3.鬼がいる村
数か月に一度、潮は山の麓に降りていく。
川を下って、海の方まで旅をするのだと言う。私と出会うまで、潮は国を渡り泳ぐ人魚だった。何百年という長い人生の中、その黒い瞳で、この国の人たちの行く末を見守ってきたのだ。なんて言い方をすると、「大げさだ」っていつも言われるけど。
だから、彼が帰ってくる数日間は、川辺に私ひとり。
いつも通り、畑を耕して、魚を釣って、ご飯を食べて寝るだけ。
それだけのことなのに、彼がいない時間はいつも私の胸を騒がせる。肌がぴりぴりして、頭の奥が冷たくて、気を抜くと、身体が震えてしまいそうになる。
まるで、世界が敵になったような、心細い感覚。でも、きっとそれは気のせいなんかじゃなくって。
「鬼の子」
朝、たまたま村の人たちに出くわした。夜、上手く眠れなくて、起きるのが遅くなってしまったのが悪かった。太陽はとっくに昇っていて、何人かの村人はすでに朝の支度を始めたばかりだったのだ。
井戸に集まった数人の女性は、私の方をちらちらと見ながら、口々にその言葉を吐き出す。
「前の村長の妾の子なんでしょ」
「違うわよ、その村長さんが勘当した長男の子。急に幼いあの子たちを連れて帰ってきたと思ったら、しばらくして死んじゃってねえ」
「いくら姪っ子だからって、村長も追い出せばいいのに」
事実の中に、毒がたっぷりと含まれる。何百回も聞いた自分と兄の境遇。耳を防げばいいだけなのに、痺れた手のひらは上げることすら億劫で、耳はその悪意を受け止めてしまう。
「異国の遊女に入れ込んでたんでしょ?でも、どんな女と交わったら、あんな容姿の子どもが産まれるのかねえ。あんな、血みたいな目。髪だって、なんだってあんなにうねっているのかね」
「そうそう、この前聞いたんだけどね。村長があの子を追い出さないのも、村長自身があの子に入れ込んでいるからじゃないかって」
「さすがに嘘でしょう?それが本当なら、兄弟揃って血は争えないわね。自分の子がああなると思うと、私ならぞっとするわ」
大きなお腹を抱えた女性が、身を震わせた。
とんだ尾ひれだと笑ってしまいそうになる。叔父とは数年も顔を合わせていない。私たち兄妹をこの物置みたいな家に押し込んでから、極力顔を合わせようとしない。私も会いたいなんて思わない。
重い足を引き摺って、この場を離れようとする。いつもの道じゃ、見つかってしまうから、家の裏から山に入ることにしよう。
そのまま、振り返らずに山へ向かえばよかった。それなのに、萎縮した心は背後に迫る獣を警戒するみたいに、その存在を無視せずにはいられない。
だから、家の裏に回る直前、井戸の方を振り返ってしまった。
思った通り、彼女たちは、悪意と侮蔑を込めた醜い色で、私を睨み付けていた。兄を旅人の前に突き出した叔父と同じように。
まるで、鬼のように醜い形相で。
異国の血が入っている私が村の人たちに嫌われているのは、今更変えようのない事実だ。私だって、あの人たちと交流するつもりは毛頭無い。
あるのはいつもと変わらない悪意だけ。それなのに、この身体は毒を飲み込んだように、苦しくなって熱を持つ。弱った心の隙間から、悪意は風のように忍び込んでくる。
ぬかるんだ山道に足を取られて、伸び放題の草木に頬を引っかかれても、私はあの川辺へと向かう。そうしなければ、寒くて死んでしまいそうだった。
潮はまだ帰っていないかもしれないけど。いや、そもそも、潮は本当に帰ってくるの?
隙間だらけの心からは、いつも仕舞い込んでいる不安さえも零れ出す。
ずっと旅をして生きてきた潮を、もう7年近く引き留めているのは、私のせいだ。私には、潮しか頼れる人がいないから、潮はずっとあの川辺で待っていてくれる。
でも、本当にそれは潮にとって幸せなことなの?彼は、もっと自由に生きたいんじゃないの?尾ひれに塩の匂いを纏って、海を、国を泳ぎ回りたいんじゃないの?それを、私の甘えが奪ってしまっているんだとしたら?
ああ、でも、それでも、そうだとしても。
永遠に私のそばにいて欲しいと、強欲に願ってしまう。
不安は、いつの間にか凶暴な願望へと姿を変える。衝動的なそれが、重いはずの身体を突き動かす。その勢いのまま、畑に続く坂道を滑り降りると、川辺の奥から濃い塩の匂いがした。
「おぉい」
その声だけで、寒さに震えていた身体が、歓喜で熱くなる。
足も手も泥だらけのまま、私は川辺に走った。
「ただいまー。今回は良い掘り出し物が……ってうわ!お前なんて格好してんだ!蛭までくっつけて、どこ通ってきたんだよ!」
目を白黒させる潮に、私は飛びついた。鼻に、濃い海の匂いが広がる。彼の名前と、同じ匂いだ。
「なんだなんだ。今日はいつも以上に熱烈な出迎えだなあ」
「帰ってくるのが遅いんだよっ」
「だって仕方ないだろ。これ探してたんだからよ」
胸元で、じゃらりと何かが動いた。身体を離すと、潮は大きな風呂敷の中から、大げさに何かを突き出してきた。
小さな紙袋の奥に、色とりどりの欠片が透けて見える。
「見て驚け!数は少ねえが金平糖だ!お前に一度食べてもらいたくてよ!顔見知りの漁師に分けて貰ったんだ。あと、菜っ葉につける醤油もな。つけると美味いって前に言ったろー」
「そんなもの、どうして」
「ん?ま、取引ってやつだな。良い魚の釣り場を教える代わりに、水場じゃ手に入らねえもんもらったんだ。誰にでもできるやり方じゃねえけど。お前みたいに、俺と関わろうとしてくれる物好きな奴だっているんだぜ」
「私は物好きじゃないよ」
自分じゃ絶対に手に入れられないものがたくさん入った風呂敷を、潮に押し返す。
きょとんとした顔を浮かべる彼に、私は言った。
「生きる方法を教えてくれて、いつも一緒にいてくれて、私を喜ばせようとしてくれる人を大切に思うのは、物好きって言わないよ」
「そっか、そうだな。ちょっと照れるけどなあ」
潮はそう言って、少年のように笑う。頬を赤く染めて、視線を泳がせる彼に、私はもう一度抱きついた。
「なんだぁ、寂しかったのか?とりあえず、頼むから、身体に着いた蛭取ろうぜ。俺もそいつは苦手なんだ」
「……帰るのが遅かった潮も、ちょっとぐらい蛭に食べられちゃえばいいんだ」
「やーめーろ。そいつら一度食いついたらなかなか離れねえんだって。ほれ、とりあえず火焚くぞ。離れろ離れろ」
しぶしぶ離れて、砂利の上で火を起こす。木の枝にちょっと火をつけて、足や腕にくっついたまま肥え太っている奴らのお尻をつっついてやる。本当は塩でもいいんだけど、もったいないから使わない。
私が無言で蛭を退治している横で、潮は鉄鍋で菜っ葉を湯がいていた。せっかく火を起こしたなら干物も焼いてしまいたかったけど、今はとにかく彼のそばにいたかった。
「潮はずっとここにいて退屈じゃないの?旅が好きなのに」
「退屈じゃないと言や嘘になるが、お前がいるからな」
一瞬、彼から突き放されるのかと怯えた。でも、潮はいつもと変わらない暢気な声色で、私の名前を呼んだ。
「アヤメがいるこの場所を、なんだかんだ気に入ってんだよなぁ」
「でも7年だよ。いい加減飽きない?」
「7年なんて俺にとっちゃ数か月だよ。そう思うと、お前もおっきくなったよなぁ。出会った頃は、こんな小さいガキだったのによ。今じゃ鍬と斧振り回して自給自足してんだから」
しみじみと言った潮は、私の頭をぽんぽんと撫でた。
「言ったろ。俺は人と関わるのが好きなんだ。持て余しそうな時間の中で、お前たちと話す時間だけが、俺を退屈させないでくれるんだよ」
「そんなの私だってそうだよ」
大方の蛭を退治し終えた私は、枝を薪の中に放り込んで膝を抱えた。
「潮から旅の楽しみを奪いたくない。でも、潮がいない時間、私はすごく寂しいんだと思う」
誰も味方のいない村の中で、嫌悪の眼差しに晒されて、ひとりそれに耐え忍ぶ時間が怖い。
「潮は鬼を見たことある?」
「鬼は見たことねえな。ひとむかし前にゃ、鬼退治を生業とする輩はいたらしいが。実物は見たことねえよ」
「私は見たことあるよ」
狭い世界の中で、確かに私は鬼の姿を見た。
「鬼はね、普段は人に紛れて生活しているの。慈愛に満ちた眼差しで赤ん坊を抱いて、仲間たちと笑い合っているの」
扉の向こうから聞こえてくる村の様子は、平和そのものなのに、私が家を一歩出た瞬間、その様子は様変わりする。
「でも、自分たちと少しでも違う存在には、醜い顔で威嚇してくる。なにも悪いことなんてしてないのに、親でも殺されたみたいな顔で、赤ん坊を抱いてた手で暴力を振るうんだよ」
井戸で水を汲む音、土が堀返る音、子どもたちの足音が全て消え去って、一瞬だけ凄く静かになる。
その後、大人たちは子どもを微笑ましく見つめていた眼差しに、嫌悪感を込めて私を睨み付ける。
まるで仮面を剥がしたみたいに、さっきとは違う顔を見せる。そうして、子どもに正しいことを教える口で、語りかけるのだ。
あの子は鬼の子だから、近づいちゃ駄目だよ、って。
そのままなんて続けたらいいかわからなくて、黙ってしまった。
しばらくして、川のせせらぎの中に、苦い声が混じる。
「ああ、そんなら俺も、鬼を見たことあるなあ」
いつもより低い声で、潮が言った。
「潮も?」
「旅を始めた頃はな、お前と同じような鬼に、何度か捕まったことがある」
世間話でもするような調子で、湯切りした菜っ葉に醤油を混ぜながら話続ける。
「最初は親しげな奴だった。人魚の俺にも物怖じせずに、話しかけてくれた。釣りの合間に顔を見せては、どうでもいい話ばっかしてたな。けど、俺はそいつのことが嫌いじゃなかった。数か月も会えば、友のようなもんだと思ってたさ」
火が爆ぜる音と一緒に、黒い目の中で陽炎が波のように揺らぐのを見た。
「だが、あいつはある日、大勢の役人を連れてきて俺を捕獲した。俺はお偉いさんに献上される前に逃げ出して、あいつとはそれっきりだ」
「最初から、潮を捕まえることが目的だったってこと?」
「……どうだかな。だが、あいつがこれで家族を食わせてやれるって言った時にゃ、ちょっときつかったもんだ」
「まるで鬼だわ」
「鬼……そう、鬼だったかもしんねぇ」
断言した私に対して、潮は自分に言い聞かせるような声で繰り返した。話を振ったのは潮なのに、潮はその人を鬼だと言うことに抵抗を感じているように見えた。
「あいつにとっちゃ、俺は食料と一緒だったのかってな」
下を向いていた眼差しが、海の方へ向けられた。
「そいつの穏やかな面を知っちまうと、露骨に嫌われたり、切り離された時にどうしてって考えちまうのはしょうがねえよな。でも考えちまうんだよ。全部が全部、嘘だったとは限らねえんじゃねえかって。そりゃ捕獲された時は傷ついたぜ?でも、その年はひでぇ飢饉だった。……あいつは、家族を食わせてやるために、仕方なく俺を……」
「そんなの!」
自分でも驚く程大きな声が出た。身体を震わせた潮が私を見上げる。けれど、一度噴き出した感情は、止まることなく私の口から溢れ出した。
「そんなの、許していいわけないじゃない!どんなにお腹が空いても、友達を売っていいわけがない!怒ってよ!裏切り者、お前は鬼だって!潮は怒っていいんだよ!」
「怒……りたかったんだけどなぁ」
泣きそうな顔で笑う潮に、私はたまらない気持ちになった。
人が好きな彼は、これまで何度そんな風に裏切られてきたんだろう。裏切られて、傷付けられて、辛くないわけないのに。
心は、私たちと同じなのに。
それなのに、彼は自分を裏切った人たちでさえ、心の奥底で許そうとしている。
「せめて、俺が人魚じゃなけりゃ、最後まで友達でいられたのかもな」
その言葉は、鋭い氷柱のような冷たさを伴って、私の胸を貫いた。
私を見た潮がぎょっとした顔を見せる。
私は泣いていた。
もしも、人魚じゃなかったら?それと同じ問いを私は何度繰り返しただろう。そして、決して叶わない現実に、何度打ちのめされただろう。
「……でも、潮が人魚じゃなかったら、私は潮に出会えなかったよ」
声を絞り出してそう伝えると、潮は「ああ、そうだな」と言って、私の頭を撫でた。大きくて、温かい手は、やっぱり兄のものと似ていた。
その日は村に帰らず、小屋の中で眠った。時折聞こえてくる水の飛沫は、子守歌のように私を安心させた。
「……お兄ちゃん」
兄の面影を追いながら、私は胸の中の固い感触に縋る。久しぶりに物置きの奥から出してきたそれは、少しかび臭い匂いがした。
暗闇の中で、ぽっかりと空いたふたつのへこみをなぞる。ここに入る目は、とうの昔に失われたしまった。
そうして、木彫りの人形を抱きしめながら、目を瞑る。
海の匂いにつられるように、深い深い眠りの奥底の落ちていった。