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鬼の住む川辺  作者: 白河いさな
鬼の住む川辺
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2.彼のいる日々

 まだ蝉も鳴かない明け方から、家を出る。

 夏は良い。畑までの道が明るくて、村の人たちが起きるより先に出かけられる。昼食は、雑穀の握り飯と梅干しをひとつ。汗をかくから、塩は多めに取れと潮に言われた。あとは竿を持てば準備は万端。

 家の裏から村を出て、一時間ほど歩いたところに、私の畑はある。木を切って、草を抜いて、一から開墾した小さな畑だ。川沿いには、農具と干物を干す小屋。そして、小屋の横にある石垣を降りると、潮のいる川辺へと辿り着く。

 振りかえれば、青い空と山の稜線の隙間から白い雲が伸びている。見渡す限りの緑の向こうにあるのは、煌びやかな都……じゃなくて、また山。それも火山。

 木と土と水だけに囲まれた、私の小さな世界。でも、そこにはどんな秘境にも劣らない美しい生き物が住んでいる。

 小屋に弁当を置くと、私は早足で石崖を跳び越える。山の縁が太陽で明るくなっていく中で、それよりも眩しい鱗が川の中で瞬いていた。


「おはよう、潮。昨日は雨だったけど、大丈夫だった?」


 岩にもたれかかって肘をついていた彼は、振り返るなり苦笑した。


「よう、アヤメ。今日も早いな。あんなの俺にとっちゃただの水浴びだよ」

「結構強い雨だったから、様子を見に行こうかと思ってた」

「やめとけやめとけ。足を滑らせたらどうすんだよ。ただでさえ、ここに来るまでの道はひでぇんだからよ」

「それでも、7年も通ってたら、それなりに道らしくなってきたよ。邪魔な草や木は刈ってるし」


 それでも納得できないと言いたげな顔で、潮は私を見上げた。

 私にとっては、潮が知らないうちに下流に流されてしまう方が大変なことだって言うのに。

 兄を亡くした今、こんな風に私を心配してくれるのは潮だけだ。相変わらず村の人たちは良い顔をしないけど、潮のおかげで一人でもなんとか生きていく術を身につけることができた。無知な子どもだった私に、潮は木の切り方から土の耕し方まで教えてくれた。魚の釣り方と干物の作り方を教えてる時は、さすがに苦い顔をしてたけど。

 それでも私がひとりでも生きていけるように、知恵を授けて見守ってきてくれた。


「でも、村の人たちがここまで来るのは心配だな。またここに来るまでの道を変えるべきかな」


 貴重な食料に悪戯をされるのは死活問題だし、何より潮の存在を知られるのはまずい。排他的な彼らは、間違いなく潮を追い出すか、殺そうとするだろう。いや、物珍しさに捕獲して売り払おうとするかもしれない。

 ここ数年で何度も同じ問いを繰り返す。けど、潮はその度に、他人事のようにけらけらと笑う。小さな尾ひれで水辺を叩くような快活な笑い。


「だから、俺が人間に捕まるわけないだろ?水の中じゃ俺に勝てるやつはいねえよ。なんせ俺はこの国を渡り泳ぐ最強の人魚なんだからな。麓からここまで登ってこれる人魚はおいそれといないんだぜ。……まあ、同族の顔なんてちっとしか見たことねえけど。それより、お前は自分の心配しろ」


 私の顔めがけて、潮は尾ひれで水を飛ばしてきた。そこには石のような硬さも、冬の地面のような冷酷さもない。稚魚が私の胸で泳ぎ回るようなくすぐったさがあるだけだ。


「下手に慣れない道を選んで怪我する方が深刻だろ?俺は地上じゃ役立たずで、助けに行けねえんだからよ。俺の気苦労を考えるなら、これまで通り安全な道を通るんだな」

「……わかった。でも、もし村の人たちが来たら、ちゃんと隠れるか、逃げてね」


 私は真剣なのに、潮は苦笑するばかりだ。理由はわかっている。この押し問答を毎日のように繰り返しているからだ。

 でも、だって仕方ないでしょ。兄を殺した村の人たちを、どうやって信用しろって言うの。

 潮が、もう一度私の顔に水をかけた。私が腑に落ちないって表情を浮かべているからだろう。でも、それでこの会話は終わり。いつの間にかそれが暗黙の了解になっていた。

 でも、透明な川の水でも、この汚濁は流せやしない。

 兄を殺された日から、いつも胸の中に恐怖が巣くっている。それでも、再び手に入れたこの幸福な日々をまた失わないように、大切に享受するのだ。

 潮の好きな笑顔の私で。


「さて、今日は何をするんだ?」

「菜っ葉の間引きをして、枯れた蔓を片付けるよ。あと、これ」


 竿を上げると、潮は目にみえて顔を顰めた。やっぱり親戚が食べられるのは、良心が痛むらしい。それでも、野菜ばかりを食べていられないから、目を瞑ってくれている。釣っている間は遠巻きに見ているけど、私が畑の世話をしている間に、岩の間から虫を集めてくれていたりする。最初その光景を見た時には腰を抜かしたけど、今じゃなんの抵抗もなく針に刺している。慣れって怖い。


「あと、途中ですももを見つけたからお昼に食べよう」

「お、いいな」


 今日の予定を決めたところで、山の縁から太陽が上がってきた。

 今日も二人きりの一日が始まる。

 先日、種を蒔いた菜っ葉。密集して芽を出しているそれらから、大きいものをいくつか残して残りの芽を積んでしまう。罪悪感はない。なぜならこの菜っ葉の赤ちゃんも、私と潮の胃袋にこの後収まる予定だから。産毛みたいな根っこについた土を洗い流して、籠の上で乾かしておく。

 途中で、石が転がる音が聞こえてくる。今日は何匹捕まえてくれるのかな。とは言っても、魚を食べるのはさすがに私だけなんだけど。

 菜っ葉の間引きが終わったら、次は収穫の終えた胡瓜の蔓を片付ける。地這えで土に掻き着いた蔓は、どこが根元なのかわかりゃしない。引っ張ってどうにか引っこ抜いていたら、黄色く熟れきった胡瓜が転がり落ちてきた。葉っぱの隙間に隠れて見落としていたみたいだ。これは明日のおかずにしよう。

 胡瓜は貴重な水分源だ。しかも隣が川なので、朝に採ったものを浸しておくと、昼には冷えたきゅうりをまるかじりできる。だからついつい作りすぎてしまって、その結果、その残骸も大変な量になっている。片付けを終えた頃には、お昼を少し過ぎてしまっていた。

 いつもより遅いお昼ご飯は、すももと菜っ葉が加わったおかげで、いつもより品数が多い。菜っ葉は鉄鍋で茹でて、ちょっと塩をかけた。潮曰く、醤油で和えると更に美味しいらしいけど、そんな高級品はここにはない。私は滅多に町に降りないから、潮が拾ってくるものか、山にあるもので賄うしかない。


「潮って甘いもの好きだよね」


 ほころんだ顔ですももに齧りつく彼に、私はそう言わずにはいられなかった。


「お前だって好きだろ?甘い物が嫌いなやつなんているのか?」

「そうだけど、私がすももとか梨を持ってくると、いつも以上に嬉しそうだからさぁ」

「ま、否定はしねえよ。確かに俺は、金平糖や餡子よりも、果物の方が好きだな」

「金平糖って、前に潮が言ってたお菓子?」

「ああ、砂糖でできてるって言っただろ?ありゃあ、果物とはまた違った甘さだぜ」


 砂糖で作ったお菓子なんて、どれだけ甘いんだろう。とは言っても、ほぼ無一文の私が手に入れられるような代物じゃないんだろうけど。


「いつだったか、どこぞの大名が川に落ちたもんをそのまま置いてったんだ」

「拾って食べたらいいのに」

「もったいねえよなあ。まあ、そのおかげで俺はおこぼれに預かれたってわけだが」


 潮は、赤紫に熟れたかじりかけのすももを見下ろした。


「白や、薄い桃色、緑なんかの星みてえな形をしてた。ありゃあ、食いもんの形をした芸術品だな」

「食べ物を芸術品にする必要ってあるかなあ」


 毎日お腹いっぱい食べれさえすれば、それでいいと思うのだけど、潮の意見はちょっと違うらしい。


「まあ、贅沢かもしれねえよな。確かに、自然か不自然かで言えば不自然だ。俺も、菓子よりかは自然でできた果物の方が好きだぜ。でもよ、人間は喰うためだけに生きてるわけじゃねえだろ。そうやって、手間と贅をかけて作った代物が町に出回ってるってだけで、俺からすりゃあ安心できるってもんだ。単純に、見るにも面白いしな」

「安心?」

「手間と贅をかける余裕がある奴が、どこかにはいるってことだろ?ま、個人の酔狂と言われりゃそれで終わりなんだが。少なくとも、国全体が飢えてるわけじゃねえ。そうすりゃ俺も、安心して人間と関われるってもんだ」


 確かに、金平糖にしたって、原料になるきびが不作だったり、国交が不穏なら、そもそも作ることもできないだろう。飢饉になれば、家の壁に埋め込んだ藁さえもかじりつくと聞く。

 それに、潮は人魚だ。人同士が喰らい合うような絶体絶命の環境で、不老不死の伝説を持つ彼らが目の前に現れたら……その後の想像はしたくなかった。

 余裕があるから、食べ物以外の美しい物を作ろうとする。

 でも、私は、耐えられないほどの飢えの中で、あの美しい宝石を見たはずだ。


「潮は、人と関わるのが好きなんだね」


 声は、震えていなかっただろうか。村の人とも交流を断っている私からしてみれば、人と異なる容姿をしながら、人と関わろうとする彼の姿勢が眩しく見えた。


「下手したら、食べられちゃうかもしれないのに」

「だいたい、捕獲されそうになるけどな。でも、もったいないだろ?」


 何が?と聞き返す前に、茶目っ気たっぷりの笑顔で返された。


「お前みたいに関わってくれる奴と出会えるかもしれないのに、怯えて引きこもってんのはさ」


 眩しいほどの笑顔に面食らう。水面の輝きを反射する黒い眼を見つめているうちに、景色が水の中のように潤みそうになった。

 ああ、そうだ。

 彼のその勇気に、私は救われたのだ。



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