8.ないものねだり
滞在して三日目。潮が熱を出した。きっと背中の傷からきたものだろうと信親さんは言った。
桶の中でぐったりとしている潮を見ていると、今すぐ布団で寝かせてあげたいという衝動が襲う。けれど、水に浸っていなければ鰭が乾いて息苦しくなってしまうらしい。夜なら、浜辺に寝転がって海水を浴びることもできるけど、人目のある昼はそうはいかない。
桶に海水を注ぎ足しながら、私は潮に尋ねた。
「潮、何かしてほしいこととかある?」
ぱしゃぱしゃと背中に水をかけてあげると気持ちよさそうに息を吐いた。絵面は完全に温泉だ。浸かっている人が病人で、桶の中身が冷たい海水でなければ。
しばらく水の感触に浸っていた潮が気怠げに瞼を開ける。そうして、いつもよりあどけない声で言った。
「たまごがゆ」
「卵粥?」
「卵粥……が、食べたいかも、しんねえ」
正直人魚の病人食って何がいいのか見当もつかなかった私は、思っていたよりも一般的な答えが返ってきて面食らってしまった。
確かお米はあったはず。この三日間で多少なりとも家事手伝いをしてきたので、若干の台所事情は把握していた。とは言っても、炊事よりも薪割りの手伝いばかり任されるのだが。なんでも信親さんは大抵海に出ているし、一馬くんはうまく斧を振るえないとかでなかなか薪を作る機会がないらしい。
山でやっている要領で薪を量産していると、大いに喜ばれた。潮だけが遠い目をして、複雑な表情をしていた。
ぱっと台所を見渡すが、卵はない。ここ数日間で見かけた記憶も無い。
私は外で魚を干している一馬くんに訊くことにした。
「棚になければないですね」
「卵粥を潮に作ってあげたいんだけど」
「なら、昼から買いに行きますか?」
ぐっと胸に不快感が迫り上がってきた。卵を買いに行くということは、町に行かなければならない。人通りの多い中を歩かなきゃいけないということだ。
でも、ここは私の不快感よりも、潮の身体の方を優先してあげたい。そうなると、行くしかない。一瞬黙り込んだ私の考えを見透かしたように、一馬くんが言った。
「そういえば、あやめさんの管傘直しておきましたよ」
「えっ、いつの間に!?」
「一昨日の夜に。ふたりともそれどころじゃなかったですし、あのまま置いておいたら流されていたでしょうから回収しておきました」
「あ、ありがとう」
常々思っていたけど、あまりにも出来過ぎじゃないの、この子。私はここ数日で何度、彼にありがとうとごめんを言ったかもう覚えていない。
それぐらい助けられている。彼の力があるから、潮を助けてあげられる。
「昼食の時に、父さんに家にいてもらうよう話をつけておきます。家に潮さんひとりじゃ不安でしょう?ぼくでよければ案内しますよ」
ついに後光が差して見え始めた。
昼食を食べ終えた後、私は一馬くんと一緒に町へ出かけた。
卵を買いに町へ行ってくると潮に言った時、彼は目を丸くして驚いていた。なんというか、長い間一緒にいるけど、初めて見る顔だった。心配と不安をない交ぜにした顔で「大丈夫なのか?」と言われたけど、一馬くんと一緒だと伝えると安心したようだった。
とはいえ、浜辺を通り過ぎて町に差し掛かる頃になると、自然と心臓の音が大きくなる。管傘を深く被り直して、大きく息を吐く。
「卵ってどこに売ってるの?」
「そうですね。ここら辺だと、店を構えているよりかは、町中を渡り歩いて売っていることが多いです。遊郭の近くなんかよく見かけるんですけどね」
「遊郭?どうして?」
「……栄養価の高い食べ物ですから、元気になるんじゃないですかね」
不自然に目をそらされた。
つまり、町中のどこかにいる商人を探して、売って貰わなければならないらしい。とは言っても、さすがに遊郭に行くわけにはいかないので、町中で見つけられることを祈る。
「ちなみに一個のお値段は」
くるりと振り返った一馬くんから値段を聞いた私は、ひっくり返りそうになった。ほぼ自給自足の生活をしている私にとって、何ヶ月分の食費になるだろう。
「ちょ、貯金しておいてよかった」
「足りなければお貸ししますよ」
「そこまで面倒はかけられないよ」
ただでさえ世話になっているのに、金銭まで借りたら頭が地面から上がらなくなる。
山菜や鹿肉を売って貯めておいたお金を抱きしめて、いざ、貨幣社会へ足を踏み出す。というか、山菜や鹿肉を売る時も、潮ってば知り合いに頼むって言ってたけど、もしかしなくても、信親さんご一家のことだったんじゃないの?
「なんだか、自分の無力さを実感するなぁ」
「どうしたんですか、急に」
「いや、なんだか。私って、この見た目だからずっと山に籠もってて、ここまで生きてこられたのは、潮や信親さんたちのお陰で。それなのに、私は自分が傷つくのが怖くて、生きる力だったり、誰かを助ける力を育ててなかったんだなって」
「あれだけ薪と畝を作ってくれたら十分だと思いますけどね」
「でも、卵の買い方も相場も知らなかった。一馬くんがいなかったら、潮に食べさせてあげられなかった」
山での生き方は知っていても、町での生き方は知らない。数日前の私なら、知らなくても構わないとすら思っていたかもしれない。
「潮に、卵粥作ってあげたいんだ。なんだかんだ、潮にお願い事をされるのは珍しいから。それに、知ってることが増えれば、出来ることが増えれば、もっと潮は私を頼ってくれるかもしれないでしょ」
足を進めるにつれて、行き交う人が多くなる。暖簾の文字や軒先の商品が、道行く人たちの関心を引こうとしている。物が溢れる中で、たくさんの人たちが自分の必要なものを選んでいく。
山に籠もっていた私は、畑や川にあるものしか手にできなかったけれど。ここには、たくさんの商品と、それだけの選択肢がある。
「どこでも生きていける力があれば、潮がどこか行きたくなっても着いていけるかも……なんて考えたり」
「なるほど。つまり、あやめさんは潮さんが大好きなんですね」
無表情で突然そう切り出されて思いっきり咳き込んだ。
「だ、だだ、大好きって!」
「すみません、そうとしか聞こえなかったので。違いましたか?」
「いや、違くは、ないけど。そうだけど、うん」
潮の笑顔を思い浮かべて、顔が釣られてにやけてしまった。
「ずっと一緒にはいたい、かな」
だけど、その言葉は数日前に、拒否されてしまった。
ぎゅっと管傘を被り直して、一馬くんにしか聞こえないような声で呟く。
「でも、潮は言うんだ。ずっとなんてないって」
「それは、潮さんにとったらそうかもしれませんね」
「え?」
私が数日間悩んだ問いの答えを、彼は簡単に導き出したようだった。
「だって、あやめさんは先に死んじゃうじゃないですか。あやめさんにとってはずっとでも、潮さんにとってはどうなんでしょう」
「それは」
あれは、私に対しての言葉じゃなくて、潮自身の話だったってこと?
「潮さんは長寿なんでしょう?なら、なおさら軽々しくその言葉を言えなかったんじゃないですか?」
相変わらず感情の乗せない淡々とした声で、一馬くんは言った。
「ずっと一緒って約束する度に裏切られるのは辛いでしょうから」
ああ、やっぱり私ってば自分のことばっかりだ。視野が狭くて、早とちりしたばっかりに、あの時、潮にひどい言葉を投げかけてしまった。
ずっとなんてこの世にはないと潮は言った。それは、私に対してじゃなくて、潮自身の言葉だったとしたら?
ずっと取り残されてきた人に、自分がひとりぼっちにされる怒りをぶつけてしまった。
昼過ぎの喧噪に満ちあふれた町並みを眺めながら、私に置き去りにされた潮の背中が浮かんだ。
賑やかな喧噪に背を向けて、人と違う尾ひれを海に浸す彼の姿。砂浜に腕を伸ばせても、魚の足では砂浜を歩けない。
ずっと一緒にいたいと願いながら、私は彼と一緒に歩く方法すら考えたことがなかった。
海と陸で寄り添っていたから、私たちはずっといられた。けれど、どちらかがその場を去ってしまえば、あっさりと置いてけぼりにされてしまうんだ。
砂浜を走り去る私の背中を、潮はどんな気持ちで見つめていたんだろう。
「……私も人魚になりたい」
例え地面を歩けなくても、水の中を泳ぐ潮にどこまでもついていける。寿命の心配なんてしなくても、潮の隣にいつでもいてあげられる。
そう願う私を、一馬くんは不思議そうに眺めていた。
「人のままじゃ駄目なんですか?」
「でも、それじゃあいつか潮をひとりぼっちにしちゃう」
「そうでしょうか」
おもむろに肩を引かれる。なにかと思えば、すぐ横で誰かが大慌てで走り去って行った。店構えは立派なのに、道は狭い。おかげで油断しているとすぐに誰かとぶつかりそうになる。
視界を狭めている傘を少しだけ持ち上げた。すると、夜の凪いだ海のような一馬くんの瞳が私を見つめていた。
「うちはだいだい漁師を生業としてきました。父さんのおじいさんもそうだったらしいんですが、おじいさんは幼い父に何度も言い聞かせていたそうです。人魚を見たら力を貸してあげなさい、と」
「どうして?」
「なんでも、曾爺さんは人魚に会って交流したことがあるそうです。彼らはぼくたち人間と同じ心を持っているんだと再三言われていたそうで。父曰く、交流があったからこそ、人から虐げられる様を見てられなかったんじゃないかと」
指先に薔薇の棘が刺さったような、くらげに刺されたような痛みを、一馬くんは顔に浮かべた。
「曾爺さんは人魚の話をする時、いつも辛そうだったと。だから、ぼくたちには彼らを慈しむ存在であって欲しいと願っていたそうです」
人魚は人と同じ心を持っている。それを聞いて、いつか潮が言っていたことを思い出した。
すべての生命は海から産まれてきたんだと、彼は言っていた。海は私たちの母で、全てはそこから始まったのだと。身体の形、意志の表し方、それぞれに個性はあっても、私たちはみんな海からやってきた。
それなのに、私は同じ人間から虐げられて、潮は度々命を狙われる。心は同じはずなのに、私たちはこの地上に生きる人たちから異邦人のように扱われる。
そうして私も、私を虐げ、兄を殺した彼らを、鬼のようだと思っている。どれだけ綺麗事を並べても、私は彼らを自分と同じ人間だとは思えない。
「その祈りは、ぼくの代まで続いて、今潮さんと交流できています。ぼくは、ぼくに子どもができても同じように伝えていくつもりです」
裏切られて、優劣をつけられて、傷付けられる恐怖を知っても、それでも。
「どうです?これはこれで、ひとつの永遠の形にはなりませんか?」
潮や、一馬くんのように、ひたむきに自分以外の誰かと関わろうとする人たちがいる。自分と違う身体、心を持っていても、共存しようと模索している人たちがいる。
「とっても素敵だと思う」
それは、私にとっても救いだった。同時に、その清くて正しい心は、どうやっても私には得られないものだった。
ああ、妬ましい。胸の中に根付いた劣等感が疼く。心の中で、私は彼に謝った。
ごめんね。
あなたたちのその勇気は、とても綺麗で、正しくて、私にとっても救いだ。私も、そんな人間になりたかった。
でも、その言葉を聞いても、私は願わずにはいられないの。
もっともっと、彼の近い場所で生きる術が欲しいって。
「一馬くんはすごいね」
「ぼくなんか、全然すごくないです。むしろぼくはあやめさんが羨ましい」
「私が?」
今度は私が一馬くんを見つめる番だった。一馬くんは感心した表情で頷く。
「あの斧を軽々投げられる腕力、とても羨ましいです」
「あああああああ!あれはもう忘れて!」
「恥ずかしがることないじゃないですか。……現に潮さんを助けられたんですし」
急に、一馬くんの声が、周りの喧噪に埋もれてしまいそうな程小さくなった。俯いた背中は、いつもより小さく見える。さっきまで普通に話していた彼の変化に、私は動揺した。
「一馬くん?」
「あ、あやめさん。たまご屋さんいました」
私の声を遮るように、一馬くんが駆け出す。その背中の先には、棒を肩に抱えたひとりの男がいた。棒の先には籠がつり下がっていて、天秤のよようになっている。その籠の中には、卵がいくつも入っていた。その籠の向こうに、金貨の山が見えるようだった。
「お、卵ひとつどうだい?ちょっと高価だが、精がつくぜ」
真っ直ぐ向かってきた客に、男は気前よく声を
かけた。だが貼り付けた笑顔は、一馬くんの姿を
前にして、ぎょっと目を剥いた。
「な、なんでぇ。信親んとこの倅じゃねえか。なんのようだい?」
「卵をひとついただきたくて」
「構わねえが、金はちゃんとあるんだろうなぁ」
眉を潜めて泳ぐ視線。一秒でも早く目の前から消え去ってほしいと言いたげな態度。男の挙動はは、村で何度も見てきた光景だった。外れ者を排除しようとする目。
どうして、一馬くんがこの視線に晒されているんだろう。腑に落ちないまま突っ立っている私に
、一馬くんは振り返った。
「あやめさん、お金足ります?」
「え!?あ、ああ、うん。大丈夫だと思う!」
お金と私を、男はじろじろと見ていた。まるで、偽物じゃないかと疑うみたいに、お金を裏返したり数え直したりしていた。
私はその間、顔を下げてただその時間が終わるのを待つしかなかった。でも、お金を渡した直後に、一馬くんが男と私の間に割って入るように壁になってくれた。
「……はい、丁度ね。商売の邪魔だからさっさとっどっかへ行ってくれ」
ぞんざいな態度で渡された卵を受け取ると、一馬くんは私の手を引いてさっさとその場を離れようとした。
だけど、男は去り際に彼を嘲笑するように言った。
「その顔じゃ、遊郭に行こうが相手にされないと思うけどね。相手の女も好き者なこって。その傘の下はどんな面してんのかね」
その瞬間、一馬くんが脚を止めようとしたのを、私は見逃さなかった。
「一馬くん、行こう」
今度は私が彼を引っ張る番だった。振り返って何かを言おうとする彼を連れて、その場から早足で立ち去る。
彼は小さな声で「すみません」と言って、私の手を握り返した。謝る必要なんて、どこにもないっていうのに。