5.できない約束
海の果ては見えない。今も足を浚おうとしてくる波は、一体どこから来たのだろう。流動的な彼らは、これからどこへ向かうのだろう。
私は、初めての感情に戸惑ってばかりだと言うのに。この気持ちを抱えたまま、これからどう動けばいいのか迷っているのに。
「お前に知ってほしかったんだ。あの人たちと、この海をさ」
宝石をちりばめたような青い海は、眺めているだけで私の胸を高鳴らせる。確かにこの光景は、あの山に籠もっているだけじゃ見られない光景だった。
「これが潮の見てた世界、なんだね」
「こんなのほんの一部に過ぎねえよ」
好奇心を覗かせながら、潮は海よりもずっと遠くの景色を見つめているように見えた。
「世界には、美しいもんや、楽しいことがたくさんある。俺だって、まだ全部は見えてねえ。数百年かけても終わらないもんが、たくさん」
そう言って過去を振り返る潮の横顔は眩しくて、遠い。私にはできない表情だと思っていると、彼は海の方へ指を指した。
「アヤメ、お前の世界はあの村で終わりじゃねえんだ。海の向こうにも、この国の西にも東にも、たくさん広がってんだぜ」
潮は、私の足を一瞥した後、笑顔を向けてきた。
「お前はどこにでも行ける。海を渡って国を超えることもできるし、国の中を渡り歩くこともできるんだぜ」
自分のことを話してくれているのに、全然実感が沸かない。むしろ、どこか突き放されているように感じて、指先が冷たくなっていく。
「……話が飛躍しすぎだよ」
「そうか?でも、知らねえで生きるのと、知って生きるのとじゃ大きく違うだろ?」
「どっちにしても、私はずっと潮と一緒にいたい」
世界の広さを知っても、私を受け入れてくれる人間がいることを知っても、そこに潮がいなきゃ素直に喜べない。
あの村に思い入れがあるわけじゃない。でも、あの川辺での穏やかな時間を失ってまで、世界を見たいわけじゃない。
ただ、ずっと潮が隣にいてくれればいい。
それだけでよかったのに。
潮は、ふっと表情を失って、どこか傷ついた声で私に言ったのだ。
「ずっと、なんてこの世にはありゃしねえよ」
永遠を生きるはずの人魚は、そう言って、縋る私の手を離した。
「なんで」
踏みしめた砂が波に浚われていく。立ち上がると、ひどく足場がぐらぐらした。
「なんでそんなこと言うの!?」
潮はしまった、という顔をした。だけど、言い訳をするわけでもなく、ただ私を見上げていた。私の手を離した手が、「冗談だよ」ともう一度伸ばされることはなかった。
「私は、潮とずっと一緒にいたいのに、信じてくれないの?それとも、」
声が震える。
「潮の方が、やっぱり私と一緒にいるのは、いや?」
言ったはいいものの、返事を聞く勇気なんてなかった。
私は、耳を塞いで浜辺の方へ駆け出した。
管傘をさっさと探しておけばよかった。そうすれば、赤い目も泣いた跡も隠せるのに。
その場から逃げたはいいものの、結局行くところなんてどこにもなくて、岩場の隙間に隠れている。聞こえてくるのは波の音だけ。
自分から逃げてきたくせに、潮の呼びかける声が聞こえてこないか耳を澄ませてしまう。
我ながら、めんどくさくて重い女だ。
でも、その場しのぎでもいいから、ずっと一緒にいるって言って欲しかった。私が生きている間、隣にいてくれるって。広い世界を指す指で、私の腕を掴んで欲しかった。
だって、私は潮しか知らない。潮みたいに広い世界を知っているわけじゃない。だから、ずっと一緒にいるって言ってほしかった。
そこまで考えて、喉に小骨が引っかかるような不快感を覚える。
頭の中で、美しい海と優しい家族の姿が浮かんだ。つかの間に見た、広い世界の姿。それなのに、私はまだ潮しか知らないと言い張ろうとしている。見ないふりをしようとしている。まるで、卵から生まれたばかりの雛のように。
私にとって潮はなんなんだろう。親代わり、兄?それとも、恋愛的な意味で好きな人?
どれもしっくりきそうで、かっちりとは当てはまらない。確実なのは、命の恩人で、孤独から救ってくれたという事実だけ。ある程度自分の食料を確保できる力がなければ、とっくに死んでいるか、遊郭にでも売り払われていた。
親のいない私に代わって、潮は生きていく術を教えてくれた。だから、強引に町に行こうと言い出したのも、もしかするとその一環なのかもしれない。
そうして、私が町に出かけられるようになったら、それこそ、国を旅してみようなんて言い出したら?
潮は満足して、どこかへ行ってしまうんじゃないの?
むしろ、そう望んでいるから、ずっと一緒にいる約束を拒否したんだろうか。
「ううううう~~……」
止まっていた涙がまた溢れ出す。この間は、あの川辺での時間を気に入っていると言ってくれたけど、それも本当に?潮が、一刻も早く私と離れたがっていたらどうしよう。
それとも、それに応えてあげるべきなのかな。
いつか終わる『ずっと』は、一体いつまでを指しているんだろう。
まるで、自分が親離れできていない子どもみたいで嫌になる。考えてみれば、狭い視野しか持ってない私が、ずっと一緒にいたい!なんて言っても、潮にとっては幼子の口約束とそんなに変わらないのかもしれない。
そうだよ。だって私、信親さんたちにも、ろくな挨拶とかできなかったし……。
世界は相変わらず怖くて、自分がどこにでも行けるなんて思ってないけど、でも……。
「周りが怖いから一緒にいて欲しいって言われるの、もしかしたら嫌かも……」
私には潮しかいない。でも、それは私の都合でしかなくて、助けてくれるなら、一緒にいてくれるなら、潮以外でも良いと取られても仕方がない。
潮は、そんな私の心を見抜いていたのかもしれない。
嗚咽が止まらない鼻に、馴染んだ匂いが紛れ込む。声は聞こえなくても、潮の同じ匂いは私を少しでも安心させてくれた。
何か出来る度に大袈裟に頭を包み込む、大きな手が好き。
感情を持って動き回る、虹を散りばめたような鱗が好き。
お日様みたいな笑顔と、快活な笑い声が好き。
自分のことは楽観的なのに、私のことを私以上に考えてくれているところが好き。
名前を呼んでくれる優しい声が好き。
どこまでも透き通った、芯のある瞳が好き。
ああ、上げ始めたらきりがない。最初は兄に似た温もりに縋っていただけなのかもしれない。でも今は、潮だからそばにいてほしいと思う理由だって、たくさんある。
私が傷ついたとわかっても、潮はあの言葉を撤回しなかった。自惚れかもしれないけど、それは、私のためを想ってのことだったのかもしれないじゃない。
だったら、こんなところで拗ねて泣いてる場合じゃない。
潮が何を考えて、私にどうなってほしいのかわからないけど、彼の中で幼稚な女の子のままなのは嫌だ。ちゃんと仲直りして、話し合いたい。
ずっとは叶わなくても、潮だから一緒にいたいんだよって伝えたい。
涙を拭いて立ち上がる。そうして、広い海岸の中で私を守ってくれていた岩場から抜け出す。
でも、潮は海岸のどこにもいなかった。
「え?」
冷静になろうとしていた頭が、またこんがらがりそうになる。
「う、潮!どこ!?」
慣れない大声を出して呼びかける。返事は返ってこない。
もしかして、私に呆れ果てて旅に出てしまったんだろうか……。
そんな恐ろしい考えを振り払う。潮は、そんなことしない。彼は私に畑の作り方や釣りの仕方を教える時、決して途中で投げ出したりなんかしなかった。
私が要領よくできなくても、失敗しても、できるまでちゃんと教えてくれた。
だから、こんな中途半端な場所で私を放り出すなんてあり得ない。と、思いたい。
何か痕跡はないかと浜辺を歩き回る。当たり前だけど、彼は土の上を歩けない。だとしたら行き先は、町に繋がる川か、海しかあり得ない。
もし浜辺に沿って移動したのなら、町に繋がる川沿いを進んだはずだ。反対側は、私がいたはずだから。
私たちが進んできた川を、もう一度よく確認する。まず、海より少し手前に小さな橋がかけてあって、そこを渡ると同じように海岸に辿り着く。こっちの海岸と違うのは、松の木が密集していることかな。松の木の陰で休んでいる人影が何人かいる。でも、こちらほど広くはないみたいで、松の木の向こうには、削り取られた岩盤が大きな壁のように立ちはだかっている。私が隠れていた岩場から岩盤まで徒歩で10分くらいかかるだろう。それでも、端から端まで目に収まる範囲内にある。浜辺にいたらさすがに気づく。
と、岩盤の方へ行こうと橋に向かった時だった。橋の下にある砂利の中に、まだ真新しい血が混じっているのに気づいた。
そうして、近くにはどこかで見たような菅傘。裏返った傘には、見覚えのある筆跡で私の名前が書かれていた。あの筆跡は、潮の、
「どうしよう」
汗がどっと身体から吹き出して、手足が震える。潮が、怪我をしているかもしれない。いや、見当たらないということは、誰かに捕まった可能性もある。
「う、潮!潮ってば!いないの?」
視線が集まるのも気にせずに大声で叫ぶ。昼を過ぎると、まばらに人が集まり始めた。少人数でもこれだけ人がいるなら、人魚が出たなんて声が上がれば騒ぎになっているはずだ。
少なくとも、潮はこの近くで怪我をした。そして、騒ぎにならないうちにどこかへ行ってしまった。
「もしくは、連れ去られた……」
管傘の紐が、不自然に断ち切られていた。それに、仮に人が増えてきて海へ行ったのだとしても、あんな乱雑な置き方はしない。帰り道に気づくように、橋の下にでも隠しておくはずだ。
あんな、まるで突然襲われて落としたような置き方はしない。
どうしよう。
震えが、止まらない。今にもへたりこみそうな足に力を入れて、必死に考えを巡らせる。
連れ去られたとしたら、どこに?町の中?それとも、この海のどこか?反対の海岸に隠れられる場所はある?きっと、潮は危険が迫っても声を上げない。人が増えれば増えるだけ、連れ去られる危険だって上がる。
それに、潮が自分から助けを求めているところなんて、見たことがないから。
「っ」
舌打ちをして、自分のふがいなさを実感する。私は彼が弱音を上げているところを見たことがない。私はしょっちゅう弱気になっているのに。
今もまさに、自分だけでなんとかしようと無言で戦っているのだとしたら?
そう考えて、私は踵を返す。
そうして、向かった先は教えて貰った信親さんの家だった。
「ごめんください!」
扉と叩く手が多少乱暴になってしまう。その勢いと、私の声が焦っていたせいだろうか。すぐに扉は開いて、中から真剣な顔をした一馬くんが出てきた。
「何かあったんですか?」
静かな声でそう問いかけてくる。
私は、お腹に精一杯空気を吸って、声を出した。
「潮が浚われたかもしれません。だから、一緒に探してくれませんか?」
初めてつっかえずに声が出せた。