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第1話

 夏の洋上の天気は変わりやすい。

 特に台風の発生には気をつけなければならなかった。

 僕の乗る自家用機の設備ならよっぽど巻き込まれるほど近づくことはないが、やはり飛行経験がまだ足りていなかったのだろう。

 その日、目の前で見たことのない速さで嵐が発生した。

 とっさに引き返そうとしたが、運悪く嵐の進路は完全に僕を追いかけて来ていた。

 巻き込まれ、機体が暴風雨に晒される。真っ黒な雲の中は視界も悪く、嵐の進路を読み切ることもできない。激しく揺さぶられる機体の中、墜落しないよう操縦桿を離さないので精一杯だった。

 どれくらい耐えたのだろう。やがてふっと風が止み、視界が明るくなった。

 黒い雲の壁とは少し距離がある。しかし360度を雲に囲まれたこの空間は、嵐を抜けたわけではなく……台風の目に出たのか。

 嵐の中心部は嘘みたいに穏やかな空だった。また台風を突き抜けて脱出するか、このまましばらく台風の目の中で嵐が弱まるのを待って飛び続けるか。

 判断に迷っていると、突然機体の後ろの方に大きな何かがぶつかる音がした。同時に機体が揺れ、なんとか姿勢を保つ。

 操縦席の少し後ろにある扉が、勝手に開いた音がした。

「8月8日土曜日、時計の針は13時を回りました」

 後ろから女の声がした。

 ありえない。洋上でこの高度。人が入って来れるわけがない。

 もちろんラジオなんてつけていない。必死に平穏を装いながら、操縦桿を握る手だけが狂わないようにしていた。

「土曜の午後、皆さまいかがお過ごしでしょうか」

 操縦席のすぐ後ろまで声が近づき、恐る恐る振り返る。

 白人のような顔つきだった。緑の瞳が好奇心旺盛に輝いている。長い金髪で胸だけは隠れているが、上半身は裸だった。

 下半身は、魚だった。

「……誰だ?」

 咄嗟に口をついて出たのは、人間に対する言葉だった。

 周りに飛行機はないのに、どうやってこの高度の機体に乗り込んだ?

 そもそもこいつは何なんだ?

 混乱する中、ひとつだけわかっているのは、この生き物が話したのは日本語だということ。

 だから日本語で尋ねた。

「あれ、人間の挨拶ってこうじゃないの? いつもこんな言葉から始まるんだけど」

「……それはラジオの挨拶じゃないか。普通はただこんにちは、とかだろうね」

「そうなんだ。じゃあこんにちは」

「……こんにちは」

 上半身が人間で、下半身が魚。

 人魚。

 おとぎ話の中の存在が実在したこと、しかも日本語で話しかけてきたことの動揺を、操縦桿に伝えないので一杯一杯だった。

「何が目的だい?」

 操縦桿から手を離すわけにはいかない。武器の類は持っていないように見えるが、襲われでもしたら墜落だ。とにかく会話を試みる。

「この嵐でも墜落しないなんて、ずいぶん腕が良いんだね」

 彼女は質問に答えず、どこかのんびりした声音で話し始めた。

「知ってるよ。君がパイロットってやつでしょ? 見るのは初めてだけど」

「そうだね。僕も人魚を見るのは初めてだ」

「ふふ。同じだね。私も人間自体見るの初めて」

 敵意はない、と判断していいのだろうか。まだわからない。

 人間の言葉を話すからと言って、果たして思考も人間と同じだろうか?

 その考えに思い至ると、額を一筋冷や汗が流れるのがわかった。

「どうやってこの飛行機に乗り込んだ?」

「飛んで」

「跳ぶ? 海面から跳ねて届く高さじゃないだろう」

「違う違う。今時の人魚はね、空を泳ぐんだよ。知らないの?」

「……それは知らなかったな。海じゃないのか」

「古い人魚観をお持ちだね。令和の人魚は、飛ぶんです」

「飛ぶのか。令和からかい」

「ううん。もっとずっと昔から」

「どうやって飛んでるんだ?」

「鳥がどうやって飛ぶのか考えながら飛んでいると思う? 体を自然に動かせば、飛べるんだよ」

「……不思議な生き物だよ。こうして日本語が通じるのもね」

「通じてよかった。初めて人間と話すから不安だったんだ。この言葉はいつも聞いてたけど」

 ラジオ番組の始まりのような挨拶をしながら入ってきたことを考えると、ラジオで日本語を学んだということだろうか。

「ラジオを持っているのかい?」

「ラジオって人間の機械でしょ。そんなのなくても聞こえるじゃん。耳を澄ませば」

 ラジオ電波を受信できるのだろうか?

 動物には詳しくないが、電磁波を感じ取る器官でもあるのかもしれない。

「人間は機械がないとラジオを聞けないんだよ」

「ふーん。大変だね」

 僕は生物学者じゃない。目の前の不思議な生き物に興味はあるが、とりあえず敵意がないなら何でもいい。

 問題はこの嵐をどう抜けるかだ。

「君ともっとお話ししていたいところだが、あいにくこの嵐の中をもう一度抜けて帰らなくちゃならないんだ。生きて帰れるかわからないけどね」

「嵐が邪魔なの?」

「ああ。墜落しかけたよ」

「ふーん。いいよ」

「……“いいよ”?」

 彼女がそう答えた途端、風の動きが変わった。

 視界を塞いでいた黒い雲がみるみる散っていく。

 やがて完全に視界は良好となり、一欠片の雲も残らない晴天になった。

「……君がやったのか?」

「うん。嵐を起こしたのも私だから。普段は嵐の中に隠れてるんだよね」

「すごいな。人魚はみんなこんなことができるの?」

「できたよ。でももう、この空に人魚は私だけだから」

「どうして?」

「大昔に人間に食べられちゃった」

 人魚の伝承は世界各地にお伽話として伝わる。 

 特に日本では、人魚の肉を食べた者は、不老不死を得るという。

 ——まずい。

 人魚にとって、人間は、敵かもしれない。

 目の前に居る僕も。

「……他の人魚が食べられたのを、どうやって知ったんだい?」

「人魚の細胞には歌が刻まれているから。私たちは記憶を歌にして他の人魚に伝えることができる。だから他の人魚がどうなったかの歴史が、歌になって私の細胞にも刻まれているってだけ」

「歌か。人魚が歌うというのは伝承通りなんだね」

「まあね。私も歌は好きだよ。最近ラジオで流れてるあれも好き。バンドの。6月のプレアデスって人の、新曲。聞いた? “オルフェウスを追いかけて”ってやつ」

 僕も聞いたことのあるバンドだった。若者に人気のグループだ。

「人魚も普通の歌を聞くんだね」

「私たちはみんな作曲家だから。いい曲はなんでも好き」

「そうか。素敵なことだ」

「素敵でしょ」

 本心だった。僕は芸術にほとんど関わってこない生活を送っていたし、人魚がみな生まれついての作曲家だというのは、とてもいいなと思った。

「どうして僕に話しかけたんだい?」

「退屈だったから」

 彼女は長い髪を指先でくるくると弄びながら言った。

「僕に捕まって食べられるとは思わなかった?」

「別に。食べるの?」

「食べないよ。ただ、危ないんじゃないか」

「ふふ。人間って面白いね。危ないのはそっちなのに」

 額を伝うじっとりとした汗が、目に入らないように瞬きをする。

「どうして?」

「人間は飛行機がないと飛べないでしょ。船がないと長い距離を泳ぐこともできない。だから台風に閉じ込めた状態なら、人間は私を捕まえて食べる余裕なんてない。ふふ。どうやって生きて帰るかで精一杯。そうでしょ?」

 これは無邪気な脅迫だ。

 台風に閉じ込めることで命を握った上で、退屈しのぎに話しかける。

 それは人間が飼い犬に話しかけるようなもの。

 種として上であるという自覚。

「……じゃあなぜ台風を消したんだい。僕がこのまま逃げて君のことを周りに話したら、追われることになるかもしれない」

「君はそんなことしないよ」

「なぜ?」

「話しててこんなに楽しいもん。悪い人じゃないよ」

 もし人魚が皆こんな性格なら、確かに人間に騙されて捕まり、数が減っていってもおかしくはない。

 どうしようもなく無邪気なのだ。

 彼女にとっては台風を起こすことも、僕を閉じ込めて話しかけることも、おそらく遊び。

「危ないね。そうやって人を信頼して、裏切られ、捕まえられてきたんじゃないか」

「そうだよ」

 意外なことに、彼女はそれを認めた。

「でも君は大丈夫。なんとなくわかるんだ。だって君もひとりでしょ?」

 僕は沈黙した。

「ふふ。誰かとお話しするのなんて初めて。ね、また会おうよ。どこかで待ち合わせしてさ」

「……連絡も取れないのにどうやってこの広い空で会うんだい」

「人間は電波で連絡を取るんでしょ? 飛行機にもそういうのがついてるって聞いたよ」

 無線のスピーカーから、彼女の声がダブって聞こえ始めた。

「人魚は電波を感じ取れるし、歌のひとつとして発することができる。すべてのものは波でできているし、歌は波だから。この世のすべてのものが歌っているんだよ」

 彼女の言葉は不思議としっくりきた。彼女が確信を持ってそう言っていると伝わってきたし、人魚はおそらく、人間が知らない目で世界を見ている。

「近くまで来たら無線を飛ばしてよ。使ってない周波数でさ。そしたら私が返事して、近くに行くから」

「確かにそれなら会えるね」

「次はいつこの辺に来るの? 明日? 明後日?」

「明日かな。ちょうど長期休暇を取ってね」

「ああ。人間って普段は労働ってやつ、やってるんだっけ。でもラジオのお悩み相談聞いてると、仕事の悩みって多いよ。嫌なら働かなければいいのに」

「そういうわけにはいかないんだよ。お金を稼がないといけないから。人間はお金がないと食べ物が手に入らない生き物なんだ」

「ふーん。大変だね、人間って」

「そういえば人魚は何を食べるんだい?」

「何も」

「何も?」

「うん。あ、でも水は飲むよ。雲を、あーんってして」

「水だけあれば生きていけるのか。まるで植物だね」

「そうかも。光合成もするし」

「なんだって?」

「空で生きていけるように、大昔に光合成ができるようになったらしいよ。でもそれだけだと味しないから、たまに海藻とか食べてる」

「消化もできるのか。不思議な生き物だ」

「こんなに太陽の光っていう食べ物がそこら中にあるのに、食べない人間の方が変だと思うけど」

「太陽の光を食べる、か。それができたら生きていくのはずっと楽になる気がするよ」

「でしょ? 早くできるようになるといいね。君もさ」

 彼女は身を乗り出すと、僕の顔に向かって無邪気な笑顔を見せた。

「ね、もっとお話ししよう。今とっても楽しいんだ」

「それはなによりだけど、まずいことに燃料がかなり減ってきているんだ。そろそろ帰らなくちゃならない」

「じゃあ明日また来てよ。この辺の空にいるから」

「わかった。明日の昼までにはこの空域に来るって約束する」

 即答した自分に少し驚いた。初めは警戒していたはずなのに、僕はいつの間にか、彼女と話すのを少し楽しんでいたことに気づいた。


 30歳までに、飛行機を買うと決めていた。

 物心ついた頃から空を眺めるのが好きな子供だった。

 高校の修学旅行で初めて乗った飛行機の窓からも、ずっと空を眺めていた。飛行機を買うと決めたのは、修学旅行の帰りの飛行機の中だった。

 空を眺める理由はよくわからなかった。強いて言葉にするなら、空の向こうを想像していた。

 空の向こうにはいつだって知らない何かがあるような気がしていた。いつかそれを自分で見に行きたいと思っていたんだと思う。

 当時調べた限りだと、個人で免許を取って小型の飛行機を所有することは海外では珍しくないようだった。免許だけ取って乗りたい時だけレンタルするのが一番安上がりらしいが、僕は自分の飛行機が欲しかった。誰にも知られずにどこかの空で死ねたら、なんて素敵だろうと思った。

 小型機の価格は、最も安いものなら20代全部を貯金に回せばなんとかなりそうだった。免許は国内の空港に仕事しながら通って訓練することで取れる。

 目標があったから、なるべく給料の高い会社に就職できるよう就活を頑張ることができた。

 こうしてかなり給料の高い会社に就職した僕は、その分激務の社会人生活に何とか耐えた。

 30を目前にした29歳の夏、僕は念願の自家用機を手に入れた。

 それまでの真面目な勤務態度を評価され、長めの夏季休暇を取ることができていた。この夏はできる限り飛び続けると決めている。

 自分の力で自由に空を飛ぶのは、他に経験したことがないくらい気持ちの良いことだった。空を飛んでいるという事実そのものが、なんとも言えない高揚感で体を満たしてくれた。その高揚感を抱えながら、あくまで冷静に操縦桿を握り、機体の姿勢を保つ。想像していたよりずっと、癖になりそうな快感だった。


 家に帰った後、仏壇に手を合わせて今日あったことを思い出していた。

 彼女は僕の進路とは反対方向に飛んでいった。海中を魚が泳ぐように、尾ビレを動かして優雅に空を泳いでいったのだ。不思議な光景だった。

“だって君もひとりでしょ?”

 彼女の言葉を思い出す。

 両親は数年前に他界していた。兄弟はいない。友人付き合いも激務の20代でほとんど途絶えていた。恋人も何年もいない。

 職場の同僚ともあまり深い関係にはならないようにしている。

 両親が死んだとき、これ以上親しい人との別れに耐えきれないと思ったからだ。

 そんな僕にまた会いたいと彼女は言った。

“でももう、この空に人魚は私だけだから”

 彼女は、僕よりひとりなのかもしれない。


「ね、これなに?」

「キャンプセットだよ。料理するやつ」

 翌日、僕たちは浜辺で火の準備をしていた。

 ずっと飛びながら話すのも大変でしょ、と彼女が無人島を見つけてきたのだ。

「料理。知ってる。おいしくするんでしょ」

「そう。おいしくする」

 僕はあらかじめ持って来ていた冷凍のシーフードミックスと中華麺を鉄板の上で炒めていた。

「いい匂い。すごく」

「そうだね」

「これなに?」

「海鮮塩焼きそば」

 僕は作り終えた焼きそばを皿に盛り、彼女に差し出した。

「手で食べると熱いから、これ使って」

 彼女にフォークを差し出す。

「なるほど。人間はなんでも道具を使うね」

「便利だからね」

「あ。こういう時ってさ、あれ言うんでしょ。いただきます」

「そう。よく知ってるね」

「いつも聞いてるから。N○Kラジオ講座」

 人魚ってN○K好きなんだ。

「おいしいかい?」

「ふふ。最高」

 彼女は本当においしそうに焼きそばを食べていた。

「人間は本当に味を大事にするんだね。こんな味、空にはないよ」

「特に日本人はね。おいしいものに対する執着がすごいんだ」

「だから人魚も食べるの?」

「人魚っておいしいのかい」

「わかんない。食べたことないから」

「僕もわからないけど、知りたいとは思わないかな」

「なんで? おいしいものに対する執着は?」

「だって君を食べることになるだろう。おいしいかもわからないのに」

「確かに。おいしいかわからないから食べないっていうのは、ある意味信用できるね」

「信用してもらえてうれしいよ」

「ふふ。とっくにしてるよ。信用」

 彼女の笑顔は本当に心の底から僕を信じ切っているようで、それを向けられると、この笑顔を裏切れないと思ってしまう自分がいた。

「だってうまいし。焼きそば」

「そこは信用してもらって構わないよ。料理には自信ありだ」

「信じます。焼きそばの人」

「ありがとう。魚の人」

 いつの間にかこうして軽口を叩き合う友人のようになっていたのが不思議だった。

「そういえばなんて呼んだらいい? 名前はないのかい?」

「名前か。人間が考えたとっても便利な概念だよね。名前があるから、人間は恐怖を克服できる。知らないものは怖い。でも名前があれば、あれは知っているものだとわかる。だから怖くない。便利な道具。やっぱり人間は何でも道具を使うね」

 知らないものは怖い。そうか。そうかもしれない。

「それで、名前はあるのかい?」

「ないよ」

「そうか。少し不便だね」

「そうだ。ね、君がつけてよ。名前」

「僕が? それでいいの?」

「いいよ。人間も親につけてもらうんでしょ。私も誰かにつけてもらいたい。人魚の名前ってどんなのがある?」

「そうだな……」

 人魚の名前か。やっぱり白人っぽいから、外国の女性の名前がいいだろう。あとは有名な人魚のキャラクターの名前だとか。

「有名なのは、アリエルかな」

「じゃあアリエナイ」

「それはやめよう」

「じゃあ、アリエナイの、エナ」

「エナか。響きは悪くないね」

 僕はスマホを取り出すと、エナという名前の意味を検索した。

「名前には意味があってね。エナっていうのは……ドイツ語の人名で、ヘレナの短縮系らしい」

「へえ。どういう意味なの?」

「元はギリシャ語で、明るさ、明朗さ、光だって」

「いいね。それにした。今日から私はヘレナです」

「ヘレナ。いい名前だ」

「でしょ? 君につけてもらったんだ」

「知ってるよ」

「それで、君の名前は?」

「航輝」

「コウキ。どういう意味?」

「光り輝く自分だけの航路を、ちゃんと見つけ出せるように、だったかな」

「いいね。飛行機乗りの名前にぴったり」

「そうだね。僕もそう思う」

 ヘレナとはたくさん話をした。

 ヘレナはおしゃべりな人魚だった。僕たちはお互いの身の上や最近のことについて話した。

 誰かとこんなに打ち解けるのは久しぶりだった。

「生まれてからずっとひとりで空にいるからさ、まあ、結構退屈だよ。ラジオばっかり聞いてる」

「確かに光合成ができるなら狩りの時間もないわけだし、暇だろうね」

「うん。暇。だから、ラジオ聴きながら歌ったりとかよくしてる。人間の歌を覚えるのは好き」

「それはいい趣味だね」

「今流れてる曲も覚えてるよ。最近よくかかってる。あ、人間には機械がないと聞こえないんだっけ」

「何チャンネルかな。流してみよう」

 僕が携帯ラジオのチャンネルを何度か変えると、彼女は「それ。その曲」と言った。

 流れていたのは昔の歌謡曲だった。海外の動画サイトか何かでなぜか流行ったらしく、日本のテレビやラジオでも最近またよく流れている。

「いい曲だよね。これ」

 彼女はラジオの曲に合わせて歌い始めた。

 どこかハッと人を惹きつけるような、引き込まれる歌声だった。今まで聞いてきた人間の歌手の誰とも違うような、心が一瞬でそれに占められるような、不思議な歌声。

 僕は一曲歌い終わった彼女に、小さく拍手をした。

「あ、その音。手で出してたんだ。クラシックの曲が終わったときとかに聞こえるやつ、何かと思ってたんだ」

「拍手っていうんだよ。すごいな、と思ったときに、人を讃えるときにやるんだ」

「なるほど。じゃあ拍手です。君もナイス海鮮塩焼きそば」

 彼女は僕の真似をして小さく拍手をした。


 彼女とは毎日会って話をした。

 午前中はいろんなところを一人で飛び、昼頃にいつもの島に集合して、料理を作る。彼女はどんなものでもおいしそうに食べた。これまでは食事に味をつけるという発想がなかったらしい。料理好きだった僕は、食べてくれる人ができたことが素直にうれしかった。

 午後は彼女と話したり、一緒に空を飛んだりした。並走して飛ぶと他の人間に見つかったときが厄介だから、僕の飛行機の中に乗せて飛んだ。

 彼女の飛び方は不思議だった。尾ひれを泳ぐように動かせば、宙に浮く。どうやって浮力が発生しているのかわからないが、あまり深く考えないことにしていた。

 僕は物理学者じゃないし、生物学者でもない。ただの飛行機乗りだ。一緒に飛んでくれる子を見つけた、幸福な飛行機乗り。

 確かに僕は、この日々に幸福を感じていた。

 お互いにひとりだったのもある。

 ひとりとひとりが身を寄せ合って、穏やかに過ごすというのは、とても心地の良いものだった。

 彼女は性格もおだやかだった。好奇心旺盛で、人間の生活や風習になんでも興味を示す。

「これにもあるの? 名前」

 浜辺に落ちていた貝殻を拾い上げ、彼女は言った。

「貝だね。種類はわからないけど」

「ふーん。これを貝って呼んでるんだ」

「君は今までなんて呼んでたの?」

「硬くて開くやつ」

「違いないね」

「でも貝の方が呼びやすいよ」

「そういえば海藻はなんで名前を知っていたんだい」

「N○Kラジオ高校講座、生物基礎」

「好きだね、N○K」

「好き。世界のことをよく教えてくれるから」

「N○Kラジオの人に聞かせてあげたい言葉だよ」

「今度言っといて」

「機会があればね」

 彼女との日々を考えると、なんとしても他の人間に見つかってはいけないという思いが日に日に強くなっていった。

 見つかれば大ニュース、SNSを通じて一瞬で世界中に広まり、世紀の発見としてもてはやされるだろう。そのあと彼女がどういう扱いを受けるかは、嫌な想像しかできなかった。

 実験動物。解剖。不老不死の噂。研究動物になってしまうのは間違いない。人語を解すからといって、人権を守られるとは限らない。

 そのことは彼女も理解しているのか、近くに船や飛行機があるときは彼女は遅れてやってきた。人間に見つからないように生きてきただけあって、警戒心はそれなりにあるらしい。その割に僕には心を開き過ぎだから、少し心配ではある。

 彼女とこの先どうなるかはわからなかった。夏季休暇は、まだ1ヶ月ある。

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