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01.長い冬の始まり

特にこれといって、大きな不幸も、大きな幸福もない人生だった。



「──さん、残念ながら、ステージ4の胃がんでした」

「残された時間はおそらく、3ヶ月ほどでしょう……春まで持つかどうか、正直わかりません」



身体に違和感を覚えて病院へ行ってみたら、余命宣告をされてしまった。

今年で29歳になる。世間一般的に見れば、若い部類に入るんだろう。

特に不摂生をしていたわけではないのだが、祖父も同じ病気で亡くなったし、もしかしたらそういう家系なのかも知れない。


両親にはなんと言おう。

離れた場所で暮らしているが、別に家族仲が悪いというわけではない。きっとそれなりにショックを受けるだろう。

去年結婚した3歳下の弟は、そろそろ第一子が生まれる。顔を見られるかは微妙なところだ。

幸い、私自身には夫も彼氏もいない。


それどころか、趣味もなければ夢もなかった。

学生時代は真面目に勉強もして、そこそこ名の知れた企業に就職したが、それだけ。

休日はテレビを見ながらだらだら寝て過ごす。

楽しみといえば、たまに飲むお酒ぐらい。



平々凡々な人生。



そんな平々凡々な人生だったとしても。



──あと数ヶ月で終わりというのは、あんまりじゃないか。




「……なんて。ぶっちゃけ実感ないからなんともだけど……」


注射を嫌がる子供の泣き声を聞きながら、病院を後にする。

虚しさや悲しさなどは、まだ湧いてこない。

子供の頃飼っていた愛犬のリリーが死んだ時も、涙が出てきたのは1週間ほどが経ってからだった。


今、私の中にあるのは「このまま終わっていいのか?」という謎の焦燥感だ。

せめて、誰かの記憶に残るような人生を送りたい。

例えば、子孫を残すとか──いや、3ヶ月で子供を作るのは無理か。彼氏を作るのでさえ難しいだろう。

例えば、何かの賞に応募するとか──そんな秀でた才があれば、今こんなことで悩んでない。


はあ、と深いため息を吐けば、空気が白く染まった。

家までは歩いて10分もかからない。平日、お昼時を過ぎているからか、人もまばらだ。

ベージュのトレンチコートのあわせをかき寄せながら幹線道路沿いを歩いていると、視界の端に白いものが映った。


初雪だ。


灰色の空からはらはらと舞い降りてくるそれを目で追って、捕まえようと手を伸ばした。

この冬が終わる頃には、自分はもうこの世にいない。

桜の花びらと違って、手のひらで瞬く間に形を失っていく雪のかけらが、少し憎くなった。


感傷に浸りそうになったところで、ふと顔をあげると、目の前の道路に金髪の少女が立っていた。

とても美しい女の子だった。外国人だろうか。

彼女はただ、その青い瞳でじっと私のことを見ていた。

しばし、その瞳に囚われたように動けないでいたが、車が走ってくる音がしてはっと我に返る。

大型トラックがスピードを上げて向かって来ている。

目の前に少女が立っているのに、ブレーキを踏む気配が微塵もない。



──危ない! 轢かれる!



私は、迷いなく走った。

あんなに目立つ場所に立っている少女に、トラックの運転手はなぜ気づかないのかとか、少女もなぜ逃げないのかとか、そんなことを考えている余裕はなくて。


これが、今の私にできることだと思った。

どうせ死ぬなら、誰かを助けて死のう。


次の瞬間、身体に大きな衝撃が走る。

弾き飛ばされ、宙に浮く感覚があって、そして──







──ドサッ、と落ちた。

地面は柔らかく、冷たかった。


そこが雪の上であると気付いたのは、3回ほど息を吸って吐いたころ。

仰向けに倒れた身体を動かそうとしたが、全身が痛くて力が入らない。

なぜ雪の上に倒れているのだろう。雪は降っていたけど、積もるほどではなかった。


そういえば、あの女の子は……?


どうにかこうにか、顔だけを動かして辺りを探す。



……いない。

女の子どころか、人っこ一人いない。

というか、私を轢いたはずの車もなければ、電信柱や自動販売機、街路樹や雑居ビルも無くなっていて。

代わりに、海外映画で見るような大きな樹が何本も立っている。


……森?


木々には雪が積もっていた。その他、視界に映る景色は全て真っ白。

あたり一面、雪景色だ。29年生きてきて、こんな光景は初めて見る。

どくどくと、鼓動が早まるのがわかった。息を吸うたび、空気の冷たさで肺が凍りそうになる。

手足の感覚が曖昧になっていた。今さっきまで別の場所にいたのに、まるで何時間もここにいたかのようだ。

みしみしと骨が軋むのに耐えながら、右手をやっとこさ持ち上げる。

黒い革手袋をはめた手には、銀色のチェーンが握られていて、そこに通された銀色の指輪が目の前でゆらゆらと揺れた。見覚えのない指輪だ。

さらには、自分が着ている服も見覚えのないものに変わっていることに気がついた。

腕を覆っているのは、ワインレッドの布地。袖にはフリルがあしらわれている。

こんな服、着ていなかったのに。


誰か近くにいないかと、腹に力を込めて声を出そうとする。しかし出てくるのは乾いた咳ばかりだ。

血の味がしてきた。肋骨が折れているのか、息をするたびに苦しい。

下ろした腕が、降り積もった雪に埋まる。


ここが天国だというならば、こんなに身体が痛いわけがない。

見上げた空は黒く、それでいて澄み切っている。見たこともない数の星が瞬いていて、大きく丸い金色の月がこちらを覗き込んでいた。

自分の吐息以外、一切音がしない。静寂──





寒い。




痛い。




苦しい。





──怖い。




急に、死が間近に迫ってくるのを感じた。



いやだ、死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない!



私はなんてばかなことをしたんだろう。

たった3ヶ月だったとしても、最後まで必死に生きるべきだった。

死はこんなにも、孤独で、恐ろしいものなのに。


ひゅーひゅーと隙間風のような呼吸を繰り返す。



誰か、誰かいないの?

たすけて、おねがい、誰でもいいからたすけて、





──その時不意に、ざくざくと雪を踏みしめる音が聞こえた。間もなくして、自分の上に影が落ち、視界が一層暗くなる。


逆光の中で見えたのは、月の光を反射して輝く銀色と、満月と同じ色をした一対の瞳。


私は咄嗟に、重たい手を伸ばした。

ただただ、死にたくなくて、必死だった。




「た  す けて」




ごぷり、口から赤い液体が溢れる。目の端から熱いものが流れ落ちた。


意識を失う直前、冷たい何かに、力強く手を掴まれた──気がした。



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