がっているのかはわからない。
その先に待つものが救いかどうかもわからない。
けれど、もしあれが本物の外気なら。
もしあの光が空の下へ続いているなら。
その時だけ、胸の奥の小さな願いは、願いの形を取り戻した。
――見たい。
太陽を。
空を。
もう一度だけ、風のある場所を。
彼女はなにも言わなかった。
ただ、伏せていた耳が、ほんの少しだけ前を向いた。
彼女は何も言わず、ただ歩いた。
弱った足で。
伏せた耳で。
擦れる尻尾で。
それでも、その薄い光を見失わないように。
その瞬間だけ、彼女は少しだけ、自分がまだ完全には死んでいないことを知った。
願うことをやめたつもりで、まだ最後のひとかけらを残していたのだと。
彼女は通路の先へ進んでいく。
手枷の冷たさ。
男たちの無言の圧。
焼け跡の痛み。
弱った体の重さ。
それらすべてを抱えたまま、それでも胸の底で、ほんの少しだけ思っていた。
せめて、あの光が本物でありますように、と。




