表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼の住む川辺  作者: 白河いさな
鬼の住む川辺
6/25

6.衝迫

 一馬くんは、橋の下の血痕を見た後、岩盤の方を指した。


「人が多い時は、あの岩盤の奥にある洞窟を待ち合わせ場所にしています」

「待ち合わせ場所?」

「その日の天気や漁の場所なんかをよく教えて貰うんです。代わりにぼくたちは彼に何かをあげる。よくそうやって、助け合っています」


 前に持ってきてくれた金平糖や醤油も、信親さん一家からもらったものだったんだろう。


「まだ血が流れきっていないですし、そんなに時間も経っていないはずです。もし自力で逃げたとしたら、海かあの岩盤にいるんじゃないかと思います」


 岩盤の内側は、波に削り取られて一部が空洞になっているらしい。町の方へ誘拐された可能性も考えたが、まずは近辺で隠れられるような場所を当たってみようと一馬くんは言い出した。


「海にいるなら、父さんと一緒にいるかもしれませんね。昼から漁にでることを伝えていましたし」


 そうであってほしいと心の底から願った。どちらにせよ、血を流してその場から離れることになったのは間違いない。


「もし潮さんに何かあったとしたら、父さんはあの岩盤へ潮さんの身を隠してからぼくたちのところへくるはずです。なので、行ってみましょう」


 意見がまとまったところで橋を渡って岩盤に向かって走り出す。途中で、彼が不自然なものを持っていることに気づいた。


「あの、それは?」

「斧です」

「どうして、斧を?」

「……護身用?」


 なんで疑問形なの。


「相手は凶器を持っているかもしれませんし、あやめさんは潮さんの大事な人なので」


 一馬くんの言葉にかっと顔が熱くなった。いや、変な意味じゃないんだろうけど!


「あ、でもあんまり期待はしないでください。正直、斧はろくに振れた試しがないので。槍ならわりと得意なんですけど」

「それは、槍を持ってきた方が戦う分にはよかったんじゃないですか……?」

「商売道具を血で汚したくないので。あと、敬語じゃなくていいですよ。ぼくの口調は癖みたいなものですけど」

「あ、えっと、わかりました。じゃなくて、わかった」


 すんなりと会話できるけど、微妙にまだ距離の取り方がわからない。でも、この近辺のことを教えてもらうのに、彼はうってつけの存在だった。

 走っている途中、私の容姿についてこそこそと誰かが話しているのを聞いた。驚いた様子で二度見してくる人もいた。

 でも、そんなの構っていられなかった。

 岩盤まで辿り着いて、海の中から内側に回り込む。ありがたいことにそんなに深くはなかった。けど、途中深いところがあるから気をつけろと一馬くんに言われた。


「もし怪しい人がいたら、どうにかしてそいつらの気を逸らしましょう。潮さんは察しがいいから、すぐに海の方へ逃げてくれるはずです。そうしたら、ぼくらも走って逃げる。できるだけ、戦わない方向性で」

「もし、潮が動けない状態なら?」

「……がんばってどうにかします。ぼくが暴れるので、潮さんを担いで逃げてください」


 理性派かと思ったら、意外と大雑把だった。なんて直前まで頭こんがらがっていた私が言えることじゃないけど。

 怪我したのも偶然で、人目が多くなってきたから、ひとり休んでいた。なんて結果だったらいい。

 でも、奥から聞こえてくる喧噪は、私の淡い期待を裏切った。


「まさか人魚が実在するとはなあ」

「人魚の肉って喰えば不老不死になるんだろ?」


 若い男の声がふたつ空洞に反響する。その隙間に、荒い息づかいが混じる。


「ぼくが先に行きます」


 状況を察した一馬くんは、斧を握りしめたまま洞窟の奥へ向かう。

 私は、頷くことも、走ることもできないまま、ただ荒ぶる心臓の音を聞いていた。男たちの声はうるさいくらいに反響している。もう彼らはすぐそこにいる。それなのに、身体を食い破りそうなくらい激しく、心臓が暴れている。耳の奥から心臓の音がする。荒ぶった血が、冷たい指先を押し進んできて、耐えがたい衝動を巡らせる。

 そうして、辿り着いた洞窟の奥。

 そこには、血だらけで座り込む潮と、それを取り囲む男二人の姿があった。


 それを見た瞬間、私の手は一馬くんの手から斧を奪い取っていた。


 直前に立てた計画なんてふっとんで、まだこちらに気づいていない男の後頭部にそれを振りかざす。


「やめろ、アヤメ!」


 顔を上げた潮が叫んだ。途端、握りしめていた手の力が緩む。

 私の手からすっぽ抜けた斧は、潮に迫り寄る男たちの間をすり抜けて、岩の壁に勢いよく突き刺さった。

 硬直したまま、岩に突き刺さった斧を見た男たちは、その視線をこちらに向けて、顔を引き攣らせた。


「ひ、ひいいいぃいっ!!!!」


 腰を抜かして座り込む男たちを見下ろす。


「ば、化け物だ!化け物とお化けだあ!」


 そう叫んで、彼らは這うように洞窟から逃げていった。

 彼らと入れ違いになるように、私は潮の元へ駆ける。


「潮!大丈夫!?」


 突き刺さった斧に向けられていた目が、ゆっくりと私の方へ向いた。その顔には、隠しきれない戸惑いが滲んでいる。


「大丈夫だ、ちっと背中を切られただけだ。それより、お前……。いや、お前はなんでここに……?」

「潮がいなくなっちゃったから、一馬くんと一緒に探しに来たんだよ!」

「カズマと?」


 振り返ると、一馬くんは懐から布を取り出しているところだった。彼はその布を、潮の背中に押し当てた。

 肩から腰まで続く傷からは、まだ血が流れ続けている。白く綺麗な肌が、赤く汚れていく様を目の当たりにして、全身に鳥肌が立つ感覚がした。

 熱く煮えたぎる泥が、胸の奥を溶かすような不快感に唇を噛む。

 あの時、手を離さなければよかった。

 浮かんできたその考えは、紛れもなく本音だった。そして、それを言葉にすることは、決して許されないとわかっていた。

 潮が制止した理由も、今動揺している理由もわかっているから。

 けれど、潮は事の顛末を一馬くんから聞いて、少しだけ嬉しそうに顔を綻ばせた。


「そっか。お前、自分から一馬に会って、がんばってくれたんだな」

「だって、ここら辺のことは全然わからなかったから……」

「手間をかけさせちまって悪かったなぁ」


 潮は目を伏せて、深く息をついた。


「勝手にいなくなって悪かった。あの話の流れだ。大分動揺させちまっただろ」

「それはまあ、そうだけど。……私も、勝手にいなくなって、ごめん」


 正直、まだ潮の真意が聞けていない以上、胸の蟠りが解けたわけじゃない。

 けど、結果的に私の行動が潮を危険に晒してしまったと考えたら、後悔せずにはいられなかった。だって、もしかしたら永遠に潮に会えなくなっていたかもしれないから。


「それで、どうして潮はあいつらに狙われてたの?」

「それなんだが……」


 なぜか潮の目がわかりやすく泳いだ。


「あの後、お前を追いかけようとしてたんだが、その前に海で溺れてる奴らを見かけちまってなぁ」


 まるで悪戯を白状する子どもみたいな顔で、ちらちらと私の方を仰ぎ見ている。


「人通りが多くなってきた時間だしよ、まあせめて河口まで送り届けることにしたんだ。幸い、意識もはっきりしてたし、落ち着いたらある程度自分たちで泳げたしな。だが、河口に着いた途端、」

「後ろから助けた人にばっさり切られたと」


 一馬くんの言葉に、図星とばかりに肩を大きく震わせる。

 一方で私は、鎮火しかかっていた怒りがまた燃え上がるのを感じた。


「は、はああああああっ!??」

「アヤメ、声がでかい」

「何それ!?あいつら、助けられておいて恩を仇で返したって言うの!?いくらなんでもひどすぎるよ!」


 彼らは、自分たちの利益のために、命を助けてくれた潮を売りさばこうとしていたのだ。

 一瞬、頭の奥で橙色の灯りが浮かんだ。暗い闇の中で、くすんだ灯火に導かれた記憶。傷だらけの足で小窓を覗く。そして、飛び込んできた光景を思い出して、猛烈な目眩が私を襲った。

 足下がふらついて、視界が真っ黒になる。


「うおっと、地震か」


 急な体調不良かと思ったら、本当に地面が揺れていた。急な地震。本当ならそのまま岩の壁にぶつかるはずだった。けれど、がっしりとした手が、私の肩を掴んだ。


「大丈夫ですか?」


 相変わらず抑揚のない声。だけど、能面のような表情の中で、眉が少しだけ下がっているのがわかった。あどけない顔つきをしているわりに、支えてくれる腕はとても力強い。


「あ、うん。ありがとう。ごめんね」

「最近、地震が多いですね。足下、岩が多いので気をつけてください」


 海水がそのまま入り込んでくる洞窟は、当然だけど足場が悪い。深呼吸しても足の感覚がまだ乏しいのは、ずっと水に浸かっているせいもあるのかもしれない。

 だったら、この怒りも一緒に冷ましてくれたらいいのに。


「信じられない……。助けてもらったのに、どうしてそんなひどいことができるの。食べるものだって、着るものだってあるくせに。なんでそれ以上を求めようとするの?」

「まあ、人間の欲求なんて上を見出したらキリがねぇからなぁ」

「潮はもうちょっと怒ってよ!」

「怒れって言われてもなぁ。何百年も生きてりゃこんなこと日常茶飯事だ。もう怒る気力も沸かねえよ。それに、最初に助けてやろうって決めたのは俺自身だしなぁ」


 まるであの川辺で世間話をするみたいに、平然とそう言ってのける潮に絶句した。

 こんなことが数百年間、何回も彼の身に起こってきたって言うの?彼はこれまでに何度も、助けた相手に裏切られてきたって言うの?

 それなのに、どうしてそんな悲しいことをなんでもないことみたいに話すの?


「まあでも今日はさすがにまずかったよな。お前もカズマも巻き込むところだったし。本当に悪かったよ」

「なんで、謝るの。潮が謝ることじゃないでしょ」


 悪いのは、潮を傷付けたあいつらなのに。

 それなのに、彼はそれさえも自分のせいだと言うような態度で、私たちに謝るのだ。


「助けた人に裏切られるのは、全然、平気なことじゃないでしょ?」


 私がそう言うと、彼は苦笑した。下手な笑い声で、私に返す言葉を誤魔化そうとした。そんな彼を見下ろしながら、私は無性に潮を抱きしめたくなった。

 その姿が、石を投げられても笑っていた兄の姿に、よく似ていたから。

 なんで怒らないの?私を庇って怪我したんでしょ、ごめんなさい。

 どの言葉も不正解で、決まって兄は「あやめが心配することじゃないよ」と苦笑していた。だから私は、幼心に兄の心に届く言葉を必死に探していた。

 いや、違う。私は兄を守りたかった。

 自分自身も異国の血を引いて、妹を庇って傷だらけになる兄を、守れるような力が欲しかった。もしも、異国の血を引いていなかったら?もしも、私の方が年上だったら?もしも、私たちの瞳の色が黒だったら?

 たくさんのもしもを重ねたけど、結局、私は無力のまま兄を失ってしまった。その後悔ともどかしさが、まだ私の心に澱のようにへばりついている。

 それなのに、兄と同じ顔で笑う潮を前にしても、私は気の利いたことをなにひとつ言えなかった。というより、今口を開けば、奴らに対する罵詈雑言や潮に対する不満が爆発してしまいそうだった。

 私は、あの頃から何も成長していない。

 そんな気まずい空気を察して、一馬くんが声を上げた。


「とりあえず、うちに来ませんか?これ以上ここにいても、処置もできないですし」

「そうだね……」

「潮さん、洞窟の入り口までは頑張れますか?家から荷車を取ってきますから、それで行きましょう。まだ人目は多いので」

「悪いな、カズマ」


 見た目こそあどけないが、何を前にしても動じない彼の存在は心強い。

 お互い気まずい空気になっている私たちにしてみれば、なんともありがたい存在だ。

 踵を返して洞窟の入り口に戻ろうとしていた一馬くんが、ふいに立ち止まって潮の方を向く。

 そして、眉を潜めて一点を指した。そこには、私が思いっきり投げた斧があった。


「そういえば、あやめさん。あれうちのなんで返してもらっていいですか?」

「ああ、うん。急に取り上げてごめんね……」


 盗んだわけでも借りたわけでもなく、強引に奪っただけなのだが、彼はご丁寧に伺いを立ててからそれを取りに向かう。

 さすがにぶん投げた本人が突っ立っているわけにも行かないだろうと、私も側に向かった。

 だけど、斧は思いのほか深く突き刺さっているようで、一馬くんは柄を握りしめたまま悪戦苦闘していた。


「ごめんね、本当にごめんね!」

「あぶないっですよ、あやめさん。この調子だと、すっぽ抜けそうなので、あんまりそばに寄らないでくださいっ」


 すっぽ抜けた先で怪我人が増えたら目も当てられない。

 だけど、いくら一馬くんが踏ん張っても、斧は抜ける様子は見えない。弁償を考えだしながら、私は後ろから手を出した。放っておけなかったのだ。


「二人分の力なら抜けるかな?」

「いやこれむしろあぶな、うわっ」

「きゃあ!」


 一馬くんの後ろから柄を掴んで思いっきり力を込めた瞬間、岩盤から刃が抜けた。そこまではよかった。あまりにも勢いよくすっぽ抜けたものだから、ふたりして背中から水の中に倒れ込んでしまったのだ。


「おおい!?お前ら大丈夫か!?」


 慌てて潮が寄ってくる。倒れるまで柄を離さなかった自分を褒めてあげたい。あと、後ろに岩がなくて本当によかった。

 巻き添えをくらって倒れた一馬くんは、一緒に掴んでいた柄を離すと、すぐに私の上から退いてくれた。


「さっきも思ったんですけど、あやめさん意外と力強いですよね。使いどころは考えた方がよさそうですが」

「重ね重ねすみません……。それより一馬くんに怪我はない?」


 意地でも斧だけは握りしめていたけど、逆にそのせいでまともな受け身が取れなかった。岩肌で擦ったり、身体をぶつけたりしていないだろうか。

 ぱっと見た感じだと怪我は見当たらない。けれど、それ以上に大きな存在感を放つものが彼の頭に乗っていた。


「おい、くらげ乗ってるぞ」


 半透明の塊のようなものはくらげと言うらしい。海に潜るたびに、頭にお土産を乗せて返ってくる人なんだろうか。なんて悠長なことを考えている場合じゃない。

 彼は私のせいでこの有様になったのだ。


「ごめんね、取ってあげるからちょっと待ってて」

「待てアヤメ、くらげは」


 潮の言葉を聞く前に、彼の頭に手を伸ばしていた。

 だけど、額にへばりついたそれを取ろうとした瞬間、私の手は一馬くんによって勢いよく弾かれた。

 なんの力も込めていなかった無防備な手は、彼の前髪をさらって宙に投げ出される。

 ほんの一瞬見えた前髪の下には、引き攣った火傷の跡が刻まれていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ