4.知らない瞳
今日も同じ夢を見た。
木彫りの人形を抱えて、山の中を走る。まだ草も木も伸び放題のぬかるんだ道を、短い足で進んでいく。胸に抱えた人形がじっとこちらを見ているのを感じながら、私は村へと走る。とは言っても、見つめる瞳は失われてしまっているけど。
失った。そう、失ったのだ。
途方もない喪失感を抱えて、村へと辿り着く。村の中には誰もいない。だけど、村長の家から橙色の灯りが漏れているのが見えた。昼間の喧噪を集めたみたいに、そこから人の声が溢れていた。
呼吸も整わないうちに、私は村長の家に駆け寄る。木箱に乗って、格子窓から中を覗いた。
そこには、村の人たちに食い散らかされている兄の姿があった。血だらけの肉片になった兄に、笑顔でしゃぶりつく村人たち。
頭を撫でてくれた手も、私を抱えて走ってくれた足も、抱きしめてくれた胴体も、赤く、赤く、染まっている。
その中に、一際光沢を帯びた赤があった。
ころりと転がった小さな赤い玉。それは食べるのに夢中な村人たちの足で、格子窓のそばに弾き飛ばされる。
琥珀に似た透き通る赤は、粘着質な体液で汚されている。
赤く開いた瞳孔がこちらを見上げた瞬間、私は叫んでいた。
そうして、着火された導火線のように、地を這う仄暗い怒りが産まれるのを自覚した。
「海へ行こう」
「嫌」
「とりつく島もねえな」
釣りをしている途中で、おもむろにそう言われた。
町は扇状に囲んだ山々の中心にある。村が要とするなら、町は扇面の真ん中、海は天に位置している。潮がいるこの川は、中骨のように町へと真っ直ぐ続いている。海に行くには、麓に降りて町を通らなきゃいけない。
つまりそれは、この赤い目が知らない人に見つかるかもしれないということだ。
嫌悪されるのも、怖がられるのもたくさんだ。
「大丈夫だって、川沿いの道はそんなに人いねえし。そろそろ塩だって切れる頃だろ?」
「この前潮がくれた醤油があるからいい」
「そう言って、もう半分以上使ってるじゃねえか」
私はそっぽを向いた。潮が作ってくれた菜っ葉のおひたしは本当に美味しかったのだ。高級品だとわかってても、思わず毎日食べちゃうくらいには。
「目だって、菅笠さえ被ってりゃ、誰にも見えねえよ。何も町に寄ろうとは言わねえ。海に行くだけでいいんだ。一日あれば十分さ」
いつになく必死に説得しようとしてくるものだから、最終的に折れてしまった。
次の日、いつもよりずっと早い時間に村を出た。川沿いを歩いて麓へと降りてきたのは、昼の少し前くらいだった。
「わかってたけど、この川ってそのまま海へ繋がってるんだ……」
町に近づくにつれて、海の気配が強くなるのを感じる。それは、町から帰ってきた時の、潮の匂いと同じだった。
毎日顔を洗っている川の水はなんの味もしないのに、繋がっているはずの海だけは塩辛いというのも、なんだか不思議な感覚。
川は途中で分かれて、整備された方は町中へ向かう。そっちの方は賑やかで、離れていても人がたくさんいることがわかる。
どちらに行っても、この川の終わりは同じ海なんだと考えると、ちょっと気が重くなった。
「潮はさ、途中で見つかったらどうしようとか考えないの?」
「そんときゃそん時だよ。売り払ってきそうな奴なら泳いで逃げる」
「でも私は、そんなに速く泳げない」
「なら、全力疾走だな。山の中に逃げ込みさえすれば、お前に敵うやつはいねえだろ?ていうか、会う奴みんな悪い奴前提なのかよ」
「潮が楽観的すぎるんだよ」
不老不死の珍味。傾国の妖怪。世間一般の人魚に対するイメージを想像すればするほど、彼がこんな町中にいることが信じられなくなってくる。私はあまり外の世界を知らないけど、潮が数えるほどしか同族に会っていないことを考えると、私の考えもそう外れていないはずだ。
「お前はなんだか悲観的だなあ」
「警戒心が強いって言って」
「だが、最初から疑ってかかったら、相手だって警戒しちまうぞ。そんなの堂々巡りだろ」
ごつごつとした石が、草履の裏にあたるのが不快だった。
「それでも、死ぬよりはマシ」
空の木箱を知らずに持ち上げたみたいに、感情が勢いよく自分の意志を通り越していった。棘のある声に、はっと我に返る。
だけど、潮は気にした様子もなく、へらりと笑った。
「そうだな。悪い」
いや、違う。彼は、気にしていないように振る舞った。
返す言葉を見つけられず、後はただ足を進めることしかできなかった。
同じ村にいる人間だって信じられないのに、どうして初めて会った人を信用できるって言うの。どうして、石を投げてこないって確信できるの。
私を救った彼の優しさが、今は無性に私を苛立たせた。
黙ったまま泳いでいく美しい鰭を追う。でも、何を言っても棘のある言葉になってしまいそうで、口を開けなかった。
長く続いた砂利道が砂に変わり始めた頃、潮はくるりと振り返り、悪戯を企む子どものような顔を見せた。
そうして、潮の匂いがする方を指して言った。
「アヤメ、もうすぐ海だぞ!」
虹色に光る鰭が、飛沫を上げながら海を目指す。私は慌てて、潮を追った。柔らかい砂に何度も足を取られそうになりながら走る。
やがて、砂の地平線が見えたと思ったら、急に目の前が真っ青になった。
「わ、」
鼻いっぱいに、大好きな匂いが広がる。
開けた先に広がる光景を、私はただ呆然と見つめていた。
世界の景色が、白と青のふたつに分かれる。たった二色しか存在しない景色なのに、圧倒的な青の存在感に釘付けになってしまう。
固い岩と砂利を通って辿り着いた、水の終わり。全部の水が集まる場所。命を繋ぐ水の、始まりの場所。
断片的な欠片が繋がって、ひとつの流れに変わる。それは、私を取りまく大きな流れ。
大きな風が背中を押して、視界が開ける。菅傘が飛んでいってしまった。早く追いかけないといけないのに、それよりも今は、この海を見つめていたい。
白い泡を纏って、前へ後ろへ流れる波に、身体が引きよせられる。
「わ、わ……っ」
「どうだ、すごいだろ?」
「わーーーっ!!!」
抑えきれない衝動が走り抜ける。逃げていく波を追うように、足が勝手に動く。
あのきらきらした波に触れたい。
青い水の中を泳ぎたい。
いっぱい落ちている貝を観察したい。
そんな欲望が溢れ出す。
だけど、海を目前に、踏み出した足を砂に取られてしまう。
そして、顔面から水面に突っ込んだ。
「アヤメーー!!?」
水の外で濁った悲鳴が響く。目と鼻がすごく痛い。ものすごく指沈む。
「ぷはっ」
「おい、アヤメ!大丈夫か!」
大きな飛沫を上げながら、川沿いを伝って潮がやってくる。
彼は私を心配してくれているのに、私は開口一番にこれを伝えたくて仕方なかった。
「あはははっ、海ってやっぱりしょっぱいねぇ」
前髪から垂れてくる海水は、喋ってる時も口の中に入ってくる。塩辛くて、砂も混じってるのかじゃりじゃりする。
「お前なぁ」
潮は一瞬、拍子抜けした顔をして苦笑いを浮かべた。
「目痛いし、しょっぱい。歩きにくい。でも、綺麗だね」
「だろ?」
「海ってどうやったら持って帰れる?」
「持って帰んのは、無理じゃねえかな。代わりに貝でも拾っとけ。あさりは味噌汁にすると美味い」
箍が外れたみたいに、口からぽろぽろ思ったことが零れ落ちる。さっきまで、潮と何を話せばいいのかわからなかったのに。
綺麗で、おかしくて、隣に潮がいてくれることが、嬉しくてたまらない。早く菅傘を取りに行かないといけないのに、喉の奥から湧き上がった笑いが止まらない。
「そんなにおかしいことがあるかね」
「だって、私頭から水に入っちゃったよ。川で散々水遊びしてるのにね」
「砂利と砂じゃ全然違うもんなぁ」
「ああ、周りに人がいなくてよかった」
閑散としている砂場に安心したのもつかの間、潮は目を細めて海の向こうを見た。同じ方向を見つめると、小さな小舟がぷかぷかと浮かんでいた。
「安心してるとこ悪ぃが、お一人様ってわけでもなさそうだぜ」
潮の言葉に、慌てて立ち上がる。だけど、菅傘を探そうと背を向けた瞬間に、思いも寄らないことが起きた。
「おぉい」
野太い男の人の声。それは、小舟に乗った男のものだった。浅瀬まで来た彼は、船を引っ張りながら、潮の元へとやってきた。
不安を滲ませていた潮も、男の顔を見た瞬間、肩の力を抜いているように見えた。
「なんだ、おっさんかよ」
「なんだとはなんだ」
額にはちまきを巻き付けた大柄の男性は、不満そうに鼻を鳴らす。
誰、この人。なんで、こんなに親しそうなの?
知り合いとしか言いようのない会話に硬直している間に、男性の視線が私に向いた。
しまった!傘を被ってない!
咄嗟に座り込んで、頭を隠す。いや、走って逃げるべきだった。
でも、いつまで経っても、怒声も暴力も降ってこなかった。代わりに知った温もりが肩を摩る。
「アヤメ、大丈夫だ。こいつ、信親。この前言ってた漁師のおっさん」
「ああ、やっぱりあんたが潮の言ってた子か」
男の声は、ちっとも怒っている風には聞こえなかった。信じられないことに親しみすらも滲ませているような気がした。
いや、安心しちゃいけない。私の目を見れば、この人も鬼に変わってしまうのかもしれない。
その恐怖が拭えなくて、穏やかな仮面が剥げ落ちる瞬間が恐ろしくて、顔を上げられない。
「アヤメ、おっさんは初対面の人魚に酒を要求した挙げ句に、浜辺で吐いて寝ちまうような色々規格外のおっさんだ。今更、目の色がどうとか気にしねえよ」
「あん時は、美人のねえちゃんが助けに来てくれたと思ったんだよ。男だし、人魚だし、色々ぶったまげたけどな。忘れろ、忘れろ」
私を取り囲む空気の中に、怒りが混じる気配は全くなくて。
潮の手にしがみついて、私はおそるおそる顔を上げる。よく日焼けした30代くらいの男の人が、私を見つめていた。
私も見つめ返す。その穏やかな仮面が剥がれる瞬間を見逃さないために。
だけど、いつまで経っても、彼は穏やかな仮面のまま、なんなら、興味津々と言いたげな表情で詰め寄ってきた。
「ほんとに赤いんだな。ご両親のどちらかが、異国の人なのかい?」
「っ、」
「おっさん、近い」
一歩詰め寄られた分だけ、潮が後ろに引っ張ってきた。浅瀬とは言っても、水に足を取られて転びそうになる。
「ああ、悪い。緑や青は見たことあるんだが、赤は初めてだったもんでね」
今度は、私が彼の言葉に食いつく番だった。
「え、……く、黒以外の目の人を、み、み、見たことがあるんですか?」
ものすごく声が詰まる。よく考えたら、潮以外の人と話すのなんて、何年ぶりだろ。
「ああ、西の方にいた頃か。異国との窓口になってたから、間に産まれた子どもがお前さんみたいな瞳をしてたもんだ」
「異国との、窓口」
潮風が足下をすり抜けていく感覚を覚えながら、海の向こうに違う島が見えた気がした。
「お前さんの髪は黒だが、あっちには金色の髪をもつやつもいたな」
「金色!?」
それは私以上に派手で目立ってしまうのでは。
「そういうわけだ。今更、髪や目の色でどうこう思わねえよ。そもそも人間じゃない奴とも知り合いだしな」
兄と潮以外の人に、嫌悪と怒り以外の表情を見せられるのは初めてのことだった。
どうしよう。今更だけど、まともに相手してくれる人と、なんの会話をしたらいいのかわからない。ひたすら存在感を消してきたから、面と向かって何を言えばいいの?というか、この人本当に信用していいの?
いや、潮が信頼してるんだから、信頼すべきなんだろうけど、でも潮は潮で楽観的だから騙されている可能性も……。
「固まってる」
「俺以外の奴と話さねえからな」
「そりゃあ過保護になるわけだ。まあ、過保護にならざるを得ないのは、うちのお雛様も一緒だけどな。ほら、鈴。いつまで隠れてんだ」
信親さんが、小舟から何かを引っ張り出す。両脇を抱えられて出てきたのは7歳くらいの女の子だった。
それを見て、また固まる。人が、人がどんどん増えていく……。
大きくてまん丸な黒い瞳が、じっと私を見つめている。耳の後ろで切りそろえられた髪は、海風で顔に張り付いていた。
目が合った手前、逸らすこともできなくて、ただ無言で立っている人になってしまう。その幼い眼差しがどう変わるのか怯えながら待っていると、鈴という子は、信親さんの後ろに隠れてしまった。
やっぱり、怖かったのかもしれない。私の目が人と違うから、赤いから。
管傘を探しに行こうとしたら、信親さんに引き留められる。
「ごめんな、鈴は人見知りなんだ。初対面の人には大概こういう反応してるから気にしないでくれ。それより、もう一人いるんだ。挨拶ぐらいはさせて欲しい」
もう一人!?
「ちょちょ、ちょっと待って潮。あと何人いるの?私もうすでに緊張で死にそうなんだけど」
「あと一人しかいねえから安心しろ」
「あと一人って言っても、どこに」
いるの、と言い終わる前に、小舟の横から何かが飛び出してきた。驚いて、私は叫んだ。
まず見えたのは、ぬらぬらとした太い髪。濃い緑で肩の下までぶら下がっている。こう言ったら失礼だけど私の髪より奇妙だ。
「おい、わかめついてるぞ」
呆れた声で潮が言った。随分変わった髪質だと思ったら、海藻だったらしい。
気怠げな動きで、その人は頭に乗ったわかめを取り去る。
海藻が取り払われると、一気に髪は短くなった。耳とうなじの下で揃えられた黒い髪。左側の前髪だけ異様に長くてちょっと気になる。
身体は、信親さんと同じように日焼けしている。肩から足先まで、茶色くなってしまっている。褌で隠れているところ以外は、よく焦げている。
……初めて見る男性の裸体に、私は思わず目を逸らした。
いや、それを言ってしまえば潮も上半身は裸なわけだけど、初対面の、潮以外の男の人の裸体を見るのは、ちょっと刺激が強すぎた。
「紹介するよ。息子の一馬だ」
信親さんが、その人……いや、よく見たら私とそんなに年は変わらないかもしれない。その子の背中を叩く。
顔を顰めて信親さんを一睨みした男の子、一馬くんは私の方を向いて、ぺこりと頭を下げた。
私も慌てて頭を下げる。
「一馬です、はじめまして。潮さんから、話はよく聞いてます」
潮よりも高く、淡々とした声だった。
「潮さんにはよくお世話になっているので、何かあったらぼくにも声をかけてください。……えっと」
「アヤメだよ、アヤメ」
「アヤメ……あやめさん。花と同じ名前ですね」
妹さんに比べて、彼はよく喋った。ただ、顔の筋肉をどこかに落っことしてきたのかと思うくらい表情は動かない。
あどけない黒い右目が、じっと私に向かっている。
「鰺、たくさん獲れたので、よかったら帰りに持って帰ってください。あ、でも暑いから干物の方がいいかな」
醜い色はいつまで経っても混じらない。綺麗な黒い瞳を私の方へ向けたまま、彼はずっと喋り続けている。
「あ、ありがとう、ございます」
それは、初めての感覚だった。
お昼ご飯の誘いを丁重にお断りして、私は潮と一緒に浜辺に座り込んでいた。
信親さんたちの家は海の近くで、昼からも漁に出かけるらしい。
頂いた鰺の干物を抱きながら、私はじっと海を見つめていた。なんだか、頭にもやがかかったように、何も考えられない。
「いい家族だろ」
潮が顔を覗き込んできた。
私はこの感覚がなんなのかわからないのに、潮は、まるで泡で隠れた水面の奥まで見透かしているようだった。
「……付き合いは長いの?」
それなのに、やっと出せた言葉はやっぱり疑心暗鬼に満ちていて、なんだか自分が嫌になる。
今からでも、あの家族がひどいことをしてくるんじゃないかと疑っている。
いつもと違うのは、そう考えることにひどく胸が痛んでいることだ。あの家族を疑うことは、心が痛い。会ってまだ数十分だって言うのに、あの綺麗な眼差しが忘れられない。
私を人間扱いしてくれる、黒い瞳。
「そうだな、お前と会ってすぐぐらいに知り合ったから、もう6年くらいか」
「どんな風に知り合ったの?」
探してしまう。その根拠を。
「溺れかけてた信親のおっさんを助けたんだよ。急な嵐でな、船が転覆しちまったんだ。あとはさっき話した通り。気の良い人でさ、仲良くなったってわけ」
「じゃあ、信親さんは潮に命を救われたんだ。私と一緒だね」
頭の片隅で駄目だと誰かが叫んでいるのに、私はその可能性に縋ってしまう。
尾ひれを波で遊ばせて、とても穏やかな声で潮は言った。
「ずっとお前に紹介したかった。お前にも知ってほしかったんだよ。ああいう人たちが、世の中にはいるんだってな」
その言葉で、確信してしまう。膝に顔を埋めて、私は今も湧き上がってくるその感情に浸っていた。
私は、あの人たちを信じてみたいと思い始めていた。