鎖に繋がれた少女。
我々が住む地球では、現在、自ら命を絶つ人間が大勢います。
神はそれを危惧し、私に言ったのです。
「自ら命を絶つ人間を救うのです」と。
日本は現在、少子高齢化が進んでいます。
このままでは、そう遠くない未来に日本は沈むでしょう。
それを危惧した我らが神は、私にある任を授けました。
「自ら命を絶つ人間を助けるのです」と。
条件はこうです。
1ヶ月以内に指定された2人を助けること。
私は早速その任に取り掛かりました。
帰りのホームルームが終わり、放課後になります。
皆さん下校や部活、中にはクラスでお友達と話している人もいます。
私もそういう青春なるものを味わってみたいですが、残念。
私にはするべきことがあります。
屋上に続くドアの前にきました。
ドアには「立ち入り禁止」という貼り紙が貼られています。
開けようと思えば小学生でも開けれてしまいます。
しかし、多くの人間はこのドアを開けません。
不思議なものです。
ガチャ、とドアノブをひねると、1人の女性が立っていました。
彼女の名前は杉本楓。
高校3年生です。
右手にはペンチが握られており、どう使うつもりなのかは想像に難くありません。
「楓さん…だよね?なにをするつもりなの?」
私は、なにも知らぬ好青年を演じます。
「誰」
状況から察するに、質問なのでしょう。
しかし、抑揚がなく、そう判断するのにコンマ数秒遅れてしまいました。
「えーっと…2年生の井上正和です」
ここではそういう設定です。
「ここ、立入禁止だよ」
ブーメランというやつですね。
しかし、そこを指摘した所で話が長くなるだけです。
「死ぬのはだめだよ。あ!」
私は少しづつ楓さんに近づき、途中で転びました。
そして、ポケットに忍ばせていたあやとりを落としました。
そうすると、彼女の目はそのあやとりに釘付けです。
「あやとりできるの?」
今回はちゃんと抑揚があり、質問であるということがしっかりわかりました。
彼女が食いつくのもしかたありません。
なぜなら、彼女は娯楽と言われるものを知らないのですから。
私は、試しに蝶々をやってみせました。
そうすると、彼女の目はキラキラと輝きます。
彼女はあやとりに集中するがあまり、ペンチを落としました。
しかし、そんなのお構いなしにあやとりを眺め続けます。
「私にも教えてくれる?」
「もちろん。もう1つあるからどうぞ」
私は用意していたあやとりを渡しました。
「まずは簡単なものから。そうだなあ、ほうきとか?」
私はほうきの作り方を教えました。
「できた!」
楓さんは一発でほうきを作ることに成功しました。
娯楽を知らずともほうき程度は作ることが可能、ということが今証明されました。
「じゃあ次は基本取りをやってみようか」
基本取りとはあやとりの基本の形。
ほうきは例外ですが、多くのものは基本取りから始めます。
楓さんは少し苦戦しましたが、一応成功しました。
「じゃあ、蝶々を作ってみようか」
「できるの!」
彼女の目はさきほどよりも輝きました。
しかし、これには楓さん苦戦。
ほうきや基本取りと比べ、少しばかり複雑ですので、娯楽一年目の楓さんからしたら難易度鬼級でしょう。
3分が経過し、楓さんはついに蝶々を作ることに成功しました。
「できた!」
ほうきを作った時と同じセリフ。
しかし、さっきより苦労した分、感情が籠もっています。
「じゃあ次は…」
「私の家ね、結構厳しいんだ」
あやとりの星を教えていると、彼女はそう吐露しました。
「厳しいって…どんな風に?」
わかりきっていることですが、知らないフリをするのも面倒なので訊くことにします。
「昔から勉強の邪魔になることはしちゃだめなの。友達を作るのも、寄り道するのも、ゲームをするのも。高校だって、お母さん達に決められて。反抗すればお母さんに怒鳴られて、理解されなくて。でもね、お母さん達は私が嫌いな訳じゃないの。むしろ、好きだと思う。でも…」
そこで、少し間を空ます。
「もう、限界…」
それが、1番言いたかった言葉なのでしょう。
「あ…」
帰りを知らせるチャイムが鳴りました。
楓さんの顔が青ざめます。
「死ななきゃ」
それが、ごく普通の判断のように、なんの違和感もなく発せられたその言葉は、到底冗談のトーンではありませんでした。
彼女は本当に死のうとしているのです。
「なんで?」
私は、心底それが不思議な好青年を演じます。
「こんな遅い時間に帰ったら、私怒られちゃうから」
怒られるのが嫌だから命を捨てる。
命を捨てれば怒られることもないでしょう。
理論は通っています。
しかし釣り合いが取れません。
「でも、死んだらあやとりできないよ?」
「それは悲しいけど、仕方ないから。遊んだ罰だよ」
楓さんは落ちているペンチを拾い、フェンスに向かって歩き出します。
「早く帰ってよ。あなたが殺したみたいになったら、死んでも死にきれないから」
残念ながら、楓さんを止めるのに適した言葉が思いつきません。
「え?」
ですから、バックハグで無理やり止めることにしました。
私は膝をついているので、お腹周りを抱くような形です。
私の心にあるのは、神から与えられた命を成功させること。
しかし、楓さんからすれば、自分の死を悲しんでくれる男の子、といった認識でしょう。
私はその認識に乗ります。
「嫌だよ。死なないでよ。やっと友達ができたと思ったのに」
私が得意とする泣いたフリを披露します。
そうすると、回した手に涙が落ちました。
「私だって死にたくないよ!」
楓さんは膝から崩れ落ち、泣き慣れない声で泣き始めます。
「大丈夫。楓さんは悪くないよ」
自分の涙を拭いながら背中を擦り、優しい言葉をかけました。
しばらくして、楓さんはなんとか会話ができる程度に落ち着きました。
「そろそろ学校もしまっちゃうし、場所を変えない?」
私はそう提案しました。
「私、お金ない…」
一縷の希望が今潰えたとでも言いたげな声で、そう言いました。
「大丈夫。親が裕福だからご飯を奢るくらいできるよ」
「いいの?」
普通の人ならば、「悪いからいい」と言うのでしょうが、彼女にとってはこれは千載一遇の希望なのです。
乗らない方がおかしいというものでしょう。
「その前に、ご飯食べてくること親に連絡しなきゃ。楓さんも」
「…スマホない」
申し訳なさそうな声です。
普通の高校生は当たり前のように持ち歩いているものがないのですから、そういう声になるのも仕方ないのかもしれません。
「スマホを貸すよ。電話番号はわかるでしょ?」
「うん。ありがとう」
私はメッセージを送っているかのように指を動かし、それを終えたような仕草をして、楓さんにスマホを貸しました。
電話番号を打ち込む画面にして渡しているのです。
いくらスマホを使ったことがないとしても、電話番号を覚えているのなら難しいことはなにもないでしょう。
しかし、楓さんの手は止まっています。
いえ、よく見ると震えています。
それが、楓さんの親に対する認識ということなのでしょう。
つまり、恐怖の対象なのです。
それが一体どういった類いの恐怖なのか、私は知っています。
「どうしたの?」
しかし、私はあくまでも無知な好青年を演じ、質問します。
「ううん。なんでもない。ごめんね。すぐに終わらせるから」
その言葉とは裏腹に、ゆっくりと、丁寧に、下手に触れば爆発する爆弾に触れるように、スマホをタップするのです。
時間にして、2分程度でしょうか。
楓さんは、数字を打ち終え、あとは電話をかけるだけのところまで来ました。
「すぐに…終わらせるから」
息が荒くなり、涙が浮かび始めます。
しかし、決して弱音を吐きません。
先程まで死のうとしていた彼女が、今は生きることに希望を見出し、自らに抱える恐怖と対峙しようとしているのです。
楓さんはついに、通話ボタンを押しました。
コールの音が、緊張感を高まらせます。
そして、3コール目にして、その方は出ました。
「もしもし。どちら様でしょうか?」
声からして女性。お母さんでしょう。
「あ…私」
恐る恐る言葉を発します。
「楓!?今までどこに行ってたの!?なにをしてたの!?どうやって公衆電話からかけてるの!?」
お母様はひどく動揺しているようです。
お金も渡していない、友達を作ることすら禁止している娘が、電話をしてくれば誰でも驚くでしょう。
「ごめん、少し勉強してて、気づいたら遅くなっちゃって。勉強を教えてくれた人がいたから、その人のスマホを借りて電話してるの」
「友達を作るのは禁止だって言ってるでしょ!どうして約束を守ってくれないの!?」
今どき珍しいくらい厳しい家庭です。
「友達じゃなくて…ただの知り合いなの。勉強を教えてもらっただけだから…」
「言い訳はやめて!いいから早く帰ってきなさい!」
「…はい」
その返事を聞くと、お母さんは通話を切りました。
楓さんの負けです。
「ごめん。帰るね」
スマホを返すと、私を置いて先に行きました。
「明日も待ってるから!ここで!」
去りゆく背中に、約束を取り付けました。
楓さんは一度立ち止まり、少ししてからまた歩き出します。
温泉へ来ました。
なぜなら、私には家がないのです。
当然、家がないので野宿ですし、家がないので体を洗うため温泉へわざわざ赴かなくてはなりません。
居場所がない私にとって、現世は不便でしかありません。
そんな嘆きを心の中で呟きつつ、私は体を洗います。
そういえば、最近はサウナで”整う”というのが流行りらしいです。
せっかくの現世なのです、人間の流行りに乗ってみましょう。
私は体を洗い終え、サウナの中へ入りました。
中には1人のお兄さんと2人のおじいさん。
どうやらお友達のようです。
2人は和気あいあいと話、1人は限界を迎え、私が開け、閉まりかけた扉に手を挟み、開けます。
「あーあ。あいつはサウナに弱いな」
「全く。意地がねえ」
ガハハと2人のおじいさんが笑います。
どうやら、サウナに強いようです。
「おお、兄ちゃん。あんたサウナは初めてかい?」
「はい」
私はいつもの好青年の演技とは異なり、テンションの低い、根暗な、陰キャを演じます。
無知な好青年を演じるのは疲れるのです。
ちなみに、陰キャは陰キャラの略らしいですよ。
「だと思った。あんた、タオルを持ってねえな」
「タオル?」
「サウナってのはな、タオルで温度を上げることができるんだ」
「タオルで温度を?」
「タオルを振ってな、自分に向かって熱風を送るんだよ」
熱風を自分に当てることで温度を上げる、要は激アツうちわと言ったところでしょうか。
「まあ、初めてなら仕方ねえ。貸してやるよ」
もう1人おじいさんが、下のものを隠していたタオルを取ろうとします。
「大丈夫です。今のままでも十分熱いので」
「そうかい。なら、いいや」
おじいさんはなんとかやめてくれました。
好意であるのはわかりますし、”それ”が汚いと言うつもりはありませんが、些かの抵抗はあります。
それから、5分ほど経ちました。
「ああ…」
おじいさんのうちの1人、タオルを貸そうとしてくれた人が虚ろな目をするようになり、呻きをあげるようになりました。
「おいおい、限界なら、お前はもう出てな」
おじいさんは、先程の人をバカにしていた人と同一人物とは思えないほど、心の底から心配しているように見えました。
「なん…の…」
言い終わると、おじいさんは倒れました。
「おい!大丈夫か!?」
おじいさんは焦りながら聞きました。
当然、返事は帰ってきません。
慌てているおじいさんを朧げに見ながら、この状況をどう打開すべきか考えます。
救急車を呼びましょうか?
私が人であるなら呼ぶでしょう。
しかし、私は現世で目立ってはいけないのです。
救急車を呼ぶことで、最悪、救世主呼ばわりされて、テレビが駆けつけてきたら目も当てられません。
だからといって、この場から逃げ出せば、おじいさんに恨みを持たれてなにをされるかわかったものではありません。
なにもしないのはしないので恨みを持たれそうですし。
つまり、かなり八方塞がりな状況なのです。
困っていると、サウナ室の扉が開きました。
入ってきたのは、高校3年生くらいの男5人。
いわゆる陽キャというやつです。
髪型や雰囲気で判断したところも大きいですが、平日に温泉に来ようとする行動力の持ち主は陽キャでしょう。
男たちは目を大きく開け、驚きを隠せない様子。
しかし、その中のリーダー格的男は違いました。
「すぐに外に出そう!」
彼は瞬時に状況を理解し、おじいさんを助けようとしたのです。
彼の号令で、彼らはおじいさんを外に出しました。
「温水で体を流したら、念のため救急車を呼びましょう。俺スマホ取ってくるから、お前らはこの人を着替え室にまで出しておいて」
取り巻きたちは、渋々と言った面持ちで彼の言葉に従います。
「あなたにもお願いしていいですか?」
その言葉は、私に向けられていました。
「うん。やれることはなんでもやるよ」
「それでは、あなたもこの人を運ぶのを手伝ってください」
「うん。了解」
「ありがとう、ございます」
手持ち無沙汰となったおじいさんが感謝を述べます。
その後ろで、状況を理解しようとしているお兄さんがいます。
さっきおじいさん2人にバカにされていた人です。
温水で体を流した後、おじいさんを運び終えると、指示をしていた男が電話をしています。
119でしょう。
彼は持っていたタオルを、取り巻きの内の1人に投げ渡します。
おじいさんを拭け。
そういう意味でしょう。
それを理解した取り巻きは、おじいさんの体を拭きます。
他の取り巻きは、おじいさんの体を転がし、拭くのを手伝います。
「救急車を呼びました。救急車が来るまでの間に、従業員に状況説明をしてきます。それまでの間、着替えて、その人を見ていてください」
先程から、この男はおじいさんを「この人」と言っています。
おじさんと言うのはバカにしているように聞こえる、そういった理由でしょうか。
だとすれば、気持ち悪いくらい配慮がある人です。
果たして「この人」という言い方が失礼に当たらないのかはわかりませんが。
しばらくすると、救急車が来ました。
救急隊員はおじいさんを担架で運びます。
もう1人のおじいさんと、バカにされていたお兄さんは一緒についていき、私と取り巻きはというと、ただそれを眺めていました。
指示をしていた彼は救急隊員とお話し中です。
きっと、状況説明でもしているのでしょう。
しばらくすると戻ってきました。
「あとはあの人たちが話してくれるらしい。それじゃあ、今度こそサウナ入るか」
取り巻きたちはなんとかテンションを上げ、サウナへと向かいました。
しかし、指示をしていた男が私に話しかけてきます。
「ありがとうございました。おかげでスムーズに助けることができました」
その言葉に嘘偽りがあったのなら、その道のプロと言っていいでしょう。
そう思えるほど、彼の言葉が透き通って聞こえました。
「あなたが素晴らしい指示をしてくれたから、あの人は助かったんですよ」
実際、あの人が助かったのかはわかりませんが、素晴らしい指示であったことは事実です。
「そんなことより、早く行かないと置いてかれちゃいますよ」
「そうですね。では、さようなら」
彼は一礼をして、彼らを追いかけました。
「はい。さようなら」
去り行く背中に、私はそう言いました。
未来のことを考えて言い直すなら「またね」のほうが適切でしょう。
さて、途中から私の口調が変わったのにお気づきでしたでしょうか。
彼がサウナ室に入ってきてから、私はいつもの好青年キャラに変えたのです。
なぜなら、彼、「大宮竜一」は、残り数日で同じく死亡ラインを越える、杉本楓と同じ救出の対象なのです。
こんなところで逢うなんて想定していませんでした。
ですので、最初こそ焦りましたが、よくよく考えれば、彼との接点を作るいい機会になったとも言えます。
そんなことを考えながら、温泉を後にしました。
あれから何時間が経過したのでしょうか。
2時間?3時間?
あるいは1時間しか経っていないとか。
当てのない散歩は楽しいものですが、半日近くともなると話は変わります。
これを1ヶ月繰り返すのですか…。
終わる頃には競歩選手のような足になっていそうです。
苦痛を嘆いていると、誰かの声が耳に響きました。
音の方を見てみると、人がいました。
若い男が3人、おじいさんが1人。
構図は3:1。
嫌な予感しかしません。
「おっさんいい腹してんね。さぞお金持ちなんだろうなあ?」
「なんだい、君たち。夜の街は危ないから、無闇に人に話しかけちゃいけないよ」
「はぁー、うっざ、なにこいつ。善人アピールっすか?そういうのきしょいんでやめた方がいいっすよ」
「アピールとか、そういう話では…」
「前置き長え。早く金よこせ。若いもんに金渡すのが大人の仕事だろ?」
2人目の男が話します。
「君たち、少しおかしいぞ」
「うるせぇんだよ!」
3人目の男は、おじいさんの足を全力で蹴ります。
「ううぅ…」
堪らず膝をつきます。
「もっと痛え思いする前に金渡した方がいいぜ?こいつはネジが何個か逝っちまってるからな」
「警察の世話になるぞ」
「あ?」
「ごえっ…」
今度は腹に前蹴りを繰り出しました。
「も1発ほしいか?」
おじいさんは屈辱的と言わんばかりの顔を浮かべながら、財布をポッケから取り出します。
そして、男たちは渡される前に盗みました。
「さてさて、いくらあるかな」
男は札の数を数えます。
「チ、たったの5万かよ。てめえそんな腹してるくせに貧乏人か?」
「もう行こうぜ。金がねえなら用済みだろ」
「クズが!金ねえなら死ね!」
3人目の男が、別れの挨拶に顔に蹴りを入れました。
私はその光景を見て、絶句しました。
人が愚かなのは知っていました。
しかし、これほど腐っているとは思ってもいませんでした。
1人相手に3人がかりで、自己の利のため暴力を振るうだなんて、人道にも、倫理にも反している。
楓さんはこんなことをするのでしょうか。
いいえ、決してしないでしょう。
楓さんは愚かですが、優しい。
自分はなにも悪くない、間違っていないのに、人を責めることができない。だから自分を責め続ける。
彼らのような、人の物を盗み、罵声を浴びせ、暴力を振るう愚かさとは全くの別物なのです。
私は理解しました。
人は皆愚かであると。
同時に、人は愚かという言葉一つでは括れないのだと。
学校に着きました。
節々の休息のため睡眠をしていたら放課後になってしまいました。
最初は皆様のように授業を受ける気持ちを体験しようと努力しました。
その意志は確かにあったのです。
しかし、一時間目の授業が国語だったのです。
先生は内容をわかりやすく説明しようと創意工夫をしていました。
しかし残念ながら、そんなものは睡魔の前にはなんの効力もないのです。
私は睡魔に屈し、夢の世界へと体を預けました。
そこから、寝むる快楽を知ってしまった私は、毎時間寝てしまったのです。
いいえ、過去を振り返るのはやめましょう。
授業をちゃんと受けれなかったのは残念ですが、私にはするべきことがあるのです。
私はまた、屋上を訪れました。
どんな言葉を投げかけるべきかを思考しながら、そのドアを開けます。
しかし、そこに楓さんの姿はありませんでした。
一瞬、まだホームルームが終わってないのだろうと楽観視しました。
自分の愚かを呪います。
なぜ、死亡ラインを越えている人間が今日も生きていると確信していたのでしょう。
早く見つけなくては。
神からの任が果たせないのなら、存在している理由などないのだから。
私しかいない屋上で、私は踊り、歌います。
決して狂ったわけではありません。
これは神楽なのです。
神の御業、その一欠を拝借する儀式です。
1分ほどの神楽を終え、私の左目は黄金に輝き出します。
それと同時に、楓さんが今どこで、なにをやっているのかを知ることができました。
ポケットに忍ばせていたコンタクトを左目に付け、光り輝く黄金を隠します。
そして、大急ぎで楓さんのところへ向かうのです。
「楓さん!」
私は叫びます。
「井上くん…なんで…」
柵を掴んで振り返る楓さん。
目には涙、手は震え、足は竦んでいます。
ザー、ザーと、波の音が死を彩るようで、私は焦っていました。
「今日こそご飯食べに行こうよ。あやとりだって…そうだ!お手玉ってやったことある?すごく楽しいよ!」
楓さんは頭を横に振りました。
「もうどうでもいいの。嫌いっていうことも、苦手って言うことも。私は親に逆らえないから。生きる才能がないんだよ。だから色々溜め込んじゃって、どうしようもないことになっちゃって。だから、リセットするの、全部。だから、もうほっといて」
なぜ、楓さんはこんなにも愚かなのでしょう。
なぜ、自分を責めるのでしょう。
あなたのどこに非があるというのでしょうか。
「生きる才能ならあるでしょ!前言ってたじゃん!「私だって死にたくないよ」って!死にたくないってのは、生きる才能があるってことじゃないの?」
「そりゃ、私だって死にたくないよ。でも生きるのが辛くて辛くてしかたないの!」
喋ってる途中で抑揚が不安定になってきました。
それは、心が不安定な状態であることを示しています。
「生きたいわけじゃないんだ。人間の本能が「死ぬな」って言ってるだけ。だって生きてても楽しいことないんだもん。そうとしか思えないよ」
「例えそうだとしても、いつか…」
「だから!私は今辛いの!」
「なら!僕が今を楽しくしてあげるから!」
しばし、静寂が流れます。
それを破るのは。
「だめだよ、井上くん。君は優しすぎるよ」
彼女は柵に跨りました。
「待って!」
「次は、もっとまともな子と関わりなよ」
そう言って、微笑と涙を浮かべて海に身を投げました。
私は、急いで助けに向かいます。
柵には浮き輪がかかっていました。
落ちてしまった時の救助用のものでしょう。
私自身、泳ぐのが得意というわけではありません。
浮き輪を使うのが、私の安全のためにも得策でしょう。
しかし、少し遠い。
取りに行っている間に彼女が死んでしまっては意味がない。
大切なものはその場に落とし、海に飛び込みました。
濁った海で視界が悪いというのに、彼女は私の目にすぐに飛び込んできました。
手で口を抑え、苦しんでいることが一目でわかります。
しかし、決して海面に上がろうとはしません。
彼女の覚悟は本物ということなのでしょう。
しかし、そんなことは私には関係ありません。
私は沈み征く楓さんに近づきます。
そして、その腕を握ろうとすると、楓さんは抵抗しました。
海中でもわかる涙目は、限界が近いことを示唆しているように見えます。
そんな彼女の腕を、私は無理やり掴みました。
そうすると、彼女は抵抗をやめました。
涙目になるほど…いいえ、泣くほど辛いのです。
なら、甘い蜜に屈するのも頷けます。
急いで海面にまで連れていきます。
しかし、私自身も限界でした。
1人なら簡単に海面に上がれるでしょうが、楓さんを掴んでいることでうまく泳げません。
このままでは、どちらも死んでしまうかもしれません。
そこで、一つの解決策を思いつきました。
楓さんを離すべきでしょうか?
私は神の手なのです。
私の死は、世界の損失。
幸い、楓さん自身死を望んでいるのです。
ならいっそ、この手を離した方が得策では?
…どうしてこんな愚策しか思いつかないのでしょう。
それでは、楓さんが死んでしまうではないですか。
正しい人間が死んでいい理由などないのです。
必ず、この絶望の海から楓さんを救い出します。
「ゴボッ…」
そう決意した瞬間、体の限界が目と鼻の先にまで近づいていました。
必死に抑えていた空気が体から逃げてしまったのです。
意識が少しづつ遠くなっていきます。
その現実に抵抗しようと腕を動かしますが、海面からは少しづつ遠ざかっていくばかり。
…いやだ。
神よ、楓さんはここで死ぬ運命なのですか?
だとしたら、こんなバッドエンドはないでしょう。
救いがなさすぎます。
楓さんがなにをしたのですか?
彼女はただ、愚かで、優しい女の子です。
自殺をする今際の際に、私の心配をするくらい優しい子なんです。
楓さんが死ぬことが運命なのだとしたら、あなたの創り上げた世界は不平等だ。
お願いです。
私の命と引換えでもいい。
彼女を。杉本楓を助けてください。
ただの延命行為でしかないかもしれない。
明日また自殺するかもしれない。
でも、しないかもしれない。
その可能性があるのなら、私は命を差し出してもいい。
気づいたんです。
この世には悪い愚かといい愚かがいることに。
彼女は悲しいくらいにいい愚かなことに。
優しい楓さんには、幸せになる権利があるということに。
だから神様。
私の魂一つで、あなた様のお力を貸していただけませんか?
あなた様の御業を…どうか。
…ああ、地上はなんて無慈悲な世界でしょう。
そんな願いは神には届きません。
意識もただ薄れ征くのみ。
その時、意識が一瞬なくなりました。
すぐに気を取り戻しましたが、そのせいで楓さんを離してしまいました。
彼女の腕をまた掴み、海面に上がる力など、もう残っていません。
楓さんも死に、私も死ぬ。
なにも成せないまま、私は死ぬのですね。
やっと、好きと思える人間に出会えたのに、酸素が足らないなんて理由で終わりだなんて。
そんな私の嘆きでなにが起きるはずもなく、ただ海底に向かって落ちて征きます。
…そのはずでした。
右腕に違和感があるのです。
右腕は徐々に上がり、遂には私の体まで上がり始めました。
私はその腕を見ました。
そこには、楓さんがいました。
楓さんが私を引き上げようとしているのです。
なぜ彼女が私を助けるのでしょう?
彼女は死を望んでいました。
なのに、なぜ、自分を延命するような行為を…。
そんな疑問、自問をする前に答えは出ていました。
楓さんが優しいからです。
死んだら私の生死など関係なくなるというのに、彼女は優しいから、私を助けてしまうのです。
私もなんとか力を振り絞り、海面へ上がれるように腕を動かします。
動かすと言っても、子供の犬かきよりも貧弱な力です。
だというのに、楓さんは力強く私を引っ張ります。
私と状況は大して変わらないというのに、どこからその力が湧いてくるのでしょう。
力強い彼女の腕にほとんど身を任せていると、途端にその上昇は止まりました。
一瞬、楓さんの限界が来たのだと思いました。
しかし、次の瞬間、楓さんは先程よりも強い力で私を引っ張りました。
視界を覆い尽くす汚い海の色が消え、きれいなオレンジ色が表れました。
そう、海面にまで上がったのです。
私は大きく息を取り込み、荒い呼吸を始めました。
私は楓さんを見ました。
楓さんも私を見ていました。
「上がるよ」
よく見ると、彼女の右腕ははしごを掴んでいました。
楓さんがはしごを登り、私もそれに続きました。
彼女は先に地上に降り立ち、すぐさま地面に寝転がりました。
私もはしごを登り終えると、彼女の隣に寝転がります。
「帰ったら、またお母さんに怒られちゃうな」
空を見上げながら、そんなことを呟いていました。
「僕が君の代弁者になるよ」
そんなもの、なんの解決にもならないことはわかっていたはずでした。
なのに、なぜ私はこんなにも愚かなことを言ってしまったのでしょう。
「大げさだよ。怒られたって殺されるわけじゃない」
「でも!」
私は彼女の言葉に反論しようと、大きな声を出しました。
「でも…」
弱々しい声に、私は黙らされました。
数拍、彼女は黙り、感情の籠った一文を繰り出します。
「どうして、トドメを刺してくれないんだろう…」
楓さんは少し涙ぐみながら、不気味に親への不満を言いました。
「僕には君の親のことはわからない。でも、君に生きててほしい。君が辛い思いをしているのなら、僕はその分遊びを教える」
「…ありがとう」
心の籠っていない言葉でした。
私は立ち上がり、服の水を絞りました。
「とりあえず、服買おうか。流石にこのまま帰るってわけにもいかないでしょ」
幸い、海に飛び込む前に置いた財布などは盗まれていませんでした。
「うん、お願い」
そう言うと、楓さんも立ち上がり、軽くスカートの水を絞りました。
現在7月2日(金)
現在時刻18時22分。
現在の気温27.6℃
昨今の地球温暖化は、今この状況だけに着目すれば追い風でした。
しかし、何時間もここにいて平気かと言うとそうではありません。
そろそろ街が闇に覆われ、楓さんを狙う人間も多くなるでしょう。
ですので、早急に楓さんを家に帰さなければなりません。
それは、彼女の意志より優先しなければいけないことなのです。
私はスマホで近くの服屋を探しました。
少し遠いですが、行かないという選択肢は私達には残されていません。
「楓さん。ここに行こうと思うんだけど、大丈夫?」
「うん。平気」
その声は、初めて会った時を彷彿とさせました。
抑揚がなく、言葉の奥の真意が読み取れない。
彼女の命を救い出すことはできましたが、現在の死亡ラインがどうなっているのか把握できていません。
もしかすると、まだ死亡ラインを越えたままかもしれない。
…いいえ。
根本的な解決をできていない以上、死亡ラインは依然越えたままでしょう。
彼女を助けるため、私にはなにができるのでしょうか。
親を殺せば全て解決してくれるのでしょうか。
そんな簡単な話なら、神はわざわざ私にこんな任を授けなどしないでしょう。
親に理解されず、行動を制限され、親の奴隷となった少女、杉本楓。
そんな彼女を、どうすれば救い出すことができるのでしょう。
私達は服屋を目指して歩いていました。
ある程度水を絞ったとは言え、びしょびしょであることに変わりありません。
私としても非常に気持ちの悪い状態であり、早く新しい服に身を包みたい所存。
もっと言うのであれば、お風呂に浸かりたい。
まあ、入るにしろ入らないにしろ服が先です。
「ここを右に…」
「楓ちゃん…!」
曲がってすぐにその声は聞こえました。
私はその声の主の姿を確認しました。
声の主は60代程度のおばあさん、その後ろには70代程度の、おそらくおばあさんの夫のおじいさんがいました。
「おばあちゃん…」
後ろにいた楓さんがそう口にしました。
そうだ。
この方たちは楓さんの祖父母だ。
「そんなに濡れてどうしたの?あなたはどなた?」
驚きのあまり、一度に2つの質問をしてしまうおばあさん。
しかし、好都合かもしれません。
「僕は楓さんの学校の後輩です。最近仲良くしてもらっていて、ここの海を見せたいということでここまで来ました。ですが、僕が前屈みで見ていたせいで落ちてしまい、楓さんに助けてもらって、結果楓さんも濡れてしまいました。今は服を買いに行くところです」
どちらの質問も私が返すことで、私が設定を作りだすことができました。
自殺をしに来た、止めに来た、なんて正直に話せるわけもありません。
楓さんもこの設定に乗って、話を合わせてもらうことができます。
「そうやったんやね。大変だったね」
「今晩はうちに泊まったらどうだ?君も歓迎するぞ」
家を持たない私からしたら、願ってもない話です。
「楓さんがいいなら、お邪魔させていただきます」
楓さんは思春期の女性です。
男とお泊りすることをよしとしないかもしれません。
その気持ちに無理を言って泊まりたいなど言おうものなら、近くにいることを許してもらえなくなるかもしれません。
「楓ちゃん、どうする?」
私が同じ屋根の下に存在するのを承認してくれることを願うばかりです。
「うん、大丈夫。井上くんもこんなずぶ濡れの状態で帰るわけにもいかないでしょ?おばあちゃんの家で休んでいって」
おばあさんたちがくる前と比べ、抑揚のある明るい声です。
私が話している間に、感情を取り繕ったようですね。
今までそうしてきたように。
「そう?じゃあ、お言葉に甘えていい…ですか?」
私はおばあさんの顔を見ながら言いました。
「いいわよ、もちろん。楓ちゃんのお友達なら大歓迎です」
にっこり笑って返事をしてくれた。
その笑顔によって、彼女が楓さんのおばあさんであるということを再確認させられる。
「狭い家でごめんねえ。おじさんがすぐにお洋服買って来るからね」
狭いと言うには少し広いような、とはいえそこの話題を広める労力も今は惜しい。
「変わってないね。なにも」
部屋を見渡した楓さんは、そう吐露しました。
「そう?招き猫買ってみたんだけど、ほら」
指を指した方向には、おばあさんが言うように招き猫がいた。
招き猫はこちらを睨んでいるような、なにかを伝えようとしているように見えました。
いいや、そんな訳はありません。
あの招き猫に神や魂は宿っていないのです。
なら、これは勘違い。
それは間違いなく真実。
しかし、その勘違いに理由があることも、自分自身気がついています。
「お風呂は湧いてないけどシャワーだけなら浴びれるよ。おじさんが帰ってくるまで待てないなら、私かおじさんの着替え貸すからね」
「私はおじいちゃんが帰ってくるまで待つけど、井上くんはどうする?」
「じゃあ、先に入らせてもらおうかな」
体を早くきれいにしたい、それは小さな割合でした。
「おじさんのお洋服でごめんねえ。ここに置いておくからね」
「はい。ありがとうございます!」
私は元気よく返事をしました。
それは、空元気でした。
本当の自分を隠すため、装っているのです。
温泉で逢った大宮竜一や、楓さんのように。
なぜこうなったのか、全ては私の力不足。
楓さんを救い出す手立てが見当たらないからです。
招き猫がこちらを睨んでいたように見えたのもそういう理由。
私自身が私自身を見下しているのです。
それが招き猫という形を借りて、私に訴えかけて来たのです。
「お前はなにをしている?」と。
「なにもできていませんよ…」
シャワーを早く浴びたかったのは、心を落ち着かせたかったからです。
着替えを終え、リビングの戸を開けると、怒声が聞こえました。
「どうして楓がそこにいる!」
その声は低く、酷く感情を表に出していました。
音質的にスマホからその声は出ており、電話相手はおそらくは楓さんのお父様でしょう。
「友達と海見に来たら間違ってびしょ濡れになって、お洋服買い行くところ見かけたから、お泊りしてもらうことにしたんよ」
「友達だと!ふざけるな!ルールを破ったのか!この程度のルールも守れないとは。お前は我が家の恥だ!二度と帰ってくるな!」
「そんな言い方よしなさい!お友達を作るなんて誰でもがやってることじゃないの!」
「家訓に口を出すな!夢もないあんたにはわからないんだよ!」
おばあさんが反論をしようと声を出したが、既に電話は切られていた。
「ごめんねえ、うちのバカが大きな声出して」
「いえ…」
もはや、なんて返すのが正解なのかすらわからず、よくわからない返事をしてしまいます。
「今帰ったぞー」
玄関から声がしました。
おじいさんです。
「おお、どうした。暗いな」
「さっきあのバカから電話が来てね。「なんで楓がそっちにいるんだ!」って、大声で怒り出すもんだから」
「ああ、そうか。全く、昔はお前に似て優しいやつだったのになあ」
「しばらく家で楓を匿えないかねえ」
「無駄に楓に希望を見せてやるな。あいつが親な以上、どうしようもない」
誰も喋らなくなりました。
当然でしょう。
おじいさん、おばあさんからすれば、なにを喋ろうと、楓さんの心を苦しめるだけなのです。
そして、楓さんからすれば、おじいさん、おばあさんに迷惑はかけたくないでしょう。
だから、「助けて」と言うわけにもいかない。
その結果がこれです。
「まあ、服は買ってきたし、シャワーを浴びてきな。君も、こっちに着替えてな」
おじいさんが袋を楓さんに手渡し、楓さんは私の奥のシャワーへ向かいました。
そして、おじいさんは私にも着替えが入った袋を渡してくれました。
「私になにかできないでしょうか?」
ほとんど無意識に、口を動かしていました。
好青年を演じることを忘れるほどに。
「楓さんの助けになりたいんです」
「あなたは心配せんでええのよ。これはうちらの問題やからね」
おばあさんは優しく言いました。
ですが、そうはいきません。
神のため、それが第一であることは変わりません。
しかし、自身の意志で楓さんを助けたいと思ったのも事実。
貧弱な心を持ちながら、他人を傷つけることなく、自分を否定し続ける愚かさ。
他人を傷つければ楽になれるというのに、優しいが故に損をし続けてしまう。
その愚かな優しさが、私は大好きなのです。
そして、私は楓さんに愚かであり続けてほしい。
そのために、ここで引くわけにはいきません。
楓さんが愚かでいられる環境を作るために。
「このままじゃなにも変わらない。さっきの電話を聞いて確信しました。息子さんによる過度な育児は、親であるお二人だけでは止められない。ですから、どうか私を使っていただけないでしょうか。楓さんの助けになりたいんです」
「今ばあさんが言っただろ、これはうちの問題だ」
強い言葉とは裏腹に、そこに敵意は感じませんでした。
しかし、引き下がるわけにもいきません。
「ですが、このままでは楓さんが苦しみ続けるだけです。お二人だって、楓さんに自由になってもらいたいんでしょう?なら、私を利用してください。必ず役に立ってみせます」
おじいさんは私の目を睨むように見ました。
「君、楓とどういう関係だ?どこまでうちの事情を知ってる?」
「楓さんとは最近仲良くしてもらってます。年下でおこがましいかもしれませんが友達だと思っています。家庭の事情は楓さんから聞いています」
「事情を知った上で楓と関わる理由はなんだ?」
「家庭事情なんて関係ありません。楓さんと一緒にいることが楽しいから関わっているんです。そして、これからも関わり続けるために力になりたい」
おじいさんは腕を組み、目は私から視線を外し、落ちていき、唸り声を上げました。
それがなにを意味しているのか、正確にはわかりませんが、いいことではないということは推測できます。
これから私はなにを言われるのでしょう。
友達如きが家庭事情に首を突っ込んでくるなと拒絶されるでしょうか。
それとも、私を利用するに値すると認めてくれるでしょうか。
おじいさんは口を開きます。
「楓を思ってくれているのなら、これ以上楓に近寄らないでくれ」
熟考の末、出された決断は拒絶でした。
「どうしてですか!」
私は酷く取り乱しました。
どうしてわかってくれないのでしょう。
こんなにも楓さんのことを助けたいと思っているのに。
しかし、違和感もありました。
拒絶されたのに、その言い方は丁寧で、敵意を感じないのです。
はっきり言って不気味。
そう感じた瞬間、頭を急激に冷やしました。
おじいさんにも理由があるのです。
孫を守りたいというおじいさんなりの考え。
それを聞かずになぜ、どうしてと荒れるのは愚か。
私は冷静に言いました。
「理由を訊いてもいいですか」
明らかに様子がおかしい。
おじいさんはほとんど状態を変えず、首をななめ下に落としました。
しかし、しばらくすると組んでいた腕を解き、ぎこちなくも私と目を合わせました。
意を決したようです。
一言も聞き逃さないように、意識のすべてを耳に集中させました。
そして、おじいさんは口を開きます。
「君が楓に近づくと、楓は親に怒鳴られる」
空気をスンッと吸い、その後スンスンと小さく空気を吸いました。
それは、意識的に行ったわけではありません。
生まれてから今まで、数え切れないほど空気を吸って、吐きました。
だと言うのに今、私は一瞬、呼吸の仕方を間違えたのです。
それはつまり、動揺を意味していました。
動揺をしたということは、おじいさんの言葉に納得してしまったのです。
私が楓さんのためになにをしようと、親は友達である私と関わっていることを怒るだけ。
なら、関わらない方がいいのではないか。
そういうおじいさんの言葉に、深く共鳴してしまったのです。
「とりあえず、着替えなさい。そこの部屋使っていいから」
おじいさんは私に着替えの入った袋を渡してくれました。
ありがとうございます。
そんな一言も出てきませんでした。
私は促されるまま、指定された部屋に入りました。
1人になると、途端に息が荒くなります。
私は、楓さんの助けになりたかった。
しかし実際は足枷だった。
思い返せば、ここに至るまでに自覚できる場面はありました。
最初に会った屋上で、楓さんは電話で親に怒られていました。
友達は作るなと言ったのに、どうして約束を守ってくれないの、と。
あの時点で気づくべきだったのです。
私なんていない方がいいことに。
食事の時間は地獄でした。
おばあさんに作っていただいた料理は、一言で言えば質素でした。
しかし、味に文句などは一切出てきません。
とても美味しかった。
それは確かです。
しかし、あれから私が発した言葉は、「いただきます」と「ごちそうさま」だけでした。
他の皆さんも似たようなものです。
談笑なんて、できるはずもありません。
唯一の救いはテレビがあったことです。
みなさん、テレビに釘付けでした。
食事を終えたおばあさんは、私達に布団を敷いてくれました。
「じゃあ、2人ともこの部屋で寝てね」
その部屋は、私が着替えをした部屋でした。
寝具は2人分敷かれてあり、隣接しています。
「ありがとう」
笑顔で感謝を伝える楓さんに、少し違和感がありました。
この場で楓さんだけ、普通になっているように見えるのです。
心の奥底の部分が温かいと表現するのがいいのでしょうか。
本来、一番ネガティブな感情を抱いているはずの楓さんに、明るさを私は感じるのです。
私がその変化に気がついたのは、シャワー上がりの楓さんがリビングに現れたときです。
なにがそうさせたのでしょうか。
そもそもこれは、私の勘違いなのでしょうか。
誰とも話せない現状。
私にできるのは、その真実を追求することだけでした。
午後9時半。
やっと消灯となりました。
反対を向けば楓さんがいます。
私は考えます。
どうやって楓さんの元から消えようかと。
楓さんは、私のことを特別視しているでしょう。
高校3年生にして初めてできた友達なのですから。
もし、私がいなくなることで自殺のトリガーになってしまったら。
考えたくもありませんが、あり得る現実です。
どうすれば…。
「起きてる?」
背中の方から、そんな声が聞こえてきました。
「うん。起きてるよ。どうしたの?」
「実はね、聞いてたんだ。おじいちゃんとのこと」
衝撃、その一言に尽きます。
しかし、問題はここではありません。
あの話を聞き、楓さんはどう感じ、どう捉えたか、それが重要なのです。
「そっか。醜い所を見せちゃったね」
「醜くなんかないよ」
しばしの無言が続きました。
あの会話を聞いて、なにを思ったのか質問しようとしました。
しかし私は感じ取っていました。
なにか言い淀んでいることを。
今、意を決しようとしていることを。
「聞いてほしいことがあるんだ」
私は…。
「ごめん。僕に聞く資格はないよ」
私という存在は、楓さんにとって害。
なら、私という人間に執着させるべきではない。
少しづつ離れて行くことにしましょう。
物理的にも、精神的にも。
これをその第一歩にしましょう。
お願いを断ることで、頼れない人間なんだと認識させるのです。
「私が井上くんに聞いてほしいって思ったの。だから、資格はあるんだよ」
あれ。
確かにおかしい。
なぜ「資格」などという言葉を使ったのだろう。
断るのであれば「嫌だ」と言えばいいだけのことだ。
それなのに、なぜ。
服が引っ張られる。
「こっちを向いて」と言われているようだった。
私は楓さんの方に体を向け、顔を見た。
私の目を見つめる楓さんは、ただ一言口にした。
「側にいてくれてありがとう」
とびきりの笑顔を見せてくれた。
一生の中で初めて、こんなにも可愛らしい笑顔を見た。
そして私は気付いた。
なぜ「資格」などという反論される言葉を使ったのか。
それは、反論してほしかったのだ。
楓さんの害であると理解していても、楓さんと一緒にいたいと思ってしまった。
「そんなことないよ」と、私を肯定してほしかった。
「改めて、聞いてくれるかな」
目と目が合う。
反則だ。
そんな純粋な顔を晒されて、どうして断ることができるだろう。
「うん。わかった」
「ありがとう。それじゃあ、聞いて下さい。私の昔話」
楓さんは親との話を長々と丁寧に語ってくれた。
初めて幼稚園で友達ができた日。
その話をお母様にすると、喜んでくれた。
しかしお父様は酷く怒ったそうだ。
それ以降、厳格なルールが設けられた。
それが、今の現状につながる。
お母様はそれ以降、お父様のように厳しくなった。
どうやら、お母様はお父様がすべてと思っているらしく、価値基準のすべてをお父様に合わせているらしい。
そして、お父様がこんなにも厳しいのにもわけがある。
お父様は過去、夢があった。
漫画家だ。
しかし、お父様はその夢を諦めた。
元々、お父様は友達が大好きでした。
学校ではもちろん、放課後や休日のほとんどを遊びに費やしていました。
高校生で夢を持ち、気づけば20後半を越え、思ったのです。
友達がいるからだめだったんだと。
このままではだめだと思った時もありました。
しかし、毎日のように遊びに誘われます。
この誘いを断ることは、友情に軋轢が生まれることだと思っていました。
一度手にした友達という存在を、失うのは恐ろしいことだと、お父様は思ったのです。
お父様は後悔しました。
友達なんて作らなければよかった。
そして、いつしか結婚し、子供が生まれ、お父様は誓ったのです。
子供にはこんな思いはさせない、と。
「たまにお父さんがこの話をしてたんだ。だから友達なんて作らない方がいい。邪魔だって」
すべて知っている。
なのに、初めて聞いたような衝撃を感じました。
文面ではわからない、当事者の人生が籠った言葉が、私にそう感じさせたのです。
「それじゃあ、勉強を重視してるのはなんでなの?」
友達を作らせないのもそうですが、寄り道、ゲーム禁止。
スマホを持たせすらしないのです。
「将来なにを目指すときも知識を持っておくのは大事だから、今のうちからたくさん詰め込んでおけって」
納得はできますが、だいぶ行き過ぎた教育です。
「なんとかして止めれないかな。流石に歪んでるよ」
「止まってくれれば嬉しいけど、そんな簡単じゃないだろうね」
そういえば、親の話をしているのに、まるで雑談をするような喋り方をしています。
屋上で電話をかける時は、あんなにも怯えていたのに。
布団を敷いてくれたおばあさんに感謝をしているときの、あの違和感は気のせいではなかったようです。
しかし、なぜ。
「井上くん。私って生きててもいいのかな」
突然の質問に、少々驚きました。
その問いの真意を読み取ることもできません。
しかし、返答など、思考するまでもありませんでした。
「だめなわけないよ。誰がなんと言おうと、楓さんは生きていいんだよ」
そもそも、生きてはいけない人間なんているのでしょうか。
生きたくない、死にたい人間は、確かに存在しています。
しかし、生きては”いけない”なんて誰が決めるのでしょう。
親が決めるのでしょうか。
産んだくせに。
友達が決めるのでしょうか。
なら友達ではないのでしょう。
他人が決めるのでしょうか。
一つの側面しか知らないくせに。
自分が決めるのでしょうか。
きっとそうなのでしょう。
そんな思考に至る時点で、あなたは美しく、優しいのに。
「ありがとう。それじゃあ、最後に一つ、訊いていいかな」
「うん。いいよ」
それを聞いた瞬間、口が開きました。
すぐに訊こうとしたようです。
しかし、開いた口はモゴモゴとして、声が発せられていません。
そんなにも言いづらい内容なのでしょうか。
一体、なにを訊かれるのでしょう。
少しドキドキします。
そして、落ち着いたのか、一度口を閉ざし、改めて口を開き、声を発しました。
「一生私の側にいてくれる?」
瞬間、思考が巡る。
私には今、2つの選択肢がある。
1つ神の元へ帰ること
2つ、楓さんの側に一生いること。
本来、地上にいるのは1ヶ月。
そのときがくれば、なにがあろうと神の元へ帰る。
神に与えられた任を完璧に遂行する。
それが、神が愛する地上のためであり、神への恩返しである。
しかし、楓さんを1人にしたくない。
楓さんと永遠の時を過ごしたい。
そう思ってしまっている。
私は…。
「大丈夫。今答えなくても。むしろ、今はなにも言わないでほしい」
手を握られた。
「私、頑張るから、褒めてよ」
なにを頑張るのだろう。
生きることだろうか。
いや、なんでもいいか。
「偉いよ。楓さんは」
頑張るということは、それだけで偉いんだ。
噛みしめるように目を閉じて、楓さんは言った。
「ありがとう。おやすみ」
「うん。おやすみ」
会話はそこで終わった。
「一生私の側にいてくれる?」、か。
私は、どちらを選択すればいいのだろう。
今日は答えなくて済んだが、いつか答えは出さなくてはいけない。
遅くても、1ヶ月後までには。
もう眠ろう、今日は疲れた。
瞼を閉じると、夜は圧縮された。
翌朝。
昨日とさほど変わらない空気の中、朝食をいただき、食べ終えると、早々に帰ることにした。
互いに気まずいからだ。
「気をつけてね。嫌になったら、いつでも来ていいからね」
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
「君、耳」
おじいさんからそう言われました。
私は、「耳を貸せ」、そういう意味だと解釈し、耳をおじいさんに近づけました。
「互いに離れたくないなら、せめて、楓の支えになってやってくれ」
昨日言いすぎたと思ったのか、その言葉には、優しさが多分に含まれているように感じました。
本来、昨日のおじいさんの言う通り、楓さんの元から消えるべきなのです。
しかし、私は昨日、楓さん自身に、側にいることを肯定されたと思っています。
私自身、本当それでいいのかと不安はあります。
しかし、楓さんがそう言ってくれるのであれば、側にいる間だけでも、力になりたい。
であるなら、この言葉への、答えは。
「そのつもりです」
一生なんて約束は、今の私にはできないけれど、力になりたいという気持ちに、嘘、偽りはありません。
「じゃあね」
楓さんのその言葉をきっかけに、私達は歩き出しました。
ちょっとして振り返ると、おばあさんは楓さんに手を振り、おじいさんは私の目を見つめていました。
信頼でしょうか。
それとも、心配、不安。
その瞳にどんな意味が込められていようと、やるべきことはなに一つ変わることはありません。
安心してください。なんてセリフは吐けませんが、全力を尽くします。
「楓さん、袋持つよ」
「ありがとう」
昨日の海で濡れた服が入った袋を、私が変わりに持つ。
少しは伝わったでしょうか。
現在は駅に向かって歩いています。
昨日と違い、見慣れない土地の景色に目を向ける余裕があります。
「ねえ、井上くん。手、繋いでいいかな」
「うん。いいよ」
恥ずかしそうに私の手を握ろうとする楓さんの手を、私は握りました。
「あったかいね。楓さん」
「井上くんもあったかいよ。優しく包んでくれてるみたい」
忘れてしまいそうになる。
楓さんの境遇を。
普通の女の子だと思ってしまう。
「あのとき死んでたら、こうやって手をつなぐこともできなかったんだよね」
楓さんは続ける。
「生きててよかった」
その言葉は、私を肯定してくれた。
命を助けたところで、それが本当の意味で救済になるかは別だ。
しかし、こと楓さんにおいては、救済になった。
一度死を覚悟した人間が、生に希望を見出だす。
それは簡単なことではない。
一度そうなった人間は、絶望以外目に映らないはずだ。
だというのに楓さんは、閉ざした瞼を開いた。
光を直視したのです。
手が届くわけがないと見るのをやめた光に、手を伸ばす。
絶望と言う言葉が木霊してたであろう人間が、「生きててよかった」と微笑んで言える。
それがどれほどすごいことか。
「助けてくれてありがとう。井上くん」
「僕はただ、楓さんが苦しんでる姿を見たくなかっただけだよ」
「だから「ありがとう」って言ってるんだよ。変な謙遜だね」
「僕はなんにも…」
楓さんはあの時、自分の力で海面へ上がった。
私を引っ張って。
楓さんがいなければ、私は死んでいた。
感謝を伝えるべきは私だ。
私はなにもしていない。
「君が命を懸けて助けようとしてくれたから、私は、生きようって思えたんだよ」
衝撃でした。
「ほんとに?」
信じられないあまり、聞き返してしまいます。
「ほんとほんと。というか、普通だと思うよ。命を懸けて助けてもらって、心が動かないわけないじゃん」
今まで、私は楓さんのために行動してきました。
だけど、楓さんはそれを望んでいないかもしれない。
ただの自己満足なのかもしれない。
いつしか、そんななんとも言えぬ感情を抱えるようになりました。
きっと、おじいさんと話したときでしょう。
その感情は、昨日から今の今まで、私の無意識の中に巣食い、不愉快な違和感として居座ったのです。
それを今、楓さんによって晴らされたのです。
「ありがとう。安心した」
「ありがとうはこっちのセリフなんだけどな。でも、安心してくれたならよかった」
その微笑が愛おしい。
そうして、駅に着いた。
「着いちゃったね」
楓さんの顔が少し曇る。
しかし、絶望という印象は受けない。
「井上くんは何線?」
「JRだよ」
私は楓さんの最寄り駅を知っている。
だから、ギリギリまで話せるように、JRだと嘘を吐いた。
「そっか、じゃあここでバイバイだね」
「え」
呆気にとられ、ついそんな声が出てしまった。
「どうしたの?」
「ううん。ごめん。なんでもない」
どうしてだ。
最寄り駅を覚え間違えた?
それはない。
そんな初歩的ミスは犯さない。
なら、なぜ楓さんは嘘を吐いた?
私のことが嫌いになったのか?
であるなら、手を繋ごうとするはずもない。
なぜ、なぜだ。
楓さんは顔を落とし、言った。
「このまま関わってても、いつか私が限界になって関われなくなっちゃう。だから、もう一度だけ…」
息を吸って、私の目を見て。
「親に歯向かってみようと思う」
思考を巡らせていた神経が、耳へと移る。
一瞬、聞き間違いを疑った。
しかし、聞き間違いではなかった。
そう感じさせる、本気の顔だった。
「私ね、嬉しかったんだ。おじいちゃんと話してたこと」
思い返すように目を瞑り、続けた。
「私の力になりたいって、あんなに言ってくれて。そんなこと生まれて初めてで。あなたとずっといれたらどれだけ幸せだろうって。だからね」
大きく息を吸って。
「井上くんの側にいるためなら、どんな事でもできるよ」
私はそこで、すべての合点がいった。
シャワーを出たあと、なぜ明るかったのか。
それは、嬉しかったからだ。
おじいさんとの会話を聞いて、気分が高揚いていたから。
なぜ急に手を繋いだのか。
それは、これから親と話すことへの緊張を和らげるためだ。
なぜJRでないと嘘をついた理由。
それは、親との対話が控えているから、1人で心を整えたかった。
なぜ「一生私の側にいてくれる?」と訊いてきたのか。
それは、きっとその時には、親に歯向かおうとしていたのだ。
だから、歯向かった先の未来に希望を持ちたかった。
そこで答えを聞かなかったのは、拒絶されることを恐れたからだ。
未来に希望を持てなければ、歯向かうことなんてできないから。
すべてわかった。
「僕もだ。楓さんの側にいるためなら、命だって懸けれる」
「冗談に聞こえないなー」
すべてわかったからこそ、楓さんのすごさがよりわかる。
幼稚園の頃以来、親に歯向かわず、親の言いなりだった。
そんな楓さんが、理想から逃げず、自分を奮い立たせようとしている。
楓さんは決して心が強い人間ではない。
だからすごいんだ。
弱い楓さんが、自分より他人を優先する楓さんが、自分のために生きようとしている。
「そうだ、ここからなら、バスの方が近いんだった」
私はそう呟いた。
「はい、着替え」
それを楓さんに渡した。
そして、目を見て言った。
「例え、理解されなくて、楓さんと関われなかったとしても、生きてればいいことはあると思う。だから、そんなに絶望しないでほしい」
楓さんは顔を下に向けた。
それに、と私は続けた。
「例えだめでも、僕は諦めない。君と生きていきたい」
少しぽかんとした表情を浮かべてから、笑顔になった。
「なら、安心だね」
またね、そう言った楓さんは、改札へと向かった。
ここで私は悩んだ。
去りゆく背中に、なんて言葉をかけようかと。
普通は頑張れというのだろう。
しかし、楓さんはもう既に頑張っている。
理解してくれないと諦め、従い続けた人間が、何十年越しに親へ反抗するというのだ。
どれだけ怖いことだろう。
どれだけ恐ろしいことだろう。
しかし、そんな逆風に立ち向かうというのだ。
そんな人間に、「頑張れ」なんて常套句を使っていいのだろうか。
だめだ。
なら、なんと声をかけようか。
「頑張ってて偉いね」とでも言おうか。
いや、それは見下しているように聞こえるかもしれない。
ならいっそ、なにも言わないのが正解だろうか。
誤解を招くくらいなら、言わないほうがいい。
確かにそうかも知れない。
じゃあ、この心の高鳴り押さえつけろと言うのか?
大好きな楓さんが、恐怖と戦っている。
本当なら、私がどうにかしてあげたい。
でも、こればっかりは私はどうこうすることはできない。
私は無力だ。
彼女のために、なにかしてあげたい。
彼女と一緒に戦いたい。
それが叶わない無力。
最後にかける言葉というのは、そんな無力感に苛まれた人間が、せめてもの支えになりたくて吐く言葉なんだ。
それを言わないなんてありえない。
しかし、こんなことを考えている間に、楓さんの背中は小さくなっていく。
どうしようか悩んだ。
そして、焦った私から、その言葉は発せられた。
「頑張って!」
発せられたのは、一番言わないようにしていた言葉だった。
楓さんの足が止まる。
怒らせてしまっただろうか。
楓さんは勢いよく振り返った。
「うん!」
その顔は満面の笑みだった。
私の言葉に、悪意なんてものは一切感じなかったといった顔だ。
そして、手を振り、再び改札へ向かって歩き出した。
そこで私は気付いた。
誰かに「頑張れ」と言うとき、人は内心、その人は頑張っていないなんて考えているのだろうかと。
きっと、違う。
ならなぜ、人は「頑張れ」と口にするのだろうか。
それはきっと、願いだ。
頑張れという言葉の中に、様々な意味が込められている。
「その挑戦が、あなたの糧になりますように」
「その行いが恵まれますように」
「勝負に勝って」
そういう様々な願いを「頑張れ」という言葉に込めるのだ。
人は愚かだ。
「気持ちは口にしないと伝わらない」というくせに、結局口にしてないじゃないか。
しかし、そうだな。
文字では決して伝わることのない思い。
抑揚、表情、関係性。
それらの少しの違いによって意味が変わる。
その2人の間でしか理解し合えない共通言語。
愚かだが素敵だ。
私は満足感に包まれながら、歩き始めた。
神楽をするため公園に来ました。
理由は、楓さんと視覚、聴覚を共有するためだ。
視覚共有は、海にいる楓さんを見つけるときに使ったものだ。
公園ということで人はいるが、そんなことを気にしている余裕はない。
私は見届けなければならないのだ。
楓さんと親との口論を、その末を。
神楽の前に、コンタクトをつけることにした。
輝き出してから付けるのでは遅いから。
耳は楓さんと逸れたあと買ったヘッドフォンで隠すことにします。
さて、始めましょう。
私は舞いました。
生まれてから今まで、何度も舞、口付さんだ神楽。
もはやそれは、呼吸をするように自然にできます。
神楽を終えると、私の右目と右耳は光出しました。
そして、違和感に気が付きました。
360°見渡してもこちらを見ている人たち。
耳を澄まさずとも聞こえる拍手。
私は今、見世物になっている。
おじいさんが私に話しかけようとこちらに向かってくる。
その行動に悪意なんてものが混じっているとは微塵も思っていない。
しかし、万が一にもバレるのはまずい。
特にヘッドフォン。
人にぶつかって取れるようなことがあれば大問題だ。
一人、また一人と私に近づく。
共有された右目を瞑った。
しかし、視界は変わらない。
楓さんの視界が共有されているのだ。
私が目を瞑ろうと変わるはずがない。
私は走り出した。
動きと一致しない視界に違和感を覚えながら、宛もなく、とにかく誰もいない場所を目指して。
そうしてたどり着いたのは、あるお店でした。
私は聞いたことがあります。
コーヒー1杯につき1時間滞在できるお店があると。
それがここ、コーヒーチェーン店。
ここであれば、誰にも邪魔をされない。
私は逃げるように入店しました。
無難にカフェラテを注文し、商品を受け取り、カウンター席につきました。
走って疲れた体にカフェラテは合うのでしょうか。
試しに一口味わうと、それは想像もしていない味でした。
「に…苦い?」
勝手にカフェラテは甘いという確信がありました。
それは、女子高生方が飲むというイメージがあったからです。
まさか、女子高生がこれほどに苦い飲み物のよさがわかる方々だったとは。
違うそうじゃない。
私はそこで気が付きました。
楓さんの様子を見なければ。
左目を瞑り、楓さんの視界に集中します。
そうすると、見えてきました。聞こえてきました。
電車で揺られ、視界には足と組まれた両手。
深呼吸の音。
ぼやけ始める視界。
不安なのだ。
それは、私では到底想像できないほどに。
そんな楓さんのためにできるのは、成功を祈ることくらいだ。
それがどれほどに無力で無意味か、わからないほどバカではない。
だからこれは、単なる自己満足だ。
しかし、人間はこういう無意味を尊ぶのだろう。
なら、どうか赦してほしい。
2杯目のカフェラテを飲んでると、楓さんは家に着いた。
震える体を落ち着かせるため、深呼吸をしてからドアを開けた。
「ただいま」
ドンドンドンドンと、大きな足音が近づいてくる。
「楓…」
憐れむような目で、お母様は楓さんを見つめた。
「どうして友達なんて作ってるの?どうして寄り道したの?」
お母様の顔は歪んでいました。
不安定な精神状態ということが見て取れます。
怖気づいた自分を鼓舞するように、口を開きました。
「それは、お父さんが帰ってきたら全部話します」
「質問に答えてよ!」
お母様の大声に怯えた楓さんは、一歩下がりました。
「どうして急にルールを破ったの?それとも、私たちに言ってないだけで今までも友達なんかを作ってたの?」
その声は、静かでありながら圧を感じさせました。
しかし、楓さんも負けてはいなかった。
一歩下がった足を前へ戻しました。
「それも含めて全部、お父さんが帰ってきたら話すから。だから、それまで待ってください」
お母様は唸り声を出し、髪の毛を強く掴み、地団駄をしました。
その後、唸り声はたちまち叫び声に変わりました。
叫んで力が抜けたのか、静かに言いました。
「わかった。その間勉強してなさい」
そして、リビングの方へ戻っていきました。
楓さんはその場に倒れました。
1つ目の関門を越え、力が抜けたのでしょう。
しかし、ここはまだ前座にすぎないのです。
どうか、負けないで。
楓さんが立ち上がったのは10分後でした。
9杯目にもなると、あんなに苦く感じたカフェラテも、案外そうでもないと思ってきます。
女子高生方もこうなるまで飲んでいるのですね。
女子高生方に関心を示していると、楓さんの耳から、玄関のドアを開く音が聞こえてきました。
お父様です。
楓さんは玄関から家に入るお父様に恐る恐る目を合わせました。
お父様は冷徹に、睨むような目つきで言いました。
「話は風呂とご飯を食べたあとだ」
そう言いながら、お父様は風呂へと向かいました。
楓さんの鼓動が聞こえるような気がしました。
激しく、今にも爆発してしまいそうな鼓動が。
食事の時間は、昨日の地獄より地獄でした。
テレビもなにもないリビングで、笑顔はなく、当然会話もありません。
お父様を見ても、お母様も見てお、目は合いません。
昨日の地獄の原因は、気まずさ。
それ以前のおじいさんとの口論が原因です。
ですが、そこには恨みや憎しみなどと言った類の感情はありませんでした。
しかし、ここにあるのは、楓さんに対する怒り、失望。
この地獄は、そう言った敵意のようなものによってできているのです。
シャキシャキ、コリコリ、くちゃくちゃ、ずずずず。
食事が終わるまで、その音は続きました。
お父様とお母様はすぐに食べ終え、楓さんは食べ終わるのに20分ほど経ってしまいました。
こんな状況でご飯が進むはずもありません。
お母様が食器を回収しました。
お父様は立ち上がり、周りになにもない場所に座りました。
「そこに座れ」
楓さんにそう指示します。
言われた通り、指定されたなにもない場所に座り、再び静寂が訪れます。
しばらくして、食器を洗い終えたお母様がお父様の隣りに座ります。
「いつから友達を作ってた?」
お父様が言います。
その目からは、色々な負の感情が読み取れます。
「一昨日から」
楓さんはその目に負けないように、精一杯目を合わせます。
「友達じゃないと言っていたのは、やっぱり嘘だったのね」
屋上での電話の話でしょう。
はい、そう肯定しました。
「知り合って2日で海に行くほど仲良くなった、と。随分苦しい言い訳だな」
楓さんは黙りました。
真実を言ったところで意味がないからです。
だから、黙るしかないのです。
「まあいい。いつからいたかなんてのは問題じゃない。いるという事実。それ自体が問題なんだ」
お父様は大きくため息をしました。
「楓。お前には友達なんて邪魔だと散々説いてきた。だと言うのに、お前はなにもわかってなかったわけだ」
ドンっと右足で床を揺らしました。
「いいか?友達なんてのは快楽物質だ。関わっているうちは楽しい。だが、その快楽物質に溺れてると、将来本当にやりたいことができなくなる」
「それはお父さんがそうだっただけだよ。みんながそうじゃないと思う」
勇気を振り絞り、楓さんは言いました。
「お前になにがわかるんだよ!」
楓さんが言い終わるよりも早くに、その言葉は発せられました。
「俺はお前より何十年も長く生きてる。お前より失敗して、挫折して、後悔して、お前にそうなってほしくないから、今こうしてしつこく言ってやってるんだろ!」
さきほどまでの冷徹だったイメージとは一変。
怒りに身を任せる野生動物のようだ。
「確かに今は楽しいかもしれない。だがお前は必ず後悔する。夢を持っても友達という存在に邪魔をされる。夢を追うことと遊びことは両立できない。だが、一度作った友好関係を壊すのは怖いもんだ。だからお前は最終的に友達を選ぶ。そして何年経っても何年経っても夢を叶えられなかった事実がお前の心に残り続ける。後悔し続ける人生になるんだ」
お母様は続けて言う。
「そうよ。自分がやりたいと思ったこと。それに全力を注ぐこともできないの。土俵にも立てず、ただ後悔するだけの人生だなんて嫌でしょう?」
なにも言えなかった。
楓さんの言う論は、あくまで妄想、想定の域を出ない。
しかし、お父様は経験している。
友達と関わり続けた先になにが待っているのか。
蛇の道は蛇。
お父様からすればそうなのでしょう。
楓さんは、お父様から溢れ出る経験による自信に押され、なにも言えないのです。
「後悔することのなにがだめなの?」
静寂が辺りを覆う。
その言葉に、2人は釘付けでした。
いいえ。3人です。
「後悔したところでどうしようもない。手遅れだからだ」
「手遅れなんかじゃない!」
お父様が言い終わるより早くにその言葉は発せられ、その声量に、みなが黙らされました。
「後悔したなら、改善策を探せばいいだけでしょ?友達が邪魔だって気づいたのなら、友達から離れてまた漫画家の夢を追えばいいじゃん!」
落ち着き始めていたお父様も、顔が真っ赤になった。
「絵は一朝一夕で上手くなるものじゃない!ポーズや構図を何年も勉強してやっと人に見せれる絵になるんだ。それだけじゃない。漫画家は物語も考えなくちゃいけない。既にある洗練された物語たちに置いていかれない技術、独創性を持って連載を続けなくちゃいけないんだ。そうでなくても漫画一巻につき200ページ前後もある。毎日毎日働いて、それだけの絵を練習する時間が、物語を考える時間が、原稿を描く時間がどこにある!言ってみろ!」
言い終え、ゼエゼエと息を吸った。
楓さんはうろたえなかった。
「お父さんは自分のことをよく知ってるんだと思う。だけど、認めたくなかったんだよ。漫画家にはなれないって。だから、なれない理由を友達のせいにした。そしてその言い訳を40代後半になるまで引きずり続けた」
お父様はなにかを言おうと大きく息を吸ったが、知らんぷりで続けた。
「確かに、絵を練習して、物語を考えて、原稿に描く。それはすごく大変で、すごく時間がかかることだと思う」
でも、と続けた。
「お父さんが仮に80歳で死んじゃうとしても、まだ30年以上あるんだよ」
荒れていた息を整え、口を開く。
「仕事と漫画家を両立しろというのか?それが一体どれだけの精神をすり減らすか、お前はわかっているのか!」
「お父さんもわからないでしょ?」
その言葉は、お父様を黙らせた。
「やってもないのに言い訳ばっかりして、その言い訳に子供を巻き込んだ」
「お父さんは私達のために一生懸命働いてくれてるの。だから夢に回す時間がないの!」
お母様はお父様を擁護しました。
「うん。そこは感謝すべきだと思ってる。お父さんのおかげで、私達が生活できてるから」
でも、と続けた。
「それで夢は終わりでいいの?お父さんはこれから、なにも目標も持たずに、このまま働いて死ぬの?」
お父様は怒りのあまり立ち上がった。
何キロも走ったあとのように、呼吸を乱している。
今にも殴りかかる勢いだ。
さすがの楓さんも、これには体を震わせた。
しかし、楓さんはやめなかった。
「私知ってるよ。お父さんの会社副業していいの。夢、まだ諦められないんでしょ?」
楓さんも立ち上がった。
「私にも夢ができたの。その夢は、家訓に従っていたら叶わない」
だから、と続けた。
「後悔してもいい。毎日泣いたっていい。私を自由にしてください」
楓さんは、座ったまま深々と頭を下げた。
土下座だ。
私は気づいた。
どうして楓さんがこんなにもお父様に食い下がれるのか。
理想だ。
お父様の経験による自信とは違う。
家訓に抑圧された不自由な楓さんだからこそ、理想に固執し、それを現実にしたいという執念が、楓さんを突き動かしているんだ。
経験による自信に対抗できるのは、理想による執念だった。
そして今、執念は自信を打ち砕こうとしている。
しかし、私は忘れていた。
おそらく、その場にいる2人も。
お母様の行動原理はお父様の考えと同義。
お父様がプライドを傷つけられていると判断したお母様は黙っていなかった。
人類の進化の過程のように少しづつ立ち上がり、楓さんに近づき、右腕を上げていた。
目は楓さんを睨むように見つめ、顔からはお母様の考えていることまでもわかるほどリンクしていた。
殺す。
そう言っているような気がした。
その拳には迷いがなかった。
それはそうだ。
17年間お父様の考えを実行して生きてきたのだ。
もはやそれは血肉のようにお母様と一つになっていることだろう。
お父様ならこうする。
そう思っているのだ。
しかし、そこには矛盾が発生した。
「やめろ」
その言葉を発したのは、お父様だった。
お母様の動きはすぐに止まった。
しかし、楓さんに対する目や顔にはなんの変化も及ぼさなかった。
「どうして止めたんですか?この子は殴らなくちゃわからないでしょう?」
吐息の多い、怒り混じりの疑問が、感情の高ぶりをわからしめる。
お母様は振り返った。
楓さんもお父様の顔を見た。
当然、その顔は怒りに打ち震えていた。
しかし、それだけではなかった。
そう、それが矛盾の正体だ。
「お前は俺の鏡だ。お前が楓を殴ろうとしたのなら、俺も楓を殴っていた」
怒りで顔を歪めた。
直後、座り込み、叫んだ。
それはもう全力で。
声量のあまり、2人は耳を塞いだ。
その中、私は耳を澄ませた。
塞がれた耳からも聞こえるその感情。
怒りだけじゃない。
情けない、無様な叫び。
私はそれを、悔しさだと思った。
それが合っているのかはわからない。
どうしてそんな感情になっているのかも。
感情を出し切り、脱力していた。
荒れた呼吸も、清々しさを感じさせた。
「今までお前を、俺の経験に縛り付けてきた。それが正しいことだと思って。いつか、それが本当の幸せになるんだと思って、だ」
大きく息を吸った。
「やめよう、親ヅラをして逃げるのは。お前の言う通り、ただ俺は俺を肯定したかっただけだ。あのとき、友達なんて捨てていれば、俺は漫画家に成れたんだと。でも、実際はそうじゃない。俺にそんな才能はない。それを認めるのが怖かったから、俺は結婚した。家族のために働くのが忙しい。その言い訳1つが俺は欲しかった」
お母様はこちらに背を向けたままうめき声を上げ、座り込む。
きっと、ショックなのだ。
小さくなったお父様を受け入れられないのだろう。
「今まで、友達を作らないことのメリットを説いてきた。だが、俺は今お前に論破され、手が出た。理論で勝てないのなら、俺が間違ってたんだろう」
お母様は首を小刻みに横に振った。
「違う違う違う。あなたはなにも間違ってない。きっと仕事に疲れて上手く返せなかっただけよ。そう、あなたが間違えるわけない」
不安定なトーンが、感情の不安定さすらも表している。
お父様は、一歩、一歩とお母様に近づき、腰を屈めた。
そして、お母様を抱きしめた。
「母さん、もういいよ。今までごめん。こんな茶番に付き合わせて。もう君は君でいいんだ」
操り人形の糸がプツンと切れるように、力が抜けた。
しかし、すぐに動き出した。
怒りにより震えていた体は、今も変わらず震えている。
いや、先ほどよりも。
息もだ。
荒い呼吸がさらに荒く。
しかし、その震えは、荒い呼吸は、怒りからくるものだとするならば違和感がある。
そして、その違和感はすぐに解消されることとなった。
「あ…ああ…楓…楓…ごめんね…」
お母様は大きく泣いた。
まるで催眠が解けたように、楓さんに謝罪しながら。
震えは罪悪感によるものだった。
荒い呼吸正体は、嗚咽だ。
十数年の催眠が解け、今までの行動すべてに罪悪感が湧いたのだ。
「お前のせいじゃない。お前は謝る必要なんてない」
お父様は優しく背中を撫でている。
そして、視線を楓さんの目に移し、言います。
「楓、1つ、お前に言ってなかったことがある。聞いてくれ」
楓さんは首を立てに振りました。
「友達がいたことを、俺は後悔したって言ってきたよな。本当は、楽しい思い出ばっかだ。友達すら、ただの言い訳だったんだ」
話している途中で、視線は楓さんから外れ、下に向かって行きました。
罪悪感がそうさせているのでしょう。
十何年の罪を自覚したのです。
「楓。お前にはなんて謝ればいいか。この罪を、どう償うべきか」
楓さんはお母様に近づき、お父様同様に背中を撫でた。
「ご飯を食べるときはいただきますってみんなで言いたい。寝るときはおやすみなさいって言いたい。お父さんが会社に行くときは行ってらっしゃいって言いたい。学校に行くときは行ってらっしゃいって言ってほしい。友達とも遊びたい。たまにご飯を食べたり、その…カラオケ…とか、行ってみたい。ゲームは高いから、トランプとか、コマとか、そうだ、あやとりもほしい。そういうみんなの当たり前をやってみたい」
お父様は、少し顔を落としました。
「そうか、俺はそんな当たり前までも縛っていたんだな」
噛みしめるように、楓さんの言葉を復唱しました。
「楓!」
お父様に抱きしめられていたお母様は、振り向き、楓さんを抱きしめました。
こぼれ落ちる涙は、楓さんの背中側の服が吸収しています。
「ごめんね。ごめんね。辛かったよね」
「ううん。お母さんの方が…」
お母様を労わろうとした言葉は、そこで止まりました。
私は安堵しました。
ああ。やっと、楓さんは楓さんでいられるんだ、と。
視界が輝く。
言葉にならない声が、楓さんから発せられる。
そして、次の瞬間、私が望んでいた言葉が繰り出される。
「うん。うん。つらかったよ」
視界はほとんど閉ざされ、耳には泣き声が反響します。
楓さんはずっと、お父様に負けない様に気を張っていました。
それは、本来の弱さを包み隠すように。
しかし、それはあくまで偽り。
あくまでお父様と闘うため覆い隠したにすぎません。
本当の楓さんは、優しく、弱い。
楓さんは闘いから、悠久の地獄から、やっと解放されたのです。
輝く視界の中、たじろぐお父様を見てみます。
どうやら、この状況でなにをするのが正解なのか、わかっていないようです。
しかしお父様、あなたは成さねばならないことを成していない。
伝わるだけではだめなのです。
しっかりと、言葉で伝えなければならないのです。
それなしにこの話を終わらせるなど、あってはなりません。
顔をお母様の肩へ埋めました。
お母様ともっと触れていたいようです。
それからしばらく、10秒ほどでしょうか。
2人はビクッと驚き、泣き止みました。
その原因は、お父様です。
2人は自分たちの泣き声で、お父様が近づいていることに気づかず、膝をつく音に驚いたのです。
2人はお父様を見ます。
「今でもたまに夢を見る。漫画家になれた夢を。まだ諦められてないんだ」
でも、と一呼吸を置き、2人の目を見てから言った。
「その夢には、しっかりとお前たちがいた」
お母様の体がまた震えた。
「内心後悔してなかったんだ。母さんと結婚して、楓が生まれてきてくれたことを。楽しい日々だった。ただ、楓に友達ができて蘇ってしまった。あのとき、友達を作らなければと。俺が惨めだったばかりに、お前たちを巻き込んだ」
お母様はお父様の腕を掴み、言った。
乾き始めていた目を潤しながら。
「私のことを恨んでないの?夢を奪った女だって」
お母様は自分がお父様の邪魔なのではないかと考えていたようです。
その問いに、お父様は答えます。
「思ってたよ。でもそれは、本心を隠すための感情だった。誰かのせいにすれば、自分の罪を自覚せずに済んだから」
恐る恐る、お母様は訊いた。
「じゃあ、私を恨んでないの?」
お父様はお母様を強く抱きしめた。
「恨んでいる相手を抱きしめるほど、俺は感情を隠すことはできない」
楓さんを抱きしめていた腕は、気づけばお父さんを抱きしめていた。
受け入れられていることがわかり、安心しているのでしょう。
「楓、お前には今まで散々ひどいことをしてきた。一体、どうやって償えばいいのか、私にはわからない。償い方を教えてくれないか?少しづつでも、お前のお父さんになりたいんだ」
お父様は楓さんを抱きしめようとした。
しかし、楓さんはそれを拒みました。
「そうか…そうだな」
お父様は、その行動を噛み締めました。
それが、今の距離なんだと。
「幼稚園のあのときから、お父さんにずっと言えなくなったこと、今言っていい?」
「あ…ああ…」
一体何を言われるのだろう。
そんな不安を帯びた声でした。
楓さんは下を向きました。
しかし、諦めたように、お父様の目を見ます。
そして、その言葉は発せられました。
「おかえり!」
満面の笑みで言いました。
しかしその目には、抑えきれない幸福が流れていました。
楓さんはお父様に抱きつきました。
「ただいま。それと、ごめんな」
それでいいのです。
間違ったのなら謝罪を。
それができるなら、きっと、この家庭は良い方へと進んでいく。
お父様も楓さんを抱きしめました。
そこで、力の限界が来ました。
拝借しただけの力ではここまでです。
しかし、あの様子なら大丈夫でしょう。
歪な関係は終わり、これからは家族という形になっていくのです。
元より苦いカフェラテが、さらに苦く感じました。
あれから2日たち、月曜日となった。
いつものように散歩で歩き疲れた私は、ろくに授業に参加できずに放課後を迎えることになる。
そしてこれもいつものように、立入禁止と貼られているのを無視し、その場所に扉を開ける。
「あ、おはよー、じゃなくて、こんにちは、か」
そこにいたのは、女神のような笑顔で私を見つめる女性だった。
あのときの姿は見る影もなく、普通の女子高生といった具合だ。
「その感じ…もしかして」
私はいつもお得意の演技でそれを促します。
そうすると、楓さんはフフンと言いたげな表情になりました。
「うん。そういうこと。その証に…ほら!」
ポケットを弄り、出てきたのは…。
「スマホ!?」
一瞬演技を忘れかけましたが、ギリギリのところで耐えました。
「「高校生でスマホがないのは不便だろ」って、お父さんが買ってくれたの」
その認識はあったのですね。
「それと、それだけじゃないよ」
そう言うと楓さんは、私に目を瞑るよう指示しました。
私はその指示に従い、目を瞑ります。
ポケットに手を入れ、擦れる音がします。
しかし、それがなにであるのかは見当もつきません。
強いて言うなら、手を奥まで入れていた。
それを考慮すると、小さいものである、ということでしょうか。
「目、開けていいよ」
そう言われ、私は目を開けました。
「じゃじゃん!東京タワー!」
それは、あやとりでした。
不思議ですね。
まだ4日しか経っていないというのに、懐かしさすら感じます。
楓さんは、女神のような笑顔を残しつつ、真面目な顔になりました。
「思い返せば、あやとりが私たちを繋いでくれたんだよね」
元を辿れば、神が繋いでくれたのですが、私たちの関係を築く上での最初、と言えばその通りです。
「あのとき、井上くんに出逢えたから、私は生きてるんだよ」
否定するのは嘘になる。
あのときから1ヶ月以内に死ぬことはほぼ確定していたのだから。
なるべく嘘は吐きたくない。
それが私のこだわりだ。
なら、ここですべきは否定ではない。
しかし、肯定は楓さんを否定することになる。
と、少し複雑に考えてはみましたが、言うべき言葉というのは最初からわかっている。
私はただその言葉を口から発せばいいだけだ。
「楓さんが生きたいと思ったから、幸せになりたいと思って行動をしたから、楓さんは今、自由なんだよ。言うなれば、2人の勝利、かな」
その言葉は偽りではない。
言い方は演技ではあるが、その言葉の意味は本心である。
おじいさんと話したとき、私は心が折れてしまった。
しかし、楓さんはそんな私に側にいてほしいと言ってくれた。
それがなければ、今頃は1人黄昏ていたかもしれない。
いや、きっとそうだろう。
この結果は楓さん1人ではこうはならなかっただろう。
しかし、私1人がどう動こうとも、この結果はありえなかった。
2人だから勝ち得た。
2人だから乗り越えられた。
綺麗事に聞こえるかもしれないが、これは事実だ。
2人が諦めなかったから、こんなにも綺麗な言葉で形容することができるのです。
楓さんは確かに、と微笑みました。
「うん、そうだね。そうだ」
私の言葉を思い返し、間違いがないことを確かめたようです。
「それでも、言わせてほしい」
そんな真剣な顔をされて断れるわけもなく、静かに次の言葉を待ちました。
「ありがとう。助けてくれて」
その言葉は、とても透き通っていて、穢れや邪念は感じませんでした。
心からの感謝を伝えられると、私も自然と口角が上がりました。
「どういたしまして」
私たちは駅に向かって歩いていました。
「あれ、楓さんはJRじゃないんだっけ?」
嘘を続けても帰るのが面倒になるだけなので、私はそこを指摘しました。
「ううん。実はあれは嘘なの。あのときは1人で居たくて。ごめんね」
申し訳なさそうに言う楓さんを見て、誠実という印象を受けました。
「気にしないで。僕もバスの方が近いなんて嘘を吐いたから」
ぷふ、と吹き出しました。
「そっか。じゃあ同類だね」
「そうだね」
同類。
なんて心地のいい言葉でしょう。
いえ、言葉の自体というよりは、その使い方、ですね。
「そうだ、一緒にご飯食べない?」
私のその提案に、あからさまに心躍らせています。
「奢らなくていいからね。私ちゃんとお金あるから。お母さんからもらってきたの」
そうして、スクールバッグから財布を取り出しました。
私はそれを素早く取りました。
「迂闊に財布は出さない方がいいよ。盗まれちゃうかもしれないから」
財布を返しました。
「お母さんみたいだね」
言われて気づきました。
うざかったでしょうか。
「でも、こういうお母さん、いいな。きっと、これからそうなっていくんだろうな」
どうやら、うざがられてはいないようです。
「それじゃあどこで食べようか」
そこで私たちはその異常に気づきます。
会話に夢中になっていて、今まで気づきませんでした。
目の前に1人、泣きながら歩く女の子が居ることを。
「どうしたの?お怪我しちゃった?」
楓さんは女の子の前に立ち、目線を合わせ、迷わずに話しかけました。
その女の子はランドセルを背負っていました。
そして、そのランドセルにはカバーがついています。
つまり、小学1年生ということでしょう。
女の子は楓さんが前に立ったことで、歩みを止めました。
「ううん」
嗚咽ながら、なんとかそれだけは言ってくれました。
「じゃあ、友達に悪口言われた?」
首を横に振り否定しました。
「友達がいないの」
直後、楓さんの体が震えました。
「…それが悲しいの?」
「うん」
即答。
「みんな友達いるのに、私だけいないの」
なるほど。
小学生からしてみれば、周りと違うというのは辛いことでしょう。
いいえ、大人でも周りと違うことに苦しむ人はいます。
むしろそれが多数であるとすら思います。
小学生にそれは耐え難い。
現在7月5日(月)。
3ヶ月も1人で抱えていたのですね。
きっと、親にも言えなかったのでしょう。
心配させたくないから。
「…そっか」
楓さんも顔を落とし、2人で地面を見つめる異様な時間が流れます。
手助けしたいが、楓さんと竜一さん以外にはなるべく干渉したくない。
世界がどう曲がるか、それは私1人では判断しかねる問題です。
よって、ここで私がするべき選択は2つ。
1つ、2人で女の子から離れる。
2つ、リスクに目を瞑り手助けをする。
2つ目はなるべく避けたいが、1つ目も後々恨みを買って歪みが生じる可能性がある。
それに、泣いている子供を放っておくのも望ましくない。
であるなら、やはり2つ目か。
「楓さ…」
「言っていいんだよ」
私が助言をしようとすると、楓さんは話し始めました。
私の声など聞こえていないようです。
女の子は楓さんの顔を見ました。
「お母さんでも、お父さんでも、先生でも、友達がほしいならそう言っていいの。きっと手助けしてくれる」
それに、と楓さんは続けました。
「「お話しよ」って言えば、みんなあなたと喋ってくれるよ。みんな優しいから。自分から手を伸ばすことは、みんなできないかもしれない。それでも、あなたが手を伸ばしたら、みんな手を握ってくれる。あなたを1人にはしないから」
楓さんが話している間、女の子は涙を抑え、聞くことに集中していました。
だから、と続けました。
「強がらなくていい。泣きたいときは泣いていい。その涙を、頼りたい人の前で流して。それが、手を伸ばすことになるから、あとは繋いでもらうだけだよ」
女の子は自然と泣き止みました。
勇気を出たからなのか、感銘を受けたのかはわかりませんが、泣き止んだのは事実です。
女の子はまっすぐ楓さんの目を見ました。
「ありがとうござ…」
そこで言葉は止まりました。
それは、その場の誰も予想していない展開が訪れたことを示していました。
「逃げるよ!」
世界が一瞬スローになった気がしました。
女の子は、我々の死角から現れた別の女の子によって連れていかれました。
ランドセルにカバーがついていて、彼女も同じ学校の1年生であるということは推察できます。
彼女は我々2人が女の子をいじめているように見えたのでしょう。
確かに、高校生2人に囲まれて泣いていたら、そう想像してもしかたありません。
泣いていた子は、腕を持っていかれないように女の子と一緒に走りました。
振り向くこともできない速さで。
「どうしようか、誤解を解く…と言って追いかけたらそれこそ犯罪者みたいだ」
そんなことを言いながら楓さんに視線を向けると、にっこりと笑いながら、女の子たちに手を振っていました。
「私、綺麗事ばっか言っちゃったな」
にっこりとした笑顔とは裏腹に、その言葉は真剣でした。
「お母さんとお父さんがいる前提で話しちゃったし、居ても頼れないかもしれない。先生もそう。クラスの子達だって。もしあの女の子が現れなくて、泣いてた子に頼れる人が誰も居なかったら、私はどうしてたんだろう」
なくはない話です。
助けてくれる子が現れたの自体奇跡のようなもの。
助けが現れない、助けを求めても助けてくれない。
そんな環境に生きてる子はきっといる。
かつての楓さんがそうだったように。
自ら命を落とす人々がそうであるように。
それでも、と私は言った。
「泣くことが手を伸ばすことになる、いい考えだと思う。泣いてる人を気にしない人間は少ない。なにかしらのアクションはみんな起こす。その人から離れたり、話題にしたり、バカにしたり。その中にきっと助けようと行動する人はいる、と思う。辛い時は泣いていい。その涙が、自分を救ってくれるかもしれない」
楓さんは、私の意見に希望を見出したようだった。
「そうかな」
「うん。僕はそう思う」
それに、と続けた。
「あの子には助けてくれる子がいた。その幸せを喜ぼうよ」
楓さんは少し考えて、少し頷いて、立ち上がった。
「そうだね」
少し笑って、楓さんは歩き出し、こちらに振り返った。
「確かに。自分だって2日前まで辛かったのに、人の心配するとか早かったかも。まず私が幸せにならなきゃ」
私が出した結論とはだいぶ食い違ってはいますが、どうやら悩みは消えたようです。
「井上くん」
その言葉は、紡がれるであろうと理解しました。
ですから、私は静かに、次の言葉を待ちました。
そして、楓さんが口を開く。
「私、まだ諦めてないから」
瞬間、脳に電流が走る。
それは、私にとって究極の2択。
神か、楓さんか。
その2つを1ヶ月以内に決めなくてはならないのだ。
楓さんは振り向いた。
「なんて、そんなに重く捉えないで。救ってくれただけで、私は幸せだから」
半分真実で、半分偽り。
歪な感情が見て取れる。
そして、ポケットからスマホを取り出した。
「ごめん。今日の夜ご飯作っちゃってたみたい。今日はカレーなんだって。私、カレー好きだから絶対食べなきゃ。だから、ご飯はまた今度ね」
一歩、また一歩と楓さんが遠ざかっていく。
その歩幅は、並んで歩いていた時より長く、速い。
私は壁にもたれかかった。
どうしようかと悩んだ。
靴を脱いだ。
「あーしたてんきになーれ」
表なら神にしよう。
裏なら楓さんだ。
しかし、なんとなくわかっていた。
私の本当の気持ちは。
本来神に使えるだけの私が、悩んでいる。
その事実が答えだ。
しかし、やはり恩は返さなくてはならない。
私はまだ、全然返しきれていない。
靴は地面と衝突した。
少し飛び上がってまた地面に向かって落下した。
今度は勢いが弱く、飛び上がりはしなかった。
一瞬晴れた。
しかし、どうやら曇りのようだ。




