柱の喪失と崩壊
信廉が倒れた事で、軍議は強制的に終了し、解散となった。部屋に運ばれた信廉に対して、穴山を中心とした甲斐派は見舞いを行なった後、
勝頼を中心とした信濃派とは目も合わせず、その場を後にした。その様子に信濃派の面々は、
「あ奴ら〜!孫六様のお身体が大変な時に!」
「お館様!あの様に傍若無人な振舞、許せませぬ!手討ちにしましょう!」
「その通り!」
「そうじゃ!」
と、甲斐派との内戦に入る事も辞さない程、ヒートアップしていた。それでも勝頼は
「今は、孫六様のお身体が優先じゃ!控えよ!」
感情を押し殺し、信廉を労った。そんな勝頼に対して信廉は
「皆、お館様とだけ話がしたい。済まぬが、二人だけにしてくれ」
勝頼以外に部屋の外に出る様、命じた。命令どおり勝頼と信廉だけになった部屋の中では
「叔父上。拙者だけとの話とは?」
「四郎。兄上から頼まれていたのに、お主達を、武田家中をまとめきれず、守れず、済まぬ」
「そんな!叔父上!悪いのは拙者でございます!拙者が、もっとしっかりしていれば」
「いや、四郎よ。お主やお主に従う者達は、甲斐国を、武田家をまとめようとしていた。だが、彦六郎と四郎の出自の差のせいで、この様な事になってしまった」
「穴山の母が叔父上の姉で、穴山の嫁は拙者と腹違いの姉。でしたか」
「そうじゃ。儂は生前の兄上に「穴山に身内を嫁がせ過ぎる事は、将来の禍根になる」と、言っていたのじゃが、現実に起きてしまった。四郎、誠に済まぬ」
「叔父上のせいではありませぬ。拙者が不甲斐ないから、父上の様に、皆が拙者の為に命を捨てても良いと思える主君ではなかったから」
「四郎。その様な事は無い!お主は兄上の元で太郎に変わる嫡男として、皆が納得する為に武功を挙げて来たのじゃから、その様な事は断じて無い!」
「叔父上」
「山県殿や、馬場殿と言った名だたる武将が討死した時、四郎は家中の取りまとめに奔走していたのに、甲斐派も信濃派も、領地で城代を務める者達に
「領地で回収する銭を前月の二割増で送って来い」と言っていた結果、駿河国の江尻城の城代を務めていた山県殿の嫡男が出奔し、その兄弟達に対して、
これまで武田家に尽くしてくれた父の山県殿を愚弄した結果、山県殿の子供達全員出奔した。
更に言うなら、兄上の近習として鍛えられてきた真田喜兵衛に対しても、甲斐派が家督相続に口出しした結果、喜兵衛家族も出奔した。四郎と歳も近く、
同じ戦場を何度も経験しておるから、四郎の右腕の様な存在になれると思っていたのに。ごほっ!ごほっ!」
「叔父上、無理をしては」
「四郎、儂が兄上の遺言を守れなかったばかりに、済まぬ。儂が死んだ後の事じゃが」
「叔父上、その様な事は」
「良い。時に兄上と共に、時に兄上の影武者として、戦場に立ち続けた儂の身体は、儂が一番知っておる。あと三日持てば良いであろう」
「そんな」
「泣くでない。四郎よ、お主はこれから織田と徳川の軍勢だけでなく、甲斐派の者達とも戦わないといかぬ。なればこそ、儂の死を乗り越えて強く立て!
四郎!お主こそが開始武田家の当主じゃ!お主が、こうと決めた道を信じて、突き進め!」
「ははっ!」
「済まぬ。喋り過ぎた様じゃ。少しばかり寝るとしよう。一人にしてくれ」
「ははっ!失礼します。ありがとうございました」
勝頼は信廉に礼を言って部屋を後にした。勝頼自身、これが信廉の遺言だと分かっていた。だが口に出す事は抑えていても、涙を止める事は出来なかった
勝頼が信廉の部屋を出たのが、午後3時頃。そこから勝頼は信廉の事以外では部屋に入らない様、家臣達に伝えて、一人部屋に籠っていた
天正十二年(1584年)二月十一日
甲斐国 躑躅ヶ崎館
「四郎様、それは誠ですか?」
「父上?」
「お館様」
信廉が倒れた翌日、勝頼は一部の者を連れて正室の桜姫の元に来ていた。桜姫との間に子を一人もうけていたが、
「あの、お館様?他の方々もいらっしゃるのに、何故、我々二人が奥方様と勝太郎様の元へ呼ばれたのでしょうか?」
「うむ。実はな、お主達に、いや、お主達にしか頼めない事じゃ。よく聞いてくれ。土屋惣右衛門昌恒、原新之助貞胤よ」
「お館様が、我々の諱まで含めて呼ぶとは余程の事なのですな?原殿、気合を入れてお役目に取り組みましょうぞ」
「誠に、土屋殿の言う通りじゃ!それで、お館様!どの様なお役目を我々に申しつけてくださるのですか?」
勝頼に指名された二人の若武者のうち、土屋惣右衛門昌恒は、六三郎の家臣の土屋銀次郎勝次の兄で、原新之助貞胤は、原新左衛門勝武の弟である。
勝頼が二人を指名した理由と、頼みたい事とは一体?
「うむ。先ず、お主達二人に頼みたい事の前に、今まで隠していた事を明かしたい。勝よ、本来の姿に戻ってくれ」
「父上、、、分かりました」
勝太郎は勝頼に言われて、一度部屋を出た。そして、しばらくしてから襖が開くと、
「「えええ!!?」」
昌恒と貞胤は、勝太郎の本来の姿を見て驚いた。何故ならば
「土屋殿、原殿。これが本来の私の姿です。私は勝太郎と言う名の男子ではなく、勝と言う名の姫です」
二人は今の今まで隠されていた事実に驚き、固まっている。
「二人共。しっかりしてくれ」
勝頼の声を聞いて、正気に戻ると
「あの、お館様?勝太郎様が実は勝姫様だったと言う事実を教えていただいた事はとても喜ばしい事なのですが、我々はどの様なお役目を行なうのですか?」
「奥方様と姫様を安全な場所へ避難させてから出陣すると言う事でしょうか?」
「今から話す。しっかりと!聞いて、実行してくれ。先ず、桜と勝の護衛を頼む」
「かしこまりました。何処ら辺までの護衛でしょうか?」
「織田や徳川との戦も近いのですから、甲斐と信濃の国内は安全な場所はほぼ無いでしょうから、飛騨国、もしくは越後国までお二人を避難させてからの参戦と言う事ですか?」
二人の質問に勝頼は、
「いや、二人は桜と勝を連れて、織田に下ってくれ」
「お館様!奥方様と姫様を織田へ売れと言うのですか?それはあまりにも!」
「その様な事をしてまで、生き延びたくありませぬ!」
「これ!話を最期まで聞かんか!お主達が下るのは織田の家臣の柴田家じゃ」
「お館様。織田へ下るのに、何故家臣の家を指定するのですか?」
「その柴田家と密約でも交わしているのですか?」
「いや、何も交わしておらぬ」
「では何故?」
「これは、九年前の戦で生き延びた者達からの情報じゃが、柴田家の嫡男は柴田の鬼若子と呼ばれている若武者で、とても戦上手なのだそうじゃ」
「その、柴田家の嫡男が奥方様と姫様を保護してくれると言う事ですか?」
「まだ話は途中じゃ。その柴田の鬼若子と呼ばれる者の家臣達が、今から十二年前に美濃国で起きた織田との戦で、討死したと思われていた者達だったのじゃ」
勝頼がそう言うと、
「お待ち下さいお館様。十二年前の美濃国での戦と言うと、拙者の弟の銀次郎の初陣です。音沙汰が無かったから討死したとばかり」
「土屋殿。それを言うなら、拙者の兄である新左衛門も初陣です。同じく音沙汰が無かったので、討死したとばかり」
「二人共、兄弟の事を忘れてないとは感心じゃ。その美濃国の戦で捕虜になった二百人全員召し抱えたそうじゃ!
それに、歩き巫女からの報告では、山県家と真田喜兵衛家族も全員、柴田の鬼若子の家臣として仕えているとの事じゃ。ここ迄の話を聞いて、何か思う所はあるか?」
「その、柴田の鬼若子とやらは武田の家臣だった者達をあえて召し抱えて、武田家中の切り崩しをしているのですか?」
「だとしたら、相当な謀略の使い手ですな」
「いや、どうやら本人はそんなつもりは一切無い様じゃ」
「何か分かったのですか?」
「うむ。その柴田の鬼若子に仕えている者達じゃが、二百人のうち頭領の様な立場に居るのが、太郎兄上の傅役だった飯富虎昌の息子達じゃ、お主達も少しは知っているであろう?」
「はい。赤備えを作り、鍛え上げた猛将と聞いております」
「ですが、その息子達が何故?」
「恐らく、太郎兄上の謀反で、父が切腹に追い込まれた事で、武田に恨みを持っていた所に、誰も救出に来なかったから、そのまま出奔して召し抱えられたのだろう。その中にお主達の兄弟も居たわけじゃ」
「それは納得出来る理由ですが、では山県家と真田喜兵衛殿家族は何故、出奔したのですか?」
「その両家に関しては、赤備えを率いて九年前の戦に参戦していた山県殿が、戦の前日に文を書いて届けていたらしい。内容は分からぬが、武田の現状を危惧する内容と見て間違いないじゃろう
改めてじゃが、二人共。ここ迄言えば、儂が何を言いたいか分かるな?」
「我々の兄弟が仕えている、柴田の鬼若子と呼ばれる若武者に奥方様と姫様を保護してもらえ!ですな?」
「それに加えて、お主達も召し抱えてもらって来い!」
「な、何故ですか?我々もお館様と共に戦います!」
「ならぬ!」
「何故ですか!?」
「良いか?今の武田家中は、孫六叔父上が生きているからこそ、甲斐派と信濃派の均衡が保たれておる。しかしながら、孫六叔父上は恐らく織田徳川との戦までもたない可能性が高い
そうなったら、穴山達は儂や信濃派の者達を殺しに来ると見て間違いない!そうなる前に、お主達が桜と勝を連れて、織田家に、いや、柴田家に下るのじゃ!
恐らく、柴田の鬼若子とやらは訳ありな者でも気にせずに召し抱えてくれるはずじゃ!儂が書いた文を持って行け、それならば山県家や真田喜兵衛家族の様に、
召し抱えられるはず!頼む!孫六叔父上が生きていてくれたなら、何もせず戦に集中するのみじゃが、孫六叔父上が死んだ後では、全てが遅いのじゃ!
だから、頼む!儂は父上を超える事が出来なかった、時勢を読む事が出来なかった責を、命をもって償うしかない!だが、桜と勝には生きて欲しい
それはお主達二人もじゃ!儂の事を恨んでも構わぬ!だから、二人を連れて、柴田家へ下ってくれ」
勝頼は平伏しながら、昌恒と貞胤に頼みこんだ。勝頼の願いに二人は
「お館様!我々、この命に変えましてもお二人を柴田家へお届けします!」
「なので、どうかお館様、我々に平伏など、お止め下され」
涙を流しながら、勝頼に答えていた。それに勝頼も
「二人共、済まぬ。不甲斐ない、情けない主君で済まぬ」
立ち上がり、二人の手を握りながら謝る。桜も勝姫も空気を読んで、なにも言わなかったが、
「お館様!」
家臣が勝頼を呼ぶ
「何事じゃ?」
勝頼が質問すると
「孫六様が、孫六様が亡くなられました」
武田の崩壊のきっかけとなる信廉の死が伝えられた




