迷う心と乱れる心
天正五年(1577年)三月二十五日
近江国 長浜城内にて
柴田家から出発した清正と正則の2人は、この日、長浜城に到着して、秀吉に報告の挨拶をしていた
「「殿。只今、戻りました」」
「うむ。虎之助も市兵衛も無事に戻って来て何よりじゃが、二人共、向こうで何をやったのじゃ?行く前より身体つきが逞しくなっておるが」
「母上に会うだけでは勿体ないので、柴田六三郎殿の家臣の赤備えの方々の訓練に参加させてもらいました。
十日ほどしか参加しておりませんが、初日は歩く事もままならないくらい身体を鍛えられました」
「拙者は赤備えの方々の訓練だけでなく、元服した柴田家嫡男の六三郎殿のご配慮で、内政の基礎である理財も十日、学ばせてもらいました。拙者より五歳も歳下の子も理財を共に学んでおりましたが、
柴田家では赤子以外、何かしらを必ずやっておりました。家によって方針は違うと言えど、あそこまで遊んでいる人間が居ない事は驚きでした」
「そうか。二人共、良い経験が出来た様じゃな。しかし、何故そんなに浮かない顔をしておる?柴田家で何かあったのか?」
「いえ。急いで帰って来たので、少しばかり疲労が出たかもしれません」
「出陣する頃には、元に戻ると思います」
「まあ、無理はするでないぞ?本願寺はまともな戦が殆ど無いといえど、嫌らしい突撃を偶にやるから、
我々の人数は多いに越した事はない。虎之助も市兵衛も、今年初陣予定なのだから、身体に気をつけよ」
「「ははっ」」
「うむ。今日は戻って休め。働くのは明日からでも良い」
秀吉は2人に部屋に戻る様に促す。すると清正が、
「殿。戻る前にこちらの文をお渡しします」
「何じゃ?六三郎殿からの文か?」
「いえ。柴田様の奥方様からです」
「は?いやいや待て待て。親父殿が再婚したら織田家中で広まるはずではないか。なのに、何故儂にその話が来ておらぬ」
「それは我々にも」
「申し訳ありませぬ」
「まあ、それもそうか。で、どの様な女子が親父殿の新しい嫁であった?まさかの二十歳前後の若い女子であったか?名は何と名乗っていた?」
「奥方様は三十歳くらいで、名は市様と申しておりました」
「はあ!ま、誠か!もしや、殿の妹君のお市様なのか?」
「はい。自ら「織田右近衛大将の妹」と名乗っておりました」
「何故じゃ!何故、お市様が親父殿と再婚しておる!何故じゃあ!!」
秀吉の狼狽に、側に居た秀長が、
「兄上。二人は分からない様ですので、先ずは文を見ましょう。その前に虎之助、市兵衛。二人は戻って休みなさい」
場を収めて、清正と正則を帰した。二人の足音が無くなった事を確認してから秀長は、
「兄上。あの様な姿を見せては、若い者達が離れていきますぞ。虎之助と市兵衛は、兄上や拙者の数少ない親類なのですから」
「わ、分かっておる。確かに情けない姿を見せてしまったと思う。それよりも、お市様からの文の内容とは。良い内容であれば、直ぐにでもお返しをしなければ」
秀吉は浮かれ気味に文を開いて見る。文の内容を見て、一気に浮かれ気分は無くなっていた。その様子に秀長は
「兄上。お市様はどの様な文を」
「読みたくない」
「え?いや、兄上?」
「儂は読みたくない!最初の数文字だけを見て、間違いなく良い文ではない事が分かったのじゃ。
だから小一郎!お主が読んでくれ。頼む!」
「分かりました。では、「おい猿!備前様の嫡男の満福丸を殺して得た北近江での暮らしはどうじゃ?
さぞかし快適であろうな。兄上から重用されて、働きに働いた結果、城持ち大名まで出世するとは、
さぞかし多くの人でなしな所業の結果なのだろうな。私の侍女として仕える、お主の姉の智の長男の治兵衛を
養子にすると言っておきながら、その実、当時浅井の家臣だった宮部を調略する為に養子という名の人質に出して、
そこから浅井家を内部分裂させて、浅井攻めの先陣を切り、何食わぬ顔で私や娘達を小谷城から逃す様に備前様に交渉し、
私や娘達を保護した時は、さぞかし英傑の心持ちだったであろうな!それだけならば私も貴様に文は出さぬ!
戦の勝敗は時の運もある事は、女の私でも知っておる。だが貴様は、備前様の嫡男の満福丸を見つけた時、
兄上に引き渡さず、磔にして槍で串刺しにし、泣き叫ぶ幼子を残虐な方法で殺した。
その事で兄上を問い詰めたら、兄上は連れて来たならば、斬首で一思いに殺すつもりだったと仰っていた
それならば、せめて痛みも感じずに死なせてやれたのに、貴様が自らの出世の為に、あえて串刺しにした事、
私は生きているかぎり、絶対に忘れぬ!満福丸は私が産んだ子ではないが、茶々達と共に分け隔てなく育てていたのだから我が子同然じゃ
そんな満福丸を串刺しで殺した事、絶対に許さぬ!貴様に少しでも贖罪の気持ちが有るならば、我々柴田家に近づくな!
私の新たな息子の六三郎は、奇しくも満福丸と同い年じゃ。この目で見る事が叶わなかった、満福丸の元服した姿を六三郎に重ねている事は分かっておるが、それでも、大切な息子じゃ!
血の繋がりは無くとも、茶々達に慕われておる。そして前年に権六様との娘も産まれた。この幸せな柴田家に対して、貴様や貴様の家臣が何かして来たら、
私は自らの命を捨てて、貴様を殺してでも、柴田家を守る!貴様は黙って兄上の為に働き、柴田家の所領から遠い所に所領を持ち、そこで朽ち果てて死ね!」と、中々に厳しい、いえ、恐ろしい内容ですな」
秀長も言葉を選んで話しているが、それでも上手く話せない。そんな中で秀吉は
「何故じゃ!何故じゃああ!!戦で負けた家の嫡男は、将来の禍根を無くす為に殺すのが常なのに!そのやり方は、勝った家の者にこそ選べる権利があるから、
儂は串刺しを選んだだけなのに!その事で、殿からもお咎めは無かったのに!何故、お市様はその事を分かってくださらぬ!何故じゃああ!」
秀吉の嘆きに秀長は何も答えられなかった。そして、その様子を帰ったフリをして、離れた部屋から聞いていた清正と正則は
「殿。その様な事を」
「何故、何故でございますか」
涙を流しながら部屋から出て行った