叔父の説得と父母の心配
天正十七年(1589年)十一月五日
甲斐国 躑躅ヶ崎館
場面は少し戻り、ワインの試飲会から数日後の甲斐国。六三郎は赤備え全員は当然として、新田義勝と楠木正勝以外の追加参加者に、北条新次郎の事を伝えると、
「その様な不埒者、赤備えの訓練で根性を叩きのめしましょう!」
「北条家の面々に盗まれた葡萄の倍の銭を請求しましょう!」
「その小童の首を北条家に送りつけてやりましょう!」
と言った、怒り心頭な言葉が多く出て来た。六三郎は
「皆の気待ち、分からんでもない。だが、儂は勿論、武田家でも判断に困った結果、
安土城の殿と大殿へ判断を仰ぐ事にした。だから、今のところはこれまで通りの役目に務めてくれ」
そう言って、皆を宥めていた。そして、今日の作業が終わり、全員が宿舎に戻っていると
「六三郎様」
六三郎を呼ぶ声がしたので、振り向くとそこには
「於義伊殿、如何した?」
於義伊がいた。於義伊は
「六三郎様。先程、名前の上がった北条新次郎の事ですが」
何か言いたい様子だったので、
「於義伊殿、あの子供が気になるのか?」
六三郎が促すと、於義伊は
「はい。拙者の姉の子、つまり拙者の甥でもあるので、何かしらの言葉をかけてやりたいと思いまして、
勿論、六三郎様や、武田家の皆様もご一緒に居てくださる状態で、です。一人では行きませぬ!」
甥っ子である新次郎のワガママを、少しくらい矯正出来る様に、話したいと言って来たので、六三郎は
「分かった。虎次郎様達に言ってみよう。ついて来なされ」
と、言って於義伊と共に、虎次郎達の元へ行き、新次郎の元へ行く許可を得ると、惣右衛門の案内で新次郎の居る牢屋へ到着した
そこでは、新次郎が大の字で寝転がっていた。新次郎は、3人に気づくと
「何の用じゃ?儂を解放しに来たのか?」
と、捕縛された時と変わらない態度で接する。そんな新次郎に六三郎は
「いいや、お主を解放するか否かは、お主の祖父である徳川様と、儂の主君である織田内府様と、そのあ父上の右府様との話し合いの結果次第じゃ!今すぐ解放は出来ぬ」
そう伝える。すると新次郎は
「ならば、儂は何も話さぬ!」
そう言って、六三郎達と反対方向を向く。すると六三郎は
「まあ、そのままでも良いが。此度はお主の親類を連れて来たぞ」
新次郎へそう伝える。しかし、新次郎は
「儂の親類じゃと?誰が来たのじゃ?」
疑いながら、向きを変える。その新次郎に対して、
「儂じゃ。まあ、互いに初対面じゃから、儂から自己紹介させてもらおう。新次郎殿のの祖父の徳川従四位下権右近衛少将の次男の、於義伊じゃ
簡単に言うと、新次郎殿の母の弟で、新次郎殿の叔父にあたる」
於義伊は細かく自己紹介をした。於義伊の自己紹介に新次郎は
「母上から聞いた事があります!確か、男女の双子で生まれたところを、曾祖母様によりどちらも助けてもらったと。そのうちの一人が、於義伊叔父上なのですか?」
於義伊の生まれで間もない頃の話をして、於義伊も
「その通りじゃ、新次郎殿から見て祖母にあたる築山様の怒りが拙者の母上に向かない様に、数年間、こちらの柴田六三郎様の領地で暮らしていた
まあ、今では築山様と拙者の母上の他に、父上の子を産んだ側室の方も居て、その様な命の危険も無くなったがな。おっと、話し過ぎたのう
それでは、新次郎殿。本題に入るが。何故、その様に悪態をつくのじゃ?まるで何かに怯えているかの様じゃが?同じ次男同士、胸の内を話してくれぬか?」
自身の生い立ちの話をしながら、新次郎に話しかける。於義伊の言葉に思うところがあったのか、新次郎は
「於義伊叔父上は、拙者よりも遥かに苦しい幼少期を過ごしたのですから、分かってくださると思うのですが、拙者には兄が居ます
ですが、兄の母にあたる方は側室の方なのです。拙者は兄の事が嫌いではありませぬ。
兄も、拙者の事を嫌っていない筈ですが、拙者としては、兄上に家督を継いでもらい、拙者は前線で戦う事を優先したいからこそ、
兄上が器量良しに見える様に振る舞っていたのです。だからこそ、此度の事も、成功したら兄上の命令で動いた事にしたかったのです。勿論、兄上はこの事を知りませぬ!全ては、兄上を立てる為の行動でした!
どんな沙汰もお受けしますが、何卒兄上と北条家に咎が及ばない様、御配慮をお願いします!」
自分の行動は、兄を立てる為だから、沙汰は自分だけにしてくれ!と告白して来た。それに対して於義伊は
「新次郎殿。拙者は何も出来ぬ。そこは済まぬ。だが、父上には新次郎殿の言葉を伝えておこう」
新次郎へフォローの言葉をかける。新次郎も
「於義伊叔父上。ありがとうございます。また、時間かある時は、話をしてくださいますか?」
再び話したいとリクエストする。於義伊は
「その時は、許可をいただいてから来るとしよう。だから、卑屈になるでないぞ」
と、声をかけて、新次郎も
「はい!」
と返事をして、その日は解散した
一方その頃の小田原城はと言うと
天正十七年(1589年)十一月十日
相模国 小田原城
「左京様!義父上!幻庵様!いつになったら、新次郎を助けに行くのですか!もう、武田家に捕縛されて十日も過ぎているのですよ!」
「ま、待て待て、督よ。甲斐国に潜入させている風魔からは、新次郎が処刑された等の報告は無いのじゃから、無事である事は間違いないのじゃから、落ち着いてくれ!」
「そうじゃぞ、督。それに、甲斐国の埋め立て作業には、督の弟も参加しているそうじゃ。新次郎を解放する事は出来なくとも、辛い思いはしてない筈じゃ!」
「督姫様。潜入させている風魔からの報告では、埋め立て作業の陣頭指揮を取っている柴田六三郎という若武者は、
老若男女に分け隔てなく接する事の出来る武将であると同時に、まだ二十代前半の若さで織田家の重臣になっているそうですから、武田家が新次郎様を処刑しようとしても、止めるでしょう
それに、無理矢理、新次郎様を取り返しに動いては、織田家との戦になりますし、その戦には督姫様の実家の徳川家も参戦するでしょう。その様な事は、
北条家としても避けたいところです。恐らく、柴田六三郎とやらも武田家も、織田家に対応を丸投げしている所でしょう。
甲斐国から近江国へは、早くとも二ヶ月はかかりますから、処刑される事は、無い筈ですから、今は待ちましょう」
3人に説得された督姫は
「分かりました。ですが、いざとなれば私だけでも甲斐国へ行きますから!」
納得していても、自分だけでも動く気概を見せていた。




