敵地の調査の結果と出陣の前に
天正二十三年(1595年)十二月二十三日
陸奥国 某所
「柴田様、此処から南に四分の一里も無い距離に蘆名家の領地の中で最大の村がございます」
「片倉殿、忝い」
皆さんおはようございます。現在、伊達家家臣の片倉さんや家臣の皆さん、そして赤備えの皆と共に、敵地調査に来ております柴田六三郎です
こんな仕事に就いている理由ですが、まあ簡単に説明しますと、「佐竹家に調査をやらせたら、そのまま戦に雪崩れ込んだしまうから、済まないかやってくれ」
と、伊達政宗から頼まれたのです。まあ、仕方ない感満載の理由ですよね。俺のこれまでの人生で、周りに怒り心頭の殺意マックスな人が居たのは、
関東での戦の際に、織田信雄の愚行のせいで武田家の皆さんがそうなったぐらいか?と、思いましたが、
俺の戦経験の中だと、穴山討伐の際の五郎さん、毛利との戦の際の尼子家の山中殿が居ました。この中で佐竹家に近いのは五郎さんでしょう。近い身内を殺されたのですから、そりゃあ、ねえ
それに、今回の戦は俺や赤備えの皆は暴れない予定ですし、伊達政宗からもその了承は得ておりますから!
早いとこ調査して、伊達家と佐竹家に報告しておきたいのです!まあ、そんな事は口に出せませんから、静かに敵地調査を続けますしょう
六三郎がそんな事を考えながら、敵地調査に2日を費やし、伊達家屋敷に戻ると、おおよその内容をまとめた報告書を景綱と共に作成して、政宗と義重に渡すと
天正二十三年(1595年)十二月二十六日
陸奥国 伊達家屋敷
「柴田殿!敵地調査の役割を受けてくれた事、誠に忝い!」
「いえいえ、片倉殿や家臣の方々も働いておりましたから、拙者や赤備えの皆はそれほど大変ではなかったですぞ」
皆さんこんにちは。敵地調査から戻って来て、報告書を伊達政宗と佐竹殿に渡して、一仕事終えました柴田六三郎です。今回の戦に関して、俺の仕事はほぼ終わったと言っても良いと思うのですよねえ
何故かと言いますと、報告書を見た佐竹殿が
「針生平三郎と周りの者達は、屋敷の出入りしている者達で三百人前後か
一番近い村と大きい村の百姓を合わせても、四百人に届かぬとは、柴田殿!そして伊達家家臣の片倉殿!これ程までに緻密に調べてくださり、感謝しますぞ!
伊達殿!改めてじゃが、この人数ならば我々佐竹家で叩きのめす事が出来る!今からでも出陣をしたい!道案内をしてくれぬか!」
「これなら勝ち確だから今すぐに出陣したい!」と、テンションが上がりまくっております。まあ、4000人対400人だしねえ。それに、人数以上に我が子の仇ですから、逸る気持ちも仕方ないですし
俺がそんな事を考えていたら、伊達政宗が
「佐竹殿。お気持ちは分かりました。明日の朝一番に出陣しましょう」
明日の朝一番での出陣を決断する。でも、佐竹殿は
「伊達殿!佐竹家は今からでも出陣出来る!」
そう言って、自分今からの出陣を求めております。そんな佐竹殿に伊達政宗は
「佐竹殿。出陣する前に、お見せしたい物、いえ、お見せしたい人が居ます。今から連れて来ます。なのでお待ちくだされ。小十郎、平四郎!」
「「ははっ!」」
何やら含みを持たせた言い方をして、佐竹殿を待たせると同時に、何やら片倉さんと針生さんを動かしております。何かあるのか?と思っていたら、2人が戻って来ました。大きい布を抱えておりますが、何だろ?
六三郎も注目している中で、政宗は景綱と盛秋が持って来た物を丁重に扱いながら、義重の前に持って来こさせた。それを見た義重は
「伊達殿、これは一体?」
分からないので、当然質問する。義重の質問に政宗は
「ふ〜」と一呼吸おいて、説明を開始する
「佐竹殿、そして次郎殿も良く聞いてくだされ!こちらは、、、、四郎殿と文を持たせた家臣殿の亡骸にございます!」
政宗の言葉に周囲は騒然とするが、義重は
「伊達殿!!誠に、誠に、四郎の亡骸、なのか?」
言葉につまりながらも確認する。政宗は
「顔を確認してくだされ」
顔を見てくれと促す。覚悟を決めて義重が布を開くと
「し、し、し、四郎!四郎!!四郎じゃ!間違いなく四郎じゃ!!」
亡骸を抱きしめながら、大声で泣いていた。義重の様子を見て義宣がもう一つの亡骸の布を開くと
「やはり、父上からの文を持たせた者じゃ。この様なこの様な事になって」
そう言いながら、手を合わせていた。その状態から、一旦落ち着くと義重は
「伊達殿。何故、四郎と家臣の亡骸を手に入れられたのじゃ?針生平三郎とやらとの戦はしておらぬはずなのに」
亡骸が伊達家にある理由を質問した。義重の質問に政宗は
「我々もありのままを説明するしかないのですが、誠に不思議なのですが、日の本を旅する僧侶一行が蘆名家の領地を通った際に、
領民達の話を聞いて 針生平三郎に何か苦言を呈してやろうと思って屋敷の近くに行った僧侶達が無造作に捨てられていた四郎殿と家臣殿の亡骸を見つけて、
我々の元へ連れて来たのです。我々も最初は意味が分からなかったのですが、平四郎が四郎殿だと断定したのです。だからこそ我々も佐竹殿が来るまで丁重に保管しておりました」
説明出来る全てを説明した。説明を聞いた義重は盛秋に
「平四郎殿。何故、四郎だと分かったのじゃ?」
断定出来た理由を聞くと、盛秋は
「佐竹様。拙者は当主様を支えておりました。そこで与太話をするまで信頼を得ておりましたが、当主様は与太話で
「幼い頃に転んで出来た傷」であると、左眉の上の傷の話をしてくれましただからこそ、拙者はこの亡骸が当主様だと分かりました」
政宗に話した内容を義重にも話す。盛秋の話を聞いた義重は
「左眉の傷は、儂も知っておる。「それくらいで泣くな」と叱っておった。まさか、それが、それが」
四郎の幼い頃を思い出して言葉に詰まっていた。その状態の義重は何も言えなかったので、代わりに義宣が政宗に対して
「伊達殿。父上に代わり、拙者が質問させていただきますが、何故これ程までに四郎や家臣の亡骸を丁重に扱ってくれたのですか?それだけでなく、対面させてくれるとは」
亡骸を保管してくれた理由を質問した。義宣の質問に政宗は
「佐竹殿が、儂の父上の様な事になってほしくないからじゃ。儂の父上は敵の謀略を受けて人質になったのじゃが
その際、儂に対して「儂ごと殺せ!」と自らの命を捨ててでも、その者達を討つ様に命令した。万が一にも佐竹殿がその様な目に遭ってしまったらと考えると、
儂は、佐竹殿を止める為に、四郎殿に佐竹殿を会わせて、止めてもらいたいからこそ、この日の為に亡骸を保管しておった」
「義重に自身の父の輝宗みたいになってほしくないからだ」と説明した。それを聞いて義宣は
「その様な事が、辛い事を思い出させて申し訳ありませぬ」
と、頭を下げた。そんな義宣に政宗は
「気にせずとも良い!改めてじゃが、明日の朝一番に出陣して、早くて明日のうち、遅くとも明後日には全てを終わらせましょう!」
「「「「応!」」」」
明日以降の予定を伝えて、その場を閉めた。こうして出陣の日取りも決定した。




