1.出会い
初めてあの美しい宝石と出会ったのは、暑い夏のことだった。
連なる峰の真ん中にある、森に囲まれた小さな私の村に、旅人がやってきた。
旅人たちは、ここから少し歩いたところにある隣の村へと向かっている最中だった。痩せこけた頬を動かしながら、彼らは「一日だけこの村に泊まらせて欲しい」と言った。
「食事も水もいらない。ただ馬の厩舎でもいいから寝床を貸していただきたい」
垢まみれの肌に薄汚れた服を纏う彼らは、人目見ただけでも無一文だとわかる風貌だった。むしろよくここまで旅を続けてこられたものだ。
なんて言っても、私たちも彼らと対して変わらない風貌だった。その年は日照り続きで、野菜や動物たちに与える水が極端に少なかった。米の値段も高騰し、明日食べるものさえも困窮している状態だった。
村人たちは一貫して顔を顰めていた。閉鎖的なこの村は、よそ者に対して辛辣なのだと、私は長年身を持って理解していた。けれど、旅人たちを睨んでいた彼らの瞳が、少しだけ色を変えるのを私は見た。
事情を説明している旅人たちの手には、その風貌とは釣り合わない美しい人形が握られていたのだ。
正確には、美しい瞳を持つ木彫りの人形が握られていた。やすりがけすらしていない人の形をした木彫りの頭部に、吸い込まれそうな黒い宝石が二つはめ込まれていた。
聞けばそれは雨乞いのための祭具で、村人たちはそれを隣の社に納めに行くところらしかった。
兄に連れられて、何度か隣の村に行ったことがある。ここよりも少し大きなその村の中心には社があって、よく豊作を願うお祭りをやっていた。彼らはそこの村人で、ようやく神様に祀るのにふさわしい代物を見つけてきた帰りだった。
「あの黒いお目目綺麗だねえ、お兄ちゃん」
太陽の光も吸い込んでしまいそうな、何色にも染まらない艶のある黒い宝石を前にして、幼い私はそう言った。
手を繋いでいた兄は、「そうだね」と微笑んで、痩せ細った手で私の頭を撫でてくれた。緩やかに癖がついた髪は猫の毛みたいで気持ち良いと兄はよく言っていた。自分も同じ髪をしているのに、兄は私の髪によく触れていた。私は、そうされるのが大好きだった。
兄は唯一の肉親で、私の守護者だった。異国の血を引く私と兄は、赤い瞳をしていた。よそ者すらも邪険に扱う村の人たちは異なる血に敏感で、私たちをあからさまに避けた。排他的なこの村の中で私が生きてこられたのは、兄のおかげだ。石を投げられても、悪口を言われても、兄の腕の中でなら、私は安心して眠ることができた。
だから、その兄が私の前からいなくなってしまうなんて夢にも思わなかったのだ。
次の日の朝、扉を蹴破る音で私たちは目を覚ました。逆光の中で、怒りを露わにした村人と旅人
の姿があった。
そして、彼らは口々に何かを喚きながら、兄に暴力を振るい始めた。
言葉の端々を拾いあげると、事の顛末はこうだ。
旅人が目覚めると、祭具が無くなっていた。死に物狂いで見つけた祭具を盗まれた彼らは、村人を糾弾し始めた。
怒りと困惑で満たされた空気の中で、村人の一人が、夜中厩舎の周りを彷徨く兄の姿を見たという。
だけど私は知っている。兄は、明け方までずっと私の隣にいた。お腹が空いて眠れない間、私はずっと側で兄の温もりを感じていたと言うのに。
兄がいくら盗んでいないと言っても、私がいくら兄はずっとそばにいたと言っても、彼らは全く聞く耳を持ってくれなかった。
やがて喋る気力すらも奪われた兄は、そのまま旅人たちに連れて行かれてしまった。
「待って!お兄ちゃんを連れて行かないで!」
伸ばした手は届くどころか、払いのけられた。私の身体は、壁まで突き飛ばされた。
「呪われた血め。お前たちは、どこまでこの村の恥になれば気が済むんだ」
汚物を払いのけるように手を振るった男は、そう言って私に唾を吐き捨てた。それは私の叔父だった。
頭を打って意識が遠のく中で、血だらけになった兄に手を伸ばした。
いつも頭を撫でてくれた指はあり得ない方向に曲がり、紫色に変色していた。抱きつくと首に触れる黒い髪は、流れる赤い血と土の色でくすんで見えた。そうして、慈愛を満たしていた同じ色の瞳は、瞼で隠されたままだった。
そうして、兄は祭具の代わりに人柱にされてしまった。
目を覚まして隣の村に行った時には、兄の身体は土の下に埋まっていた。
兄と同じ色を持つ私を、祭具を盗んだ犯人の妹を、隣の村の人たちは歓迎などしてくれなかった。なかば追い出される形で山に戻された私は、広い森の中でひとりぼっちになってしまったことを思い知った。
村に帰れば、また迫害される。麓に降りても、きっと忌み嫌われる。頼れる人は、もうどこにもいない。
ぽっかりと穴の空いた胸を抱えて、山の中を彷徨った。狼でも熊でも出くわして、死んでしまいたいとすら思った。
そうして山の中を彷徨ううちに、何ヶ月かぶりの雨が降り出した。地面に身を投げるような激しい雨だった。干からびそうになっていた川が増水しているのを見た私は、そのまま川に飛び込もうとした。
けれど、
「なんだ、お前。目が兎みたいに真っ赤じゃねえか」
突然、若い男の声がした。声は、霧に包まれた森の中ではなく、川の方から聞こえた。目が声の主を探すうちに、近くの岩場から白い手がにゅっと現れて悲鳴を上げた。
「ああ、悪ぃ。驚かせるつもりはなかったんだ。ただ、子どもがこんなところにいちゃ危ないぜ」
向けられたことのない気さくな声色に、私は困惑する。だけど、次の瞬間、岩場から男の顔が飛び出してきたものだから、また声を上げそうになった。なんせ、男の後ろは岩も砕きそうな激流の川なのだ。一体どうやって立っているのか疑問だった。
腰を抜かした私をけらけらと笑いながら、男は腕の力だけで岩場によじ登る。男は、髪に纏わり付いた水気を払うように頭を振るう。肩で切り揃えられた真っ黒な髪から、飛沫が飛び散る。
私は男の姿を見て度肝を抜いた。さっきまで頭の中を占めていた自殺願望が薄れるくらいに。それくらい、男の姿は異常だった。
まず、男は服を着ていない。白い胸板も、筋肉のついた腕も素肌のままだった。それだけならまだいい。
腰から下に、魚のような大きな尾ひれがついていたのだ。
人魚、という言葉が頭に浮かぶ。
男は固まっている私の方へと身を乗り出すと、顔を覗き込んできた。
「お前みたいな小さい子が、こんなところで何してんだ?」
覗き込んでくる瞳は、雨の中でも優しい光を放つ黒い宝石だった。
そうして、頭を撫でる温もりは、兄のものによく似ていた。