7. たとえば世界が汚くても
くらげを取ろうと伸ばされた私の手は振り払われ、冷たい海水の中に落ちた。一緒に落ちてきたくらげの足が手の甲に振れて、ぴりぴりとした痛みが走る。
自分が拒絶されたことよりも、一瞬見えた額の傷に目を奪われる。
前髪に隠された一馬くんの額の下は、濃い茶色に変色していた。頬から生え際にかけて丸く焼き印を押したように火傷の跡が残っていた。
一馬くんは、左手でばっと顔を隠す。
「あ、その、」
やっぱり、友好的に接してくれていたとはいえ、異国の血を引く私に直接触られるのは嫌だったのかもしれない。それとも……。
「ごめんね。私に触られるの、嫌だった?」
「すみません、違います。あやめさんだから、とかじゃないんです」
俯いた表情は見えない。だけど、気を落ち着かせるように吐き出された息は震えていた。
「顔を触られるの、苦手なんです」
そう言うと、彼は「荷車を取ってきます」と外へ出て行ってしまった。
親しく離せる相手が潮しかいない私にとって、他人との距離感がうまく取れているかなんてわかりようがない。それでも、素人判断でいいなら、私と一馬くんの距離感は、潮までとはいかなくてもそれなりに良好だったんじゃないだろうか。
一馬くんは潮に信頼されているし、なによりも私と潮を助けてくれた。
だから今の彼の言葉を疑うつもりはない。むしろ、私の方が嫌なことをしてしまったと羞恥心を抱いた。
「……そういえば、あいつら出て行く時に、化け物とお化けって言ってた。化け物って言われるのが、私だけならわかるよ。でも、おばけって……」
「わかるなよ、そんなこと」
潮はあからさまに顔を顰めた。壁にもたれかかって、入り口を睨み付ける。
「昔できた傷だってよ。それ以上は俺の口からは言えねえ。だけどよ、あいつもお前も、他の人間と何が違うって言うんだ。たかが目の色、身体の傷だろ」
私にとってはたかがではないけれど、潮が言うとそれぐらい簡単なことのような気もしてくる。
人とちょっとだけ違う。それだけで、異物のように扱われる。
一馬くんにとってあの傷は、私にとっての目と同じなのかもしれない。
「世界中の奴らが、お前やカズマみたいな奴ばっかりならいいのにな」
「一馬くんはともかく、私は買いかぶりすぎだよ」
なんだろう。気のせいじゃなければ、潮もさっきより不機嫌な気がする。あからさまに機嫌の悪さが顔や声にでているし、いつもならこんな愚痴言わない。
悪い人間もいるけど、良い人間だっているんだと悟りを開いた修行僧のようなことを、快活な笑顔で語っているところだ。
さっきまで私に言い寄られていたのに。今度は、潮の方が誰かに言い寄りそうな勢いだ。
「なんだか怒ってる、潮?」
「当たり前だ」
恐る恐る尋ねた私に、潮は地団駄を踏みそうな勢いで言った。
「お前とカズマが悪く言われて、怒らずにいられるか!」
ああ。
私は薄暗い天井を仰ぐ。
その怒りを、ちょっとぐらい自分に向けてくれないものかな。
荷車に横になった途端、潮は急に大人しくなった。さっきまで興奮していたせいか、血を流しすぎたのか、白い肌が一層色を無くしている。
「父さんも丁度帰っていたので、事情は説明してきました。帰ったらすぐに手当をしましょう」
不安が顔に出ていたのか、一馬くんはそう言ってすぐに荷車を押し出した。拒絶する前と同じ態度で接してくれて少しほっとする。
でこぼこした砂の上を、慣れた様子で進んでいく。荷車に敷いた藁の上に、ゆっくりと、けれど確実に血が滲んでいく。時折、耳を掠める呻き声に心臓を掴まれる。
「潮、もうすぐ着くからね」
一瞬、目を離した隙に潮がどこかへ行ってしまいそうで、私は繋ぎ止めるように名前を呼び続けた。
「おおい、大丈夫か!?えらい目にあったな」
橋まで差し掛かった頃、信親さんが駆け寄ってきた。
「医者と同じくらいにとはいかねえが、手当する準備はできてる。あやめちゃんも今日は泊まっていきな」
「はい……。潮をよろしくお願いします」
家に向かって運ばれていく潮を眺めながら私は思った。
人魚は不老不死だ。だから潮は死なない。
けれど、潮はずっとなんてこの世にはないと言った。
もしも、ずっとの終わりがもうすぐそこまで来ているんだとしたら?
そんな漠然とした予感を抱かずにはいられなかった。
信親さんの家の中には、木でできた大きな桶が準備されていた。潮が横になっても余裕があるくらい大きい。魚の水槽か何かなんだろう。そこに担ぎ込まれた潮は、すぐに背中の傷を信親さんに手当してもらった。
「人間用の薬が、お前さんに効くといいんだがな」
「問題ねえよ。今までそれでなんとかなってきた。自然治癒することの方が多かったけどな」
「要は治るまで放っておいたってことだろ?野生動物かお前は」
「おっさんみたいな奴とつるんでなきゃ、薬なんて手に入らねえもん。ただでさえ高価なもんだし」
「期待してるとこ悪いが、うちの薬は金貨とは無縁だぞ。なんせ自家製だからな」
「……おっさんの腕が確かなことを祈る」
「作ったのは一馬だ」
「なら問題ねえか」
「おい、俺じゃ信用ならねえっていうのか」
相変わらず顔色は悪いが、軽口を叩ける程度の意識はあるらしい。信親さんに包帯で締め上げられている(こうとしか表現できない)潮を見ているうちに、急に身体の力が抜けて座り込んだ。
身体の節々が痛い。特に斧を投げた右腕が、肉離れでも起こしたような感覚がする。
「あやめさん」
そっと背中に優しい手が触れた。見上げた先には見慣れた無表情。けれど相変わらず声色と行動は温もりに溢れている。
「着替えて、囲炉裏で休んでください。簡素なもので申し訳ないですが。眠りたければ布団も用意してあります」
「でも、そこまでしてもらうわけには……」
「あやめさんが疲れていたら、潮さんも気を遣って療養に専念できないと思いますけど」
「……わかった。じゃあ、囲炉裏で休ませてもらうね。ありがとう」
用意してくれた服に着替えて、囲炉裏の横に座る。海水で冷えた身体に、火の温もりが心地よかった。
「おい!おっさん痛ぇって!もうちょっと優しくやってくれ!」
時々聞こえてくる元気な悲鳴に安心する。賑やかな声に耳を傾けながら、じくじくと筋が痛む自分の右腕を、そっと撫でた。きっとしばらくしたら治るだろう。
一馬くんは、台所に立って何かを包丁で刻んでいた。手伝うべきなんだろうけど、本当に身体が動かない。全身が泥人形になったように重い。
「…………あの」
膝を抱えて暖まっていると、信親さんの後ろに隠れていた女の子が何かを持ってきた。確か名前は鈴ちゃんだったっけ。
鈴ちゃんは、両手で持ったお盆を私の方へ突き出した。
「これ、お兄ちゃんがどうぞって」
差し出されたのは、湯飲みに入った白湯だった。ありがたく受け取って口をつける。喉の奥にじんわりとした熱が流れ落ちていく。
私は、ほっと息をついた。
そうして、そんな自分自身に驚いていた。
他人の家でくつろいで、出されたものになんの疑問も抱かずに口をつけている。ついでに言うと、今の今まで泊まることに抵抗すら感じていなかった。むしろ安心すらしていると言っていい。
この目がばれないように、潮が狙われないように、ずっと周りを警戒していたのに。実際、潮は狙われてしまったけど、自分ひとりで対処すると考えるよりも、信親さんたちがいてくれてよかったとすら思っている。
潮のわがままをはねのけて、あの川辺でいたら、潮はきっと怪我をしなかった。でも、
「あのね……」
もじもじと胸の前で手を組んだ鈴ちゃんが、おずおずと口を開く。
「さっきは隠れちゃってごめんなさい。お姉ちゃんのお目々、夕日みたいで、綺麗で、びっくりしちゃったの」
驚く私に、鈴ちゃんは一歩踏み出してきた。
「だから、もっと近くで見てもいい?」
頷くと、紅葉のような手が頬に触れる。
でも、あの川辺にいたら、この湯船みたいな心地良い温度も知らないままだった。
当たり前に伸ばされた無垢な手。覗き込んでくる彼女の手前、目が潤まないように必死で我慢した。
夜、今日起こったことがずっと頭の中を巡って、なかなか寝付けなかった。何度も寝返りを打っているうちに、同じように何度も水面を乱す水音がすぐ隣から聞こえてくることに気が付いた。
「潮、起きてる?」
「起きてるぜ」
「怪我の調子はどう?」
「とりあえず、血は止まったっぽいな」
潮の言葉にほっと胸を撫で下ろす。外から聞こえる波の音に彼の声がかき消されるのが嫌で、私は囲炉裏のそばに置かれた布団を、水槽の近くまで引っ張っていった。あんまり大きな話をしていると、隣で寝ている一馬くんたちを起こしてしまうだろうし。
「おい、水飛ぶぞ」
「潮って寝相悪い?」
「常に水が流れてるとこでしか寝ないからわからん」
そういえば、こうやって隣合って眠るのは初めてだ。物置で眠る時でさえ、潮は川の中にいたから。
新鮮な気持ちがまた眠気を遠ざける。昂揚する胸を持て余していると、おもむろに潮が口を開いた。
「ごめんな、アヤメ」
「何が?」
「お前に綺麗なもんを見せてやりたかったのに、こんなことに巻きこんじまって」
ひそひそと話す声が一層低くなる。けれど、私はその声を近くで聞けることが嬉しかった。
「潮の言ってること、本当だったよ。海、綺麗だった」
かけ布団を握りしめながら、まだ胸をくすぐる衝動を感じる。
「優しい人たちも、いた」
潮を売り飛ばそうとするような輩もいたが、それだけじゃなかった。初めて、潮以外に信頼できる人たちができた。
「それを潮が教えてくれたから、私は潮を助けられたんだよ」
一馬くんの手助けがなければ、きっと潮を見つけるのは難航していた。そうしている間に、二度と会えなくなっていたかもしれない。
そうならなくて、本当によかった。
あの時、勇気を出して本当によかった。
「潮、教えてくれてありがとう」
「そんなの、お前が勇気を出したからだろ?多少強引だったかもしんねえが、山から降りたのも、カズマと一緒に助けにきてくれたのだってそうだ」
「でも、そのきっかけをくれたのは他の誰でもない潮だよ。潮を助けたいって思ったから、一馬くんに声もかけられた」
窓から差し込んだ光が、潮を照らしていた。月の光も、太陽の光も包み込む優しい黒が、私を見下ろしていた。
私は、最初から知っていたはずだ。
「汚い世界でも、本当に綺麗なものはちゃんとあるんだって思い出せた」
何百年も生きてきた潮の瞳は、きっと綺麗なものだけを見てきたわけじゃない。それよりもずっとずっと多くの汚いものを見てきたはずだ。
それでも、潮は人間を好きだと言って、私に美しい景色を見せてくれた。
汚濁の中に、光を見続けるその黒を、その勇気を、私は心の底から美しいと思った。
高潔なその色は、誰にも汚されることなく、今、慈愛を含んで私に向けられている。嬉しくて胸がはち切れそうだ。
「村を出るとか、世界とか、そんなのはまだ現実味がないけどさ、またこうやって海を見に来て、一馬くんたちに会いに来ようね」
話しているうちに、その楽しい未来を思い描いて顔が勝手に笑っていた。
潮は、眩しいものでも見たみたいに目を細めてゆっくりと頷いた。