05.命乞い
アベリアの寝室から、訓練場までは少し遠かった。
また熱を出してはいけないからと、ミアに何枚も毛皮のケープコートを着せられ、少々重たくなった身体で城内を歩く。
そういえば夫婦なのに、寝室は別々なんだね?とミアに聞いてみたら、「1年ほど前に奥様のほうから別室を希望されたんです」と返ってきた。不仲な夫婦にありがちなやつだ。
まあ、今の私にとってはありがたい。突然よく知りもしない男性と共寝だなんて、気まずいことこの上ない。たとえそれが絶世の美青年であったとしても。
「……でも、寝顔は本当に綺麗だったなぁ……」
朝の日差しの中、椅子に座って眠っていたシオンの姿を思い返す。朝起きて、あの顔が隣にあったらさぞ眼福だろう。ただし、目を覚ませば氷の刃みたいな声が飛んで来るわけだけれど。
不倫疑惑の話を聞いたせいで、かなり気が重い。深いため息を吐くと肋骨が痛んだ。
城の中は静かで、見張りの兵士も少ない。グランクレストではほとんど毎日雪が降っているらしく、そのせいかどことなく薄暗くて、どんよりとした空気が漂っているように感じた。
時折すれ違う使用人たちは、私の姿を見ると立ち止まって頭を下げる。それに対して思わず私も反射的に頭を下げてしまった。使用人たちは驚いた顔をしていて、おかしなことをしたと気づいた私は逃げるように歩調を速める。
やがて、ミアに教えてもらった通りの道順で、どうにか訓練場まではたどり着くことができた。
訓練場というからには野外を覚悟していたが、悪天候な土地柄ゆえか石造りのしっかりとした建物だったので安心する。
なんとなく堂々と入っていく勇気はなくて、なるべく音を立てないように扉を押して中へ入ると、近くの柱に身を隠しこっそりと屋内の様子を窺う。
至るところに置かれた松明のおかげで中は明るかった。壁際にはずらりと様々な武器が立てかけられていて、地面は板張りではなく土になっており、訓練用の案山子らしきものがいくつか刺さっている。
その空間に、人の気配は1人分しかなかった。
松明の灯りを反射して鈍く光る銀色の剣。それを振るう腕は不健康なまでの青白さであるのに、バランスよくついた筋肉や、二の腕にうっすらと浮かび上がる筋がそうと感じさせない。分厚い胸板や綺麗に割れた腹筋、そこを流れ落ちる汗まで、全てが芸術品のように美しく、艶やかで──
って、なんで上半身裸なの!?
半裸で鍛錬していた夫に対する動揺のあまり、ゴツンッと柱に頭をぶつける。
「いだっ!」
まだ怪我が完全に治っていないこともあり、かなり痛い。
涙目で頭をさすりながら慌てて顔を上げた時には、目の前に雪像が立っていた。
もちろん本物の雪像ではない。
「お、おはようございます……」
「何をしに来た。寝ていたのではなかったのか」
私を見下ろす男の双眸は、相変わらずキンキンに冷えている。こうして正面から向かい合ってみると、より一層威圧感がすごかった。彼のほうが頭ひとつ分背が高かったが、鍛え上げられた肉体はさらに彼を大きく見せている。
今の私はまさに、蛇に睨まれた蛙だ。熱は下がったはずなのに寒気がしてきた。
「ええっとですね……」
シオンの問いにも思わず目を逸らし、口籠ってしまう。ここに来るまでの間に何度も脳内シミュレーションして段取りも考えていたはずなのに、いざ唸るように低い声で尋ねられると言葉が出てこない。
「もしや命乞いか?」
「なぜそれを!?」
鋭い指摘にぎくっと肩がわかりやすく跳ねた。
勢いよく顔を上げ満月に似た瞳と目が合うと、ばつの悪さを感じて再び視線を逸らす。
「………本当に命乞いをしに来たと?」
信じられないものを見たかのような訝しげな声が落ちてきた。
以前のアベリアは、話に聞く限りとても強い女性だったみたいだし、きっとこんな情けない姿を彼に見せたことはなかったんだろう。
けれど、ここにいる私はなんの力もない、ごくごく普通の一般人なので。
「その……実は私、記憶喪失なんです!」
非力な人間にできるのは、正直に話すことだけだ。
しかし、その瞬間一気に周りの温度が下がった。屋外に放り出されたかと錯覚するほど、足元から冷気が迫り上がってくる。
思わず彼の顔を見上げると、同時にその唇が動いた。
「──お前がそのような見え透いた嘘をつくとは」
声色は相変わらず氷の如く冷たい。けれど少しだけ、自嘲するように彼の頬が引き攣った気がした。
「落ちるところまで落ちたな。……それほどまでに、この場所が嫌か」
貶されているのは私のほうなのに。それ以上に、彼のほうが傷ついているように見えたのは、錯覚だったろうか?
小さな違和感を覚えるが、その正体を追いかけている余裕はない。
ここで引き下がってなるものかと、勇気を振り絞って一歩踏み出す。
「嘘じゃありません! 自分の名前もあなたのことも、全部忘れてしまってて……浮気のことも全く覚えてないんですよ!」
「──近寄るな」
その言葉が合図だったかのように、彼を中心として地面が凍っていく。しかし、シオンの顔を見上げていた私はそのことに気が付かず、ただただ必死に2歩目を踏み出した。なんせ、命がかかっているのだ。
「私も知りたいんです! 私が本当に浮気をしていたのかどうか」
もう一歩を踏み出す。
「だから私のことは殺さないで──ぎゃっ!?」
つるんっ。そんな効果音が聞こえそうなほど、見事に足が滑った。
そして、ごつんっと大きな音が訓練場に響き──
「──アベリア!?」
最後に聞いたのは、冷たいばかりだった彼のひどく焦った声だった。
***
「まさか、あのアベリア・ロデ・ユーキフォリアが受け身のひとつもとれないとは……」
「……記憶喪失という話は、本当のようだな」
信じてもらえて嬉しいはずなのに、顔が燃えるように熱くて仕方ないのはなぜでしょうか──?
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。足を滑らせて気絶するなんて。
アベリアに憧れている全国民の皆様に思わず心の中で謝罪した。
みっともない姿をお見せして申し訳ありませんでした。
寝室のベッドの上に逆戻りした私は、両手で顔を覆いながら呻いた。
強かに打ちつけた後頭部にはたんこぶが出来ている。
そばの椅子に腰掛けているシオンは、いつの間にかきちんと服を着込んでいた。
彼は妻の様子に困惑の表情を浮かべながら問いかけてくる。
「………いつからの記憶がないんだ」
「ええっと……残念ながらぜんぶ、です……」
「……そうか」
それから少しの沈黙。
何を考えているのか気になって、両手をずらし彼の顔色を窺う。シオンはずっと私のことを見ていたようで、思いきり目があってしまった。どきりと心臓が跳ねる。
するとシオンは大きく息を吐いて、肩を落とし、眉間に深く刻まれた皺を撫でた。
「……わかった。此度の沙汰についてはお前の記憶が蘇るまで保留とする」
「え、ほ、本当ですか!?」
ガバッと勢いよく上体を起こす。ぐわんと頭が揺れたが、今聞いた言葉を逃すまいと身を乗り出した。
そんな私にますます困惑の色を深めつつ、シオンは立ち上がってこちらを見下ろす。
「保留とするが……」
「いいか、無闇に俺に近づくな。記憶がないのならなおさらだ」
突き放すような台詞は、また気絶する前の冷たさに戻っていた。
嫌われてるなぁ……。
背を向けて部屋を出ていくシオンを見送る。
先ほど訓練場で見た、傷ついたような彼の表情がしばらく頭から離れなかった。