07.雪葡萄
翌朝、私は記憶を失ってから初めてダイニングルーム──と呼ぶにはいささか広すぎる部屋──で朝食を摂ることになった。
怪我をしたり熱を出したりしていたせいもあって、ずっと自室で食事をしていたから、ちゃんと食卓でご飯が食べられることを楽しみにしていた……のだけれども。
5メートルぐらいはあろうかという長いテーブルに、置かれている料理は一人分だけ。
まさかね、と思いながら椅子に座って、自分以外の人間が来るのを待っていたのだが、一向に部屋の扉が開く気配はない。使用人たちは壁際に立って、石像のように気配を殺して黙ったままだ。時計の針がカチカチと進む音だけが響く時間に、とうとう耐えられなくなりおずおずと手を挙げて執事長に問いかける。
「あのー……もしかして私ひとりですか……?」
「ええ。気にせずどうぞお食べになってください」
キリスと名乗った執事長は、比較的若い見た目に反して使用人たちの中で1番地位が高いようだった。声を張っている訳ではないのに、部屋の隅までよく通るテノール。上品な身のこなしと立ち姿。一目見ただけで“プロ”だと分かる。テーブルマナーでも間違えようものなら、手を叩かれるのではないか──と、少し怯えたけれど、言われるままに出されたパンをちぎって食べ始めても、特に何も言われなかった。よかった。
再び、しん……と静まり返った室内に、気まずさを感じてもう一つ質問をする。
「領主様は……?」
「討伐に出ております。最近、魔物たちが人里に降りてくることが増えたので」
「ま、魔物……」
魔物がいるタイプの異世界なのか。じゃあ魔法とかもあるのかな。アベリアが魔法を使えたという話は聞いていないから、あったとしても私は使えないかも……。少しばかり残念である。
それにしても、
「領主様みずから討伐に行かれたんですか? 危険なんじゃ……」
「精鋭部隊も一緒なので心配はご無用です。……それにこのグランクレストにおいて、旦那様より強い方はおりません」
キリスの口ぶりからは、相当な自信と畏敬の念が感じられた。
そんなに強いんだ……。
昨日、訓練場で見た彼の姿を思い出す。確かに、鍛え上げられた身体だった。胸板も分厚くて、腕も太く逞しい──いけないいけない。熱くなった頬をペシペシと挟むように叩く。痴女か。正気を取り戻せ。
気を紛らわすようにじゃがいものスープを啜った。料理の味付けは全体的におとなしめだが、しっかりお腹に溜まるメニューになっている。腹が膨れると体温も上がって、力が湧いてくるようだった。
「……領主様はちゃんとご飯食べたのかな」
「昨日からお戻りになられていないので、分かりかねますが……旦那様のことが気になりますか?」
私の質問に答えるばかりだったキリスが、そこで初めて疑問を投げかけてきたので、思わず彼のほうを振り仰ぐ。
「まあ……朝ごはんはちゃんと食べたほうがいいと思うし。それに、こんな広い食卓で1人で食べるっていうのも、勿体無いと言いますか……」
私は思ったことをそのまま発しただけだったが、キリスはどこか困惑しているような、言葉を選んでいるような、なんとも言えない顔をしていた。それから、少し言いづらそうに口を開く。
「……時間があっても、旦那様は奥様と食事は摂られないかと。奥様のご希望で、食事はずっと別々でしたから」
またか──!
思わず頭を抱えてしまう。確か、寝室が別々だったのもアベリアの要望だった。どんだけ彼を避けていたんだ私は。
はあ〜〜と深い深いため息をつく。領主様のご両親は見た感じいないようだから、この広すぎる食卓でご飯を食べるのは、彼と私だけということになるか。以前のアベリアは強メンタルの持ち主であったようだが、今の私にとって、大勢の使用人たちに見守られながらの一人飯はかなり居心地が悪い。あと、どことなく胸の辺りがスースーする。
──近づくなと言われたけれど、本当にこのままでいいんだろうか?
記憶が戻ったら、私は彼に今度こそ殺されるのかもしれない。
かといって、ここから逃げ出して一人で生きていくだけの力はない。
だったら今のうちに彼と仲良くしておいて、“やっぱり殺すのは惜しい“と思わせるのはどうだろう……?
少しぐらい、情状酌量の余地をもらえるかもしれない。せめて穏便に、離縁するぐらいで済ませてくれるかも。
……よし。これだ!
「キリスさ……キリス。領主様の好きな食べものって何?」
「……雪葡萄でしょうか」
「雪葡萄?」
「見た目は真っ白な葡萄なのですが、その果汁には酒精が含まれておりまして、絞るだけで酒が出来上がる果実です」
「ふうん……厨房にある?」
「いえ。雪葡萄は1日もすれば傷んでしまうので、料理に使うことはほとんどありません」
「そっか……どこで採れるの?」
「ここら辺だとクレダの森でしょうか」
テンポよく答えてくれたキリスは私の質問の意図を図りかねていたようだったが、そんな彼の訝しげな視線もお構いなしに素早く残りのご飯を食べ終えて、足早に自室へ戻った。
「ミア! 雪葡萄を採りに行きましょう!」
ベッドを整えていたミアは、勢いよく扉を開けて帰ってきた私をぽかんと振り返ったのち「ええっ!?」と驚きの声をあげた。
「いきなり……どうなさったんですか? 突然雪葡萄だなんて……」
「領主様の好物だって聞いたから。ミア、私ね……領主様と仲良くなりたいの」
ミアに近づき、その手をとって懇願するように見つめる。彼女は私の言葉に再びぽかんと口を開けて、それからわなわなと震え出した。その大きな双眸がみるみる感激に潤んでいく。
「奥様っ……分かりました! 喜んで協力させていただきます!」
私たちは、ガシッと強く手を握り合った。いざ、雪葡萄狩りへ──!
クレダの森は、城下町とは反対側、城のすぐ近くにある森だった。空は相変わらずの曇天だったが、雪は降っていなかったので、徒歩で向かう。ミアの話によると、クレダの森は唯一使用人だけで入れるぐらい安全な場所らしい。どちみち護衛を頼もうにも、今は動ける兵士のほとんどが討伐任務にあたっているそうで、とても声をかけられるような雰囲気ではなかったと言う。
「いつもはこの辺りの木に生っているはずなんですけど……」
森に入ってから少ししたところで、ミアが頭上を見上げ雪葡萄を探す。私も彼女にならって木々を見上げたが、雪を被った枝が見えるばかりで、果実らしきものは生っていない。もう少し捜索範囲を広げたほうがいいだろう、ということでミアと分かれて探すことにする。真っ白な葡萄だというから、雪に紛れて見つけづらいのかもしれない。
「……あ! あった!」
よくよく目を凝らしながら歩いていると、ようやくそれらしいものを一つ見つけた。木の幹の出っ張りにうまく足を乗せて登り、手を最大限伸ばしてどうにかもぎ取る。見た目は完全に葡萄だった。とりあえずそれを傷つけないように、持っていた肩掛けカバンの中へ入れる。他にもないだろうかと歩き出し──ふと、雪の上にも雪葡萄の粒が落ちていることに気がついた。
そのすぐそばに、獣のような足跡が残っていることにも。
嫌な予感がする。脳が警鐘を鳴らすのと同時、甲高い悲鳴が森に響き渡った。
「──ミア!?」
悲鳴がしたほうへ急いで駆け出す。程なくしてミアの姿が見えたが、尻餅をついた彼女の目の前には、見たこともない異形が立っていた。
それは、白く長い毛に覆われた猿のような生き物で、成人男性ほどの大きさがあり、背中には毛と同じ色の羽が生えている。威嚇するように剥き出しになった歯は鋭く、一度でも噛まれれば骨ごとごっそり持っていかれそうだった。
あれが、魔物。
足がすくむ。一気に血の気が引いた。
どうして──この森に魔物は出ないはずじゃ?
どうすれば──助けを呼ぶ?
いいや、間に合わない──どうする!?
魔物が、長い腕でミアの足を掴んだ。泣きじゃくるミアの声が聞こえる。──たすけて。その言葉に、ドンッと背中を押されたような気がして、私はそのまま走り出した。ミアのほうではなく、魔物に対して横から思い切り体当たりを喰らわす。
不意打ちを喰らった魔物はふらつき、そしてその足元が崩れた。よく見えていなかったが、傍は小さな崖になっていたようだ。魔物は転がり落ちていくかに見えた──けれど、咄嗟にその長い手を伸ばして私の腕を掴む。
「っ!?」
「奥様!!」
視界が回る。ミアがこちらに手を伸ばしていたようだったが、ろくに抵抗もできず、魔物と一緒に雪の上を転がり落ちていった。つい最近も、こんな風に崖から落ちたような……。
「いっ……たた……」
幸いにも今回はそう高い崖ではなかったのか、頭を打って気絶せずに済んだ、がしかし。
「ヴヴヴゥ……」
「ヴヴ……」
身体を起こす頃には、魔物の数が増えていた。2、3体どころではない。それは、群れと言っても過言ではない数だった。崖の上でミアが叫んでいる。だめだ、声を出しては。彼女のほうへ魔物が集まってしまう。無意識に手が腰の辺りに伸びたが、そこには何もない。何対もの真っ赤な瞳が、私を捉えている。魔物の唸り声に聴覚が支配される。今度こそ動けない。今の私には、何も、できない──
その時、耳元で風を切る音がした。
「ギャアアアアオ!!」
次に断末魔。私に手を伸ばそうとしていた魔物の胸に、鋭い氷の刃が突き刺さっている。
はっと我に返って振り返ると、黒い馬が嘶きと共に鬣を揺らし──そこに跨った男の、金色の瞳と目が合った。
「領主、さ」
私はそれ以上、声が出なかった。なぜなら、みるみるうちに、シオンの周りに数えきれないほどの氷の刃が出来上がっていくのが見えたからだ。
「伏せろ」
その低音に引っ張られるようにして地に伏せると、空気を切り裂く音と共に魔物たちの悲鳴がこだました。
それからどのぐらい経っただろうか。魔物たちの声が一切聞こえなくなってから恐る恐る顔をあげる。実際はおそらく10秒も経っていなかっただろうけれど、ずっと長い間縮こまっていたかのように身体が強張っていた。
「うそ……」
そして目の前に広がる光景を目にして、茫然とした声を漏らした。先ほどまであんなにたくさんいた魔物は、一匹残らず急所を氷に貫かれ絶命している。真白な雪が魔物の血を吸って、真っ赤な絨毯が敷かれたようだった。
なんと無慈悲で、圧倒的な力。これは、
「魔法……? すごい……」
「……今度は何のつもりだ」
声がしたほうを振り返る。馬上からこちらを見下ろしている男は、これまでと変わらず冷たく淡々としていたけれど、その額にはうっすら汗が滲んでいた。もしかして、急いで馬を走らせて来たのだろうか。
「ここから逃げ出したいのなら……次はせめて、武器ぐらいは待っていくんだな」
違う、と言い返そうとしたけれど、それより先にシオンは馬首を返してしまう。
追いかけたくても、腰が抜けていて立てなかった。
やがてシオンと入れ違いになるようにしてやってきた兵士たちが、慌てた様子で駆け寄ってきて、彼らの手を借りてようやく立ち上がることができた。ミアも合流し、互いの無事を喜び合う。
「お二人とも、本当にご無事で良かった……!」
兵士の中でも、一際安堵した表情を見せたのは副隊長のアルフという青年だった。副隊長というには線が細い、濃い緑色の髪をした若者だ。
「任務帰りに突然、領主様がすごい勢いで走り出すから何事かと思いましたよ……」
アルフの馬に乗せてもらいながら、その言葉に先ほどのシオンの姿が頭をよぎる。本当に、急いで来てくれたのか。でも、どうして?
「……それにしても、こんなところにまでノフケルが現れるなんて……一体、何が起こってるんだ」
森から立ち去る際、そんなアルフの呟きが聞こえた。