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あきのよぞらにきみしにたもう

作者: 紺野深月

記念日だというのに、家を飛び出してしまった涼太は、まだ帰ってこない。


いや、帰ってきたとしても、記念日のディナーなんて用意していないし。プレゼントも、ありがとうの手紙も私は用意できなかった。だって、涼太は今日の晩、帰ってこない気がした。


秋口通りの雨で、濡れたアスファルトの上を車が通る音がする。二人暮らしのアパートは、大通りに沿っている。

シャ、シャー…と、滑るタイヤの音。一人きりの部屋には、嫌に響いた。車の走る音なんて、だいっきらいだ。


昨日はいつも通り、一緒にベッドに入ったけれど、指一本も触れてくれなかった。

私が人差し指で、涼太の背中をなぞる。付き合い始めたころは、そうしたら「なんだよ、」とぶっきらぼうに振り返ってくれていたのに。

暗い部屋で、涼太の顔を照らす液晶には、「合コンあるけど、来いよ」というメッセージが入っていた。

まさか、本当に行ってしまうとは思わなかった。

ありえない、あのクソ男!!

…そんな風に癇癪を回してもいいんだろうけど、もうそれが出来るほどの元気はない。涼太とただ長い時間を浪費して、感情だって薄れてきてしまう。薄らと暗い、執着になりかけている嫉妬心が、ふつふつと湧いている。


寝室のサイドテーブルには、二人の写真が飾ってある。その前には、ドライフラワー……と、言っても、生花が枯れて乾き切ったものが添えられていた。添えられているのが、かすみ草でよかった。

かすみ草は、勝手にドライフラワーになれる数少ない花だ。小さな花は枯れても腐って落ちずに、上を向いている。下を向いて、惨めな私とは反対に…なんて、詩的なことを考えて、ちょっとキモいな私。


なんだかヤケになってきた。涼太の携帯を盗み見たから、合コンのある居酒屋の場所は知っている。私の頼りない足は、自然とそこを目指していた。




ーーいた。


小洒落たイタリアン居酒屋に、カウンター席にいる私には気が付かない、頼りのない背中。

なんでこんなに頼りなく見えるんだろう。同世代の中に混じる涼太は、痩せているけれど肩幅はしっかりしているし、上背は高い。うまく収納できずに開いてる足は、隣の膝と近くて、やきもきする。

もう席替えが行われた後のようで、涼太の隣には、ピタッとしたリブのニットに、緩やかに巻いたポニーテールと揺れるピアスがあざとい女が座っていた。


「え〜、そうなんや!涼太くんも野球とか見るんやね!ウチ、鷹ガールなんよ〜」


間延びした喋り方、あざとい方言。もう顔が見えなくてもわかる、嫌いなタイプの女だ。

なんだその首の座ってない相槌は!と思ってしまうほどのゆるゆるとした動き。きっと同性だけならば、ワントーン低い声で、首は大して動かないはずだ。

それに鷹ガールと言っているけど、絶対に野球の試合よりもインスタグラムを見ているやつ。あざといブカブカのユニフォームを着て、周東選手かっこいー!とかそんな投稿を載せるんだ。


「佐伯さんそれ俺の、」

「えっごめん!間違って飲んじゃった……あ、佐伯さんやなくて、ゆきちゃんって呼んでっていったやろ?」

「いや、それは…」

「ゆきちゃん、ね。」


涼太の焦りっぷりを見て、女慣れしてないのが見え見えで恥ずかしくなる。勿論イライラもするし、情緒は不安定だ。涼太の肩に、ゆきという女の指先が触れる。カッとなると同時に、諦めのような気持ちがほんのりと滲む。そんなふうに、甘やかに触れることは、私にはできない。


付き合う前から付き合いたてのころは、私は涼太の肩を叩くだけでも緊張していた。ぎこちなく肩をトントンと2回叩いて、涼太は恐る恐る振り返る。その耳の辺りには血液が集まっているのが見て取れて、それが私にも感染って。そんな頃が確かにあったのに。


今は、涼太へと触れた私の手が、透明人間のように、掠めるだけ。涼太はきっと、私が指先を彩ったところで気が付かない。だって、触れても、反応してくれないようになってしまったから。軽く後ろを振り返って、スマホへと視線を戻す涼太の背中に、なんど悲しくなっただろう。


「涼太くんって、ぶっちゃけ経験人数何人くらいなん?」

「っえ、なにその質問…」

「いや、合コンでありがちやん。」

「涼太はドーテーだからなぁ。」


ゆきがわざとらしく吹き出して、かわいーなんてゲラゲラ笑う。実際、涼太は童貞だ。厳しい祖母に育てられたせいで身持ちの固い私に、「お互いに二十歳になるまではダメ。」なんて言われているから。今思えば、身体の一つや二つ、早く許せばよかったと後悔している。そうすれば、こんな風に涼太が合コンに行くことだってなかったかもしれない。私だけで満足させられていたかもしれないのに。


「彼女とか、いたことないの?」


ゆきが無邪気に笑いながら言う。涼太の友達が、「ないよ、ないない!」と、涼太が答えるのを遮るように言った。あの友達は、私と涼太が付き合っていること知ってるはずなのに。嘘が上手くない涼太が、ボロを出さないようにだろう。腹立たしい。涼太はヘラヘラと笑っていた。


「そろそろ、お会計しようよ。ラストオーダーしてたものも届いたでしょ?」


女子メンバーの、さっぱりとした印象のあるショートカットの子が言った言葉を機に、男子たちが財布を出していた。女子達は最初は財布を出していたけれど、かっこつけたい男のサガに甘えて、最終的に財布は手に持つアクセサリーと化していた。ゆきの財布は、クロエのチャームがついたベージュのもので、それもなんとなくあざとい。自分の、あざとさも何もないコーチの紺色の財布が恥ずかしく感じた。涼太が他の女の子に奢っている姿を見ると、自分の価値が揺らいでいる音がした。ギィ、と測りが傾くような、そんな耳障りな音だった。


「記念日…」


今日は、私との大切な日なのにね。

私も少し遅れたタイミングで店を後にした。店をでて、少し離れたところで、合コンのメンバーがたむろをしている。2次会の予定でも立ててるんだろう。伸ばした髪をカーテンのようにして、俯いて、道の端を歩いた。


ーー帰ろう。


早歩きで帰路へつく。曲がり角を右折した先に、見慣れた背中ともう一人。


涼太と、ゆきだった。


ゆきは、涼太の腕に手を回している。寄りかかるような、ベタベタした二人の歩き方は、私なんかよりもずっとカップルみたいだ。ヒールのあるゆきの靴、華奢なストラップの留め具が、街頭に照らされて光る。

私は、もうあんな輝きを見にまとうことは、できない。

涼太、お願いだから私のことを忘れないで。

私と、愛し合っていた日々をもう一度思い出して。もう一度、私に触れて。

その優しい声で、私を読んで。

してほしいことは沢山あって、求めてばかりのこの腕は、涼太に何もしてあげることができない。


できないことばかりの自分が嫌になって、元来た道をもどって、別の曲がり角を右折した。

走って、走って、涼太と違う道を辿り、先に家に着いた。鍵を閉めて、自室に篭った。靴箱に片付けたられた靴は、きっと私の存在を涼太には伝えてくれない。

帰宅したらすぐに手を洗うのが習慣だけれど、鏡に自分の姿を映したくなくて、何もできずに座り込んだ。


ーー「ただいま。」

涼太の声に、返す声はない。ゴソゴソと玄関で靴をぬぐ音がする。聞き慣れた音が、いつもと違う。

コツコツと玄関のタイルを鳴らす音。カチャ、と金具が外れる音がして、いつもよりも多い足音がした。


「…けっこー、綺麗にしてるんやね?」

「たまたま、今日掃除しただけ。」


お邪魔します、と言いかけた声が、くぐもった。

湿った音がして、んん…とゆきの鼻にかかるような声に代わった。


「家来たってことは、そーゆーことって勘違いしていいの?」

「初めてなんやろ、優しくしてあげよっか?」

「…うるさい。」


シャワー、浴びてくれば?と、涼太が言った。

私が急な雨に濡れて帰った日に、言ってくれた優しい響きではなくて、突き放すような…それでいて知らない色を纏うような響きがあった。

ゆきが、礼を言ってそのままバスルームへと言った気配がした。


このアパートは、二人暮らしにちょうどいい間取りが魅力だった。壁がそこまで厚くなく、どの部屋にいても相手の気配を感じられるのも好きだった。そん温もりが、今こうやって私を突き刺す。


ベッドがある部屋へ、涼太は入っていく。サイドテーブルにある、二人の写真を引き出しの中へ入れたのがわかる。生花だったはずのかすみ草が、ドライフラワーになっているのに気がついてくれたらいいのに。

それが、二人の関係を顧みなくなった証拠のようで、いつか「気づいてる?」とたずねたくて、そのままにしている私の性格の悪さがカタチになったようなそれを。

シャワーを交代に浴びに行った涼太は、今どんな気持ちなんだろう。ここで出て行ったら、焦るのかな。


恐れていたことが、始まってしまった。


涼太が、湿っぽいキスをゆきの身体へと降らせていく。

一つ、また一つと、その音と体温を思っては、身体が震えた。私とは、したことのない触れ合いを、別の人とするんだね。

涼太は、降ろされたゆきの髪を、慣れた手つきで右肩に流した。きっと、髪が好きなんだと思う。以前言っていた。「亜季の髪が好きだな、長い髪ってよくない?なんか、女子って感じがする。」言われたのは、付き合う前で、高校生の時だった。お互いなんとなく好意は感じているけれど、あと一歩を大切に見極めているあの時に。言われた言葉を、私は味がしなくなっても大切に反芻している。それからだよ、ずっと髪をロングに保っていたのは。たまにアレンジもして、可愛いって言われるのを待っていた。涼太は知らないんだろうけれど。

きっと、知らないから、そうやって別の子の髪を触れるんだろう。

ベッドが軋む音がして、それが徐々に小刻みになっていく。涼太の知らない息遣い、知らない声。

今聞いているそれは、相手が私だったら、違うものになるんだろうか。

小さな間隔で、涼太はゆきへキスを落としていく。そのたびにガラスのヒビが細かく入っていくように、心が傷つくのがわかった。

ただ、一つ救いなのは、涼太がゆきの名前を呼ばなかったこと。涼太とゆきの身体が一際大きく跳ねた。

涼太が精を吐き出して、コトが終わった。丸められたティッシュが、ベッドの傍らのゴミ箱へ捨てられる。項垂れた涼太と反対に、上を向いたままのかすみ草がやけにシュールで、笑えた。


「涼太くんさ、」

「…うん」

「ほんとは、彼女おるやろ?」

「……彼女?いない。」 


うそつき。


「いないよ。」


言い聞かせるような言い方は、私の中のピンとはっていたものにひっかかった。


「洗面所、涼太くんの髪の長さにしては、カールの大きなヘアアイロンがあった。大学生の一人暮らしにしては広いし…同棲でもしてたんやない?」

「女子ってそんなとこまで目いくんだ。」

「正直勘やね。シャワー浴びてる間…ごめんね?部屋の中見回ったんやけど、私物っぽいもんはなんもないけんさー。別れて結構たってるん?」


ゆきが、乱れた前髪を手櫛ですきながら尋ねた。涼太は、ふっと訳もなく笑った。


「全部相手の両親に渡した。形見わけとかするだろうと思って。ヘアアイロンは残ってたんだな、忘れてた。」


なんでもないように言った涼太に対して、ゆきは固まっていた。


「形見わけって…亡くなったの?」

「あぁ。二年前に死んだよ。」


ーー二年前、そうだった。

しょうもない喧嘩をした。一つ歳下の涼太が、大学生になって。浮かれて同棲を提案した。二人で過ごす生活は、それなりに上手くいっていた。


ただ、すれ違いも増えてきた。一緒に過ごすからこそ見えなくなるものもあって、当たり前の感謝とかそういうのを忘れての喧嘩だったと思う。


「涼太なんて、大嫌い。」


出した言葉が引っ込みつかなくなって、家を出て行った。友達の家に行くと言って。それが最後になるとは思ってもみなかった。

いつから、こんなふうに過ごしているのかもわからない。気がついたらこの部屋にいた。涼太に触れても反応がなくて。名前を呼んでも、なに?と返事をしてくれることがなくなって。

気がついたきっかけは、自分の姿が鏡に映らないことと、涼太がいつしかベッドサイドに飾り出した二人の写真の前に、花や食べ物、キャンドルを備えるようになったこと。そして、その度に涼太の頬を滑り落ちていく水滴を、すくうことができなくなったことだ。


ーーあぁ、多分私は、二度と涼太に触れることができないんだ。


ゆきが、涼太の頬に触れる。輪郭をなぞった指先に、雫が伝った。


「大事な人やったんやね。」


堰を切ったように、落ちる雫が増えていく。涼太は力無く頷いた。ゆきが、涼太のことを抱きしめる。きっと、力一杯に。涼太の肩が震えているのを見て、ゆきは何度も抱きしめなおしていた。


「相手は、飲酒運転だった。許せなかった。なんでクソジジイのしょうもないワガママで、亜季が殺されなきゃならねーんだって。」


わずかに開けられた窓の隙間から、秋風がびゅうと吹いた。カーテンがゆらゆらと揺れる。私の心にも布地と同じように波が立っていく。苦しい、嫌だ。なんで。

ゆきの頬に涙が伝った。知らない女に泣かれても、私は何も救われない。なんで、私だったの。そうだった。あの日、一瞬だった。大きくて逃れられない痛みが身体を襲った。叫び声の一つもあげられなかった。きっと、即死だった。最後に大好きな人を思い描くことも、名前を呼ぶことも叶わなかった。


「なんで、死んだんだよ。なんで謝らせてもくれなかったんだよ、ふざけんなよ。死んで、身体は消えたのに。いつまでも思い出だけで居座って。…せめて愛想がつきたころだったら、」


涼太がしゃくりあげながら言った。そうだね、せめてあと少しだけでも生きられたなら。送信ボタンを押せたのなら、涼太に気持ちを伝えられたなら。


「好きだったんだ、亜季が。それだけだったのに、どうして…。」


大切な涼太に、もっと私も伝えたかった。好きだよって。大好きだよって。

ーーもう、それは叶わない。

少しずつ、意識が遠のいていく。あぁ、多分潮時なんだろう。死を完全に自覚して、私はどこに行くのかわからない。だから、最後に少しだけ。

窓の外から、一際大きな風が吹いた。二人が空を見上げる。涼太と目が合った気がした。

私のことを、忘れてなんて言えない。忘れないで、私が涼太のことを好きだったこと。

私は、忘れないから。許さないから。記念日に、他の女を抱いたこと。でも、私はもう居ない人だから。いつか、幸せになって。そして、たまに思い出して。


さようなら、元気で。

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