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世界樹の記憶、名もない獣人の章

掲載日:2026/04/10

名もなき狼獣人の章


0章一節


 ノクティヴェイル――この世界において、人が自分とは異なる種族と出会う機会は、決して珍しいものではない。


 その顔ぶれは大陸ごとに異なり、たとえ同じ種の者であっても、住まう土地が違えば、文化も言葉も、纏う空気さえ変わる。

 それは人間同士でも同じことだ。肌の色が違い、信じるものが違い、育った土地の風が違えば、別の民のように見えることもある。


 エルフ、ドワーフ、フェアリー、リザードフォルク、ドラゴノイド、フェザーフォルク。

 世界樹の加護に守られた大都市に暮らす者もいれば、荒野や山脈、湿地や森に根を張り、それぞれの土地でそれぞれの生を営む者もいる。


 ノクティヴェイルとは、そうした異なる種族と文化が、複雑に混じり合いながら息づく世界だった。


 だが、そのすべてが等しく尊ばれているわけではない。


 同じ言葉を話し、同じように笑い、同じように血を流す者であっても、種が違うというだけで、人として数えられぬことがある。

 法の上では守られていても、慣習の上では守られていない。

 あるいは最初から、守るべき対象として見なされていない。


 その最たるもののひとつが、獣人だった。


 犬や猫をはじめとした、哺乳類の特徴を色濃く宿す亜人たち。

 耳や尾を持ち、人に近い姿で生きる彼らは、地方では一つの民として慎ましく暮らしていても、大都市の外ではしばしば別の名で呼ばれる。


 労働力。

 商品。

 あるいは、使い潰しても惜しくない“肉”。


 獣人とは、この世界において、そうした価値と隣り合わせに生きる種族でもあった。


 世界樹の加護が届く場所では、秩序がそれらを覆い隠す。

 けれど、加護の外へ出れば、人は時に驚くほど簡単に本音を晒す。


 守られない者は奪われる。

 奪っても咎められにくい者は、狙われる。

 そして狙われ続けた果てに、自分が人ではなく品物だと教え込まれる者もいる。


 これは、そんな世界で名を失っていくことになる、一人の狼獣人の話だ。



0章二節


 世界樹の加護がない荒野。

 そこに狼獣人の故郷はあった。


 まだ幼かった。


 森の匂いが濃い朝。

 村の中央広場では、いつものように狩りの成果を分け合う声が響いていた。


 父の大きな背中が、朝陽に照らされて黒く浮かび上がる。

 母は新鮮な鹿の血を洗い流しながら、彼女に向かって笑った。


「今日はお前の好きな肝を焼いてやるぞ。ちゃんと食べろよ、耳がピンと立たなくなるぞ」


 彼女は尻尾を軽く振って、母の言葉に耳を立てた。

 猫のように柔らかな狼の耳が、喜びで微かに震える。


 この村では、誰もが「狩りの民」だった。

 獣人の血が濃く、森と共存する術を知っていた。

 大きな都市のような石壁も、高い塔もない。けれど、朝の風の匂いと、夕暮れの火の色と、家族の声に囲まれた確かな暮らしがあった。


 人間の冒険者たちとは、時折交易をする程度。

 決して親しくはなかったが、敵でもなかった。


 ――その日までは。


 最初に聞こえたのは、馬の蹄の音だった。

 次に、金属の擦れる音。

 そして、笑い声。


「魔物討伐の依頼だ! この辺りに獣人の巣があるってよ!」


 広場に飛び込んできたのは、十人を超える人間の男たち。

 見たこともない徽章を胸に付け、酒の匂いを漂わせ、目がぎらぎらと濁っていた。


 彼らの後ろには、奴隷商の馬車が数台。

 鉄の檻が、朝陽を冷たく反射している。


 その光を見た瞬間、父の顔つきが変わった。


 狩りの弓を手に取り、矢を番える。


「ここは人間の村じゃない! 出て行け!」


 しかし、返ってきたのは嘲笑と、火矢だった。


 一瞬で藁葺きの屋根が燃え上がった。

 悲鳴が上がる。子供の泣き声。女の叫び。

 村は、朝のうちに村でなくなり始めていた。


 彼女は母に抱き寄せられ、家の裏手に引きずり込まれた。


「逃げろ……森の奥へ……!」


 だが、逃げられなかった。


 人間の男たちは、すでに村を囲んでいた。

 獣人の敏捷性を嘲うように、魔法使いが地面に氷の棘を咲かせ、足を封じた。

 走ろうとした者から倒れ、逃げ道と思った先には別の刃が待っている。


 父は三人を倒した。

 喉を掻き切られ、血を吐きながらも、最後まで弓を放ち続けた。

 けれど、四人目の剣が父の胸を貫いた瞬間、娘の視界が赤く染まった。


「父さん……!」


 男たちが笑った。


 一人が彼女の腕を掴み、地面に押し倒す。


「おお、可愛い狼耳だぜ。裏の連中、獣人の雌は高く売れるって言ってたよな」


 母が飛びかかった。

 爪を立て、牙を剥き、必死に彼女を守ろうとした。

 しかし、別の男が母の背中に棍棒を振り下ろした。


 鈍い音。

 血しぶき。

 意識を失った母の体が、まるで獲物のように地面に崩れ落ちる。


 彼女は叫んだ。

 声にならない叫びを、喉が裂けるほどに。


 父の死体がすぐ横に転がっている。

 母の血が、彼女の頰を濡らす。

 煙が目に染みる。

 火の粉が降る。


 男たちは彼女の服を乱暴に裂き、品定めするような目で見下ろした。

 まだ幼い体に荒い手が触れる。

 痛みと吐き気と、信じられないという感情が、一度に押し寄せた。


 男の一人が、彼女の耳を掴んで無理やり顔を上げさせた。


「見てろよ、親父。娘がどうなるか、ちゃんと見てろ」


 その瞬間、狼獣人の娘の中で何かが音を立てて折れた。


 痛みは激しかった。

 屈辱は、もっと激しかった。

 しかし男たちは、最後の一線だけは越えなかった。

 まだ高く売れる商品を、無闇に傷つけるつもりはないらしい。


 そのことが、なおさら彼女を震えさせた。

 自分は守られたのではない。

 ただ、品物として扱われたのだと、子どもでもわかってしまったからだ。


 周囲では、村の男たちが次々と殺され、女たちが引きずり出され、同じように縛られていく。


 魔物討伐。

 ただの口実だった。


 獣人の村を襲い、若い女を奴隷として売り、耳や尾を「戦利品」として持ち帰る。

 それが、彼らの仕事だった。


 少女は泣きながら、ただ一つだけ思った。


 殺してやりたい。

 この男たち全員を。

 この世界の、こんなことを平気でする人間たちを。

 自分の弱さを、許せないほどに。


 その夜、村は焼き払われた。

 生き残った女たちは、全員が奴隷商の檻に詰め込まれた。

 彼女の首には、すでに粗末な鉄の輪がはめられていた。


 馬車が動き出すとき、彼女は最後に燃え残る父の家を見た。

 屋根の一部がまだ崩れずに残っていて、その向こうに、朝だったはずの空が煤で濁っている。


 耳が、静かに震えていた。


 それが、故郷を見た最後だった。



第一章 名前を失うまで



 その夜、地下牢の空気は、ひどく湿っていた。


 石壁には水気がにじみ、床は冷たく、鉄格子には人の手垢と古い錆がこびりついていた。

 どこか遠くで、鎖の引きずられる音がする。

 誰かのすすり泣きがして、その少し後に、男たちの笑い声が重なった。


 その音を聞くたびに、彼女の耳はぴくりと動いた。


 本来なら、黒い狼耳は風を読むためのものだった。

 草原のざわめきを拾い、遠くの足音を見分け、仲間の声を聞き分けるためのもの。

 けれど今は、その耳は頭に伏せられ、外の気配ではなく、自分へ近づいてくる足音だけを数えていた。

 長い尻尾も、怯えた獣のように足元へ巻きついている。


 彼女は、まだ本当の意味では理解していなかった。


 捕まった。

 首輪をつけられた。

 地下へ落とされた。

 鎖に繋がれた。


 それは理解できる。


 だが、その先に何が待っているのか。

 この場所が何のための場所なのか。

 なぜ男たちが、あんなふうに平然と笑えるのか。

 その意味までは、まだ心が拒んでいた。


 だから、最初に牢へ入ってきた男たちを、彼女は睨み返した。


 黄金色の瞳には、まだ光があった。

 恐怖はあっても、それは屈服ではなかった。

 牙を剥くほどの余力はなくとも、「嫌だ」と言えるだけの火は残っていた。


「近づかないで」


 喉は乾いていた。

 声は震えていた。

 それでも、それは確かに彼女自身の言葉だった。


 男たちは顔を見合わせ、少しだけ楽しそうに笑った。


「お、気が強い」

「最初はみんなそうだ」


 それは慰めでも、警告でもなかった。

 ただ見飽きたものを眺める、気軽な調子だった。


 彼女の怒りも怯えも、この場所では特別ではない。

 何度も見てきた“いつもの反応”でしかない。


 そのことを、彼女はその夜のうちに思い知った。


 叫んでも、何も変わらない。

 暴れても、手は止まらない。

 嫌だと何度繰り返しても、その言葉は誰の胸にも届かない。


 ここでは、自分の意思は数に入っていない。


 それが、その夜の終わりに、ようやく彼女の中へ落ちてきた現実だった。


 床に崩れ落ちた時、彼女はまだ泣いていた。

 自分の身に起きたことを受け止めきれず、ただ肩を震わせていた。

 背を丸め、尻尾を抱き込むようにして、小さく、小さくなる。


 誰かが助けてくれるのではないかと、まだどこかで思っていた。

 この夜が悪い夢で、次に目を開けたら森の匂いが戻っているのではないかと。


 涙は、まだ心が生きている証だった。


 その時の彼女は、そんなことも知らなかったけれど。




 地下牢には、朝がなかった。


 時間は、光ではなく音で進んでいく。


 食事の盆が投げ込まれる音。

 看守の靴音。

 遠くの扉が開き、閉じる音。

 誰かが呼ばれ、誰かが戻される音。


 それらを聞きながら、彼女は最初のうち、必死に日を数えようとした。

 昨日と今日を区別するために。

 自分がまだ生きていると確かめるために。


 それでも、数はすぐに曖昧になった。


 痛みがあった。

 疲労があった。

 眠っても休まらない夜があった。

 空腹と寒さが、時間の輪郭を削っていった。


 何日経ったのか、もうわからない。

 けれど、繰り返される夜だけは確かだった。


 最初の数日は、彼女も抵抗した。

 触れられれば身を引き、命じられれば睨み返した。

 腕を振り払い、噛みつこうとし、喉が裂けるまで叫んだ。


 そのたびに、罰があった。


 食事を抜かれた。

 傷の手当を後回しにされた。

 冷たい石床に長く放置された。

 次の夜には、前の夜よりもさらに容赦なく使われた。


 地下牢は、そういう仕組みでできていた。


 逆らう者は、逆らわなくなるまで削られる。

 泣く者は、泣くことに意味を見出せなくなるまで疲れさせられる。

 怒る者は、怒りの置き場所を失うまで消耗する。


 そこでは勇気も気高さも、役に立たない。

 必要とされるのは、壊れにくく、扱いやすいことだけだった。


 ある日、投げ込まれた薄い食事を前にして、彼女はふと気づいた。


 腹は空いている。

 胃は痛いほど鳴っている。

 それなのに、それ以上に「今夜は誰が来るのだろう」と先に考えている自分がいる。


 その瞬間、何かが静かに折れた。


 生きるために食べるのではない。

 今夜を少しでも軽く終えるために、体を持たせるのだ。


 その考え方は、地下牢のものだった。

 まだ完全に染まり切ってはいなくても、もう彼女の中に入り込んでいた。


 狼耳は、男たちの足音ばかりを拾うようになっていた。

 尻尾は、怒りではなく怯えでしか動かなくなっていた。


 彼女は、少しずつ自分を遠くへ追いやった。


 これは私じゃない。

 ここにいるのは、私の体に似た何かだ。

 終わるまで置かれているだけの、名もない獣だ。


 そう思わなければ、息ができなかった。


 思い出そうとすると、森の匂いが刺さる。

 父の声を思い出そうとすると、その直後に胸を貫く剣の光がよぎる。

 母の手の温かさを思い出そうとすると、血に濡れた背中が浮かぶ。


 だから彼女は、思い出さないことを覚え始めた。




 最初に「礼を言え」と命じられた時、彼女はその意味がわからなかった。


 薄く開いた目の向こうで、看守が退屈そうに彼女を見下ろしていた。

 頬は腫れ、唇は切れ、呼吸は乱れている。

 そんな彼女の顎をつまみ上げて、看守はもう一度言った。


「終わったら礼を言え。わかったな」


 礼。


 何に対して。

 誰へ向けて。

 どうして。


 わからなかった。

 理解したくもなかった。


 彼女が黙っていると、頬が打たれた。

 乾いた音が地下に響く。

 首輪が強く引かれ、喉が締まる。


「わかったな」


 彼女は、かすれた声で答えるしかなかった。


「……わかりました」


 その夜が終わったあと、看守の視線に促されるまま、彼女は唇を動かした。


「……ありがとうございました」


 その言葉を口にした瞬間、胸の内側がひどく冷えた。


 感謝などしていない。

 したくもない。

 それでも、言わなければまた痛い目を見る。


 だから言う。


 そう自分に言い聞かせた。


 だが、人は繰り返すものを覚えてしまう。


 終わる。

 息を整える。

 礼を言う。


 終わる。

 目を伏せる。

 礼を言う。


 終わる。

 何も考えない。

 礼を言う。


 それを何度も何度も重ねるうちに、その言葉は命令ではなく、動作の一部になっていった。


「……ありがとうございました」


 気づけば、それはほとんど反射だった。

 口にしているのは確かに自分なのに、そこに心はついていない。


 男たちはそんな彼女を見て満足した。

 看守は「やっと覚えたか」と機嫌よく笑った。

 彼女はただ、目を伏せていた。


 かつて、風の匂いを追って森を駆けた狼の娘が、今は終わるたびに感謝の言葉を言う。

 その事実は、傷よりも深く彼女を削った。


 狼耳は、もうあまり立たなくなっていた。

 長い尻尾も、床に力なく落ちるばかりだった。


 痛みよりも、羞恥よりも、もっと深いところで、彼女の何かが擦り減っていた。


 そして何より恐ろしかったのは、言葉に慣れていく自分だった。


 最初は喉が拒んだ。

 次は胸が冷えた。

 その次には、ただ口が動くだけになった。


 人は、こんなふうにも壊れていくのだと、彼女は誰に教わるでもなく知ってしまった。




 地下牢には様々な男が来た。


 酔っている者。

 機嫌の悪い者。

 やたら喋る者。

 黙ったまま欲望だけを置いていく者。


 やがて彼女は、その違いを大して重要だと思わなくなった。

 長いか短いか。

 乱暴かそうでないか。

 その程度の差でしかなかったからだ。


 けれど、一人だけ、明らかに質の違う男がいた。


 痩せた老人だった。

 背はそれほど高くない。

 肩も狭く、声も細い。

 それなのに、目だけが妙にぎらついていた。


 初めて見た時から、彼女はその目が嫌だった。


 壊れやすいものを前にした好奇心。

 欲しいものを前にした執着。

 そして、相手が嫌がることを確かめて楽しむような、ねじれた熱。


 老人は彼女を見て、嬉しそうに笑った。


「いいなあ……」


 その声には、優しさの形だけがあった。

 けれど中身は、まるで違う。


 看守たちが噂していた。

 あの老人は、かなりの金を積んで、彼女のある部分を自分だけのものにしようとしているのだと。


 買うのではない。

 救うのでもない。

 ただ、自分だけが壊し方を決めたいのだ。


 そのことが、彼女にはどうしようもなくおぞましかった。


 老人は派手ではなかった。

 乱暴さを誇るような男たちとは違って、むしろ丁寧ですらあった。

 だが、その丁寧さがかえって恐ろしかった。


 どこを嫌がるのか。

 どんな時に強張るのか。

 どの順番で怯えるのか。


 そういうことをひとつずつ確かめるように、時間をかけて彼女を追い詰めていったからだ。


 最初のうちは、老人が来る気配を感じるだけで耳が震えた。

 胸の奥が冷え、呼吸が浅くなった。

 次はあの男だ、と思うだけで、喉が詰まった。


 老人はそれを見て満足していた。

 彼女が黙っていても、何も言わなくても、震えだけで十分らしかった。


 やがて彼女は、老人が来る夜だけ、余計に息を殺すようになった。

 聞こえないふりをしても、あの咳払いと湿った笑い方だけは嫌でもわかる。

 耳は閉じられない。

 だから、心の方を閉じるしかなかった。


 だが、それにもやがて慣れが来た。


 慣れることは、救いではない。

 恐怖の角が削れて、鈍い重さに変わるだけだ。


 彼女は次第に、老人が来る前から何も感じないようにしようとした。

 そうした方が、終わった後に少しだけ楽だったからだ。


 老人は何十夜も来た。

 看守たちは面白がっていた。

 あの男は、ここに来るためだけに他で無茶な金の使い方をしているらしい、と。


 そして、ある夜、ぱたりと来なくなった。


 看守が牢の前で、酒臭い息を吐きながら笑う。


「あのジジイ、賭けで全部すっちまったらしいぞ。これでお前も、もう独占じゃねえ」


 彼女は目を閉じた。


 泣きもしなかった。

 叫びもしなかった。

 驚くほど静かに、その意味を理解しただけだった。


 一人に限られていた地獄が、これからは誰にでも開かれる。


 その夜、彼女の胸の中には、ひどく冷たい予感だけが残った。


 ――また、新しい地獄が始まる。


 そして、その予感は外れなかった。




 老人が消えたあと、地下牢の空気はどこか浮ついていた。


 制限がなくなったことを知った男たちは、面白がるように出入りした。

 看守たちもそれを咎めない。

 彼女がどうなるかなど、もう誰にも興味はなかった。


 彼女は、もう抵抗しなかった。


 手首を差し出す。

 目を伏せる。

 何も考えない。


 そうしていた方が、少しだけ早く終わる。

 少しだけ浅く済む。

 少しだけ、明日が近い。


 ただ、それだけの理由で従っていた。


 看守が満足そうに言う。


「すっかりいい子だな」


 彼女は答えない。

 終わったあとにだけ、いつものように口を動かす。


「……ありがとうございました」


 その言葉を口にするたび、胸の奥のどこかが、凍るのではなく空になっていく気がした。


 かつて自分が何を好きだったのか。

 誰に名前を呼ばれていたのか。

 どんなふうに笑っていたのか。


 思い出そうとすると、記憶は白く霞んだ。


 思い出せないことが苦しい。

 けれど、思い出すことはもっと苦しい。


 だから彼女は考えないようにした。


 地下牢では、考える者から先に壊れる。

 そのことを、彼女はもう知っていた。


 痛みなく、今日を終えたい。

 せめて明日まで持ちこたえたい。


 その程度の願いだけが、彼女を繋いでいた。


 そして、夜は続いた。


 名前を呼ばれることなく。

 過去を問われることもなく。

 ただ、“使われる獣”として。


 狼だった娘は、少しずつ、名もない商品へ変わっていった。


 時折、別の牢から若い獣人の泣き声が聞こえることがあった。

 そのたびに耳がかすかに動く。

 けれど、彼女はすぐにその耳を伏せた。


 聞いてはいけない。

 考えてはいけない。

 何も感じない方が長く持つ。


 そうやって、自分で自分を教え込んでいった。



第二章 空っぽの中で



 私は、もう自分の名前を思い出せない。


 昔は確かにあったはずだ。

 母に呼ばれた名前。

 仲間たちが笑いながら口にした名前。

 草の上を走りながら、自分の中にしっくりと収まっていた音。


 でも今は、どれだけ思い出そうとしても、その輪郭が掴めない。


 狼。

 雌。

 お前。

 ポチ。


 そう呼ばれれば、私はそちらを見る。

 それで十分だった。

 いや、それ以上は求められていなかった。


 名前が消えると、不思議と心も遠くなる。


 痛い。

 寒い。

 苦しい。

 嫌だ。


 そういう感情はまだ残っている。

 ただ、それを感じているのが「私」だと思う力だけが、少しずつ弱くなる。


 ある夜、私は気づいた。


 看守が牢へ近づく前に、自分から手首を差し出している。


 命じられる前に。

 叱られる前に。

 もう体が覚えてしまっていた。


 大人しくしていれば、少しだけ早く終わる。

 少しだけ乱暴さが減る。

 少しだけ、次の夜まで生きやすい。


 それだけだ。


 誇りではない。

 諦めでもない。

 ただの計算だった。


 地下牢で長く持つには、それしかなかった。


 狼耳は自然に伏せられ、尻尾は床に落ちたまま。

 私は、自分がもう「選ぶ側」の生き物ではなく、「差し出される側」のものになったのだと、ぼんやり思った。


 そして、そのことにもう、昔ほどは傷つかなかった。

 傷つく力まで、すり減っていたからだ。


 時々、自分の顔を水桶の濁った表面に映してみることがあった。

 そこにいるのは、自分のはずなのに、自分ではないように見える。

 耳は伏せられ、目の光は薄く、口元には何もない。

 森を走っていた少女の面影は、もうそこにはほとんど残っていなかった。




 新しい獣人たちが連れてこられたのは、そんな頃だった。


 猫耳の少女。

 狐耳の娘。

 兎耳の少女。


 三人とも若かった。

 目にまだ光があり、耳は忙しなく動き、尻尾にも力があった。

 鎖を引かれれば本気で逆らい、男たちの手が伸びれば本気で身を引いた。


 私は牢の隅から、その様子を見ていた。


 懐かしい、と思った。


 昔の私も、あんな目をしていた。

 まだ怒れた。

 まだ睨めた。

 まだ「嫌だ」と口にできた。


 今の私は、もう違う。


 その差を見せつけられるようで、胸の奥が静かに痛んだ。


 男たちは、そんな三人の前で、わざと私を中央へ引きずり出した。


「見ておけ」

「逆らっても無駄だ」


 そんな意味の言葉を吐きながら。


 私は何も考えないようにした。

 考えれば、余計に苦しくなる。


 けれど、三人の視線だけは避けられなかった。


 猫耳の少女は息を呑んでいた。

 狐耳の娘は耳をぴたりと伏せた。

 兎耳の少女は、怯えながらも目を逸らせなかった。


 その視線が、ひどく熱かった。


 私はそれまで、自分がどう見えるかをほとんど忘れていた。

 痛いか。

 終わるか。

 明日まで持つか。

 それだけしか考えていなかったからだ。


 なのに、新入りたちの目は、私に思い出させた。


 私は見られている。

 壊れた姿を。

 使われる姿を。

 もう元には戻れない姿を。


 その時、喉の奥から、ほとんど無意識に言葉が漏れた。


「……見ないで」


 自分でも驚くほど小さな声だった。

 それでも、三人には聞こえた。

 男たちは笑った。


 私は一瞬だけ、胸を強く掴まれた気がした。


 久しぶりに、自分の意思で出た言葉だったからだ。


 すぐに後悔した。


 言っても何も変わらない。

 ただ、余計に笑われるだけだ。

 そんなことは、もう何度も学んできたはずだった。


 それでも、その一言は消えなかった。

 胸の奥に、細い棘みたいに残った。


 その夜が終わったあと、私は牢の隅に戻された。

 石壁にもたれ、膝を抱え、何も見ないふりをして息を整える。


 けれど、新入りの三人の視線だけは、暗がりの中でもはっきりわかった。


 猫耳の少女が、最初に目を逸らした。

 あまりにも怯えた顔で、唇を噛んでいる。

 見てはいけないものを見てしまった子どもの顔だった。


 狐耳の娘は、逆にじっとこちらを見ていた。

 敵を見る目でも、哀れむ目でもない。

 ただ、理解しきれないものを前にした時の、硬い眼差し。

 その大きな尻尾だけが、落ち着かないように細かく揺れていた。


 兎耳の少女は、何度か口を開きかけて、結局なにも言わなかった。

 長い耳の先が震えている。

 聞きたいことがあるのだろう。

 でも、それを聞いてしまったら、もう戻れないと本能でわかっているようだった。


 私は目を閉じた。


 何も言わないでほしいと思った。

 何も聞かないでほしいとも思った。

 ここで言葉を交わせば、私はきっと、ほんの少しだけ昔の自分を思い出してしまう。


 それは、たぶん痛い。


 やがて、兎耳の少女が、ほとんど聞こえないくらい小さな声で言った。


「……あの」


 私は返事をしなかった。


 返事をしてはいけない気がした。

 ここで優しい声を出したら、何かが崩れる。

 そう思った。


 しばらくして、その子は言い直した。


「……ごめんなさい」


 何に対する謝罪なのか、わからなかった。

 見てしまったことへの謝罪かもしれない。

 何もできないことへの謝罪かもしれない。

 それとも、これから同じ目に遭う自分自身への、誰にも向けられない言葉だったのかもしれない。


 私はやはり何も言えなかった。


 ただ、自分でも気づかないうちに、長い尻尾の先がわずかに震えていた。




 兎耳の少女は、比較的早く選ばれた。


 身なりのいい中年男だった。

 指輪をいくつもはめ、酒と香油の匂いをまとっていた。

 彼は牢の中をゆっくり見て回り、最後に兎耳の少女の前で立ち止まった。


「可愛いな」


 その一言だけで、空気が変わった。


 兎耳の少女は青ざめ、必死に首を振った。

 長い耳が震え、体が壁際へ縮こまる。

 男はそれを面白がるように笑った。


「飼ってやろう」


 その言い方が、私は嫌いだった。


 優しいことを言う顔をしているくせに、そこに優しさが欠片もない。

 拾ってやる。

 守ってやる。

 可愛がってやる。


 そんな響きを使いながら、相手を物にすることしか考えていない。


 翌朝、兎耳の少女はいなかった。


 壁に鎖の跡だけが残っていた。

 彼女が座っていた場所には、まだ少しだけ体温が残っているように見えた。


 私はぼんやりと呟いた。


「……いなくなった」


 その時、理由もなく理解した。


 まだ壊れきっていない方が、高く売れる。

 まだ嫌がれるうちに。

 まだ怯えられるうちに。

 私みたいに、何も言えなくなる前に。


 それが、この場所の理屈だった。


 私は、もう売り時を過ぎたのだ。

 だからまだここに残っている。


 その現実は、痛みというより冷たかった。


 兎耳の少女がどこへ行ったのか、私は知らない。

 けれど、きっと幸せではないだろうと思った。


 地下牢の外へ出ることと、救われることは、同じではない。

 それは、地下で長く過ごすうちに、自然とわかるようになっていた。


 その夜、空いた場所を見ながら、私はほんの少しだけ羨ましいと思ってしまった。

 どこへ行ったかもわからない相手を。

 そのことに、あとで自分で吐き気がした。




 その次に、猫耳の少女が泣いた。


 彼女は短い耳を震わせながら、最後まで抵抗していた。

 怒鳴り、身をよじり、鎖を引き、何度も「嫌だ」と叫んだ。


 その声を、私は黙って聞いていた。


 遠い昔の私の声みたいだった。


 嫌だ。

 やめて。

 来ないで。

 助けて。


 言葉の意味よりも、その声にまだ力があることが苦しかった。


 私はもう、あんなふうには叫べない。

 喉はまだ音を出せるのに、心がそこまで届かない。

 その距離の長さが、たまらなかった。


 狐耳の娘も、少し遅れて同じように泣いた。


 彼女は尻尾を守ろうとしていた。

 ふさふさの大きな尻尾を体に巻きつけ、触れられるたびにびくりと震える。

 それが彼女の誇りなのだと、一目でわかった。


 地下牢の男たちは、そういうものを見逃さない。


 大切にしているもの。

 嫌がるところ。

 守りたいと思っているもの。


 そういうものほど、楽しそうに踏みにじる。


 私は、猫と狐の泣く声を聞きながら、何度も目を閉じた。


 助けたい、とは思わなかった。

 そんなことを願うのは残酷だ。

 私に何もできないと、最初からわかっているから。


 でも、見てしまう。

 聞いてしまう。

 胸の奥が、小さくざわつく。


「嫌だ」


 二人の言葉は、地下牢の中でしばらく消えなかった。

 鎖の音よりも長く。

 看守の笑い声よりも深く。


 そして、その残響が私の中で何度も繰り返された。


 ――私はもう言えない。

 ――でも、あの子たちは、まだ言える。


 その事実が、なぜこんなにも苦しいのか、私はうまく説明できなかった。


 ある晩、猫耳の少女と目が合った。

 彼女は泣いたあとで、目元が赤く腫れていた。

 それでも、唇だけはきゅっと結んでいた。

 まだ折れていない。

 そう思った瞬間、胸が痛んだ。

 折れないものが、ここではどんな目に遭うか知っているからだ。




 やがて猫も狐も、連れていかれた。


 若い男だった。

 派手な服と、軽い笑い声。

 自分が選ぶ側だと、疑っていない歩き方。


 彼は猫と狐を並べて見て、玩具を選ぶように満足げにうなずいた。


「二人とも、いいね」


 その言葉を聞いた瞬間、二人の顔から色が消えた。

 けれど、もう逃げる力は残っていなかった。

 泣くことさえ少し遅れてやってくるほど、疲れ切っていた。


 男は「可愛がってやる」と笑っていた。

 その声に、私は兎耳の少女の時と同じものを感じた。


 嘘だ。


 そう胸の中で思った。

 けれど、口には出さなかった。


 扉が閉まったあと、地下牢には私一人だけが残った。


 あれほど狭く、息苦しく感じていた牢が、その時だけ妙に広かった。

 沈黙が大きすぎて、自分の呼吸の音すら遠く聞こえる。


 私は壁にもたれて座り、しばらく動かなかった。


 静かだ。

 誰も泣かない。

 誰も震えない。

 私しかいない。


 それなのに、耳の奥には、まだ猫と狐の最後の声が残っていた。


「……嫌」


 その短い言葉が、何度も胸の内側で擦れた。


 私は目を閉じた。


 痛みなく、今日を生きられればいい。

 そのために何も感じないようにしてきた。

 そのはずなのに、その夜だけは、うまく空っぽになれなかった。


 誰かの絶望に触れたことで、自分の中にまだ何かが残っていると知ってしまったからだ。


 それは救いではなかった。

 ただ、消えきらなかった痛みだった。


 そして同時に、私は初めて、自分が一人残されたことを怖いと思った。

 比べる相手すらいない。

 次に消えるのが誰かを見届ける相手もいない。

 残ったのは、私だけだ。


 その事実は、静けさよりも重かった。



第三章 最後に見たいもの



 薬を飲まされる夜が増えた。


 苦い液体だった。

 喉を通ると胃の奥が熱くなり、その熱は時間差で全身へ広がっていく。

 傷は塞がり、肌は整い、目立つ痣は薄くなる。


 休ませるためではない。

 壊れたものを継ぎ合わせ、もう少しだけ使えるようにするためだ。


 そのことは、もう誰も隠そうとしなかった。


「今日は多めだ」

「見栄えだけは保てよ」


 看守たちはそんなふうに言った。


 薬を飲んだ夜の体は、自分のものではなくなる。

 熱を持ち、過敏になり、ほんの少しの刺激までいやに鮮明に感じてしまう。


 彼女はそれを嫌悪した。

 けれど、嫌悪すら深くは続かない。

 考えることに疲れ切っていたからだ。


 ただ、終わるまで待つ。

 その時が過ぎるのを待つ。

 それだけが、彼女の夜だった。


 そんなある夜、先日兎耳の少女を連れていった中年男が、彼女の前に立った。


 男は最初、満足そうに笑っていた。

 けれど途中から、その顔が少しずつ不機嫌に変わっていった。


 最後に彼は、吐き捨てるように言った。


「前ほどじゃないな」


 彼女はその意味を、すぐには理解できなかった。

 体は熱く、意識はぼやけ、言葉はただ上滑りする。


 けれど、その夜を境に、似たような言葉を耳にすることが増えた。


「持ちが悪い」

「前より緩い」

「そろそろ賞味期限か」


 そのたびに、胸の奥が冷たくなった。


 自分が痛いからではない。

 自分が壊れているからでもない。

 自分が“使い減りしている”と、はっきり言葉にされることが、たまらなく寒かった。


 以前は、男たちの視線の中に欲望があった。

 今はそこに、値踏みと不満だけがある。

 その差を、彼女は嫌でも感じ取った。




 ある夜、痩せた男が看守たちに言った。


「もう客がつきにくい。薬代の方が高い。そろそろお暇してやれ」


 お暇。


 その言葉を聞いた瞬間、彼女の胸に、あまりにも小さな希望が灯った。


 ――もしかして。


 それは光と呼ぶには弱すぎるものだった。

 それでも、地下牢に長くいた者にとっては十分すぎる揺れだった。


 ここから出られるのだろうか。

 もう夜ごと呼ばれなくて済むのだろうか。

 鎖の先に、終わりではなく外があるのだろうか。


 彼女は、その夜、久しぶりに眠る前に明日のことを考えた。

 ほんの少しだけ。

 ほんの少しだけなら、夢を見ても許される気がした。


 けれど、その希望はすぐに踏み潰された。


 看守が彼女を見下ろして、苛立ったように言う。


「解放だと? 違う。処分だよ」


 処分。


 その言葉は、お暇よりも鋭かった。

 自由ではない。

 許されるわけでもない。

 ただ、もう要らないということ。


 彼女は一瞬、耳をぴくりと震わせた。

 それだけだった。


 大きく絶望する力も、もう残っていなかった。

 希望が潰れたことを理解しても、叫ぶだけの熱がなかった。


 ただ、胸の中にひとつだけ、冷たい事実が落ちた。


 ――私は終わるのだ。


 そのあとに待っていたのは、慰めではなく制裁だった。


 看守は怒っていた。

 商品管理が悪いと叱られた腹いせを、彼女の体にぶつけた。


 熱した鉄が背に押し当てられた瞬間、彼女は久しぶりに本気で叫んだ。

 焼ける臭い。

 目の前が白くなるほどの痛み。

 体が勝手に強張り、呼吸が乱れる。


 看守はその反応を見て笑った。


「まだできるじゃねえか」


 彼女は答えなかった。

 答える言葉を失って久しかった。


 ただ、その夜の終わりに、ぼんやりと思った。


 希望は最初からなかったのだ。

 自分が一瞬、見間違えただけだったのだと。


 それでも、その一瞬だけは確かに心が動いた。

 まだ完全には空になっていない証拠みたいで、それが少しだけ悲しかった。




 それからの彼女は、ずっと「処分」という言葉を考えていた。


 どういう意味なのだろう。

 殺されるのか。

 どこかへ捨てられるのか。

 もっと安い地獄へ流されるのか。


 答えはわからない。


 けれど、地下牢で長く生き延びた者には、雰囲気でわかることがある。


 もう見切られている。

 もう回収される側に移った。

 もう値札が剥がれかけている。


 それは、男たちの目の変化でわかった。


 かつては欲しそうに見ていた者たちが、今では面倒そうに扱う。

 乱暴さは残っているのに、熱だけが減っている。

 飽きた玩具を持ち上げるような手つき。


 それが、彼女には何より堪えた。


 痛いのは、慣れた。

 苦しいのも、知っている。

 でも、「もう面白くもない」と判断されることは、痛みとは違う深さで心に沈んだ。


 私は、もう要らない。


 その結論は、あまりにも静かに胸へ落ちてきた。


 兎耳の少女も。

 猫耳の少女も。

 狐耳の娘も。

 みんなこの牢からいなくなった。


 その先が楽園ではないと知っていても、少なくとも彼女たちは「誰かに選ばれた」。

 今の彼女は、その選ばれることからも外れつつある。


 それが、たまらなく空しかった。


 そして、そんな空しさの中で、胸の奥にたったひとつだけ、小さな願いが生まれた。


 助かりたい、ではない。

 救われたい、でもない。

 そんな大きな願いは、もう持てない。


 ただ――

 最後に一度だけ、光が見たい。


 太陽でも。

 月でも。

 星でも。


 この地下の外にある、本物の空の光を、もう一度だけでいいから見たい。


 その願いは、自分でも驚くほどささやかだった。

 けれど、それは確かに彼女の中にあった。

 消え切らなかった最後の、人間らしい欲求だった。


 夜、冷たい壁に背を預けた時、彼女は何度もその願いを確かめた。

 まだある。

 まだ消えていない。

 それだけで、胸の奥がかすかに痛んだ。




 その日が来たのは、あまりにも唐突だった。


 いつものように鎖に繋がれたまま、ぼんやりと床を見ていた彼女の耳に、重い扉の開く音が届いた。


 男が三人入ってきた。

 いつもの客とは違う。


 二人は武器を持ち、もう一人は冷たい目をしている。

 ただ使いに来たのではない空気があった。


 彼らは首輪の鎖を外し、代わりに手枷をはめた。

 さらに粗末な布の下着を彼女に着せた。


 その感触が妙に生々しかった。


 布。

 久しぶりのそれは、彼女に「どこかへ出される」のだと告げる印のように思えた。


 看守が後ろで笑う。


「じゃあなお嬢ちゃん。もう会うこともねえだろ」


 彼女は振り返らなかった。

 もう会いたくもなかったし、最後の顔として刻みたくもなかった。


 男たちに囲まれたまま、彼女は歩き出した。


 足取りは弱い。

 手枷は冷たい。

 尻尾は床を擦り、狼耳は頭に伏せたままだった。


 地下通路は湿っていて、石壁には水滴が伝っていた。

 足音が響く。

 遠くで、どこかの扉が閉まる音がした。


 彼女は何も考えないようにした。


 どうせ行き先は選べない。

 どうせ拒んでも無駄だ。

 ならば、ただ歩くしかない。


 けれど、通路の先に薄い光が見えた時、彼女の耳はかすかに動いた。


 その時だった。


 光より先に、空気が変わった。


 地下の湿った匂いに混じって、ほんのわずかに、乾いた風の気配が流れ込んでくる。

 土と苔と錆の匂いしかなかった世界に、知らない匂いが混ざる。


 外の風だった。


 それは本当に微かなものだった。

 通路の先のどこか、小さく開いた扉か、地上へ続く階段の隙間から入り込んでくるだけの、細い細い風。

 けれど、その一筋だけで、彼女の耳ははっきりと反応した。


 狼耳が、ぴくりと立ちかける。


 胸の奥で、何かが痛むように動いた。

 忘れたと思っていた感覚が、一瞬だけ戻る。


 朝露を含んだ草の匂い。

 木々の間を抜ける冷たい風。

 狩りの前、父の背に隠れて吸い込んだ森の空気。

 火のそばで、母の服に残っていた煙の匂い。


 失ったはずの記憶が、風に触れた瞬間だけ、胸の底から浮かび上がる。


 彼女は思わず足を止めそうになった。

 だが、背後の男が短く命じる。


「歩け」


 その一言で、現実に引き戻される。


 手枷は冷たい。

 肩は重い。

 足首には力が入らない。


 それでも、さっきの風だけは確かに本物だった。


 通路の先にある光が、本当に外へ繋がっているのかはわからない。

 その先に待つものが救いかどうかもわからない。


 けれど、もしあれが本物の外気なら。

 もしあの光が空の下へ続いているなら。


 その時だけ、胸の奥の小さな願いは、願いの形を取り戻した。


 ――見たい。


 太陽を。

 空を。

 もう一度だけ、風のある場所を。


 彼女はなにも言わなかった。

 ただ、伏せていた耳が、ほんの少しだけ前を向いた。


 彼女は何も言わず、ただ歩いた。


 弱った足で。

 伏せた耳で。

 擦れる尻尾で。

 それでも、その薄い光を見失わないように。


 その瞬間だけ、彼女は少しだけ、自分がまだ完全には死んでいないことを知った。

 願うことをやめたつもりで、まだ最後のひとかけらを残していたのだと。


 彼女は通路の先へ進んでいく。


 手枷の冷たさ。

 男たちの無言の圧。

 焼け跡の痛み。

 弱った体の重さ。


 それらすべてを抱えたまま、それでも胸の底で、ほんの少しだけ思っていた。


 せめて、あの光が本物でありますように、と。

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