大内家の事を秀吉に伝えたら、輝元が怯えだす
天正十四年(1586年)六月二十一日
安芸国 某所
「よし。そろそろ安土城への文を書き終えるが、長宗我部殿も六三郎殿も、何か伝えておくべき事はないか?」
「羽柴殿。長宗我部家としては、此度の戦の恩賞として、伊予国の一部をいただきたいので、その事を伝えていただきたく」
「分かった。六三郎殿は、何かあるか?」
皆さんおはようございます。秀吉に毛利との和睦交渉と条件を書いた文を安土城へ届けるけど、他に伝えて欲しい事はあるか?と聞かれている柴田六三郎です
これを言ったら、秀吉は勿論、殿や大殿もパニックにならないか?と思う事、それは大内家の事です。応仁の乱の前には存在していて、滅んだと思われていた、
歴史ある名家の子孫が居たとなると、確実にパニックになるのが目に見えてるんだよなあ。でも、仕方ない
俺が探索したわけじゃない!大内家の皆さんが寄ってきて、懇願して来たんだから、伝えるだけ伝えて、
あとは殿と大殿、ついでに親父にも働いてもらおう。今年で六十六歳だけど、右手以外は健康体だし!
そうと決まれば
「羽柴様!安土城へ伝えていただきたい事なのですが」
「どの様な事じゃ?」
「先ずは、尼子家の事を書いていただきたく」
「それは既に書いておる。黒田家の事も書いておるぞ」
「既に書いていたのですね。忝い。それでは、長門国で拙者に召し抱えて欲しいと頼んで来た家の事を書いて欲しいのですが」
「召し抱えて欲しいと頼んで来た家?それは、どう言う家の者なのじゃ?まさか、どこぞの名家の子孫とかか?」
「はい」
俺の返事に秀吉は、
「す、少し待ってくれ!ふー、はー!ふー、はー!よし!心の準備が出来たぞ!その子孫達の家名を言ってくれ!」
深呼吸をしてから、俺に話を促すので、
「大内家の子孫です」
しっかり答えると
「は、は、はあああああ!お、お、大内家じゃとお!六三郎殿!大内家とは、幕府の初期の頃から存在していて、今の毛利よりも大きい領地を持っておった、あの大内家なのか!?」
深呼吸の意味が無い程、パニックになりまして、それでも説明しますが
「はい。あの大内家の最期の当主、周防介義隆の四男が、生まれて間もなく、当時の嫡男を生んだ正室に家督相続の火種になるからという理由で、母親と一部の家臣と共に追い出された場所が、長門国のとある場所なのです」
「そ、その事は、黒田殿、上杉殿、尼子殿は知っておるのか?」
「はい。長門国へ進んだ時に、一時的に拵えた本陣の中で、皆様も顔を見ております」
「ち、ちなみにじゃが、その大内家の子孫は何人くらいじゃ?」
「本人と、長男、次男、長女、そして長男の嫁と、長男の息子が居ました。奇跡的に大内家再興の条件は揃っております」
俺の話を聞いていた秀吉は、
「まったく、六三郎殿と出陣したら、戦は勿論じゃが、戦以外でも驚かされるのう!それで六三郎殿、その大内家は何かしらの希望を言っておったかな?」
少しだけ驚いたけど、直ぐに冷静になって、大内家の事を聞いてくる
「はい。本人が言っておりましたが、父の周防介の様に広大な領地が欲しいわけではないとの事です
そして、長男の息子が元服した時に大内家の再興を認めていただきたい。との事です」
「その、長男の息子は何歳たがら、その様に言っておるのじゃ?」
「幼子どころか赤子でしたので、生まれて半年前後かと」
「何とまあ。それで、その本人は何歳くらいなのじゃ?」
「恐らく、今年で三十六歳か三十七歳かと。本人が亡き母親から、「生まれてから半年後に、大内家が家臣の謀反で滅んだ」事を聞かされたとの事ですので」
「何とも不思議な縁じゃな。毛利との戦に出陣した六三郎殿の元に、毛利の前に中国地方を支配していた尼子家の者達が来て、更に、
その尼子家の前に中国地方を支配していた大内家の者達が来るのじゃからなあ」
「きっと、殿や大殿からは、「またか」と言われるでしょう」
「「またか」と言われる程、訳ありな者達を引き寄せておるのか、まったく、不思議な若武者じゃな六三郎殿は。のう、長宗我部殿」
「まったくです。大内家と言えば、一時は中国地方は勿論、四国の一部、更に九州北部までも支配していた名家ですから、その子孫が六三郎殿に引き寄せられたのでしょうな」
「まあ、とりあえずは大内家の子孫の事も書いておく。それでじゃが、六三郎殿。その子孫達はこれから回収に行くのか?」
「はい。その予定ですが」
「それを早く言ってくれ!いくら毛利と停戦合意をしたと言えど、領地を無許可で進むのは良くない!今から毛利へ通行許可を求める文を書く!
虎之助達に届けさせるから、一緒に行って、許可を得てから、進んでくれ!頼むぞ!この事を知らない毛利の足軽が六三郎殿に攻撃して来たら、せっかくの和睦交渉が水の泡じゃ!
だから、六三郎殿。むやみやたらに動かないでくれ!よいな?」
「はい」
(秀吉がめっちゃ念押しして、「自分勝手に動かないでくれ!)と言ってるけど、俺はそんなめちゃくちゃな行動してたかなあ?)
※六三郎は中国超大返しの事を棚に上げています
で、しばらく待っていたら
「よし!書いたぞ!虎之助!孫六!」
「「ははっ!」」
「六三郎殿達と共に、毛利の城へ行き、この文を渡してまいれ!」
「「ははっ!」」
「六三郎殿。ちなみに何人くらいで行く予定じゃ?」
「あまり多過ぎても大変なので、三千人くらいで行く予定です」
「それならば、毛利からも抗議は無い、か。分かった。では六三郎殿。くれぐれも、毛利の許可を得てから進む事を忘れずにな」
「ははっ!それでは行ってまいります」
こうして、六三郎達は吉田郡山城へ出発した
天正十四年(1586年)六月二十五日
安芸国 吉田郡山城
六三郎達が出発して5日後、清正達が吉田郡山城近くへ進み、秀吉からの文を毛利の家臣へ渡す場面から始まる
「殿!織田の大将の羽柴筑前様から、文が届きました」
「誠か!見てみよう」
輝元はそう言って、文を受け取り、読み出す
「どれ。「毛利安芸守様。拙者は織田家家臣の羽柴筑前守と申します。いきなりの文、申し訳ありませぬ
文を届けた理由ですが、此度、拙者と共に出陣しております柴田六三郎殿より、長門国へ客人を迎えに行きたいと言っておりますので、毛利家の許可を得てからでないと、戦の火種になりかねないと思いまして、
許可を得る為に、文を書いた次第にございます。よろしければ、長門国へ進む許可をいただきたいとと思います。ちなみにですが、柴田六三郎殿は、
拙者の家臣と共に、城の近くに居ます。毛利家の許可を得るまでは動かない様に言っておりますので、よろしくお願いします」と、あるが。これは、長門国へ行く振りをして儂達に攻撃してくるつもりではないのか?
次郎叔父上の軍勢を撃退し、又四郎叔父上の軍勢に攻撃する為に百里を走り抜けた軍勢の大将じゃぞ!いきなり攻撃してくる可能性も!」
文を読んだ輝元は、軽いパニックに陥っていた。そんな輝元に隆景が
「殿。それ程に疑っておるのであれば、我々の中の誰かと一緒であれば、進んで良い。と条件付きの許可を出せばよろしいかと」
叔父達の誰かと一緒に進ませる。と言う提案をした。その提案に、
「それならば、儂が同行しよう」
と、吉川元春が名乗りを上げると、
「次郎兄上!それならば拙者も同行します」
小早川元総も名乗りを上げた。2人を見て隆景は
「殿。二人と共の者達が居たなら、殿の心配する戦の可能性も無いはずです。なので、進ませましょう」
輝元を宥める。少し落ち着いた輝元は、
「そう、ですな。それでは、許可状を書きます」
通過許可状を書く。書き終えると、
「それでは次郎叔父上。藤四郎!よろしく頼みます」
「「ははっ!」」
2人に許可状を渡して、六三郎達の元へ行かせた。




