喜ぶ人達、反対する人達
天正二年(1574年)七月十五日
美濃国 柴田家屋敷内にて
「若様!誠に、誠に元服なさるのですか?」
「うむ。来年の弥生に元服の儀礼を行うと、殿から文が届いた」
「うおおお!」
「遂に、遂に若様が!」
「若様の初陣にご一緒出来るとは!」
皆さんおはようございます。家臣の赤備えの皆に元服の報告をしたら、とても喜ばれております柴田吉六郎です
赤備えの中には嬉し泣きをしている者も居て、それ程めでたい事にあたるんだと、あまり実感が湧いてないです
ですが、やっぱり親父からは「儂はまだ元服は早いと思っておる!だが、殿がお主の元服を認めた以上、反対はせん。
だが、いくら源太郎達が屈強な猛者であっても、お主はそうではないのだからな!
調子にのるでないぞ!?
それだけでなく〜」とかなり、長文で「儂は反対だが殿が賛成するから、お前の元服を認めてやる」と意訳された
文が届けられました。まあ、この時代の元服だと、四国の戦国武将で人気も知名度もトップであろう、長宗我部元親が22歳と、かなり遅めの初陣の様でしたけど
大名クラスの家の嫡男は勘九郎様みたいに、16〜17歳で元服するのが平均らしいけど、殿は
「儂は13歳で元服したぞ!当時の儂の家は織田一族の中では下の扱いだったから、早めに元服して武功を挙げて影響力を強める為に、戦の日々だったぞ。
もっとも、当時は儂の親父が居たから大した事は出来なかったがな」
と文で教えてくれた。俺の場合は、親父の立場は上だから、勘九郎様くらいの歳で元服しても良かったんだけど、
そんな悠長に待ってたら、親父は北陸方面に行かされて、其処には俺も当然居るだろうけど、
俺は本能寺の変が起きる可能性を少しでも無くしたい!ただ、それだけなんだよ!
ただ、その理由を具体的に言えない!だから、俺の身を案じて元服の反対をしている人達に詰められたりしてます
特に於大様が
「吉六郎殿!何故、そんなに早く元服を急ぐのですか!?私は、あなたが於古都を末長く大切にしてくれると思ったからこそ、
兄上と共にあなたに頼み込んだのです。それなのに」
と、同盟相手の家臣の子供という本来なら関わる事の無いであろう立場の俺の心配をしてくれています。まあ、殆ど於古都ちゃんの事が心配だからだと思いますが
ただ、それで水野様が
「於大。武士の子として生を受けた以上、遅かれ早かれ元服の時は来るのだから、その様に喚いては、吉六郎殿に失礼ではないか。
それに、お主の孫の岡崎の三郎様も、一年前に初陣を経験しておるではないか。それならば」
「兄上は分かっておりませぬ!三郎は二郎三郎の子だから、常に周りには護衛も兼ねた兵が居ますし、前線に出て戦う事がほぼ無いからこそ元服しても、討死する可能性は低いです
ですが、吉六郎殿は織田家重臣である柴田殿の子ですよ!立場的に前線に絶対出るでは無いですか!それでは討死する可能性が!
吉六郎殿が討死したら、於古都の事を気にせずに嫁にもらってくれる人が居なくなる可能性があるのですよ」
「於大。とりあえず吉六郎殿の話を聞こうではないか。そこまで元服を急ぐ理由が何かしらあるはずじゃ。教えてくれぬか吉六郎殿」
で、やっと俺が話せるわけですが、この人達に納得してもらうとしたら、これしか無いよな
「於大様。拙者が元服を急ぐ理由は2つあります。1つは父上の子だから。拙者の父上は織田家の戦では常に先陣を切る柴田権六です。
その嫡男が元服する前に戦の世が終わっては、ただの親の名前だけで役職を手にしてしまいますし、親の七光りとも揶揄されるでしょう。
その様な事が無い為に元服するのです。それに、於古都殿を拙者の嫁に!と皆様が申しておりますが、諸事情があると言えど、
於古都殿は徳川家の姫です。大大名である徳川家の姫を、織田家家臣の倅が嫁に貰う事が確定したならば
武功の一つや二つは無いと駄目だと思ったからこその早い元服でございます。何卒、ご理解を」
「於古都の為でもある。そう言う事なのですね?」
「はい」
「そこまで言われては仕方ありません。ですが、吉六郎殿!二郎三郎と織田殿が認めたら、あなたは私の孫婿になるのです。
於古都の為にも、生きてください!お願いします」
「出来る限り足掻いて生きます」
そう言って於大様には何とか納得してもらった。




