婚約破棄は時間の問題、そう言われて結構な時間が経ちました
政略結婚、それは貴族の女性にとって定めのようなものだ。
古くから血縁で同盟関係を結ぶ、政治の一手段として繰り返されてきたそれに抗う自由はなく、王侯貴族に生まれた者にとって一種の義務といえよう。
だからこそ、侯爵令嬢レーナ・ファーンクヴィストはアレクシス皇太子へ嫁ぎ、ファーンクヴィスト家と王家の間を取り持つ定めに疑問を持つことなどなかった。
自分の幸せなど捨て置いた。相手がどうあれ、貴族とはそういうもので、それが常識だから。
「お初にお目にかかります、レーナ嬢」
婚約者でありながら、初めて対面したアレクシス皇太子は鋭い目付きで私を見下ろしたかと思えば、膝を折って頭を垂れた。
幼い頃からしつけられてきたであろう、完璧な礼儀作法。獅子のような印象の彼は氷のように思えた。
「ご機嫌麗しゅう、皇太子殿下」
作法通りに私の手を取り、甲に口づける皇太子。
私は表情を変えないし、彼も氷を貼り付けたような顔のまま儀礼を済ませる。
会話なんてほとんどない。ロクに言葉を交わさず、舞踏会さえ無表情で踊っていたくらいだ。
周りの拍手もぎこちないし、拍手の間からざわつきさえ聞こえてくる。
早くも溝を感じさせる2人で、婚姻など本当に成るのだろうか。そんな声が聞こえてくるような気もする。
夫婦生活がどうのよりも、両家の関係がどうなるかが気がかりで仕方ないのだろう。
初対面は最悪だった、恐らく歴史書にもそう書かれるはずだ。
だから、帰った後で父から叱責を受けてしまった。
王家と縁を結ぶ重要な機会だというのに、あんな対応する者があるかと。
曰く、周りの貴族からは早くも破談になると噂が立っていると。
それもそうだろう、見るからに相性は最悪の婚約者同士だから、そう思われても仕方がない。
父の叱責を受けた私は使用人を引き連れ、俯きながら廊下を歩く。
「しばらく部屋には誰も近寄らせないで」
使用人にはそういい含めて自室へ入る間際、哀れみの目が私を見送っているのが見えた。
使用人からしてみれば、父から叱責を受けて落ち込む娘に見えることだろう。それならば1人にして欲しいという言葉も理解できるはずだ。
だからその晩は就寝前の挨拶もなく、たった1人で夜を越した。
使用人からは“お嬢様のすすり泣く声が聞こえる”という噂が広がっていて、次の日には憐みの目を向けられた。
それから数日が経ち、屋敷へ王家から園遊会の招待状が届いた。
国王陛下から当主である父へ1通と、婚約者である皇太子殿下から私宛に、封蝋が傾いた1通。
封蝋が傾いたまま、直されることなく送られてきたのは我が家が軽んじられている証拠だ、と父上は憤慨していた。
同時に、私がやはり気にいられなかったのだろう、園遊会で挽回せよと怒り心頭の始末。
「お父様、殿下は多忙の身です。手元が狂うこともございましょう、どうかお気になさいませぬよう」
そんなことを言っても父上の怒りは収まるわけがない。
何としても皇太子に気に入られるようにと厳命されて園遊会の日を迎えることとなった。
「皇太子殿下、本日はお招きいただきありがとうございます」
「遠路遥々ご苦労。今日は無礼講故、ゆるりと過ごされよ」
少し古い王族のような言葉遣いで労うそれは、傍から見て社交辞令としか思われないだろう。
席次は婚約者である以上隣同士になるのだが、互いに目を合わせることも表情を変えることもなく、絵画の如く並び座るのみ。
それを見た貴族たちはやはりざわつく。
あの娘は愛想がない、ならば何某侯のご令嬢が似合いではないかと。
嗚呼、父上が顔を赤くして震えておられる。
そんな重苦しい中で私はよろけ、椅子から崩れ落ちる。
皇太子殿下はそんな私に手を差し伸べる。
「加減が悪いか」
「長旅の疲れのようです。少し風に当たれば良くなるかと」
「ならばこちらへ」
私の手を引き、エスコートしてくれる皇太子殿下を見た貴族たちは口々に噂するだろう。あんな不愛想な娘だというのに気を使う、よくできた皇太子だと。
勝手に中座していろとでも言われておかしくない関係なのに、そうしない。気高く冷酷な雰囲気を纏うけれど、どこか人情もあるのではないかと噂になるのは当然の事だった。
それからも、事あるごとに届く招待状の封蝋は傾いていた。
中身なんて時節の挨拶や社交辞令ばかりで、父上の小皺が増えていくばかりだし、婚約破棄は時間の問題という噂はいつ婚約破棄になるのか、という噂に姿を変えた。
それでも行事のたびに私は皇太子殿下の隣に座るし、互いに回数を重ねても変わることなく無表情の置物であり続ける。
変わったことといえば、時折具合を崩す私へ皇太子殿下が気遣いを見せて、近寄りがたい高潔な人物とされてきた皇太子殿下の人情家な部分が知れ渡っていったことだろう。
それともうひとつ。“どうして別れないんだ?”という、疑問の声があちこちから漏れ聞こえるようになったことか。
「お嬢様、お休みの……」
就寝の時間を伝えに来た使用人は言葉を切り、静かに扉を閉める。
今日も今日とて、皇太子殿下の隣にいながら挨拶以外の言葉を掛けられることのなかった私が机に伏していれば、泣いているものだと思って気を遣うだろう。
足音が遠ざかる。
それで私は漸く安堵の溜息を吐いた。
「もうこんな時間……次から気を付けないといけないわね」
伏せて隠していた手紙に目を落とすと、思わず笑みを通り越してニヤケ顔になってしまう。
それも仕方ないことだ。あの皇太子がこっそり私の袖に忍ばせた恋文を、他の誰かに知られてはならないのだから。
「ふふっ、相変わらずお可愛い人」
曰く、今日も大勢の前で愛しき婚約者へ挨拶以外の言葉を掛けることが出来ず、恥をかかせてしまった臆病な私を許して欲しい。
曰く、緊張のあまり、芝居のような古風な言葉を使わなければきっと返事さえもままならなかった。
曰く、手洗いで中座した貴女を待つ時間は一日千秋の気分であった。
曰く、我が家の娘はどうかと言って来る貴族たちがうっとうしくてたまらない、貴女以外考えてなどいない。
いつもの態度からは考えられない程に熱烈な言葉、それで表情が変わらないわけがない。
隣に座って表情を変えずにいるのも大変で、笑みを浮かべそうになる度にグラスへ口を付けて誤魔化していたほどだ。
初対面の後、帰り際に届けられた彼からの手紙があったから、彼の想いを知ることができて、それが愛おしいから約束を守って鉄仮面を被っている。
好みではあるけど冷たい彼の真意を知った私は、すっかり可愛らしさに絆され、こうして隠れながら文のやり取りを楽しんでいた。
引き出しの奥、鍵のかかった小箱を取り出し、ネックレスと共に首へかける鍵を刺して箱を開ける。
その中には今まで送られてきた手紙が大切にしまわれていて、その一番下にある初めての手紙を思い出したように取り出す。
帰り際の私の手を取り、手にキスする挨拶と共に袖へ仕込まれた手紙、それが全てのきっかけだった。
あのぶっきらぼうな態度からは想像もつかないほど丁寧に綴られた言葉の数々。
遠目に見た時から美しいと思っていた事、話していてその教養と知性に惹かれ、これからもそばにいたい。
しかし女兄弟はおらず、身近な女性は母と使用人のみ。更には軍務についていた影響で社交以外に女性へ慣れておらず、緊張のあまり何も言えなかったことを許して欲しい。
更に、重臣たちからは当主のファーンクヴィスト侯爵は野心家であるため、距離を取るよう言われているため、臣下の面前で親しくすることを好ましく思わないものが多すぎる。それは貴女にとっても悪影響となりかねない。
「故に、封蝋に意味を持たせる。か……ふふ、随分と考えた照れ隠しね」
父上が度々文句を言っていた封蝋の傾きも、私と彼の暗号。
“愛している”、“会うのが待ち遠しい”、角度やズレにそういった意味を持たせたし、変わり種であれば“余白を炙れ”というものもあった。
その時の手紙は挨拶しか書かれていないから、便箋の半分以上が余白になっている代物だった。
それを炙ってみれば牛乳を使って書いたのだろう、見られるわけにはいかない、焦がれる想いが浮かび上がる。
封蝋だけでは綴り切れない想いは誰にも知られることはなく、私の元へ辿り着いた。
そのお返しとして、私は園遊会の最中に具合を崩したふりをした。
連れ出してもらった先、誰もいないバルコニーでひとしきり逢瀬を楽しんだ後で会場へ戻ったのだが、戻らない顔のほてりを沈めるのが本当に大変だったのを思い出す。
あそこで初めて見た彼の笑顔は肖像画にして飾っておきたいほど、眩しい笑みだった。
さて、次はどんな意味の封蝋を送り返そうか。
恥ずかしがり屋で一途で、情熱的な彼にどうお返しをすれば、この想いは伝わるだろうか。
また具合を崩したフリをしようか、それとも王領の視察へ連れて行ってもらおうか。
そうだ、それがいい。一緒の馬車の中であれば使用人もいないし、御者にはきつく口止めしておけばいい。
日焼けするからとおねだりしてカーテンもつけてもらえば、誰にも逢瀬を見られることはあるまい。
「ふふ、完璧な計画ね」
ならば選ぶ封蝋は“余白を炙れ”だ。
これは封蝋には込めきれない。怪しまれない程度に挨拶を書いて、残りの余白にこの恋心を隠すとしよう。
「早く婚姻が成立すれば、こんな煩わしいこともしないで済むというのに」
とはいえ野心家の父上が王族と婚姻を結べば何をするかわかったものではない。
どうすれば父を隠居させて、兄に代替わりさせられるかが最近の殿下との話題だ。
その問題さえ片付けば文句を言う者もいなくなる、晴れて正式に結婚できるのに、と互いに溜め息が聞こえるようだ。
それまでの間は、こうして秘密の逢瀬を楽しむこととしよう。
あの恥ずかしがり屋の婚約者といけないことをしているようなひと時は、きっと楽しい思い出になるだろうから。
誰がなんと言おうとも、婚約破棄なんてするものですか。
カール11世と王妃ウルリカ・エレオノーラがてぇてぇ過ぎて書きたくなった一作
初のラブコメものですが、楽しんでいただけたら感想、評価をお待ちしています!




