第3話
目を覚ますと、見たことのある部屋だった。
部屋というよりは、小屋。
見覚えがある。ここはおそらく、僕たちの通っていた無人島にひとつだけポツンと立っていた朽ちた小屋だ。
後頭部に鈍い痛みが残っている。身動きができない。椅子に座った体勢で、縛りつけられているのだ。
直前の記憶は、いつものように飛行機に乗り込むときに途絶えていた。
「なんだよ、起きたのか」
後ろから男の声がした。
僕の正面に回った男は、白髪交じりの背の低い男だった。歳はわからないが、くぼんでギラギラと光る眼が異様だった。
「……何が目的だ」
「わかるだろ? 人魚だよ」
彼は薄ら笑いを浮かべながら言った。
「やっと夢が叶うんだ。お前のおかげだよ。本当に感謝してる」
「……何の話かわからないな」
「とぼけても無駄だ。もう人魚は呼んである」
最悪だ。
おそらく僕たちの逢瀬はどこからかこの男にバレて、この状況がある。
心当たりがあるとすれば。
「……通信を傍受したのか」
「当たり! 俺は暇な時間は片っ端から航空機無線を傍受してる。張り込み続けて20年だ。わかるか? この苦労が」
「彼女に手を出すな。俺はどうなってもいい」
「だめだ。手は出す。お前も死ぬ。お前らは交渉できる立場にない」
「嵐の音が聞こえないのか? 彼女は怒っている。何をされるかわからないぞ」
「大丈夫だよ。お前がいるから。こっちに手は出せないはずだ。人質だからな」
外で勢いを増す嵐の様子を窓から見ながら、男は言った。
「20年。20年だ」
男は振り返ると、凄絶な笑みを浮かべた。
「この20年、本当に大変だった。人魚が自分から電波に乗せて誰かに呼びかけることはなかったからな。だがお前が偶然人魚に気に入られたおかげで、活路が開けたんだ。人魚を直接捕まえるのは無理だ。嵐の中にいる人魚に近づく方法はない。だがお前と交換なら、安全に人魚を捕まえられる。お前のおかげで夢が叶うよ」
「人魚を捕まえてどうする。まさか不老不死を信じてるのか」
「少し違う。確かに俺の一族は、大昔から不老不死を目指してきた」
男は少し遠い目をした。
「ご先祖様は不老不死の方法を探すうちに、人魚の存在に辿りついた。空に逃げた人魚を目撃したんだ。そこから一族の目的は人魚を捕まえることに変わった。俺は一族の最後の生き残りだ。俺が不老不死になれば一族は永遠に続く。ずっと人魚を追い続けて死んでいった先祖たちの人生は無駄じゃなかったと、何より俺の人生は無駄じゃなかったと思うには、人魚を食べないといけないんだよ。これは先祖の無念を晴らす戦いだ。その結果不老不死になれなかったとしても、俺が人魚を捕まえることで、一族も俺も報われる。お前みたいになんとなく生きているやつらに、俺みたいな先祖からの使命のある人間のことは理解できないだろうよ」
「人魚を食べて、不老不死になって、それからどうする。目標を失った人生が待ってるんだぞ」
「どうでもいいんだよそんなことは。人魚を食べる、夢を叶える、それだけのために俺は生きてきた。夢のない人間には一生わからない。これは俺の、すべてだ」
窓ガラスを打ち付けていた風雨が、止んだ。
「来たか」
男は小屋の扉を開けた。
宙に浮くヘレナが、そこには居た。
見たことのない冷たい目をした彼女が。
「おい人魚、交換条件だ。この男を開放して欲しかったら、無抵抗で捕まれ。交渉の余地はない」
彼女は口を開いた。
返事の代わりに彼女の口から流れたのは、聞いたことのない言語。
違う。
歌だ。
その歌を聞いた瞬間、一気に意識が遠くなった。
人魚の歌には船乗りを惑わし海に引き込む力があるという。彼女の歌っているのは、そういう力のある歌ということか。
「無駄だ」
だが男は特に気にしていないようだった。
「人魚の歌の正体はわかってる。“催眠術”だろ? だったら対処法はある」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の歌が止んだ。
「図星か? お前ら人魚の歌が催眠術だってのは、先祖が当たりをつけてたからな。あらかじめ“他の催眠を受け付けない”って催眠をかけておけば、お前らの歌はただの陽気なメロディだよ」
「……返してよ。航輝」
「先にお前の身を拘束してからだ。大人しく捕まれば、この男は解放してやる」
「いいよ。何しても」
「手を出せ」
無抵抗に両手を差し出したヘレナに、男は手錠をかけた。手錠の先には太いロープが結び付けてある。飛んで逃げられないようにだろう。
「もういい? 解放して」
「……あっけないな。バカな生き物だ。こんなのに俺は一生を捧げてきたのか」
バス、と鈍く空を切る音がして、ヘレナは地面に落ちた。
「ヘレナ!」
「麻酔銃だよ。死んだ状態の人魚に不死性が宿るとは限らないからな。お前は踊り食いだ」
男が手に持ったスイッチを捨てた。スイッチを押すと小屋のどこかに設置してあった麻酔銃が発射される仕組みだったのだろう。
「やめろ。ヘレナを解放しろ」
「お前らふたりともそろって同じことを言う。だが俺の返事も同じだ」
男が懐から取り出したのは、拳銃だった。
「解放なんてするわけないだろ?」
銃声と共に額に熱が炸裂して、僕の意識は、飛んだ。
夢を見ていた。
ヘレナによく似た人魚たちが、空を群になって泳いでいる。
彼女たちが歌うのは、聞いたことのない言語。
「すべてのものは歌っています」
知らない言葉なのに、意味がわかる。
「私たちは歌となって、あの子の細胞の中で生きています。すべてのものは歌からできているのです」
彼女の歌声を思い出す。
「あの子の歌を聞いたあなたの中にも、ほんの少しですが、私たちがいます」
そうか。人魚の目はみんな緑色だったのか。
あの花火の色みたいだ。
「すべてのものは歌からできている。歌は波。すべてのものは波でできている。この歌を波にして、あなたの傷を埋めます。急いで」
僕はヘレナと線香花火をしていた。
火花が大きくなって、やがて小さくなって、火の玉がじんわりと震える。
でもまだ、落ちていない。
無我夢中で暴れると、縛り付けられていた椅子ごと床に倒れ、衝撃と痛みで呼吸が止まる。その拍子に両手を縛っていた縄が緩んだ感触がした。
両手が自由になり、椅子に縛り付けられていた両足も解放すると、僕は立ち上がった。
「ヘレナ!」
ヘレナは小屋の中には居なかった。男の姿もない。
外から微かに、彼女の歌声がした。
扉を開け放つと、歌が少し大きくなった。
彼女の好きな歌。オルフェウスを追いかけて。
耳を澄ますと、歌の聞こえる方向がわかった。この先に確か、もうひとつ小屋がある。そこかもしれない。
歌が聞こえるということは、彼女はまだ、生きている。
駆け出したいのを抑え込み、何か武器になるものはないかと小屋の周りを探す。相手は銃を持っている。考えなしに突っ込んで救えるかはわからない。
しかし急がなければ、彼女が死ぬ。
僕は一番大きな角材を掴むと、もうひとつの小屋に向けて走り出した。
歌が徐々に大きくなる。やはりあの小屋だ。
身を隠しながら、窓の下に慎重に近づく。
ポケットのスマホは盗られていないようだった。カメラを起動し、インカメを窓の端にかざして鏡の要領で中を覗く。
大きなテーブルの上に、ヘレナが寝ていた。その横には、異様に長い包丁を持つ男が居る。
あれは、マグロを捌くための包丁だ。
まるで、まるで、ヘレナを食べ物みたいに。
僕はドアの方へ向かうと、扉を軽くノックした。
しばしの沈黙があったあと、勢い良く扉が開く。
拳銃を持った男が飛び出した瞬間、僕は男の頭をめがけて角材を振り回した。
「てめえ!」
銃口から火が噴き上がり、横腹を鮮烈な熱さが襲う。
だが同時に、角材は男の顔面を捉えた。
地面に倒れ込んだ男の後頭部をもう一度角材で殴りつけると、男は動かなくなった。
「……ヘレナ、ヘレナ」
とめどなく血が流れる横腹を手で押さえながら、僕はテーブルの上のヘレナに駆け寄る。
「ヘレナ、起きるんだ。もう大丈夫だから」
彼女の体を揺さぶると、頭の中で流れていた歌が止んだ。
彼女はぱちりと目を開くと、僕を見た。
「……航輝だ」
彼女は微笑むと、両腕を僕に向けて伸ばした。
彼女を抱き締めようとした瞬間、轟音と共に腹部に痛みが炸裂し、僕は倒れこんだ。
「航輝!」
「ハァ、くそっ……邪魔しやがって、てめえ」
何とか振り返ると、男が頭部から血を流しながらそこに立っていた。
「さっき頭撃ったはずだがなぁ!? もういいよ、生きてんならもう一回脳天にブチ込んでやっからよぉ!」
その瞬間、身の毛もよだつような叫び声が衝撃波となって僕と男を襲った。
男の頭から赤黒い液体が迸る。
いや、違う。
男の体自体が、赤黒い液体になって溶けていく。
耳をつんざく叫び声は、この世のあらゆる言語で怒りを表現したときよりも強く、燃え盛る憤怒をはらんでいた。
「ヘレナ……」
体が動かない。血を流しすぎたのだ。体を支えきれず倒れ込みながら、ヘレナの体が泡になっていくのをどうすることもできずに見守る。
ヘレナの波間に煌めく太陽の光のような金髪が、真珠のような白くて華奢な肩が、ほの暗い深海のような深い緑の瞳が、虹の色の数を教えてくれるような鱗が、泡になって溶けていく。
両手を伸ばしても、その泡に触れることもできないまま、泡は赤黒く沸騰し始めた。
頭の中で彼女の叫び声が、言葉はわからないのに意思だけは怖気がするほど伝わってくる、歌へと変わる。
泡は地面に染み込んで消えると、小屋全体が激しく揺れ始めた。
何とか頭を上げる。窓から見える外の景色が異様なことになっていた。
赤黒い血のような色の嵐が、島全体を覆っている。
それはもう、人魚ではない、何か。
彼女の呪詛そのもの。
ああ、そうか。
人魚の歌は催眠術なんかじゃない。
体をつくる、波そのものに働きかけているんだ。
すべてのものは歌っている。歌は波。すべてのものは波でできている。
「……量子論か」
すべてのものをつくる粒子、その最小である量子は、波と粒、両方の性質を持つという。
彼女が歌で波に働きかけることができるなら、人間の体をつくる量子の波を崩壊させることも、おそらくできるのだ。
理屈がわかったところで彼女の怒りはどうにもならない。
彼女の想いが、知らない言語の歌で、直接頭に流れ込んでくる。
他の人間は僕に危害を加える存在。だから滅ぼす。人間を。
めちゃくちゃだ。やめるんだヘレナ。
そう思っても、声が出ない。かひゅ、という息と血の混じったものを吐く音しかもう出ない。
嵐が動き始める。進行方向は……本土だ。
男が赤黒い液体になって崩壊したのが頭によぎる。
ヘレナが日本に上陸したら。
Tシャツの裾を結んで、腹部を最低限止血する。腹部を二発も撃たれた。僕はもう長くない。死ぬ前に、ヘレナを止めなければ。
必死の想いで立ち上がり、小屋の外へ出る。
なんとかヘレナに呼びかけなければ。声を届けるには、どうしたら……。
小屋の周りを意味もなく歩き回ると、裏の波止場に僕の飛行機があった。
犯人が奪っていったのか。僕をこの島に連れてきたのに使ったのだろう。
迷わず飛行機に乗り込み、エンジンをかける。嵐に向かって真っ直ぐに飛び立った。
稲妻をはらんだ赤黒い台風に突っ込む。機体がガクガクと揺れ始め、操縦桿を握る手に力が入る。
「ヘレナ! やめるんだ!」
無線をいつもの周波数にし、ヘレナに呼びかける。
彼女の声がスピーカーから返ってきた。
「航輝? よかった。生きてたんだ」
「ああ、生きてるよ。だからもう、やめるんだ」
「ダメだよ。他の人間は君を殺す可能性があるから。先に殺しておかないと。その方がずっと安全だよ」
「殺さない可能性もあるだろう。そんなことをしたら、ヘレナが大量の人を殺すことになる」
「君さえ生きてれば他の人間はどうなったっていいよ」
「だめだ。それじゃあだめなんだ。人を殺した人間は、今後一生、まともに人と向き合えなくなるんだ。殺すという選択肢が生まれてしまうから。ヘレナの中に、僕を殺すという選択肢も生まれてしまうんだ、それはもう、今までとは決定的に関係が変わってしまうんだよ」
「君を殺すなんてありえないよ。安心して」
「そういうことじゃないんだ!」
「もう遅いよ。ひとり殺してるから」
赤黒い泡になって溶けた男。やはりあの男は、死んでいた。
「君の言う通りなら、私はもう決定的に変わってしまった。人と向き合うときに、殺すという選択肢を得たから。簡単だよ。私が歌えば人は死ぬ。今度は麻酔銃で撃たれるなんてヘマはしない。先に歌う。誰かが君を殺す前に、先に殺す。君以外みんな」
「だめだ、それじゃあだめなんだよ」
意識が朦朧とする。操縦桿を握る手がブレ始め、機体の姿勢を保てなくなっていく。
「そんなことをしたら、君はまた……」
ひとりになってしまうじゃないか。
コントロールを失った機体が回転しながら海へと落ちていく。
海面に叩きつけられ、隙間から侵入する海水をどうすることもできず眺める。
泳ぐ体力はもう、残っていない。
無線からヘレナの声が聞こえた気がした。