知らない過去 【月夜譚No.272】
乗馬なんて、したことがない。目の前に連れてこられた栗毛の馬を見上げた少女は、脳裏でどうしようかと戸惑いながら、表情だけは平静を保っていた。
数ヶ月前まで、少女は日本の一般家庭の平凡な女子高生でしかなかった。ところがある日、車に轢かれそうになった猫を助けて自分が命を落とし、気がつくと見知らぬ世界にいた。
これは所謂、異世界転生というやつなのだろう。そう理解はしたが、自分が位の高い貴族令嬢であるという事実を受け止め切れずにいる。というか、自身の端正な顔立ちにどうしても慣れない。
そしてどういうわけか乗馬をすることになってしまい、しかも少女は乗馬が得意なのだという。転生前は乗馬どころか、馬に触ったことすらないというのに。
周囲の視線が居たたまれない。まさか「乗れません」と言い出すこともできず、少女は思い切って手綱を掴んで馬に跨る努力だけはしようと地面を蹴った。
「――あれ?」
意外にもすんなりと馬上に跨ることができて呆気に取られている間に、身体が自然に動いて手綱を操作し、馬が前方に歩き出す。
この身体に前の持ち主の記憶が残っているのだろうか。だとしたら、前の持ち主の魂は今は何処にあるのだろう。
今までは自身の身に起きたことを理解し対処することに精一杯だったが、ふとそんなことに気づく。
少女は思案をしながら、僅かに近くなった透き通るような青空を瞳に映した。