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夏中疑氷

作者: あじゃじ
掲載日:2026/02/27

 よく冷えたグレープスカッシュを口元に運ぶ。ガラスのコップに氷が入った特別仕様。ストローのおまけ付き。どれだけ暑い夏でも、冷たい飲み物を一気に流し込むとそれまでの疲れや嫌な気持ちが全部吹き飛んでしまう。貴方が用意した好きな飲み物だからもっとそう。隣に座った貴方がアイスティーを口にする。紅茶が好きだと言ったから、お母さんと一緒にいっぱい練習した。無茶を言って淹れさせてもらった。自分で飲んでも苦いだけだったけど、貴方は私が淹れた紅茶を褒めてくれた。こんなに美味しい紅茶は久しぶりだと、頭を優しく撫でながら言った。それがとても嬉しかった。

「子ども扱いしないでよ!」

 照れ隠しでそう言った。困ったように私を見るけど、何も言わずに頭を撫でるだけだった。そうして家でだらけている間に一日が終わっていく。夏休みって、なんていけないんだろう。玄関で靴を履き替えていると、貴方が何か言いたそうに私を見る。どうしたの? と聞いたら、返ってきたのは息の音だけだった。まあいいかと思って、ドアを開けようとする。呼び止めた貴方の顔はすごく緊張していた。

「私ね、もうちょっとで引っ越すの」

 無理につくった笑顔でそう言った。その言葉を理解するのには少しの時間が必要だった。だけど、家のあちこちに置かれた段ボールを見て本当なんだとわかってしまった。四年前のこの時期に引っ越してきた貴方とはいっぱいの今日を過ごした。大学に通う貴方は忙しそうだったけれど、休みの日に勉強を教えてもらったり、夏休みは毎日のように遊んだ。お仕事を始めてからは帰ってくるのが遅くなって、遊べる日は減ってしまったけれど、当然ずっと一緒にいるものだと思っていた。私は感情のままに、名前を呼ぶ声を振り切るように駆けだした。

 外は雨が降っていた。傘を差すけれど、横向きに吹く風のせいでやっぱり濡れてしまう。それでも走る足は止めなかった。外にいる間ずっと、雨の音が頭の中に響いた。世界に私一人しかいないような気分になって、それが気持ち悪かった。独りぼっちを押し付られているみたい。なんだか一歩踏み出すことが怖くなる。私は雨の音全部、聞こえないフリをして進んだ。帰り道は、うんと長く感じた。これは全部夢なんだって、そう思わなくちゃふらつく足を動かせなかった。

 家には誰もいなかった。お母さんはお仕事に行ったみたい。喉が渇いたから、冷蔵庫を覗く。いつもの場所に置かれたグレープスカッシュへ手を伸ばす。だけどその手はペットボトルを掴む前に止まった。なんだか気分じゃなかった。晴れの日の嫌な気持ちは吹き飛ばしてくれても、雨の日の不安な気持ちには力不足だった。ふと、お父さんが飲んでいた缶コーヒーを思い出した。部屋に行ってお小遣いの中から二百円だけ取り出して、雨が止まない外へ出る。二か月分のお小遣いが無くなってしまうが、よくわからない衝動が私を突き動かした。プルタブを開けるのはまだ慣れていなくて、少し苦戦した。初めて飲んだコーヒーは当たり前に苦かった。それでも私の気持ちがグチャグチャしている間は、この苦さが寂しさを埋めてくれる気がした。グレープスカッシュの甘酸っぱさが懐かしくなるけれど、飲みたいかと言われればそれも違う。あんなに好きだったはずなのに、今ではもう魅力を感じない。

 雨はまだ止まない。空になった缶を捨てようとごみ箱を開ける。中身はなかった。このまま捨ててしまうと、お母さんにバレて怒られてしまう。仕方がないから部屋にある鍵付きの引き出しの奥底にしまった。これならお母さんが片づけに来ても平気だ。今日のコーヒーの味は私だけの秘密にした。

 それから貴方と会うことはなかった。お母さんに何と言われても、私は家に籠っていた。貴方が旅立ったのはあの日と同じ空模様だった。私はまた不安と寂しさから逃げるように、こっそりコーヒーを飲んでそれを隠した。家に道具があったから、淹れ方を調べた。相変わらず苦いけれど、前に飲んだ時よりも美味しく感じた。

 雨の日の度、心に穴が開いてしまうから、両親に隠れて秘密を増やしていった。段々とコーヒーを淹れる腕が上がっていった。すっかり苦さに慣れて美味しいと思えるようになった。引き出しの奥には使い終わって乾かした紙のフィルターが増えた。数が減っているとバレてしまうと思って買いに行った未使用のフィルターも一緒にしまってある。貴方への愛情と、裏切られた気持ちとが喧嘩して整理がつかないのは、きっといつまでも変わらない。

 だからまた、コーヒーを飲もう。

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